部屋に戻ると銀色のオンナはまだ、寝室のベッドの中で目を度している。
「……死んでんのか?」
思わず尋ねるが返事はない。すーっ、という、静かな寝息が聞こえて男はほっとした。毛布を捲って覗き込めば顔色は悪くない。すやすやと、シーツに横向いて眠る目元は穏やかで唇は桜色。心地よい休息をとっていると、分かる。
ここ暫くの騒ぎにやはり疲れていたのだろう。仕事はそうでもなかったが心労が激しかった。子供たちを取り上げられるかもしれないというのが随分なストレすなっているのに男は気づいている。
可哀想な、オンナ。
自分と愛し合っているのも自分の子供をあんなに愛してくれているのも、多分世界でこれ一人なのに略奪に逆らえず怯えている。本来、奪われて黙っているような気性ではないのに無抵抗なのは自分のせいだと、聡明な男には分かっていた。ボンゴレという権威には逆らわないよう、長い時間と暴力で躾けた。
「……」
眠るオンナに屈んで頬を寄せる。起こすのは可哀想かとも思ったが、眠りについて既に十時間近い。水分だけでも補給させにければ脱水症状を起こしてしまう。
「あー……」
この銀色にしては寝起き悪く男の腕の中で唸る。
「なに……、あ、れ……?」
「もう夜だぞ」
「……おぁ?」
「腹が減ったんじゃねぇか?」
「あ……、え……?」
壁の掛け時計を見た銀色が驚いてキョトキョトするのを、男はくくっと、笑いながら眺めた。
「差し入れが届いてるぞ。てめぇのツバメから」
そうして少しだけ意地悪を言ってみる。けれども大雑把な銀色に陰険な嫌味は通じず、代わりに尋ねられる。
「オマエは?メシは?」
「食った。沢田綱吉たちと」
「え?」
「押しかけられて、メシをたかられた」
「あぁ、アッシュグレイかよ」
そーゆー真似をしでかすのはと、銀色は意外と察しのいい一面を見せる。男が腕を緩めた空間で起き上がる。ふにゃふにゃとした様子が可愛い。
「あー、腹減ったー。ルームサービス、何時までだっけ?」
ここは並盛で一番の高級ホテルだが都心の一流とは違って、ルームサービスは二十四時間ではない。居間に家具を模して置かれた冷蔵庫の中の品揃えは、さすがサービス大国日本と、真面目に感心してしまうほどだったが。
「スシがある」
「あー?ヤマモトからかぁ?なんの寿司だぁ?」
「知るか」
桜鯛の押し寿司、という耳慣れない単語を、男は記憶にとどめていなかった。浴衣という、日本のネグリジェを纏って眠っていた銀色はうきうき起き上がり、洗面所で顔を洗って髪を結んで出てくる。日本支部から渡された手土産の箱は寝室と続きの居間のテーブルに置かれいる。会話を聞いていた給仕が気を利かせて、割り箸に緑茶のティーバッグに取り皿に湯のみ、といった日本のカトラリー類まで添えて。
「おー、鯛じゃねーかぁー。サクラダイってやつかぁー」
日本の食事、特に魚介類にはそこそこ詳しい銀色のオンナが目を輝かせる。ちらりと男が見たそれは薄紅色の魚の切り身が平べったく押し伸ばされたライスの上に載っているもの。
白いライスと薄い桜色の地味な色合い。だが、切り身は塩と酢で調味されていて、寿司飯との間には茗荷や紫蘇といった日本のハーブが細切りで散りばめられている。
実はヨーロッパ一の米の生産国で、ライスが食文化に根付いているイタリア人にとっては、美味そうでなくもない風情だ、と。
このひねくれた男が思うのは、つまり相当、美味そうだなと思っている証拠。
「おー、さすがに美味ぇー。んー、うめー」
押し寿司は折りの中で包丁を入れられていて、箸を入れれば一口分のかたまりで掬えた。ぱくりと、それを口に入れて銀色のオンナが喜ぶ。塩と酢で上手に調味された桜鯛の切り身は甘くて歯ごたえがよくて、口の中で噛み切れば旨みがじんわり。それが寿飯の酸味とまたよくあって、紫蘇と茗荷の香りが鼻へ抜けて、香りのいい春を食べている気がする。
ふんふん、ご機嫌な銀色は、目の前に座って沢田綱吉が寄越したウイスキーの封を切る男がじっと、自分を見ているのに気がついた。
「食うかぁ?」
天真爛漫に尋ねるオンナは、左手に載せた折りを持ち上げた。が、男は銀色の右手を掴み、箸で掬った一塊を、そのまま自分の口に運ばせる。
「お?」
散々キスをしておいて今更、食べた箸を口に入れられるのを恥ずかしがる、こともないのだけれと。
「……」
無言で男は咀嚼する。銀色のオンナは少し心配そうにその様子を眺めた。不愉快そうな眉間の縦皺は寄らなかった。
「美味いだろぉー?」
だから安心してそう尋ねる。
「サラダみてぇだな」
美味くないとは言わなかったが、肉食傾向のあるこの男にとっては食べ応えがないことをぼやく。
「そこーいーんだよジャポーネのメシは。ルッスなんかダイエットとか言ってよく食ってるだろ。オマエもそろそろいい齢なんだから、ちったあ食生活、改めたほーがいいぞぉ?」
「うるせぇ」
「もっと食うか?」
「腹がすいてねぇ」
「そーかよ」
かなり大きな折の中身を、銀色のオンナはぺろりと食べ終える。満足、満腹、という風情で緑茶を煎れて飲もうとし、途中でもう一つの箱に気づく。
「なんだぁ、ソレ。寿司なら冷蔵庫に入れとくぞぉ?」
「オレのオリエンタルからだ」
「あー、アッシュグレイかぁー。あぁ、そーかぁー、よかったなぁー、ボスさんもてるなぁー」
銀色の鮫が不平そうにむくれる。男の下半身に関しておおらかを通り越して無関心、殆ど放置、我関せず状態のこの銀色にしては珍しい不平の表情。くくっと、男は愉快そうに笑う。やきもちを焼かれるのが楽しい。
「てめぇにって言っていたぞ」
珍しい上機嫌のまま、そう言葉を補足した。
「オレにぃ?」
なんで、と、眉を寄せつつ、添えられた酒が蒸留酒ではなく赤ワイン、それもこの銀色が好きなアマローネであることに信憑性があった。2001年のベルターニ。葡萄の出来が良かった年のもの。最近の円高のお陰で日本では一万円前後という、『高級』ワインにしてはお手軽な価格で買えるようになったが、イタリアの物価にしては贅沢なものだ。
「なんだぁ?ちょい、気が早いんじゃねぇかぁ?オマエ、まだ、手ぇ出してねぇよなぁ?」
愛人からその『先輩』への挨拶のつもりかと、実に間違った解釈をした銀色が首をひねる。男は噴出し、ウイスキーに咽てしまう。げほごほ、咳を繰り返す男を労わろうともせず、そちらに不信の手を向けた銀色は。
「手ぇ出したの、かよ?」
真剣に心配そうに尋ねる。
「バカ言うな」
「ホントだな?信じていいな?」
「くでぇぞ。あけろ」
「あぁー?」
「ベリーのタルトだ。食わせろ」
夕食のコースで出来た生クリームたっぷりのケーキには男は手をつけなかった。基本的に甘いものは食べない。好物のベリー類が主役の、甘さ控えめのグラニータ(シャーベット)や手作りの菓子ならば別だが。
「なんだぁ、やっぱりオマエにじゃねぇかよ」
それが男の好物であることに再度の不平と不信を口にしつつ、銀色のオンナは菓子箱のリボンを解く。硫酸紙を敷いた上には男が言ったとおり、ベリーのタルトが行儀良く収まっていた。
「いま食うのかぁー?」
「食う。切れ」
「おー」
タルトは台だけを焼いて、そこにカスタードクリームではなくブルーベリーのムースを流し、そのムースが固まらないうちにコンポートにしたベリー類を飾り付けてある。
さくさくと、添えられていたナイフで銀色はタルトの生地を放射線状に切り分ける。刃物の扱いが上手な銀色はこんなものさえスパリと上手に切った。その一切れを、皿やフォークは使わずに素手で、抓んだ男が美味そうに口をつけるのを、銀色はフクザツな表情で眺めた。
「なんだ?」
「いやー、ナンてーか、なぁー?」
ボンゴレの御曹司に手製の菓子を持ってきた勘違い令嬢や玄人女は居間までにも居ないではなかった。相手によっては顔を潰さないよう丁寧に受け取ったが、それが贈られた本人の口に入ったことはかつて一度もない。銀色の知る限りでは。
「オマエやっぱり、あのアッシュグレイ好きだろ」
テーブルに肩肘をつき、食堂の戸棚から持ってきたワインオープナーでアマローネのコルクを抜きながら、ジト目で銀色は男を追及する。
「悪くは、ねぇな」
ラムをたっぷりと使ったベリーのコンポートが美味い。獄寺隼人が腹違いの姉に頼んで秋の収穫期に、たっぷり作ってもらって瓶詰めにしてあるストロベリー、ブルーベリー、ラズベリー、グーズベリー、ブラックカラント、クランベリー、等などは独自の酸味と甘みを保ったまま、野性味のあるラムの風味に調和して、ウイスキーにもよくあう。
「悪くはねぇが手は出さねぇ。安心しろ」
「ただの仲良しかよ。なーんか、それもなぁ」
気に入らないぜとオンナはぼやく。
「気をつけておけよ」
「あぁー?」
「アッシュグレイの、狙いはてめぇだぞ」
「……はぁ?」
「オレは当て馬だ」
「あ?」
「どっかで『偶然』会ったとしても、ホイホイ車に、乗ったりするんじゃねぇぞ」
男が突然言い出したことの意味を、うまく理解出来ないでいた銀色は、トドメのその言葉でようやく、やっぱりそうかと、見当はつけた。が。
「オマエが、アテウマぁー?」
とうてい信じられない言葉に疑念を呟きながら、ワインをグラスに注いで鼻先に持っていく。
「マジかぁ?この世に、そんなヤツが居るのかあー?」
この、あらゆる意味での『大物』を、そんな扱いをする人間が存在することに関しての疑念で頭がいつぱいの銀色に。
「返事は?」
無警戒に近づくなよと、告げた警告への返答を男は求める。分かった、と銀色は素直に答えたものの、まだ納得出来ないらしく小首をひねっている。
「珍しいことでもねぇだろ」
享楽的なローマ人の子孫だ。禁欲を以って教義とするカソリックの総本山、バチカンを国内に抱えているが尚、人生を楽しむことに熱心な素質は血脈の中に代々、受け継がれている。
「八代目に『未亡人』が居るぐれぇだからな」
ボンゴレ8代目ボスであるダニエラはお転婆だが美しい女だった。九代目はその実子ではなく一族内から養子に入ったのだが、その養育を担当したのは八代目の片腕にして同棲相手だった、今はサン・カッシャーノ・テルメに隠棲している老婆。今でこそ老婆だが、若い頃は太陽も月も欺くと言われた美女。
「そっ、かぁー?どーみても、アッシュグレイの目当てはオマエだぞぉー?」
まだ納得出来ない様子で、でも。
「オレにも、くれぇ」
男が美味そうに食べるタルトを銀色は欲しがる。
「ん」
好きなだけ食えと、無言で差し出された箱を、銀色のオンナは笑った。
「なんだ?」
「そーじゃねーんじゃねぇかぁ?」
「あ?」
「食わせてくれよォ」
自分の寿司はそうやって食ったじゃねぇかと、銀色のオンナは男に向かって、甘ったれ戯れる。
「……ッ!」
報復は、即座。
手を伸ばされた、と、思ったときには、もう抱きすくめられていた。
「ん……、っ、ん……」
最初に流し込まれたのはウイスキーの酒精。ニッカウィスキーが北海道の余市で作っている『竹鶴』は、WWA(ワールド・ベスト・ブレンデッドモルトウイスキー)を受賞した傑作。薫り高い貴族的なモルトの後に、粗野だが美味いラムが口のナスに広がる。ベリーの甘酸っぱさと、タルト生地のほろっと崩れる甘さ。
「レイプされたような顔をするなよ」
びっくりして、解放された後で椅子に座り込んだ銀色に、男はそう言った。グラスに新しく琥珀色の液体を満たしながら。