和歌と俳句

齋藤茂吉

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八階に 居りてきけども 目下の 街おもぐるしき 音ぞきこゆる

午前四時 すでに過ぎたる ころほひに 寝ぐるしかりし 夜は明けむとす

あかつきの いまだ暗きに は ときのま鳴きて うつりけるらし

きこえくる 銃のひびきを あかつきの 臥所に居りて あやしまなくに

かなかなの 暁に鳴く こゑ聞けば 現世のものは あはれなりけり

あたらしき 歌のおこれる ありさまを しるし置かむと 吾はおもひき

あつき日に 家ごもりつつ もの書くに 文字を忘れて いたく苦しむ

啼くこゑは あはれならむと おもへども 雁の子をしみじみと 見たることなし

この会に 集る人も 入りかはり 立ちかはりつつ 年は経ゆかむ

しづかなる み寺の庭に 植ゑてある 龍のひげにも 埃つもれり

四年まへ 君みまかりし このかたは アララギの歌 乱れたるらむ

この寺に すむ穉子は たえまなき もののひびきに 慣れにけるらし

荒川の 水門に来て 見ゆるもの 聞こゆるものを 吾は楽しむ

六月の すゑになりつつ 部屋に来て 砂たまりをる 紙帳をはづす

いつごろか 机に置きし 耳掻に 黴ふける見れば あはれかなしき

いとまなく 明暮れしかば 一冬を ここにこもりしは 幾日もあらず

うしろなる 立木をこめて 浅草の 観音堂は 板がこひせり

この世をし 愛しみけれど やうやくに 老いづく吾も けむりのごとし

不思議なる こともあるものと 吾おもふ 目のまへを行く 女に見おぼえあり

もろもろに 立ちまじはりて 居る我は 時のまにして いきどほりを断つ

章魚の足を 煮てひさぎをる 店ありて 玉の井町に こころは和ぎぬ

気ぐるひて ここに起臥しし 老人の 癒りて去るを 見おくらむとす

みなかみの 激ちの音も うたがはず ひとつの山に 老ゆるしづかさ