2024年8月18日(日) 聖霊降臨節第14主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   472
主の祈り
交読詩編  詩編127篇
祈  祷
賛  美   58
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第3章22~30節
子ども説教
説  教  「主の声を聞く喜び」
賛  美   543
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕 

 「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(ヨハネ3:29)。これは、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちに語った言葉です。花婿はイエス・キリスト。洗礼者ヨハネは自分を花婿の介添え人にたとえています。
 マタイ・マルコ・ルカ福音書では、イエスが、自らを花婿にたとえて語っておられます(マタイ9:15他)。主イエスの到来は結婚の婚礼の喜びのようなもの。花嫁は神の民・教会です。
 神の民が花嫁(妻)であるという理解は、旧約聖書にあります。今日はその一つ、イザヤ書第54章の御言葉を読みます。「あなたの造り主があなたの夫となられる。……若いときの妻を見放せようかと、あなたの神は言われる」(イザヤ54:5~6)。教会は、この預言がキリストによって実現したと信じています。
 洗礼者ヨハネが、弟子たちに花婿と介添え人のたとえを語ったのは、ヨハネの弟子たちが師であるヨハネにこう訴えたからです。「ラビ〔先生〕、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人〔主イエスのこと〕が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」(6節)。洗礼者ヨハネは罪の悔い改めの洗礼を授けていました。多くの人がヨハネを預言者だと思い、ヨハネから洗礼を受けました。ところが、イエスとその弟子たちが洗礼の運動を始めて、多くの人が集まっている。ヨハネの弟子たちは、心中穏やかではなかったのだと思います。「先生、それでもいいのですか?」という気持ちだったのかもしれません。
 弟子たちに対して、洗礼者ヨハネはキリストの証人に徹しています。ヨハネは答えます。「わたしは、『自分はメシア〔キリスト・救い主〕ではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」(27~28節)。洗礼者ヨハネは、自分の役割を深く自覚していました。自分は、キリストに先立って遣わされた者、キリストを指し示す者、そのために来たことをあなたたちが証ししてくれるはずだ、と語りました。
 「花婿の介添え人」(29節)の「介添え人」は直訳すると「友」です。ヨハネ福音書で「友」といえば、第15章のイエスの言葉を思い起こします。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:13~15)。洗礼者ヨハネは花婿であるイエスの友です。ヨハネは「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」(27節)と語ったとおり、父なる神の意志に従い、キリストの証人として生き抜いてそれを喜びとしました。喜びで満たされながら「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)と語ったのです。これは本当にすごい言葉です。私たちはキリストの花嫁であり、同時にイエスの友でもあります。洗礼者ヨハネに倣って生きるように招かれています。主に栄光をお帰ししていくことは、聖霊によらなければできません。
 31~36節も見ていきます。これは21節からの続きです。「上から来られる方」「天から来られる方」「神がお遣わしになった方」とは、神の御子イエス・キリストです。神が遣わされた「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒り〔裁き〕がその上にとどまる」(36節)。永遠の命とは、神とイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:3)。生きる喜びは神を知ることから来ます。