序章
暗い光増幅スコープだけを頼りに進んでいた一行は、いきなり照らされた強烈な光に一瞬、視力を奪われた。 「一番偉いの、武器捨ててこっちに来い」 視力が戻った時には圧倒的な不利。 倍近い人数に囲まれて銃を向けられている。投光機に照らされたこちらは丸見えなのに取り巻いた連中の輪郭は闇に紛れて。 「お前がボス?んなわけねぇだろ」 囲んだ側の指揮官は近づいてきた大男に厳しい声。 「真ン中の茶髪、スコープとって面みせろ」 指をつきたてられた男は素直に赤外線スコープをとった。彼が素顔をさらした途端、坑道の壁にどよめきが反響する。 「こりゃ大物が引っかかったもんだ。臭っさい狭っまい穴ン中で待ち伏せしてた甲斐があったってもんだぜ。なぁ?」 「まったく素敵な獲物です」 指揮官に同意を求められた仲間たちが頷く。 「こんな近くで見るのは初めてですよ」 「なるほど二枚目だ。女が騒ぐ筈ですな」 「手ェ頭の上に組んでこっちに来い。……安心ろ、殺しゃしねぇよ」 指揮官は最後だけ少し優しく言った。 指示どおり手を組んで、男は歩み寄る。 「そこで止まれ」 言われるままに足を止める。容赦ない光が眩しいのか、少し俯いて。 「武器は持ってないな」 指揮官が近づいて来るのを静かに待ち構える。 第一章 手首で鳴る電子音。 腕時計のアラームを、彼女は手探りで止める。 冬の午前五時。ソファーの置かれた仮眠室はまだ真夜中の気配。 起き上がり伸びをして、髪もとかないで部屋を出る。服は着たまま眠っていた。 非常燈が薄く照らす廊下に出る。隣室の警備本部から、ざわめきと人の気配が漏れいる。 「おはようございます、ボス」 彼女が入ると室内の全員が立ち上がり、彼女に向かって敬礼。 「おはよう」 返礼の代わりに軽く頷いて、彼女は奥のソファーに腰をおろした。 「今日の天気は快晴。雲一つないそうです」 「外務省から要注意人物のリストがきてます。来賓のブラックリストも」 同時にあちこちから掛けられる声。差し出される蒸しタオルとコーヒー。 「ボスがお目覚めだ。朝飯を頼む」 副官が内線で軍属の居る給湯室に連絡をとる。彼女はその間、蒸しタオルで顔を拭う。 ここは今日から領海協定会議が開かれる国際会議場。三日前からそこに泊まり込んでいる彼らは王都治安部第五課の面々。国際会議や式典の警備の専門家たち。 その隊長が、彼女だ。 アエリアス・ジュディ・ペナンダンテ。 普通はアリスと呼ばれている。 部下たちはボス、またはヘッド、大将、リーダー等、好きなように呼ぶ。 年齢は二十二。階級は大尉。ただし治安部では階級で呼びあうことは滅多にない。外賓との接触が多いため、軍事色はなるべく抑えている。 タオルで拭き終わった顔はすっきりした目鼻立ち。だが化粧っ気はなく赤毛の髪はぼさぼさのままで、美女と呼ぶにはほど遠い。 軍服のシャツをざっくり着崩して、物臭な様子が女には珍しく似合っている。 しかしまっとうな軍人には見えない。士官学校卒業で王都治安部の隊長、といえば相当のエリートだが、アリスの見た目は、まるでやさぐれた傭兵。 奥の一番いい椅子に座り、足を組んで新聞を手に取る。軍関系には新聞が印刷所から直接届くため、午前三時には朝刊を読むことが出来る。 一面には今日からの国再会議と、それに関した記事が載っている。見出しにざっと目を通した時、 「ボス、朝メシです」 軍属が持ってきた食事を副官が受け取りテーブルに置いた。 朝食のメニューはトースト、茹で卵。ソーセージにハムが三種類。チーズにポテトサラダ、ヨーグルト。バナナが一本、リンゴが半分と紙パックのミルク。 プラスチックトレーと使い捨ての紙容器が貧相だ。しかし、味は悪くない。官給食とは思えない豪華な内容は準戦時食だから。一日に6000カロリーを摂る為の朝食。 茹で卵を一口噛った途端、 「ボス、四課から連絡です。会議出席者の中で一人、早く着くのが居るそうです」 「今から?」 アリスは髪と同じ色の眉を寄せる。まだ夜明け前だ。 「控室の用意は?」 「まだです。だって開会式まで八時間もあんですよ」 「機材の搬入も終わってません」 「大急ぎで控室を一部屋あけて、暖房いれておいて」 指示を出し残りの茹で卵を口に押し込み玄関へ。 アリスが率いる五課の担当は玄関から奥。玄関に到着するまでは治安部四課の担当だ。 四課は要人警護が専門で、出席者を会議場へ送り込むまでが仕事。だから指揮室は玄関脇にある。 「おはよう。やって来るのはどちら様?」 アリスは玄関脇の四課の指揮室に顔を出し、ネクタイを締めながら尋ねた。 追いかけて来た副官が持ってきてくれた上着に袖を通し髪を手櫛で撫でつけ、軍帽に押し込もうとしたが、 「サージ公爵閣下です」 その名を聞いて手を止めた。 「なんだ」 慌てて損をした気分。 「どの部屋にお通ししましょうか」 「構うことないよ。この時間に出てくるってことは徹夜あけ。屋敷で寝たら寝過すから会場に来たに決まってるわ。迷惑な」 「おい、聞こえたぞ」 奥で無線の対応をしていた男が振り向く。若いが縦横ともに不足ない見事な体躯の持ち主は、四課の隊長代行。 頭髪は軍人らしいクールカット。軍服の襟も一番上まできちんとボタンをはめて、こんな半端な時間なのに風呂上がりじみて爽やか。 薄髭を慌てて剃っている周囲の男たちの中、出来る男、という感じ。 肩の階級章は中尉。 「なんだ、オルグ。来てたの」 アリスは曖昧に笑った。 「口を慎め。事情を知らない奴だって居る」 たしなめられてアリスは肩を竦める。二人で玄関に並んで公爵の到着を待つ。 アリスの方が前に居るのは階級が上だから。オルグは後ろに立ちながら、絶えず無線で公爵の護衛車と通信している。 やがて。 玄関の車寄せに滑り込む高級車。先に降りた四課の男たちが身体で囲んだ中央、ドアが開いてトゥーラ王国の公爵にして宰相、ウィルス・サージが車から降りた。 地面に立った瞬間、体格のいい軍人たちの頭ごし、珍しい蜂蜜色の髪がちらっと見える。 移動する黒い軍服の集団。その隙間から見える茶色のスタンドカラーのシャツ。 巷で流行の女性デザイナーのブランドだ。コートは着ず、大判の肩布をゆるく身体にまきつけてる。 よく似合ってる。格好がいい。しかしその着こなしは風変わりで軟派で洒落ていて、もう半歩ふみ外せば街のホストみたいなタラシ風に落ちる。 今でもじゅうぶん、気品とか威厳とかは欠片もない。 偉いさんにはとても見えない。 先導されて歩いてゆく公爵は途中で足を止めた。並んだ頭のうちの一つが炎のような赤毛と気づいたから。 何歩か戻って、アリスの前に立ち、 「なに知らんぷりしてんだ」 くしゃっと、赤い髪に突っ込まれる指先。 アリスが顔を上げると公爵は笑っていた。口をあけ目尻にしわをよせ、美形にあるまじきカパッと顎が外れそうな全開の笑み。 「お前の担当だったのか、今日」 「今日だけじゃなわ。三日前から終わるまで、ずーっと」 「お疲れさん。そういや出世したって?」 「おかげさまでね」 「祝いをやろう。何がいい?」 そんな会話をする間もアリスの髪から公爵 指は外れない。外れるどころかもう片方も添えられて、両手で女の髪をすく。 顎の長さで切りそろえた髪は垂らせば頬を包む。左側はそうして右は耳に掛けられる。そうして、胸元に落ちる指。 無造作にシャツのボタン二つ外される。はらりと開いた襟に指を掛けられて、中を覗かれる。 周囲がざわめく。が、アリス本人は平然としていた。 「防弾チョッキきてろ」 そう言って公爵は護衛の団体の方へ戻ろうとする。 「控室に行くの?あなたみたいな偉いさんにこんな早くからうろつかれるとすっごい迷惑なんだけど」 誰も言えない本当のことをずばりとアリスは言う。 「まだ会議場内の掃除も、最終チェックもすんでないのに」 「意地悪言うなよ眠いんだ。ベットで寝たら絶対寝過すからここに」 「わたしが今まで寝てたソファーなら譲ってあげる。大人しくしてたら朝食も出すわ」 アリスの口のききかたに周囲は驚き、視線を交わしあった。しかし、 「その方がお前の都合がいいなら」 公爵自身が咎めないので誰も何も言えず、彼は軍属に案内されて警備の仮眠室へ。 「……いいんですか?」 副官がびびりながら尋ねた。 「あんな偉い人を、俺らの仮眠室なんかで寝かせて」 「なにか問題ある?あそこが 一番安全でしょう?壁一枚で警備本部だから」 「そうですけど……」 口ごもった後で、 「ボス、あの……。もしもあれなら、俺たちで機材のチェックすませときますよ」 「なに言ってんの」 アリスは副官を軽く蹴り、じゃあまた後でねとオルグに手を振って奥へ戻った。 彼女らが奥に姿を消した後、四課の控室では。 「なんだありゃ、いったい」 「なんだもかんだもないさ。つまり、あれだろ。オンナなんだろーよ」 「五課のエースまであのたらし公爵に唾つけられてんのか」 「手当たり次第って噂だもんな、あの人」 四課の男たちが勝手な噂話。 「顔さえ良けりゃ女ってそれでいいのかね」 「股間のモノもいいんだろうさ」 「まさか、あんな優男」 「分かんねぇぜ。帝国の皇女もオリブス半島妃も、寝技かけられて転んだクチだろ」 「あさはかだよなぁ」 「あーぁ、五課の姐御もただのオンナか。幻滅だぜ」 「股ひらいたらおしまいだもんなぁ」 「幼馴染みだ」 盛り上がっている場を、瞬間冷却したのはオルグの硬い声。 「子供の頃に母親が公爵の身内と再婚して、公とは兄弟同然の幼馴染みだそうだ」 簡潔な事実を告げて、それきり再び、オルグは黙り込む。 四課の控室は超低温を保ち続けた。金属探知機その他の資材が届いて設定に立ち会うため、オルグが場を外すまで。 オルグが居なくなると同時に、 「どーしたんよ、うちのアニキ。珍しくマジ怒りしてかったかい?」 「あの人って、五課の姐御をやっぱ好きなのかねぇ」 「軍幼年学校からだから十年か?ずーっとつるんでたっていうから」 「でもふられたんだろ?階級も黒手袋も先こされちまってさ」 「そんな話だけどな」 「まだ未練あるとか?うちのアニキがそんな惚れ込むほどのタマかねぇ」 「わりといい女だと、俺は思うけど」 噂話は再開された。 午前六時、探知機が運び込まれた。民間の業者ではなく軍の技術部から。 「爆発物チェックはまず換気扇」 「金属探知機の設置、終了しました」 「電源入れて。入れっぱなしでいい」 朝食をすませ新聞を読み終えたアリスは緩んだネクタイを首にさげつつ、指示を出す。 「四課の連中は?武装してますよ」 「玄関からこっちにはもう入らせない」 そんなことを話しているうちに時刻は午前九時。建物全体に警報が鳴り響く。 技術者や軍属が会場の敷地内から退去して、これから今日の日程が終わるまで一切、出席者以外の出入りは出来ない。 「お、若様のご到着だぜ」 探知機とチェックリストを抱えて歩き回っていた男が気づいて声をあげる。アリスがつられて中庭を見下ろすと、軍の装甲車から小柄な少年が降りるところ。 「若様ちょっとは背ぇ伸びたかな?」 「十五だろ?まだまだ、これからさ」 「ひじじ様もちんまかったからっていうからなぁ。小柄の方がサージ公爵家の本筋かも」 みな熱心に『若様』を眺める。そのうちの一人がはっと気がついて、 「……すいません」 となりのアリスに謝った。 「別に悪くはないけど」 アリスは目線を中庭に向けたまま答える。 少年は仮眠室で寝ている公爵の甥で養子。十五になったばかりだが、王族は十五歳で成人と見做され公の職務に就く。 若様の場合は公爵の公務を代行することが多い。特に軍事関係の式典や承認式には殆ど彼が出席している。 お陰で軍隊と公爵の関係はやや好転した。 由緒ただしい武家に生まれながら文官そして政治家の道を選び、軍人にならなかった公爵にそれまでは、軍隊および軍人からの反感がきつかった。 サージ公爵家の本筋は軍人なのだ。 その歴史はトゥーラ王国創立に遡る。 と、言っても、たかだか五十年。 トゥーラ王国の成立はほんの三世代前。一人の男がきっかけの、偶然の産物。 東方の黄斑と呼ばれたかつてのブラタル海峡主、アクナテン・サトメアン。 『若様』のひじじにあたる彼は辺境の小領主だった。 特筆すべきはその領地が海洋貿易の要にあたっていたこと。 戦争させれば神業じみた強さだったこと。 当時のブラタル周辺の海域には海賊が横行していた。海賊といってもサラブ地方の各部族ごとの組織だったもので、略奪と同時の侵略、と言っていい代物。 勇猛で知られたサラブの海賊に当時、勝ち星をあげていたのは彼だけだったという。 その経歴をかわれて十六歳で東方連合軍指揮官。帝国と同盟を組み、勝ち目が殆どないと思われた大戦に勝利した。 彼は相当の色男でもあった。隣接する王国の王女をたらして、子を孕ませた。 その子はさらに皇帝の婚約者だったナカータの女領主と結婚して、一国二領地を統合し成立したのがこの国。軍事色の強いこの国は、実は婚姻による偶然の産物。 サージ公爵家は王家に準じる、ブラタル海峡主の血筋をもっとも濃く引く家だ。その領地も旧ブラタル領とほぼ重なる。そして代々、国軍の総司令を出している。 「あいつはイレギュラーよ。そのことは本人も分かってる。だから軍人になる気の甥っ子を養子にしてるの」 「詳しいですね」 「長いつきあいだもの。考えてみりゃ気の毒な奴だわ。本人は気楽な次男坊のつもりだったのに、兄貴と父親に若死にされて公爵家当主だもの」 公爵には歳の離れた兄が居た。ディクライという名のその兄は弟が物心つく頃、すでに海軍指揮官として外国にまで知られていた。 長男が公爵家と国軍総帥を継ぐと分かっていたからこそ、次男だった公爵が文官に進むことができたのだ。 「お言葉ですがね、気楽な次男坊は海峡の改修工事なんざ思いつかないでしょ」 副官が皮肉な調子で口を開く。 「兄貴が死んで自分が跡取りになった途端、五十年来の難題に挑戦して成功した。野心家ですよ。それも虎視眈々系の」 「運が強いのよ」 「運任せで政変なんか起こしゃしませんよ。しかも地震で両親揃って死んだその日に。天災で王宮が混乱してる隙に、まだ子供の皇太子をうまく担いでさ」 「前の王様、ちょっとワンマンが過ぎたからね。あの政変は軍も支持したじゃない」 甥を公爵家跡取りにする、という条件つきだったが。 「若様だって心配ですよ。自分の息子が出来た日にゃ、放り出されちまうんじゃないですかね」 「そんな真似ができる男じゃない」 「庇うねボス。あいつそんなにいい男かい?」 副官は、しつこい。 「面さえよけりゃ、それでいいわけ?男らしさとかはいらないかい」 「あいつは男らしいよ」 真顔でアリスは訂正。 「どぉこが。女のうわさ多いし、敵多いしさ」 「女にももてない、誰とでも仲良しなのが男らしいわけ?」 「そうじゃなくって」 言いかけた副官が顔色を変える。 視線を追ってアリスが振り向くと、そこに居たのは。 ツンツンに切った短い黒髪。 同じく黒い瞳は力強く、光り方も鋭い。 小柄だが黒い軍服を隙なく着こなして、いかにも引き締まった、活発そうな少年。 サージ公爵家の『若様』。 その背後には警護役のオルグ。 「うちの来てるだろ?」 挨拶抜きで若様はアリスに尋ねる。きびきびした口調と声。 「眠ってるわ」 アリスも普通の口調で答えた。公爵の時と同じ。 「何処で」 「警備の仮眠室。起こしに行く?」 「ならいいや。ギリギリまで寝かしといてやって。昨夜は寝てない筈だから」 「そんなこと言ってた」 若様はニッと笑った。目は笑わず厳しいままだったけど、ピリッとしていて、悪い感じじゃない。懐から小型の通信機を取り出して何処かへ繋ぐ。 「もしもし、俺。ちゃんとこっちに来てるぜ。……いま寝てる。起こすなよ。……あぁ。……分かった。後で」 ピッと通信を切ってから、 「悪いけど気ぃつけて見張っといてくれよ。ちょい情勢がヤバくなってきてるし。 パルスの大商人とかサラブの若将軍とか、油断も隙もないのが集まってて、アケトの奴が神経質になってんだ」 「わかった」 アリスが頷くと、それで用はすんだらしくて若様は向こうへ行く。けれど途中で振り向いて、 「似合ってるよ、それ」 自分の頭を指さした。もちろんそれは短い自分のではなくて、公爵がすいたばかりのアリスの髪のこと。 「ありがとう」 誉められて嬉しそうにアリスは微笑み、若様を見送った。上機嫌だった。 「もてますね、ボス。もしかして玉の輿、狙ってんですか」 若様の姿が曲り角で消えるまでは。 振り向いた、と思う暇もなかった。 副官は手にした書類で視界を塞がれる。 身体の前で持っていたのを蹴りあげられたのだ。 軽い音たてて書類が床に落ちた時、アリスの踵が副官の眉間に当たっていた。 片足を目の高さに上げたままアリスはびくりとも動かない。 体術で彼女の右に出る者は治安部に居ない。幼年学校に入学した十二歳の時点で、既に身長より高く跳んだという。 士官学校時代の演舞を見た高名な舞踏家が惚れ込み、ストーカー紛いのスカウトをしたことは有名。 「口に気をつけろ」 低い声で凄む。十二歳から軍隊育ちの彼女は、真面目になると自然と男言葉になる。 きりっとしてるとじつに美人だが、その場の誰も観賞する余裕はない。冷やかす口笛もとばない。 凄まれている副官本人は蛇に睨まれた蛙よろしく、額から冷や汗。 「仕事中でお前、命拾いしたぞ」 踵をゆっくりおろしざま、副官の胸板に当てる。蹴った、というほど力を居れては見えないが、大の男が床に尻餅をついた。 息を飲む周囲。その緊張の中、 「お見事」 呑気な感じの拍手とともに、誉めたのはオルグ。 若様を控室に送り込んだ後、戻ってきたらしい。 「失言を一応、注意しとこうかと思ったがいらぬ世話だったな」 「ごめんね。うち軍紀みだれまくってて」 振り向く彼女はいつも通りの顔。 「おまえのチームじゃな」 無理もない、という風に頷くオルグ。 「ミツバ怒ってなかった?」 「若様まで呼び捨てにするなよ」 オルグの眉が寄せられる。ただでさえ堅く引き締まった頬が、そんな表情だと尚更男らしい。 「玄関に来てくれ。VIPの入場はじめる」 四課と五課の責任者が揃っていなくなったところで、 「……見えたか?」 五課の男たちも小声で囁きあう。 「ぜんっぜん」 「ありゃ避けらんねぇよ」 「蹴り倒したテロリスト十八人、殴り倒した爆破犯六人。歩く凶器だぜ」 「服装と髪型で首にゃできねぇな」 長い廊下を再び通ってアリスたちは玄関へ。 途中の金属探知機をまたいだ途端、四課の男がオルグに銃を渡す。嫌みのようにアリスの目の前で。 オルグは左脇のホルスターにそれを納めた。 四課の制服は五課と微妙に違っている。 銃火機で武装することが多いから上着の内側にはベルトだのバンドだのついてるし、肩を厚くして懐を深くしてある。襟も広くて手を突っ込みやすい。 「おまえ丸腰か。よくそれで平気だな」 無造作に探知を通り越したアリスにオルグはあきれ顔。 「慣れてるから」 国際会議クラスの一級警戒態勢では、会場内に配置された警備兵にさえ銃火器での武装は許されない。 暗殺者や狙撃手に奪われ利用されるのを防ぐ為だ。自然と五課は丸腰の役目が多くなる。「俺なんかここ重くないと」 オルグは左の懐を軽く抑えた。 無口で知られた男だが、古馴染みのアリスにはわりと喋る。 「なんかパンツはいてないみたいでそわそわする」 「パ……」 アリスが口を開けた瞬間、護衛車両で囲まれた来賓が到着。 彼女は内ポケットに突っ込んでいた軍帽を慌てて取り出し、髪の毛を一筋残らず押し込んで隠した。 護衛の多さと警備のものものしさにアリスは目を細める。 「四課総出じゃない?」 後ろのオルグにだけ聞こえる小さな声。 「おまえのとこだって精鋭集めて第一級警戒態勢だろ」 それは実戦配備扱い。 二十四時間の拘束と戦時手当、全食事付。 勤務評定の査定ポイントも二割増し。アリスがオルグとほぼ同じ職務をこなしながら同期の彼より先に昇進したのは、それが累計した結果だ。 「そりゃ今回は特別よ。よりにもよってこんな会議前に、領海侵犯事件が起こるんだもん。タイミング悪いわ」 今回の会議には外国からの来賓が多い。 それも閣下・陛下クラスの超VIPばかり。開会式にはこの国の国王も臨席する。それだけでもかなり気を使うのに、三日ほど前に領海侵犯のトラブルが起きた。 トラブル当事者の双方が今日の会議では顔をあわせる。 万一の工作に備えて治安部五課第一部隊は三日前から会場に泊まり込み。屋根裏、床下、下水まで調べ尽くし探知機を設置してまわった。 「会議前だから、かもしれないがな。ダドリー・サクス・パルスラまで行方不明だし」 それはパルスラ領主の甥であり、 「あいつねぇ……」 二人の同窓生でもある。 トゥーラ王国は旧ブラタル海峡主いらい、抜群の軍事力を誇ってる。 その士官学校には同盟諸国からの留学も多い。ダドリー・サクス・パルスラもかつて、トゥーラの士官学校に留学していた。 「気になるわよね。無茶する奴だから」 「お前に喧嘩売った度胸者だしな。長丁場になるぞ」 「長丁場には自信があるわ」 薄笑いしてアリスは答える。 「女ですもの」 「そうだな」 会場に最初にやって来たのは貿易会社のオーナーや海洋学者などの専門家たち。 それから各国の軍関係者。 そして最後に、代表権を持つ大臣や領主たち。 外交官特権を持つ彼らにボディーチェックは出来ない。お付やSPには武装解除に協力してもらうが、本人たちは別の通路を使って貴賓室へご案内。 アリスは玄関から貴賓室前に移動した。彼らの姿を目で確かめる為に。 中庭に面した一角を書類や鞄を抱えた側近や秘書がうろついている。 そこは噴水や花壇を配した立派な庭園だが、三日も手入れされていなくて、少し荒れた感じがする。 そっちへ目をやっていると胸元でカードが鳴り、 「パルスラ領主がそっちに行く」 玄関のオルグからの知らせ。 「了解」 答えて、通信を切った。 ブラタル海峡を経る航路は最重要国際路であって、その国が主催する領海会議に利害関係国は気合いを入れている。 それぞれが本日ただいま国外へ動ける最高重要人物を送り込んできた。 第三次世界大戦が終わって百年以上。 しかし、大戦中に打ち上げられた軍事衛生は搭載された原子炉によって半永久的に稼動する。 遠隔操作のための基地はいの一番に敵に狙われ破壊され、地上からそれらを制御する術は失われた。 衛生軌道を巡る神様は時々地上に激突して大惨事を起こす。 が、それ以上に問題なのは地上二百五十メートル以上を飛行する物体や大出力の通信拠点を探知すると、問答無用で破壊してしまう。 技術の先端化とその耗失、戦乱による世相の混乱は文化を、大げさに言えば文明を破綻させた。 人類は再びバベルの厄災を招き、世界は二つの大洋によって分断された。 海路や海峡の重要性は増して、領会問題は政治・経済・軍事の各面で多大な影響を及ぼす。 パルスラ領海内でオリブス半島による侵犯問題が起き、緊張が高まっているとなれは尚更。 国も利害も違う貴賓たちには様々な立場を持つ。 中でもパルスラ領主はトゥーラ王国側が作成した公海領域案に真向から猛反対していて、最大の難物。 待つうちに回廊の向こうから、やって来たのは四十半ばの男。SPとはまだ合流していない。 警備兵や手続き書類を持った役人がわきを歩いているが領主は目もくれない。 警備兵は保安上、玄関以外では貴賓に会っても会釈しなくていい。頭をさげたその隙に、襲撃されたらもともこもないから。 貴賓の方でも無視する習慣がついている。アリスは消火器か火災報知器のような存在。 彼女は軍帽のふちごしに領主を見た。 まず腰まわり、それから肩と脇の下。服の皺のより具合。物騒なものを持ち込んでいないか? 領主が貴賓室に入った後で、 「Tチェック、クリアー。オールオーケー」 カードを取り出し通信。 要注意人物だけはそうするように打ち合わせていた。 最大の山場が終わってほっとしたとき、 「……のよ」 華やかな声が回廊の向こうから聞こえてきた。ついで、声にまさるとも劣らない華やかな姿が。 「領海を侵犯したことは認めるわ。でも立ち往生させて囲うなんて仕打ちは人道にもとると思うの。 まるで子供の嫌がらせね。パルスラの領主は統治者としての適性に欠けるんじゃないかしら」 本人の控室の前を承知で、聞こえよがしの大声。 ハイヒールの踵を鳴らしながら近づく女性にアリスは目を細める。オリブス半島妃。今回の会議の紅一点であり、領海侵犯事件のもう一方の当事者。 「彼は政治問題に個人的な感情を挟み過ぎよ。被害妄想の子供みたいに、自分は悲劇のヒーローと思ってる。救い難いわ」 実は彼女、もとはトゥーラ王国の外交官だった。 パルスラ半島領事館に配属中、見初められ半島領主に嫁いだのだ。才色兼備の美女で夫君を補佐して年中とびまわっている。 パルスラがトゥーラ王国の利益保護国である、という事情も絡んで、公海領域案には全面的に賛成している。 「妃様、あの、そのへんで」 「どうぞ、お部屋にご案内しますので」 彼女を取り巻く役人たちはもと同僚や先輩ばかり。誰も本気で止めようとしていない。 そこへアリスが近づいて、 「こんにちわ。お久しぶりです」 声を掛けた。妃は振り向き、 「まぁ」 ひどく好意的な表情。 あかるい金髪が真赤なスーツによく映えて、笑顔は光りがさすようだ。 「久しぶりね。会えて嬉しいわ。あら、その手袋……」 妃はアリスの手を掴む。 「黒手袋、偽物じゃないわよね。すごい、あなたもう殿堂入りしたの」 「えぇ、まぁ、なんとか」 右手の指を絡まされ、アリスは苦笑しながら答えた。 「いつ?」 「つい先日です」 「すごいわ、おめでとう」 トゥーラ王国の軍服は黒が基調で、部署ごとに肩章の色が違う。手袋は白。 ただし例外があって、特別師範にだけは黒が支給される。その名通り、特別に優れた技量を持つ者に。 彼らは実戦配備されつつ非常勤師範として軍の幼年学校や士官学校で射撃・格闘技・戦略などを実技指導する。 「いま何人くらい居るの、黒手袋」 「三十人ほどです」 「女でなったの、あなたが初めてじゃない?」 「現役はわたしだけですが歴代では二人目です。以前、射撃教官に居たとか」 「偉くならなきゃつまらないわよね。ところであいつ、何処?」 「公爵でしたら別室で休息されています」 「会議前にわたしの控室に寄ってって、言っておいてくれる?」 「承りました」 アリスの右手を握ったまま妃は後ろ向きに距離をとり、二人分の腕の長さギリギリまで離れ、背中を向けた。 「……」 アリスは一瞬、迷った顔をした。周囲には他国の大臣や自国の役人、自分の部下などが居たから。 しかし。 「妃殿下」 駆けより彼女の肩を掴む。 掴まれて振り向いた妃の表情は、それまでの親しげな調子ではない。キッとアリスを睨む。 「相変わらずお美しくて、嬉しいです」 アリスは怯まなかった。 構わず引き寄せ、きつく抱きしめる。 彼女の背中がそるほどの抱擁。身長差があるから妃の身体はアリスの背中に完全に隠れた。そして。 抱擁を解く。 妃は笑っていた。 きっきまでとは違う、少し恐い感じで。 「今夜はお暇?」 妃の発言に周囲の人間は目を剥く。 「会議が終わるまで、外出は出来ません」 日程は三日が予定されている。 「残念だわ」 妃は手を伸ばす。アリスの顎に。アリスは逆らわない。妃がそっと唇を寄せて、恋人にするようなキスをした。 今度は双方、腕をまわして柔らかく抱き合う。 「……って、本当?」 アリスの耳元に囁かれた言葉。 目の奥をのぞくようにされて、 「存じ上げません」 アリスは正直に答えた。 「国際社会じゃその噂でもちきりよ。大したもんだわ。そんな洒落た真似が出来たなんて驚きよ」 「あいつの情事にまだそんな、ニュースバリューがありますか」 「今回は特別よ」 くすくす笑って妃はようやくアリスを解放た。 「詳しい事情がわかったら教えてね」 「興味があるんですか、そんなの」 「醜聞としてね。だって変だと思わない?あの顔で、ずーっと男嫌いで通してきたのに、いまさら」 「顔は関係ないでしょう」 「あるわよ。じゃ、またね」 妃はすっと離れた。アリスは見送り、ゆっくり唇を拭う。 会議や交渉で機関銃のように喋り、時に痛烈な皮肉をはく真赤な唇は柔らかくって、いい匂いがした。でも猛毒の針も潜んでいて、それはアリスの鼓膜を刺した。 アリスはそれから玄関へ戻り、四課の縄張りへ顔を出す。気づいたオルグが早足で近づき、金属探知機ぎりぎり手前で人差指をつきたてた。 「おま……、」 言わせずアリスが、これまた探知機ぎりぎりに突き出したのは拳銃。 軍事用に採用している国も多い無骨なリボルバー。アルフ201−K。精度が高くて価格はさらに高い。そのへんのチンピラが持ってるモノじゃない。 見るなりオルグは顔色を変えた。開いた口をいったん閉じて、唇を湿らせた後、 「オリブスの?」 尋ねる声は、低い。 「ウィルスを起こすわ。一緒に来て」 アリスは銃を金属探知機の横に設けられたトレー、時計や眼鏡を通す場所へ置いた。受け取ったオルグは自分の銃と一緒に部下に渡す。 「……半島妃に抱きついたのは、だからか」 五課の仮眠室へ向かいながらオルグ。 「先に右手掴まれちゃったから。きっちり仕返しされたけど」 キスを思い出してアリスはもう一度、苦笑。 「怒鳴って悪かったな」 「寸前で未遂よ」 早足で歩いていく。途中でアリスは給湯室に寄った。 「……おい?」 「朝ご飯出すって約束したから」 食料庫を漁る。軍属はもう退出して夕方まで戻らない。でも戦時用の簡易食は便利だ。専用トレーにパックのままセットしてトレーごと50秒レンジで温めればOK。 「俺が持とう」 廊下でトレーを奪われそうになる。 「なんで。いいよ」 「持たせる訳にはいかない。おまえの方が上席だ」 「階級のこと?それは関係ないわ。わたしがウィルスに約束したんだもの」 納得していない表情でオルグは手を引いた。 仮眠室。 ソファーの上には毛布を身体に巻き付けて蓑虫状態で眠る男。 背もたれに顔を埋めるようにしていて、ドアからは珍しい髪の色しか見えない。 子供の頃からそうやって眠る男だった。うつ伏せで、枕に顔を深々と埋めて、窒息するんじゃないかと心配なくらい。 寝顔をさらしてると侍女や家令に悪戯されるから、そうする癖がついたのだと聞いたことがある。子供の頃と違うのはソファーからずいぶんはみだした長い足。 「オリブス妃の金髪も見事だけど」 「あ?」 「希少性でこっちの方が勝ちね。金茶色で、すごく珍しいもの」 言いながらアリスはソファーを蹴る。手がトレーで塞がっていたから。 「時間よ」 「……おー」 むくっと、前触れもなく公爵は起きた。寝起きのよさも子供時代から。 サイドテーブルにトレーを置いてやると、 「いいもの食ってるなおまえら」 公爵は無造作に手を伸ばす。 「来賓に銃の持ち込みがあったわ」 簡潔な報告に、 「オリブス半島妃か」 フォークを止めもせず反問。予想していたのかもしれなすい。 アリスとオルグ、五課と四課の責任者二人が揃っているの見て。 「まさかあなたの黙認じゃないでしょうね」 アリスの口調は詰問。オルグは口を挟まない。 律儀なこの男は階級をきっちのと守る。大尉のアリスが喋っている間、中尉のオルグは壁みたいに突っ立っているだけ。 「おまえが警備してる場所でそんなの、させるわけないだろ」 ばくばく卵を食べながら公爵が答える。 「……信じるわ」 アリスは立ち上がり、棚の上に置かれたインスタントのコーヒーをいれてやる。 「あんた嘘つかないものね。っていうか、つき方を知らない。それでよく政治家がつとまるもんだわ」 「ほっとけ」 「だとするとコトは一層、深刻よ。あんたの黙認があったのならそれを取り消すさせればすむけど」 そうでないとすると。 「あんたに逆らってまで、妃殿下はパルスラ領主に危害を加えようとしたわけ?なんで、そこまで」 「ここ盗聴の心配は?」 大口あけてパンを噛りながら公爵は尋ねる。一口大に千切って口に入れるのが作法だが、公爵がそうしているのをアリスは見たことがない。 「警備本部よ。鉄屑ひとつ落ちてやしないわ」 「他言無用だぞ。オリブス半島主が、パルスラに抑留された」 「……え?」 アリスとオルグは顔を見合わせる。そんなニュースは聞いていない。 「パルスラとオリブスが領海問題で揉めてることは知ってるな?ちょうどとりあってる海域で、測量中のオリブスの軍艦が巡視中のパルスラ警備隊に抑留された」 「それは聞いたわ、でも」 その艦にオリブスの領主が乗っているなんて知らない。 「今のところ、これは極秘だ。うちで知ってるのは国王と俺とミツバ、あとおまえたちだ。軍の総帥クラスには今日あたり、ミツバが話すかもしれないが」 「あんたっていつも軍との間にはミツバを置くのね」 「オリブス半島主、若いがしたたか者だからな。水兵に紛れて何をやってたんだか」 「オリブス妃が無茶なさるわけね」 抑留された軍艦はスクリューを壊され外洋に放置されている。もちろん、パルスラ軍の監視付で。 今回の会議を有利に運ぶための駒だ。非人道的だとオリブス及びその友好国は厳重な抗議をした。 が、なにせ捕縛されたのが正真正銘の軍艦だったから領海侵犯だと主張するパルスラ側にも一理はあって交渉は難航中。 せめてと願った食料と水の差し入れも許されなかった。 もちろん助かる途はある。乗組員が艦から自主的に避難して救命ボートに乗り、パルスラ軍に保護を求めれば。 しかしその場合、パルスラには事故処理と称して艦を押収する権利が生じる。乗組員に紛れた半島主の存在も暴露される。 君主が乗っていたとなれば領海侵犯どころの騒ぎではない。 侵略の意図あり、と解釈されても仕方がない。 それは、ヤバイ。 「会議前に会いたいって妃殿下が仰っていたわ。うちは妃の味方よね」 「利益保護国だからな」 「昨夜眠っていないのはそのせい?」 「あぁ」 最後のリンゴまできれいに食べ終えて、公爵は軽く手をあわせる。ごちそうさまの仕種。トレーは拭ったように美しくパン屑一つ落ちていない。 服は着崩す、言葉は乱雑、名家の当主にはとても見えない男だがこのへんは、さすがに育ち。 「シャワーは?」 「そっちのドア。それより聞かせてよ。あなたどうするつもりなの」 「できることはする」 言い捨てて公爵はシャワーブースへ。移動式の簡易シャワーだから脱衣所なんて洒落たスペースはない。 「後ろ向いてろ」 言われてアリスとオルグはまわれ右。まったく同じタイミングだった。 アリスの位置が後ろになって、ふと気がつくと、オルグの首筋が真っ赤。 「……」 表情を滅多に変えないオルグの、露骨な反応にアリスは笑ってしまう。 背後ではばさばさ服を脱ぐ気配。ブースの扉を閉じる音がして振り向くと、スラックスもシャツもパンツも靴下も、何もかも床に放り出されていた。 幼馴染みのよしみでアリスは着衣を拾ってやる。たぶんアリスが寝る場所だから、公爵はソファーに服を置かなかったのだろう。 オルグは身の置き所がない感じで硬直していた。 「……、のか?」 ぼそっとアリスに、呟くような問いかけ。 「え、なに?」 「本当に血は繋がっていないのか。公爵と」 「真赤っかの他人よ。あんたは知っているでしょう。あたしの母親が」 「知っている。でも似てるぞ、お前」 「行儀の悪さとか口の悪さとか、どうせそんなところがでしょ。よく言われるわ」 悪い癖は伝播力が強い。特に公爵は、いや当時は単なる公爵家の次男坊だったが、とにかく当時から一風変わった趣味で、妙に格好が良かった。 服も言葉も崩し方が独特で、洒落て気風はいいが下品にはならないぎりぎりを見事に射貫いていた。 「真似してるつもりはないんだけど、まぁ、影響うけてるのは確かね。それで母がウィルスに、家に来ないでって言ったこともあったわ」 「ふーん」 そこへ秘書官が公爵の礼服一式を持って現れた。初老で丁寧なこの秘書は公爵が次男坊だった時代からのお付で、アリスとも顔見知りである。 「あら、お久しぶり」 「はい。お久しぶりでございます。アエリアス様はお美しくなられましたす」 会釈してアリスは届けられた衣装を調べる。気のきくことに、ちゃんとパンツまで揃っている。白い綿のブリーフ。 「色気ないのねぇ、相変わらず」 パンツを掴んで、わざとオルグの目につくように振った。 「はい。下着は白がお好みで、赤子の頃からそれ以外をはかれたことはございません」 「赤ん坊の頃は分からないでしょう」 「いいえ。女のお子様を欲しがられておいでだった母上様が、たまにピンクの繦など巻こうとされますと、喉が裂けそうな大声で泣き喚かれました」 「癇癪持ちは生まれつきってわけね」 笑う秘書官が手に藤のバスケットをさげているのを見てアリスは言う。 「ご飯だったら食べさせたわよ」 「いいえ。こちらはお化粧道具でございます。今日は大切な日でございますので、わたくし一式を持ち込みましてございます」 「ご苦労様」 そんなことを話しているうちにシャワーの音が消え、 「パンツが干してある」 ブースの中から公爵の声。 「とらないでよ。替えがないんだから」 「なんでまた」 「緊急集合だったから。執務室から直行したのよ。普段から一日分の着替えは持ち歩いてるけど今日で三日でしょ。軍属に女の下着買いに行かせるのも気の毒でね」 「お袋さんに持ってきてもらえ。濡れたパンツなんか、身体に悪いぞ」