神の波動を感じて生きるE
早苗ネネ/月間波動 2003/5月号
文・構成 宮崎みどり


地球の女神たちに愛の波動を送ろう!
ハワイから海を越えて
日本の神話の女神・稲田姫に歌を奉納

幼い頃から歌が大好きだった早苗ネネさんは、テレビが白黒からカラーに変わる1960年代後半、マスメディアの急激な普及に伴って一躍アイドル歌手「じゅんとネネ」として有名になった。しかし、彼女はマスコミに作り上げられた虚像「ネネ」とのギャップに耐えられず22歳で芸能活動に終止符を打ち単身渡英した。

それから30年、二度の離婚を経験した彼女は、再び「ネネ」として歌を唄い始めることを決意した。その陰には絶滅寸前の一羽の鳥(ハワイの州鳥NENE)との出会いがあった。また、日本神話のヒロイン稲田姫(イナダ姫)との不思議な邂逅が再び彼女を「歌手ネネ」として不死鳥のように蘇らせようとしている。

30年ぶりの学業復帰
ネネさんは現在、
ハワイの大学に在学中とのことですが

はい、私は12歳の時から芸能界に入り、高校在学中に「じゅんとネネ」として急激に売れ出し、日本中を駆け巡っていましたので学校に行く時間が全くなくなり高校を中退せざるを得なかったのです。

その後、22歳で芸能界を引退し渡英しました。そしてロンドンで出会ったミュージシャンの夫(高橋英介)と結婚して帰国し、しばらくは東京で暮らしていました。しかし、高度経済成長で都市化が進むと共に私の精神状態はとても不安定になり、都会には住みづらくなって夫と二人で八丈島に移住したのです。

八丈島に住み始めて一年半ほどした頃、美しい島の中に合成洗剤が流されプラステックのゴミが放置されているのに耐え切れず、自然環境を守りたい一心で町長選挙に立候補しました。落選はしましたが結局そのことがきっかけとなって、もう一度きちんと勉強をやり直したいと考え、45歳で八丈島の夜間高校に入学したのです。それ以来、私はすっかり勉強することの楽しさにとりつかれ、卒業後ハワイ大学の分校であるマウイ島のカレッジに入学しました。

マウイ島の短大を選んだのは八丈島とマウイ島が姉妹島であり、そこにハワイ大学の分校があると知ったからです。さらにはっきり言えば、その頃私は22年間連れ添った夫と別れ、マウイのカレッジで人生の再スタートを切るというターニングポイントでもあったのです。

短大は本来なら二年間で卒業できるのですが、なにしろアメリカの大学は入るにはやさしく卒業が難しいという通説とおり、まだすべての単位が習得できていないので、52歳でいまだに学生の身分を楽しんでいます。

ネネさんは過去に二度と「ネネ」の名前は使いたくない
とまで思われていた時期があったそうですね

私は女性として一番成熟するべき時期に、芸能界という特殊な集団の中で育まれました。もちろん周囲からみれば、それはうらやむべきことでもあり、一面ありがたいことでもありました。しかし、私の中の幼児性がしっかり抜け切らないうちに日本中に顔と名前が浸透し、マスコミが創作した「虚像のネネ」を自分自身が上手に受け入れることができなかったのです。

どこにいっても誰かが「ネネちゃん元気?」と親しみを込めて声を掛けてくださるのですが、私にとってその人が一体誰だったのかといつも混乱していました。

そしてある時期から私はネネという名前に強い拒否感を抱くようになり、じゅんと相談した上で解散を決めました。ちょうどじゅんも最愛のパートナーとの出会いがあり、引退後は幸せな結婚を選びました。

一方の私は帰国後、夫と二人で音楽活動を続け、何枚かのCDを出しました。そのとき周囲は「ネネ」という名前を使うようにと勧めましたが頑なに拒否し「英介と早苗」で発売しましたが、さっぱり売れませんでした(笑)

一羽の鳥との出会い
その早苗さんが再び「ネネ」という名前で
歌われるようになったのはなぜですか?

ある日、マウイ島の聖なる山、ハレアカラ火山にご来光を拝みに行ったとき、山頂付近で一羽の鳥と出会いました。ガチョウ位の大きさのその鳥は私と目が合ったとたんくるりと背を向けて消えていきました。なぜかそのことが忘れられず下山後ビジターセンターに立ち寄ってその鳥の名前を知って私は愕然としました。その鳥は絶滅寸前の保護鳥で「NENE」という名前のハワイの州鳥だったのです。

あまり見栄えのしない背丈80センチほどの鳥「NENE」がこれから私の歩む道を教えてくれたように感じました。絶滅寸前の一羽の鳥が私の中の何かを変えてくれたのです。

私は再び「ネネ」という名前で歌を歌うことを決心しました。ハワイの日系人の集会などで「早苗ネネ」として人前に立ち、日本の童謡や子守唄を歌うと涙を流して喜んでくださる人々に触れて、頑なだった自分の心が急速に癒やされてゆくのを感じました。

そして懐かしさと共に心の底から「私はネネだったのだ!」という強烈な思いが湧きあがってきたのです。ハワイの火の女神ペレが私を「NENE」という鳥と出会わせて、ネネとしての自分自身を思い出させてくださったのかもしれないと思っています。

ネネさんは日本の古い唄、
特に万葉集や和歌にも興味があるとのことですが

八丈島で夜間高校に通っていた頃、古文の授業というものがあることを知りました。私はそこで生まれて始めて和歌や万葉の世界と出会いました。昔の日本の人々の書いた恋文や連歌のリズムの美しさ、その精神性の深さに私は心酔してしまったのです。

昔の日本の人々はなんというやさしい響きで愛する人への思いを綴っていたのでしょう。46歳にしてようやく美しい日本の文化の真髄にふれたのです。

私はそれらの詩にオリジナルの旋律をつけて心のままに歌いたいと思いました。日本を離れてハワイで一人暮らしをするようになって、四季折々の日本の季節の美しさや、文化、生活習慣のすばらしさが理解できるようになったせいかもわかりません。

どんなに時代に遅れていようと、大衆や若者たちに受け入れられなくても、私は和歌や万葉集、古今和歌集などの中から心に響いた歌や詩にメロディーをつけて唄っていきたいと思っています。それがこれから私が目指す自立した大人の歌手「早苗ネネ」としての方向性だと考えています。

また、私は最近、日本の神社やそこにお祀りされている女神さまたちにとても引かれています。時には祝詞(のりと)にもリズムをつけて鈴や太鼓を叩きながら歌うこともあるのです。神主さんがおられたら叱られるかもしれませんね(笑)

神話の女神の導き
イナダ姫さまとの不思議な邂逅について聞かせてください
2000年の夏、ダライラマ法王の呼びかけで広島県の宮島・厳島神社で「世界聖なる音楽祭」が開かれました。私はハワイから手弁当で駆けつけ、「早苗ネネ」としてステージで歌を奉納しました。そのとき、ボランティアで炊き出しのおにぎりを握っている一人の女性と出会ったのです。

彼女は染色家のご主人と娘さんの三人で、島根県横田町にあるイナダ姫を祀る稲田神社の社務所に住む杉山さんという女性でした。

イナダ姫は日本神話『古事記』の中でヤマタノオロチという頭と尾が八つもある大蛇の生贄になるところを高天原から降りてきたスサノオという若者に助けられ、彼の妻になったお姫さまです。

スサノオとイナダ姫が結ばれ子孫が繁栄し、その六代後に縁結びの神さまとして有名な大国様・オオクニヌシが生まれたと伝えられています。いわばイナダ姫は出雲の人々の産みの母であり、ルーツとも言うべき存在の大切な女神さまなのです。

私が以前暮らしていた伊豆七島の人々の間では「伊豆は出雲に通じる」と言われていましたので、イナダ姫さまはとても他人とは思えないご縁を感じました。私はすぐにその場で彼女に稲田神社の秋祭りに歌を奉納しに行くと約束しました。しかしその年はそのままハワイの学校に帰ってしまったので実現できませんでした。

その後私は、イナダ姫さまとの約束がどうしても忘れられず、昨年の秋祭りの直前にハワイから杉山さんに連絡を入れました。そして稲田神社のお祭りの時間に合わせてハワイの教会から歌を唄い、海を越えてイナダ姫さまに歌の波動をお届けすることができたのです。

ネネさんはこれからはどのような活動をされるのですか?
今年はビザが切れたこともあり、一年間大学を休学して日本で歌を歌って行きたいと考えています。そして今度こそイナダ姫さまとの約束どおり、秋祭りの日に稲田神社で歌を奉納しようと思います。そのことを杉山さんや町の皆さんに了解して頂きたくて、この三月に友人たちと出雲に行き稲田神社にはじめて参拝してきました。

稲田神社は島根県の奥出雲にあり、お米やお水が美味しいのどかですばらしい山里でした。その上、横田町はたたらの里・製鉄と刀剣の町としても世界的に有名な町でした。私は故郷に帰ったような気がして一目でこの町が好きになってしまいました。

今年の秋祭り(10月26日)に歌を奉納させて頂くために私は、ひと月前から横田町に住み込んで神社のお掃除をさせて頂こうと決心しています。

私はこれから世界の神話の女神さまたちを繋いでスペースオペラのようなものを作り、それを歌と影絵で表現して人々に神話を広めていく仕事をしたいとも思い始めています。可能であれば今年の秋に稲田神社でそれを上演し奉納したいと密かに計画しているのです。幸い横田町の町長さんや出雲で出会った方々も、できる範囲で応援してくださると約束してくださいました。

大地から湧き上がる女神たちの大きな波動を受けて、蘇った新しい「ネネ」が地に足をつけながら自立していく手ごたえのようなものを感じて、いまとてもワクワクしています。
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