2024年8月11日(日) 聖霊降臨節第13主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   17
主の祈り
交読詩編  詩編127篇
祈  祷
賛  美   194
日本基督教団信仰告白
聖  書   ヨハネによる福音書第3章22~30節
子ども説教
説  教  「命を得させる神の愛」
賛  美   445
聖  餐   81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

〔礼拝音声は聖餐部分をカット〕

〔説教要旨〕

 主イエスとニコデモの対話の続きです。イエスが「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(14節)と言われた民数記第21章4~9節の出来事をお話しします。
 イエスの時代よりさらに昔、イスラエルの人々は、神の力強い救いによってエジプトを脱出しました。そのために立てられた指導者がモーセです。イスラエルの人々は約束の地カナンを目指して荒れ野を旅をしていました。神に救い出されたはずなのですが、途中で「パンがない、水がない」とモーセに不満をぶつけました。神は目に見えませんから、どうしても指導者モーセが責められます。しかし、実は、それは神への不満であり、神を非難していることなのです。神は、人々の不満を聞かれ、炎の蛇を送られました〔毒蛇にかまれたのかもしれない〕。蛇の災いのため、人々は神に立ち帰り、モーセに「自分たちのために神に祈ってほしい」と願い求めました。モーセは主の言葉に従って、青銅で作った蛇を旗竿の上に掲げました。蛇にかまれた人でも、その青銅の蛇を仰いで、救われました。
 主イエスは、この民数記の出来事と同じように、人の子であるわたしも上げられ―十字架に上げられ、天に上げられ―、それを仰ぐ人は必ず救われ、永遠の命を与えられる、と言われました。
 「神は、その独り子〔主イエスのこと〕をお与えになったほどに、を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子をに遣わされたのは、を裁くためではなく、御子によってが救われるためである」(16~17節)。この御言葉の太字部分にご自分の名前を入れて、ぜひ読んでみてください。私一人のためにも、イエスは十字架に命をささげてくださいました。私たち一人ひとりに対する神の愛を感謝します。主イエスは、十字架に死んで、三日目に復活させられ、天に上げられ、今は神の右の座で、いつも私たちのために執り成してくださっています。私たちのために上げられた主イエスを仰いで、救われ、永遠の命をいただいています。「御子を信じる者は裁かれない」(18節)のです。
 しかし「信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(18~19節)のです。ヨハネ福音書第1章で、既に主イエスご自身が光であると語られています。主イエスはいのちの光です。すべての人はこのいのちの光に照らされ、この光からもれている人は一人もいません。ですから、独り子イエスの名を信じない人、光よりも闇を好んでしまった人は、そのいのちの光に背を向けているだけなのです。光が明るいほど影が濃くなるように、いのちの光であるイエスに背を向けている人の闇は暗いのです。しかし、イエスの方に向きなおれば、だれでも救われます。それが神の御心です。「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(21節)。まことに、イエスを仰いで救われた者は、自分を誇ることはありません。すべて神に導かれてなされた、と証しするばかりです。
 昨日はオンラインで川口がん哲学カフェいずみがありました。参加者全員がキリスト者だったので信仰の証しの分かち合いにもなりました。乳がんの再発でステージ4のKさんは、がんの再発を機に実家に戻り、お母様(95歳)の介護をして暮らすようになりました。「聖霊のお働きで、以前、大きな確執があった母との間に平和が来て、今、自分も、仏教徒である母も、神に愛されていることを確信している。母は寝たきりだけれど『今がいちばん幸せ』と言っている」と明るく力強く語られて、感動しました。