志で神社古墳 (四日市市大宮町羽津田)

志で神社古墳全景 神社西口から

 志で神社の境内にあります。志で神社は近鉄霞ヶ浦駅の西南方海蔵川と米洗(よない)川に挟まれた標高10m程の羽津の低い丘陵東端に位置します。四日市市内では唯一の前方後円墳です。前方部は社務所によって削り取られています。後円部は径30m高さ5.3mで、北・西側には周溝が巡っています。墳丘は神域となっているため立ち入ることは出来ません。
 
江戸時代の嘉永5年(1852)に出土した遺物が神社に保存されており、内行華文鏡片、車輪石(貝輪を模した滑石製の腕飾り)、翡翠製勾玉、碧玉製管玉があります。

 この古墳の周辺には陪塚(ばいちょう、近親者や従者あるいは遺品を葬った塚)が7基あったと言われていますが、今は全く残っていません。昭和50年頃までは古墳と県道員弁四日市線を隔てた道路沿いに1基だけ残っていたそうです。今は住宅地となっていますが「志で神社古墳」と記した石碑が建っています。

周溝部(西側) 墳丘斜面には葺石と思われる角礫が散見される。 陪塚跡の石碑

 この古墳については、墳丘裾が直線状であり、測量図と合わせて考えると前方後方墳ではないかという意見が出されています。もし前方後方墳だとすると、次に紹介する北勢町の麻績塚古墳に続いて2例目になり、狗奴国東海説を補強する古墳になりそうです。


志で神社正面 傍示石

 志で神社の志でとは御幣のことで、壬申の乱の際、大海部皇子(後の天武天皇)が迹太川(とうかわ今の朝明川?)の辺で伊勢神宮を遙拝した際、四方に幣(ぬき)を班(わか)ち禊祓(みそぎはらい)を行ったことにちなむそうです。

 この神社の社務所の脇に、「これより北、桑名領」と刻んだ傍示石が建っています。これは明治時代まで東海道沿いに建てられていたものを移設したものです。この石が建っていたところより北が桑名藩の領地で、南側が天領(幕府直轄の領地)ということです。

 なお、志で神社の「で」という字は氏の下に一を書いた漢字ですが、Homepage Billderではこの漢字が出ないので、ひらがなで表記しました。

地理案内 近鉄「霞ヶ浦」下車、南(四日市方向)へ約300m、踏切を渡った正面。