2024年9月15日(日) 聖霊降臨節第18主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   19
主の祈り
交読詩編  詩編78:1~8
祈  祷
賛  美   192   
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第4章31~42節
子ども説教
説  教  「信仰は聞くことから」
賛  美   452
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 ヨハネ福音書では、イエスが霊的な意味でお話をされるので、聞く人がすぐに理解できないことがあります。サマリアの町シカルの井戸で休んでおられたイエスのところに弟子たちが戻ってきて、「先生、お食事をどうぞしてください」と言うと、イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました(32節)。弟子たちが「だれかが食べ物を持ってきたのだろうか」と言い合っていると、イエスは言われました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)。弟子たちは理解できなかったでしょう。
 私たちは主日礼拝でヨハネ福音書の言葉を聞き続けていますので、イエスとサマリアの女の対話を知っていますが、弟子たちは聞いていません。私たちの肉体が食物をとって、力づけられるように、私たちの魂(霊的な体)は、イエスの言われる食べ物をいただいて、力づけられるのです。人となられた神であるイエスも同様です。イエスは、サマリアの女がご自分の言葉を聞いて受け入れたこと、そればかりでなくスカルの町の人々に証しをしに行ったことをご覧になって、喜ばれ、霊において満たされたのではないでしょうか。それを弟子たちにも知ってほしいと思われたのではないでしょうか。
 イエスが弟子たちと話をしている間に、町に戻っていたサマリアの女は人々に証しをして、シカルの多くの人々が、女の言葉によってイエスを信じ、イエスのもとにやって来ました。さらに人々は、イエスに自分たちのところにとどまるようにと願い出ました。イエスはその願いを良しとされ二日間滞在されました(40節)。そのようにして、人々はイエスの言葉を聞いて信じました。町の人々はサマリアの女に言いました。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(42節)。これは、信仰の告白の言葉です。特に大切なことは、まず「自分で聞いて」ということです。人々は、最初、サマリアの女の言葉によってイエスを信じましたが、イエスと交わりを持ち、イエスの語られる神の言葉を自分で聞いて、信じるに至りました。信仰はキリストの言葉を聞くことから始まります(ローマ10:17参照)。次に、人々は「この方が本当に世の救い主であると分かった」と言いました。主イエス・キリストは、ユダヤ人だけ、あるいはサマリ人だけの救い主ではありません。「世の」救い主です。教会だけの救い主でもありません。世の救い主であられます。これは、第3章の御言葉とも響き合います。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)。サマリアの人々がこの信仰の告白に至ったとは、驚きです。思いがけない出来事だったと思います。けれども、私たち自身の救いを思い出してみると、同じだったのではないでしょうか。自分で予定して救われるのではありません。思いがけないときに救い主が訪れてくださったのです。
 本日の聖書箇所の35~38節では、刈り入れの話が出てきます。これも、霊的な意味で主イエスは語っておられます。「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(35節)。刈り入れられるとは、神によって救われることです。サマリアの女もスカルの町の人々も、待たれていた人でありました。私たちも神に待たれていた者たちなのです。日本のキリスト者の割合が約1%で変わらない状況が続いておりますが、神の畑は色づいています。神に待たれている人はたくさんおります。神の言葉を聞いて信じた私たちは、主イエスに派遣されて、共に刈り入れの業に喜んで仕えるのです。