優しい雨・12
建物と風向きのせい、だったかもしれない。
焔に焼かれて片目が赤いザンザスは明るすぎる太陽の光が少し苦手だ。だからか、彼が『匿われて』いるのは北向きに中庭の置く、高い外壁の向こう側は谷という場所に建てられた小さな館。門番らしき者もおらず門は開いていた。前にはにはろくな花も咲いていない。咲かせるつもりはあるらしく、花壇を作っていると思しき煉瓦や腐葉土の袋が塀にそって目立たないように置かれている。
扉は開いている。外から見たとおり二階建ての館は、五階までを貫いたヴァリアー本部の吹き抜けを見慣れた目には玩具のように見える。美形は建物の中へ脚を踏み入れた。陽が当たらないホールの空気はしんと静まり冷えている。もっともそれは美形の頬にも心地の良い冷たさ。長袖のスーツを着込んでいるせいで、さっきまでの中庭は明る過ぎ暖かすぎた。
「……ザンザス!」
名前を呼ぶ。大きな声が音響のいいホールに響き渡る。館の中のありとあらゆる部屋にも届いただろう。
この美形は昔むかし、まだ子供だった頃、ボンゴレ本部の奥と表を仕切る門で叫んだ声が御曹司の私室にまで届いたという伝説の持ち主。九代目腹心の部下や教育係に何重にも囲まれていた男に、直接、言葉を届かせる為に声を振り絞るうちに地声が大きくなったのだと、自分では思っている。
人を遠ざけて奥の私室で一人で居る御曹司のもとをふらっと訪れても、大人たちは理屈を捏ねてなかなか訪問を取り次いでくれなかった。けれど奥まで直接に声が届けばうるさいと文句を言いながらも御曹司が迎えに来てくれて、腕を掴んで自分の部屋へ連れて行ってくれた。
声が聞こえても出てきてくれなくなったのは八年の眠りを経た再会後。それは拒まれてたという意味ではなく、阻む障壁がなくなったから。ザンザスが九代目が与える何もかもを拒否するようになってから。部下も使用人も御曹司の傍から姿を消して、直に手が届くようになった。
ドアを開ければそこに居るという状況に、最初ほんの少しだけ違和感を覚えた。でもすぐに慣れた。ファミリーのボスの身の回りの世話は側近・腹心と称される者にだけ許される名誉な仕事だ。長年の付き合いで嗜好を知っている美形が一番そばに引き寄せられるのを周囲も当然と認めた。
もっとも、ザンザスという名の男は見た目の気難しさほど手のかかる性質ではない。基本的に一人で居たがり、うるさく世話をされるのを好まないから。ボウモアとグレンフィディックの瓶を絶やさないよう気をつけていればいい。あとのことはは全部、八つ当たりだと思って流してきた。
「ザンザス!」
もう一度、呼んだ。腹の底からの声で。他人に興味のないあの男は自分から誰かの言葉を聞こうとはしない。だから、聞かせるためには聞く気がない耳にでも飛び込んでいく音量が必要だった。
返事はない。使用人も居るのか居ないのか、姿を現しはしなかった。自分の声の反響を美形は立ったままで聞く。ザンザス、ボス、ザンザス。人生で間違いなく一番多く呼んできた名だった。本人が居ない期間、夢でベッドの中へ招いた回数を含めて。
こだまがおさまる。歩き出す。革靴を履いているが足音はたてない。途中で気づいてわざと踵を鳴らした。近づく自分を予告するつもりで。
居場所は分かっている。一番高い階の一番奥の部屋。狙撃されにくい壁際でどうせまた、お気に入りのシングルモルトをロックで飲っているに違いない。いや、この気温では、もう生かもしれない。
階段を上る。意識で二階の廊下を探っていく。居るような気がする。けれど気配は動かない。いい子だ、と、心の中で思う。覚悟を決めて待っているのはいい子だ。
一番奥の部屋へ行く。どこでもそこは当主の部屋だ。庭と門とを見下ろす大きな窓がとられている。けれどわざわざ、その窓が途切れた壁に向かい合う位置に大きな椅子を置いて。
「そーゆーの、やめろって」
悪酔いするぞとなんど言っても聞きはしない。悪く酔いたいのかもしれない。せめてこっちを、入り口を向けばいいのに、頑丈な椅子の背もたれは来訪者を拒む。
「入るぜぇ」
一応言って部屋の中に踏み込む。起きていないことは分かっていた。グラスと酒瓶がテーブルの上で置き去りにされている。
「他所に世話になってても、モノゴト変えよーとしねぇのは頑固だなぁ、オマエ」
言いながら回り込み屈んで、酔いつぶれ意識を失った男の身体を続き間の寝室へ運ぼうとした。が。
パン、っと、乾いた丸みのある音が響く。
「触んな」
平手で頬を、勢い良く張られた。
「おーい、起きてンなら返事ぐれぇしろぉ」
「オレを愛していないくせに触るな」
「はぁ?ンだそれ。わけわかんねぇぞぉ」
油断していたとはいえヨッパライの、重心をかけない手首だけの平手で口を切るほどヤワでもなかった。けれど拒まれてすぐにまた、手を伸ばせるほど鈍感でもなかった。
仕方なく椅子の横に立つ。肘掛に両手をついて、目を閉じたままの男を眺めおろす。火傷のあとさえなければ、そして表情の恐ろしい険さえなければ整っていると言えないこともない顔立ちをしている。キャッバローネの跳ね馬のように十人中十人が認めるハンサム、という訳ではないけれど。
「なぁ。俺の髪、なんで切ったんだ?」
一番聞きたかったことを閉じた瞼に向かって問いかける。
「切った髪、どーしたぁ?」
軽く言ったつもりだった。でも語尾が震えた。それを聞いた男が喉の奥で笑う。はだけられたシャツの襟の奥でうごめく喉仏を、齧りとってやりたいと美形は真剣に思った。
「貰っておいた」
「なんで、勝手に、切ったんだぁ?」
「文句、あんのか」
「あるに決まってっだろぉ。あれは、俺のぉ」
「オレのものだからだ」
覚悟だと続けるのを阻まれて、言われた言葉に美形が口を噤む。
「……髪だけか?」
「本体は、どうやらオレを、もう見捨てやがった」
「……寝てんのかぁ?」
「寝言をほどいているのはテメェだ」
「触るぜぇ」
「触れるな」
「触るぜ。愛してるからなぁ」
唇は動いているけれど目を開かないまま、どうやらまだ身動きもろくにとれない酔漢の、胸元に美形が顔を寄せる。以前なら先に届いた髪は今はなくて、左胸へのくちづけは邪険に振り払われようとしたが、その手を右手で受け止めてキスを強行した。
「オレに、嘘まで、覚えやがって……」
「俺の髪、どうした?」
「埋めた」
シンプルに答えられる。何処に、と、追求しそうになる唇を美形は、ぎゅっと噛み締めて耐えた。掘り返したところで繋がりはいしないのに、行方に固執するのはあまりにも未練がましい気がした。本音は未練たらたら、男の襟首を掴み上げて何故と、涙ながらに問い詰めたいくらいだったけれど。
「ザンザス」
椅子は大きい。広い座面に、美形は片膝をついて、長い時間を一緒にすごしてきた男のことを間近で見下ろす。本当なら俯けば顔の横から流れて、一緒に男を捕らえてくれるはずの髪がない。喪失感は、深い。
「なんで、オマエが、出て行った?」
そうしてそれ以上に、一番ショックだったことを本人に尋ねる。
「オマエはボスだ。なのになんで、出て行きやがったんだ?」
言葉は質問、表情は弾劾。されて男は面倒そうに身体を起こそうとした。
「……、なにしやがる、カス」
掌を重ねられて、喉を押さえられて。
「死にたいンなら殺してやるぜぇ?」
凄絶に笑う美形の刃物のような麗しさ。薄暗い部屋で短くなった髪も興奮して潤んだ銀の瞳も光を弾いている。その目は不安定に揺れていた。何かをひどく恐れたように。
「その足りない能味噌で、こんどはなに考えた」
「オレの、オレらのぉ、前からまた、消えるって言うんなら、いっそ一息にって、なぁ?」
「馬鹿言ってねぇで退け。重い」
「オレはマジ、ッ、おわっ!」
世紀の大決心で手を掛けたのにまともに扱われず、怒鳴ろうとしていた美形は男から腕で払われ、椅子から転げ落ちる。不安定な座面に膝で乗り上げた中腰の姿勢と興奮しすぎて関節に力が入っていなかったせいもあるが、男の力は圧倒的に強い。あらゆる意味において。
「水」
尻餅をついた形で床に放り出され、子猫のように軽々と扱われ、人並より遥かに高いプライドをぐしゃっと潰された屈辱にふるふる、肩を震わせる美形の背中へ男がかけたのはそんな言葉だった。
「……、って、……、オマエ……、ヒトをナンだと……ッ」
「みず」
「……、ぁ……、のなぁッ……、」
「みずだ」
「何処にあるんだよッ!」
「探せ」
憤懣やるかたない表情を隠しもせず、それでも床を踏み鳴らしながら美形は立ち上がる。こういう部屋には目立たなく隠されて、でも置いてある筈の冷蔵庫を探す。クローゼットの棚の下や引き出しを開け、結句それはテレビ台の下に、お洒落な木彫りの物入れのフリをして隠れていた。
入っているのは日本のミネラルウォーターばかり。炭酸が入っていないのはどれだと悩みかけ、はっと、これが望んでしている世話ではないことを思い出す。一番手前のペットボトルを掴んで男へ投げた。こっちを向きもしないくせに男は器用に受け取って、蓋を外して一気に飲み干した。
「……」
数秒待っても文句の声は上がらない。炭酸入りではなかったらしいよかった、と、胸をなでおろす。そうしてまたハッと顔を上げる。今はそんな場合ではない。
「おいぃ、ザンザスッ」
「勝手に部屋に出入りする猫が、勝手にモノを持ってくる」
空のボトルをテーブルの上に置いて、椅子に深く座り直した男は穏やかに口を開いた。
「ベッドの上にだ。なんの遠慮もなく、枯れた枝やら蛇の脱皮した抜け殻やら」
「居るのかぁ、猫がぁ?」
少し気になって美形が部屋を見回した。
「叫んだこだまじゃ、分からなかったぜぇ」
「今は出ている。こだまの具合で分かるのか。コウモリだな」
「ほっとけぇ。猫でも犬でも油断すんなよぉ。首輪にカメラついてることだってあるぜぇ」
「厨房で餌を貰う半野良だそうだが、オレのベッドを気に入ったらしい。部屋に来るたびに手土産の代わりに、昨日は干からびかけた蛙の死体だった」
「義理がてーんじゃねぇかぁ?」
「てめぇに似てる」
「……あ?」
「てめぇのものだ。ヴァリアーは」
「なに言ってやがんだぁ?」
「てめぇがオレに持ってきた」
「あぁ……、まぁ、そーだったかもなぁ」
そのこと自体を否定はしなかった。前のヴァリアーのボス、剣帝と称されたテュールを破って以来、この美形は業界最高峰の評価も高いヴァリアーで常にトップだった。そのままボスに納まると誰もが思っていたが、この男がボスの座には就いた。
「って、オマエまさか、要らないもの勝手に持ってきたとか言ってんのかぁ?」
「オレの周りはつまらねぇ偽者ばかりだった。何もかも」
「おぉい、ちょっと待て、テメェッ」
「本当だったのはあの髪の毛だけだ」
「……ぁ?」
「銀色の……」
何かを言いかけ、途中で黙り込む。男が何を言おうとしているのか、美形にはいまひとつはっきりしないが、とにかく。
「あのな、ザンザス」
話をしようとして、冷蔵庫の前から立ち上がる。
「近づくな」
拒まれる。
「オレを愛していないくせに近づくな」
「……オマエがなに言ってんのか分かんねぇよ」