夢惑う世界 雑記帳 随想録<澪標>
夢惑う世界4.1.1.14 競争社会
2001年6月18日  森みつぐ

 私は、競争するのが好きではない。勝ち負けを競うのが好きでないのである。勝ち負けは、競争の単なる結果である。そのような競争は好きではない。だから、私は、参加しない。
 オリンピックは、勝ち負けを競う場である。だから、大いに勝ち負けを競い合い勝負の結果に対して涙を流せばいい。
 人間を含めて生物界は、異種間において弱肉強食の競争社会である。ただ、同種間での弱肉強食は非常に少ない。ただ、人間の場合金儲けのために強者が弱者を死ぬまで働かす場合がある。やはり、人間は、少々異端な生物かも知れない。
 人間の能力は、仲間同士お互いに励まし合いながら切磋琢磨される。競争は、相手を蹴落とすためのものではない。人間は、生まれつき様々な能力に個人差がある。各人の当然ある能力の差の範囲内で、競争するのである。競争によって、自分の能力を最大限に発揮できるように訓練するのであり、そして、それは目的ではなくて自分の能力を向上させる一手段であるのである。お互いに幸せになるために、競争することが望まれる。
 人は、社会の中で少しでも高い地位(肩書き)に尽きたいと思い、精進するか、悪知恵を働かし作為に走るだろう。競争の結果、高い地位に就いたからと言え、それは、もともと高い能力を持ち合わせていたからであるか、精進して、その能力を開花させたか、悪知恵(これも、能力の一つ)を働かせたかである。ある一面において低い能力の人を蔑むことは許されないのと同じく、低い能力の人を蔑むことは、厳に慎むことである。だからといって、能力の低さを開き直って盾にし、権利だけを主張することも許されない。能力が低くても、無でない限り、努力を惜しんではいけない。今日、出来なかったこと、知らなかったことが、いつしか出来るかも知れないし、知るかもしれないのである。一歩先を目指して生きることが、何よりも必要だろう。競争は、あくまでもお互いの能力を高めるための一手段であり、勝ち負けという結果を競うことではない。上に立つ者は、下の階層の人たちと、お互いに幸せになれるように、地位相応の、能力相応の働きが求められる。
 学生時代のテストの点数は、能力のうち、その多くが記憶力であり、一部応用力と努力が加わる。テストの結果は、一番からビリまでで表されるが、この順番は、何ら人間性を表現している訳ではない。豊かな人間性は、生まれつきもあるだろうが、その多くは、家庭、学校、地域社会の環境、及び多くの生き物を含んだ自然環境に育まれる。しかし、子どもたちは、この点数によって、全人格を評価されてしまっている。否、周囲は、この点数によって評価していないにしても、子ども自身が、そのように思いこんでしまっている。人、それぞれに能力の差があり、個性が備わっていることを忘れ、点数が大きな比重を占めてしまっている。テストの点数で評価されるのも、多くの価値評価の中の一つであることを忘れてはいけない。社会の中で、金儲けという自由経済が、非常に大きなウェイトを占めてくるに至って、そのようなことに貢献できる人材を企業は求めてきた。そして、国家もGDPを押し上げ、世界のトップになるため優秀な人材を育てようとして、全ての子どもたちに画一的なレベルの高い教育を押し進めてきた。実際、そうであるかどうかは別として、結局、テストの点数だけで良い子、悪い子に振り分けられてしまっている。良い子でさえも、現実の自分は、そうではないんだというギャップに苛むことになる。競争で人を線引きする。感受性の高い子どもは、それに耐えられるほど強くない。
 卒業をして、企業に入社する。そして、すぐ出生競争が始まる。他人よりも早く、また上を目指しての競争が始まる。また、昨今の自己責任を問う中での年棒性の採用、終身雇用制の崩壊は、より競争社会を助長するものである。個性にあった天職が見つけられでば良いのだが、多くの人々は、サラリーマンとして企業に身を委ねることになる。企業内での競争は、無秩序でルールを無視したものとなり、私生活は、後回しとなる。そして企業は、それを強要するので、自己責任は、結局、名ばかりで企業の都合に合わせて、自己責任は問われることになる。企業が、国が求める競争社会は、強者を作り上げ、より強者に仕上げる。貧富の差は拡大して、弱者は、打ちのめされ、低賃金労働を課せられる。従って、企業の必要とする能力の低い労働者は、競争社会の中で、じっと耐え、企業が求めるとおり、私生活を奪われても、不平・不満を顔に出さず頑張る振りをしなくてはならない。競争によって、お互いの能力を向上させ、企業、社会に貢献すると言うことは、今日の競争社会では、難しくなっている。何故ならば、勝ち負けしか存在しないからである。
 私は、このような心の育たない競争社会には、参加するつもりはない。企業の中で、私は、この競争社会とは、別の道を歩いてきたつもりである。自分自身の感性を大事にして、そして、それを育みながら自分の道を歩いてきた。法を無視(企業倫理を、法に適っているかどうか無批判に受け入れている)し、滅私を強要する企業とは、一線を画して、業務を遂行してきた。これもまた、ひとつの生き方であると。
 人の心を蝕み続ける競争社会は、社会そのものも蝕み続けるだろう。1位からビリまで、無理なく生活できる社会は、夢なのだろうか。弱者も強者も、社会の中で生き甲斐を持って、生きられるようになりたいものである。

Copyright (C) 2004 森みつぐ    /// 更新:2004年10月7日 ///