2024年9月22日(日) 聖霊降臨節第19主日
礼拝順序

黙  祷
招  詞   詩編124:8
賛  美   18
主の祈り
交読詩編  詩編78:1~8
祈  祷
賛  美   409
使徒信条
聖  書   ヨハネによる福音書第4章43~54節
子ども説教
説  教  「主の言葉を聞いて帰る」
賛  美   564
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

〔説教要旨〕

 主イエスは、サマリヤの町シカルの人々の求めに応じて、二日間滞在されました(ヨハネ4:40)。そして、イエスは弟子たちと共にガリラヤへ赴かれました(43節)。イエスは不思議な言葉を語っておられます。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」(44節)。しかし「(イエスが)ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」とあります。なぜなら「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたから」です(45節)。これは、ヨハネ福音書第2章13節以下の宮清めの出来事でしょう。ガリラヤの人々にとっては、イエスのなさったことが、神殿で商売をしている人々に対して、溜飲を下げることだったのかもしれません。ヨハネ福音書第2章の終わりに、こうあります。「しかし、イエス御自身は彼ら〔イエスの名を信じた人々〕を信用されなかった。…イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハネ2:24~25)。この御言葉は、私たちの心を厳粛にさせます。イエスは、人々が歓迎したとしても、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」という覚悟を持って、ガリラヤに来られたのだと思います。
 主イエスは弟子たちと共に、カナの町に行かれました。そこで、王の役人との出会いがありました。この役人は、イエスのうわさを聞いてカファルナウムからカナまでやってきました。息子の病気を治してほしかったからです。「王」とはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスです。王の役人ですから、この人は王の権威を振るって生きていたと思いますが、息子の死の病に王の権威は無力でした。役人はイエスに「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように」願いました(47節)。イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)と厳しく言われます。ここで、「あなたがた」とあります。この役人だけでなく、ヨハネ福音書の読者に対しても、イエスは問いかけておられます。この役人は、イエスの言葉には応えず、一刻も早く息子をいやしていただきたかったので、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願い出ました(49節)。イエスは、この人とその子を憐れんでくださり、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言ってくださいました。あなたの息子は「治る」ではなく、「生きる」と言われたことを心に留めます。イエスは、その子を死の力から解き放って、命の中へ入れてくださいました。私たちの命は神の御手の中にあります。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)。これは本当に素晴らしいことです。この人は、まだ息子がいやされたことを見ていません。けれども、イエスの言葉を信じて、家に帰りました。そして、イエスの言葉どおりに息子が生きていることを見ることができました。彼もその家族もイエスを信じました。信じた者が、神が生きて働かれることを見るのです。
 役人が願ったこと―イエスに一緒にカファルナウムに来ていただくこと―は叶いませんでしたが、もっと素晴らしいことをイエスはしてくださいました。自分が願うよりも素晴らしいことを神がしてくださる、と信じるのは、自分の努力ではできません。神によらなければできません。エレミヤ書第18章1節以下の出来事を思い起こしました。主なる神は、預言者エレミヤを陶工の家に連れて行き、陶工は神であり、神の民は陶工の手にある粘土である、と語られます。陶工は、器を作っても気に入らなければ壊し、作り直します。神の御心に適う器となるまで、神は神の民を作り直されます。私たちは、神の御手の中にある器であり、神は必ず、御心にかなう器としてくださいます。信じます。