神の波動を感じて生きるD
川村百合子/月間波動 2003/4月号
文・構成 宮崎みどり


人間が本当に正しく生きるとは
どういうことなのだろう?


娘の祈りに導かれて

川村百合子さん(76歳)は兵庫県伊丹市にあるNPO法人・国際エンゼル協会の代表である。同協会は、アジアの最貧国の一つバングラデシュに孤児院エンゼルホームを建設し、子どもや女性の自立のための支援を行う民間のボランティア団体である。

設立以来20年間「Love over the world・世界に愛を」の合言葉の下、日本各地でチャリティーバザーやバングラフェア、講演会、チャリティーコンサートを開催し、その収益金や寄付金など毎年六千万円近い援助金を海外に送り続けている。

おもにその活動の原動力となっているのは子育てを終えた一般の主婦たち300人ほど。そして川村百合子さんの支えとなっているのが、神の波動を感じて18年間自宅に籠もり沈黙の祈りを続けている次女の直子さん(46歳)の存在なのである。

脳性まひの娘と
ともに歩く人生を選んで

国際エンゼル協会のはじまりについて
教えて頂けるでしょうか?


そのお話をする前に、まず娘のことをお話しなければなりません。

私には二人の娘がおりますが、次女の直子は脳性まひの障害があり、肢体不自由児としてのハンディを背負ってこの世に生まれました。直子が物心つく前までは、私は娘をなんとか健常者と同じ普通の体に治せないものかと日夜悩み、あちらこちらの病院を駆け回りました。時には占い師や霊能者の元に通い、神仏にすがろうとしたことさえありました。

障害を持つ娘とどのように生きていけばよいのかと思い煩い、一人でくよくよと悩んでいる間はつらく苦しい日々でした。しかし、直子は幼いときからどこに行っても不思議なほど他人に可愛がられ愛される子どもでした。

体は不自由でしたが、娘の周りにはいつもやさしい人々が手をさしのべてくださっていたのです。私が万一いなくなっても、娘はこうした温かい人たちに支えられていくのだと思ったときに、私の人生観が180度変りました。

障害のあることが決して不幸でないことに気づいたのです。

目に見える幸せだけを追い求めていた私自身の価値観を変えたとき、人間として本当に正しく幸せに生きてゆくことができるのだということがようやく判りました。

そして、直子が高校三年生になったとき「私はずっとこれまで、多くの人たちにお世話になってきたので、その恩返しのためにも大学で社会福祉の勉強をして卒業後は福祉一筋に生きていきたい」と言いました。私は言葉も歩行もままならない娘が大学に行くことに不安を感じましたが、娘の固い決意を感じ進学を見守ることにしました。

やがて娘は「私は大学を卒業したら発展途上国へのボランティア活動をしたい」と言い出しました。私はこの娘と一緒に道を歩もうと決心し、私たち母娘に共感してくださる十数名の方々と一緒に1982年国際エンゼル協会をスタートさせたのです。

大学卒業を間近に控えたころ、直子さんに
不思議な現象が起こったとのことですが?

はい。直子は幼いときから直感が大変するどく、一度教えたことは決して忘れない賢い子どもでした。私が探しものをしていると黙ってそれを目の前に持ってきてくれたり、主人が大切な金庫の番号を忘れて慌てている時、不自由な小さな手でダイヤルを回して開けてしまうというようなことがよくありました。また、小学生の時に書いた詩が評判になり新聞やマスコミに取り上げられたこともありました。

ですから、私はこの子はどことなく人様と違うところがあると思っておりました。

ちょうど娘が大学を卒業する前のこと。娘は人の心をゆさぶるような詩を書き始め、人を導くような言動や言葉を語り始めました。最初は私も主人も、娘は気がふれたのではないかと思って大変戸惑いました。しかし娘が語る言葉や詩は、心を落ち着けて耳を傾けると、慈愛にあふれた真実の神の啓示のように心に響きました。

娘の書いた詩を集めて「小さな天使」という小冊子にして自費出版すると、詩を読んで感動したという方々が私たち親子の回りにたくさん集まってきてくださったのです。

その後、次々と不思議な事が起こりはじめました。娘は予言や予知、はては人々の上に奇蹟としか思えない出来事をもたらすことまでもできるようになったのです。

娘のうわさを伝え聞いた人々が次々と私たちの元に相談に来るようになり、自宅の二階はいつも人であふれかえっていました。私は病気が治り、悩みが消えるのであれば、一人でも多くの方を救ってあげたいという一心で、相談に来られる方々を誰かれなく直子に紹介しておりました。

人は愛を実践することで救われていくのです

それから直子さんはどうされましたか
1985年のある日のことです。直子は怒ったような怖い顔をして私にこう言いました。「お母さんは私を教祖にしようというのですか! 私はこれまでさんざん『神の愛』について皆さんにお話してきました。人がこの世で『愛』を実践できるのは他人のために奉仕することしかないのです。なのに皆さんはいつも自分のことばかりを相談し、奇蹟ばかりを求めてきます。人は『愛』を実践することによって救われていくのです。どうか、これからは人のためにボランティアをしてください。私にはもうこれ以上お話することはありません!」

それ以来、直子は一言も口を聞かずに家に籠もってしまいました。

それまでは、何をするにもいちいち娘に相談し、指図を仰いで物事を進めていた私たちは本当に途方にくれてしまいました。

直子が沈黙してしまう前に私たちは、これからの国際エンゼル協会の活動方針について皆でいろいろと相談していました。そのとき直子はアジアの最貧国の一つである「バングラデシュに孤児院を作りたい」と提案していたのです。

私たちは娘のその言葉を頼りにして、バングラデシュへの直接的な援助活動を開始しました。

国際エンゼル協会の
その後の活動を教えていただけますか

当初、バングラデシュは独立まもないアジアの最貧国の一つでした。国は貧しく、幼い子どもたちや、働き場の無い人たちが路上で物乞いをしながらスラムで暮していました。

1986年、私たちは一緒にボランティアをしてくださっていた方々と相談し、首都ダッカに小さな家を借りて12名の孤児たちを預かることにしたのです。その子どもたちの成長にともなって援助活動も少しずつ広がって行きました。

その後、何度も試行錯誤を繰り返す内に、無償で応援してくださる人たちが増え続け輪が広がりました。今日では多くのボランティアの方々に支えられて、小学校を建設したり、里親里子制度を作って学校に行けない子どもたちを援助したりと、おかげさまで大きな支援活動ができるようになりました。

また、1987年にはバングラデシュ政府からも外国の援助団体として正式に認定を受けるまでになりました。

現在は首都のダッカから車で一時間ほどの所にあるガジプール県コナバリ村に8600坪あまりの土地を購入して孤児院(エンゼルホーム)を建設し、その中で70名の孤児たちがのびのびと元気に暮しています。木々に囲まれた緑豊かな敷地の中には子どもたちの宿舎のほかに、近隣の女性たちに縫製技術やコンピューター、ハンディクラフトなどを教える職業訓練所、生産販売を行う女性センター、識字教室、診療所、イベントホール、図書館、学習室、モスクなどがゆったりと立ち並んでいます。また、近くには女性たちに米や野菜の栽培、養鶏・畜産技術を指導する農業研修センターも運営しています。

川村さんは今まで外部に対して
直子さんのことをあまりお話にならずにこられましたが、
その理由をお聞かせくださいませんか

私たち親子のこのような話を皆さまが受け入れて信じてくださるかどうか不安でした。また、うっかりお話して誤解されることを極力避け、理解して頂ける方々が増える時期が来るまで待っておりました。

物やお金だけを追い求めれば幸せになれるという物質優先の社会が終わりを迎え、世の中がようやく人間の理解を超える何か見えない不思議なものの存在を容認し始めたように感じています。

大昔から人間は大自然の中で生かされていることに感謝するという、素朴で純粋な信仰心を持っていたはずなのです。それは「宗教」という組織的な堅苦しいものではなく、一人一人に内在する内なる神への恐れや敬いという形での信仰心なのではないでしょうか。

一人ひとりが見えない何ものかに守られていることを感謝し、そういう信仰心を持って他者を敬い尊び、他人のために無償の奉仕を喜んでおこなうとき、本物の世の中がやってくると信じます。

これからの時代は、他者の喜びが自分の喜びとなる奉仕活動こそが「愛」を世界中に広げる鍵となるのではないでしょうか?

今回、ご縁を頂いて「hado」の読者の皆さまに娘の直子のことを話させて頂く機会を与えていただきうれしく思います。最後になりましたが直子はあれ以来18年間、いまだに沈黙を守って元気に暮しております。ありがとうございました。


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