「ありがとう」の言葉の重み
幸(高)齢者のそばにいて……
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平成14年5月、日本海に浮かぶ小さな離島、隠岐(おき)の知夫里島(ちぶりじま)に、一人暮らしのお年寄りが息を引き取るまで介護し、看取る家「なごみの里」が設立された。代表の柴田久美子さん(51歳)はあふれるような笑顔で命の極みにやさしく寄り添う天使のような人。
「私は、いまとても有難いことに、都会ではほとんど出会うことのない『自然死』で逝かれる方々のたくさんの『看取り』の中で、とても大きな学びを頂いています。幸(高)齢者の方々の魂は自由に『天と地』を行き来され、手を握ると私の魂すら天にお連れ下さるほどに愛にあふれています」。 |
日本初の看取りの家「なごみの里」
「なごみの里」を自力で設立されたきっかけをお話ください
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これまで8年間、本当に大勢の幸(高)齢者の方々の生と死に寄り添い、最後を看取らせて頂きました。臨終の間際には医療はもちろんのこと、言葉さえ必要ありません。その瞬間は生まれる時と同じで、かけがえのない尊い時なのです。
人間の生と死の間に、高齢者の方の「看取り」があります。都会では、この大切な「看取り」を病院に任せてしまうケースが多く、家族が「死」に立ち会うことが少なくなってきました。
特別養護老人ホームでのヘルパーの仕事は、私にとって楽しく充実していましたが、厳しい現実にも向き合いました。ホームのお年よりたちは終末期になると病院に移されてしまいます。あるとき、お世話をさせて頂いた方を見舞いに行くと、医師が家族を廊下に待たせて最後の治療をされていました。そして、その方は家族のいない白い病室でチューブにつながれたまま息を引き取られたのです。延命のために体中に管を通されて不自然な形で死を迎えるなんて……。
ご家族が死に向かう時、それは神さまが私たちに死と向き合うようにと与えてくださった大切な時間なのです。その尊い時を放棄して医師や病院に任せてしまっていいのでしょうか?
日本には昔から家族に囲まれて、在宅で自然死を迎えさせてあげるというすばらしい文化がありました。どの方も最後にはご自宅に帰り、愛する人々に囲まれて旅立ちたいと願っておられます。ホームから病院へ転院されたお年寄りを見舞いに行くたびに「柴田さん、連れて帰って!」と涙ながらに懇願されるのに、私にはどうすることもできないもどかしさがありました。
人間ってこれでいいのかしら? 私の力で一人でも二人でも家族としてお預かりして、最後の看取りまでさせて頂くことはできないかしらと思ったことがそもそものきっかけでした。 |
「なごみの里」はどのようなところなのですか?
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「なごみの里」は終末期のお年寄りが私たちスタッフ3人と12人のボランティアの方々に支えられて365日、二十四時間寝起きを共にして一緒に暮らすことのできる擬似家族の家です。古びた一軒家ですが、元集会所だった所を二年前に競売で落札しました。中には台所と十八畳敷きの大広間とトイレがあります。定員は三名、いまは92歳、85歳、83歳のおばあさん三人と一緒に暮らしています。
グループホームとも違う、お年よりたちの終(つい)の棲家(すみか)に私たちヘルパーが同居してお世話させてもらっている形なのです。しかし、介護保険のサービス形態はあくまでも一日2時間の訪問介護サービス事業。残りの22時間はボランティアということになっています。
正直言って台所事情は大変ですが、知らない間に冷蔵庫にお魚が入っていたり、畑のお野菜が玄関先に置いてあったりの毎日で、いつも誰かがふらっと立ち寄り、お茶を飲みながら談笑していくので笑い声の絶える事がありません。またご縁を頂いた全国のみなさまからも、さまざまな形でご支援を頂き、感謝、感謝の日々を送らせて頂いています。 |
どんなことから「なごみの里」は生れましたか?
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「人間の終末において、痛みと言うものは60%が精神的ケアによって取れる」と、ある本に書いてありましたが、父の場合がまさにそのとおりでした。父は胃がんでしたが、なにしろ30年前のことですから本人への告知というものはなされませんでした。ですから母は、父の前ではいつもつとめてやさしく接し、観音さまのような笑顔で対応していました。そのためでしょうか、父はがん患者特有の痛みを訴えることはほとんどありませんでした。
臨終の時、お世話になった先生や看護婦さんにまず「ありがとうございます」と言って、そして次に、母、姉、兄に「ありがとう」を言い、小学校六年生だった末娘の私の手を取って「ありがとう久美(くん)ちゃん」と言ってそのまま静かに眠りました。
「人間というのはこんなにもいさぎよくて、安らかに次の世に行ける」ということを父が身を持って教えてくれたことに、そして「ありがとう」という最期の言葉に、私はとても感動しました。
父は財産を残したわけでも、名を残したわけでもありません。ですが、周りの者を愛し自分の時間を愛のために使い、見事にいさぎよく次の世界に旅立ちました。それを家族全員にしっかり見せてくれました。その父の最期の姿が「なごみの里」を立ち上げる時の原点になっています。 |
柴田さんは、「キャリアウーマン」の経験も?
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誕生日が出雲大社の大祭礼の日だったということもあって、父は特に私を「神の子」と呼んで慈しんでくれました。しかし私は大社さまの教えを大切に守って暮らしていた親の敷いたレールに反発して出雲を飛び出し、大阪のYMCAに入学しました。その後、某大手外食企業に秘書として入社し、笑顔と真心サービスの社員教育係りとして全国を飛び歩いたり、ファランチャイズ店のオーナーとして最優秀賞を頂いたこともありました。しかし、すべてマニュアル化された仕事に物足りなさを感じ、平成元年に独立しました。
けれど、会社の看板を失った私は東京で始めたお店で失敗。それを取り戻すために主人の実家のある福岡で始めたお店も失敗してしまいました。主人は当時、交通事故の後遺症で病床にあり心配をかける訳にはいきませんでした。ベッドで眠れない夜をすごしていたある夜のこと、大宇宙の意思ともいうべき、こんな言葉が聞こえてきたのです。
「愛という二文字が生きる意味だ!」
私は翌日店を閉じ、ためらうことなく介護の世界に飛び込みました。それからの毎日は何を見ても感動の連続でした。ただ生きること、あるがままの存在そのものが素晴らしいということを幸(高)齢者の方々から身を持って教えて頂いたのです。
しかし、はじめにお話したように現代医療における終末介護の矛盾とむなしさを痛感し、西日本で一番在宅死亡率の高いところで看取りの仕事に携わりたいと決心しました。
そして、神さまのお導きとしか思えない不思議なご縁をいただいて6年前に夫の了解を得て、在宅死亡率75%のこの島に移住しました。
私はもともと島根県の生まれ、旧姓は「大国」です。近頃では、私は出雲の神様(大国さま)に呼び戻されたのかも知れないと思い始めているのです。(笑) |
死から生を見る
愛をもって死を見つめておられるんですね
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美しい死の中にこそ未来があり、真の生があります。終末期にある幸(高)齢者の方こそが師であり、そばにいる私たちは学びのものです。とても光栄なことなのですが、旅立たれる間際のお年寄りの手を握ると、私の心と体がふわっと軽くなるのを感じます。そして、光という表現しかないのですが「光と光が一つになって溶け合ってしまう瞬間」を味わわせて頂くことがあります。
何よりも私の魂が喜ぶ瞬間です。
それは、現実的には「死」という悲しい時間なのでしょうが、私にとっては失礼ながら、とても有難い瞬間。
「この瞬間が私を磨いてくれている」と思える時なのです。
その魂たちはみな「あちらの世界はとても安らかで心地よい所」と語りかけてくれます。その場に寄り添うことさえできれば、たぶん誰でもが聞くことのできるであろう『自然死』における幸(高)齢者の魂の声。これを皆様にぜひお伝えしたいと思います。
私はよく、ほとんど反応のない状態で延命を選択してしまった高齢者の方を受け入れることができず、面会に行くのすら苦しいと言われる方々にこう答えます。
たとえ延命をしようとも必ず死は訪れます。死は皆の上に約束されているのです。有難いことに。
死という尊いその時に、人間らしい死を、尊厳のある最後を遂げさせて頂きたいからこそ、その方と正面で向き合ってほしいのです。
限りある時間を大切にしながら、自分にも確実に訪れる死を正面から受け止め、しっかりと見つめ、まずどう自分が死にたいのかそれを考えてください。今、生と死の間にある幸(高)齢者の方々をどう看取りたいのか決めて頂きたいのです。
目をそらさずに受け止めて、最後の時「ありがとう」という言葉と共に送り、送られる。みなさんがそういう最後であってほしいと願っています。
ありがとうございます。 |
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プロフィール NPO法人「なごみの里」代表、柴田久美子
しばたくみこ
昭和27年島根県生まれ。大阪YMCA秘書課卒。日本マクドナルド(株)勤務を経て、スパゲティ店を自営。神の声に導かれて介護の世界へ入る。現在NPO法人「なごみの里」(看取りの家)代表。著書「介護日記〜私の出会った観音様たち」700円。(なごみの里・0851−48−2190) |
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