優しい雨・7

 

 

 

 

 夜が明けても雨はやまなかった。

「……スクアーロ」

 掠れ気味の低い、男らしい声が薄暗い部屋に響く。

「起きてるだろ?こっち向いてくれよ」

 可愛げのある哀願に毛布の下で美形が苦笑。見えなかったはずだが気配で分かったのか、もと刀のガキは美形の背中をぎゅっと抱きしめた。服の上から見たとおりの細身の手ごたえはゾッとするほどしなやかで、剣帝と称されるに相応しいバネを備えている。毛布を、もとガキの骨ばった指がそっと剥いだ。傷跡のある背中は暗い部屋の中で発光して見えるほど白い。十代の少女たちのような弾力は失ったけれど代わりに落ち着いた艶がノって、触れた指先に吸い付くよう。

「次は?」

 背中に左右の掌をぺたりと押し当て、肩甲骨の隙間にくちづけを落としながらもとガキは、案外ながいまつげを伏せながら尋ねた。

「これっきりってのはナシな。次は?」

「……縁があったらな」

「あるよ。次、いつ会ってくれる?」

「明後日、イタリアに帰る」

「それがナンだよ。飛行機乗って会いに行くよ」

「クセついちまうとヤバイだろぉがぁ、オタガイ」

「もうついた」

 気に入ったことを隠さない若い男の正直さは本当に可愛かった。

「俺を幾つと思ってる。てめぇにゃ付き合いきれねぇ」

「そんな嘘つくと、今から今度、はじめるぜ」

 背中に触れる掌が熱を帯びてきて外気に晒された無防備な皮膚に痛いほどアツイ。悲鳴を上げそうになって美形のオンナは指先でシーツを掻く。

「ホンメイ、に」

「アイツはアイツ、アンタはあんただよ」

「バラスぞぉ?」

 若い男の掌の熱に耐えかねて美形は身動きする。寝返りを打たれてもとガキは反射的に身体を引き、オンナの背中は情熱から開放された。危ないところだった。もう少しその指を押し付けられていたら消えない痕跡をつけられていただろう。

「すっぱ抜かれてやべぇネタは単発にしてとけぇ」

「アンタ、ずるくね?」

「ずるくねぇのがこの世に居るかぁ?」

 仰向けに姿勢を変えたオンナは身体を倒す前に髪を頭の横に流そうとして腕で巻く。その仕草がどうにも艶っぽくて、心の急所に一撃を食らって強張っていたもとガキが動く。手伝う素振りで見事なロングストレートに触れた。さらさらの手触りが素晴らしい。

「アンタほんとに、何処もかしこもさぁ、キレーでロッぽくって、もー俺すっげぇコシヌケだぜ。暫く夢に見そ……」

「……、」

「なに笑ってんだ、マジだよ。なぁ、次の立候補多いんだろ。アンタいったい誰、選ぶつもりだよ。やっぱあの王子様?」

「誰も選ぶかぁイマサラぁ。俺を幾つと思ってやがるぅ」

「俺が知ってる最初の頃より今のあんたがキレーだけど」

「あはは……、ッ」

 らしい高笑いをしかけて、夜明け前の客室だということを思い出して、美形は自分の口元を押さえた。笑いにつられて白い肩が揺れる。もとガキの若い男はまたたまらなくなって、肩に唇を押し付けようとした。が、顎を義手で押し上げられ拒まれ、仕方がないからシーツの上の髪の毛を掴んでキス。

「俺のこと気に入んなかった?」

 真摯な目で尋ねられて。

「悪くは、なかったぜ」

 オンナは真面目に答えてくれる。目尻に少しの疲労があるけれど顔色はいい。細い銀髪に縁取られた細面は仇っぽく輝いて見える。本人にそのつもりがないとしても、自分の髪にくちづける男を眺める視線は流し目の角度で男心をゾクゾクとくすぐる。

「悪くはなかった」

 オンナが繰り返してくれる、その口調にもとガキは既視感を抱く。似たような角度で似たようなことを言われたことがあった。剣の素質は悪くない、と。

「……、おいぃ」

 言われたのを思い出して、どうにも我慢がきかなくなって唇に噛み付く。今度は拒まれなかった。というよりも、オンナが油断していたせいで反応が間に合わなかった。喉を撫で回しながら遠慮なく舌を絡められオンナは眉を寄せるが、近すぎてぼんやりした視界の中でもとガキがあまりにも必死に見えて、それに免じて、舌は噛まないで置いた。

「マジ、欲しィ」

「……」

「俺のになんね?大事にすっぜ?」

 本命にばらすぞ、と、同じ脅しを、美形は二度使わなかった。

「俺はもぉ、別のノだから、ダメだぁ」

 代わりにはっきりと引導を渡す。

「別れたんだろ」

「セックスは引退した。けど、そばから追い出されちゃいねぇ」

「まだ未練あんのか?」

「そうだ。一生、俺ぁアイツのだ」

「……、スクアーロ」

「って言ってくれるオンナを、お前はオマエで、作れぇ」

「スク、」

「てめぇに俺はいらねぇだろぉ。人殺しでもろくでなしでもねぇんだからよぉ、まだぁ」

「でも、欲しい」

「まーナンだ、マジな話、まったく悪くなかった。オマエにゃ全然問題なしだ。……美味かったぜ」

 話を、誤魔化されたと、もとガキだった若い男は気づいたが。

「……えへ」

 抱いた美形にセックスを褒められて正直なところ嬉しい。顔面崩壊するほど目尻を下げて笑う。

「問題があるとしたら相手だぁ。ぜいぜい頑張って、傷を探して、撫でてやるんだなぁ」

「うん」

 若い男は頷き素直に立ち上がる。

「明後日、何時に帰るんだ?」

「あーん?なんでそんなことを聞くぅ?」

「見送り行きたいから」

「何年たっても自覚がねぇガキだなてめぇは。俺は暗殺部隊のメンバーだぜ。足跡残す出国をするかよ」

 成田や関西空港を何時何分に出るユナイテッドの何百何十便で、という移動はしない。緊急の場合はボンゴレ所有の自家用ジェットを使うこともあるが、大抵はイタリア及び周辺国の財閥や財団の所有機を拝借もしくは便乗する。時には軍用機、もっと稀にはイタリア政府の公用機さえ使わないではない。

「電話番号、とかは」

「バカ言うんじゃねぇ」

「やっぱ教えてくんねーか。んじゃ、コレ」

 差し出されたのはキーホルダー。ワインのコルク栓をキーホルダーに加工したものだ。

「俺のケータイ番号書いてっから。ニッポン来たら連絡してくれな」

「……」

 プレミアワインのナンバリングに見せかけて焼印で押された番号は、アルファベットのフェイクが混じっていたが数字だけ拾えば確かに衛星携帯の桁数。

「やるじゃねぇか」

 見かけによらず、と、キーホルダーを受け取りながら二枚目が少しだけ笑う。今度は苦笑ではない。自分に渡すために用意されていたと思うとやはり気分が良かった。そうしてありきたりなメモや紙片を渡してこないところが気に入った。そんなものは三秒でゴミ箱に棄てて終わりだ。

「俺にもあんた、死ぬまで憧れの別嬪だぜ。おやすみ」

 美形が指先で弄んでいたキーホルダーを握りこんだのを確認して、もとガキだった男は瞼に最後にキスをして出て行った。いかにもしぶしぶ、未練たらたらの様子で。

「……」

 美形は時刻を確認する。まだ六時過ぎだ。もう少し眠ろうと思った。こうやってゆったり、何も考えず休める時間は滅多にない。ヴァリアー本部では幹部としての責任があって部下に追い回され上司の呼び出しに応えなければならない。仕事先では更に警戒が必要。ホテルに泊まっても朝寝を愉しむどころではない。けれどもここはボンゴレ十代目の館だ。警備の責任は十代目にあって自分は招待客。何もかもを任せていればいい。

 枕に頭を預けて銀髪の美形は目を閉じる。いろんなことを考えるのは後にしよう、と思った。

 数ヶ月前に精密検査を受けた医者の診断が正しかったこととか。

 あの、図体だけは育ったものの何処もかしこもまだ青臭いガキに撫でられて、冗談みたいに簡単に萌して零してしまったこととかは。

 考えずに眠った。

 

 

 

 目を開けたのは、髪に触られて。

「あんびりぃ、ばぼぉー」

 ふざけた口調のソイツが部屋の前に立った時から目は覚めていたが、面倒くさかったから起きないで居た。

「王子びっくり。腰が抜けそーな、あんぎゃー。どーすんのアンタ」

 何を言っているのか分からないが、何か言われているらしいからしぶしぶ起き上がる。さらさら髪がシーツの上を動く。

「ココが何処だか分かってる?十代目の館だぜぇ。十代目は俺らと敵対してた門外顧問の息子だし俺らとはひと悶着あったしで、トーゼン、ボスも警戒してる。ココにウチがスパイ入れてないはずねぇとか、考えなかったワケ?」

 小馬鹿にしようとしてしきれず、真剣な口調で切り裂き王子は美形に語りかける。何をだと美形は枕もとの明かりのペンダントを引きながら尋ねた。夜明けは過ぎているが雨はまだ降り続き、雲は厚くて、部屋はほの暗い。

「何処の便所まで行ってたんだてめぇ……」

 昨日、この王子様はパーティー会場から中座したまま帰って来なかった。

「王子はボスに言わないでおくけど、スパイから絶対、報告が行ってるよ今頃。どーすんだよ。こっから逃げんの?逃げきれないぜ。王子は二対一とかは、勝つけど面倒だから見逃すけど、ボスの追っ手は振り切るの厳しいんじゃね?ぜったいすぐボス自身で出て来るし。逃げるより正直に謝った方がまだマシかも。あんただけは助かるかも」

「何、の話だぁ」

 何の遠慮もない大あくびをして、カラダを隠す素振りもなく銀髪の美形はベッドから出た。かろうじて下はパジャマを履いていたがごくかろうじて。細腰と尻の形が妙に生々しいのはその下に、下着を身に着けていないのかもしれない。

「あんたの喉に噛み痕つけたガキの話ぃ」

 指差され俯く、美形の上半身は裸。指摘された痕は喉というより鎖骨に近い。ちゃんと服で隠れる。二の腕にも胸元にも熱心な朱色が散って、そっちはキスマークだったが鎖骨だけは齧ったらしくて歯型がついていた。

「刀のガキのこと気に入ってるのは知ってたけど、せめて外で落ち合うとかもーちょっと小知恵をさぁ。ああ、王子、狩りに夢中になるんじゃなかった」

 くたびれたサラリーマンが出張先でもパチンコ屋の椅子に座るように、この王子様も遠出すると現地の殺し屋を狩ってまわる癖があった。

「あのガキ、ボスに殺られるよ?」

 ガキの命はどうでもいいけれど。

「あれが殺されたらセンパイ悲しいんじゃね?」

「なに言ってんだぁ、よくあることじゃねぇかぁ」

「いや滅多にないよボスのオンナの密通事件なんて。大騒動じゃん」

 ファミリーと称されるマフィア組織においてボスのオンナはあらゆる幹部より優先され大切にされる。それが系列ファミリーの館で若いツバメを咥え込んだ、なんてとんでもないゴシップはまだ見たことも聞いたこともない。

「よくあることだぁ。接待の続きでベッドの相手も用意されてて、断ると角が立つから貰っておいた。それだけだろぉ」

「一応、あんたにも脳みそはあるんだ」

 形のいい頭の中には剣技と空気と、あのボスのことしかないのかと思っていたが。

「けどボスにそれゼッタイ、通用しないと思うけど」

「終った相手に口出しするほど暇でもねぇだろぉ」

「終った、ってさぁ、センパイ言うけど、そう思ってんのあんだけなんだぜ?」

 どう見ても首輪は外されていない。この王子様が手を伸ばしかねるほどはっきりと、あのボスの焔の環は白いうなじに今も嵌っている。ただ少しだけ自由を与えて、気持ちが落ち着くまで好きにさせてやっている、そんな態度にしか見えない。結婚していた数年間、キツイ苦労をさせた自覚があるボスは長年の情人に少し甘くなった。コレを決して手元から離したがらないあの男が、十代目からの招待とはいえ日本行きを許したのは珍しい優しさだ。お供に王子様をつけて、単独行動はさせなかったが。

「着替えたら迎えの車呼ぶぞ。ここの主人には、車の中から挨拶いれるからな」

 美形がもとガキに言った予定は嘘だった。辞去の挨拶もせずに今日、車で近隣の空港へ行きそこから海外へ跳ぶ。

「王子、腹痛。とても動けないから入院」

「あぁ?」

「王子様、ボスに合わせる顔がないから。病気が治ったらすぐ戻るけど、それまでボンゴレ系列の病院に緊急入院させてもらう。イタタタタ」

「好きにしろ」

 ワガママな子供を説得する根気のない美形はあっさり、王子様の残留を許した。