「そのうちね」

 アリスの母親は首都の高級住宅街に住む。治安部とは車で十分ほどの距離。しかしアリスはここ二年ほど、実家に足を向けていない。「お袋さんと仲悪いのか」

「別に。昔通りよ」

「昔っから喧嘩ばっかしてたじゃねぇか」

 公爵とアリスが話している間中、オルグは俯いていた。

「出る」

 公爵に言われて秘書官を含めた三人は後ろを向く。公爵は悠々と着替えた。

 ズボンのジッパーを上げる音がしてから全員が振り向く。秘書官は誰よりも素早く動き、鏡の前に簡易椅子を運んだ。

「はい。外では公爵様のお出ましを、皆さまが今か今かと待ちでございます」

 言いながら持ち込んだバスケットを開ける。中には整髪料にドライヤー、櫛、鋏、毛抜き、化粧水らしき液体の入った小瓶などがぎっしり詰まっている。

「この場所で身仕度をさせていただきます。前髪の毛先を少々、お切りしてよろしゅうございましょうか?」

「好きにしろ」

 興味なさそうに公爵は答えた。

 けれど口元が一瞬むすっとしたのをアリスは見逃さない。実際、この若い公爵には少し長めの髪の方が似合う。

 しかし無慈悲に、伸びかけていた前髪は揃えられた。整髪料が金茶の髪を纏めていく。化粧こそされなかったが肌には化粧水がなすり込まれ、ふきつけられるコロン。

 絹の軋む独特の音がして、ネクタイが形良く結ばれた瞬間。

 秘書官は満足そうに目を細めた。

 アリスとオルグも感心したような呆れたような、複雑な表情で鏡の中の公爵を眺める。

 そこに居たのは人形。

 奇麗すぎる生き物からは実在感が薄れる。

 式典用の正装がよく似合って、歳より若く見える。

 横顔にかすかに少年の気配を残した彫像が椅子から立ち上がった瞬間、

「上着を脱いで手を挙げて」

 間髪いれずにアリスは要求した。

 公爵は素直に上着を脱ぎバンザイの姿勢。極上のシャツが光沢を見せながら彼の、しなやかな胸板、肉をそぎおとした腹、長い手足にまとわり皺を寄せる。

 武器は隠していない。

 いないのに、アリスは意外な顔をした。

 着替えるところを見せようとしないから、てっきり武器を持ち込んで隠したと思った。 起きてるときの公爵はけっこう無頓着で、アリスは子供の頃から、大人になってからも、公爵の下着姿はたびたび目にしている。

 生尻は数回。前はさすがに大昔、二人して彼女の母親の住まいの裏山で泥だらけになり、揃って噴水で洗われた時に、ちらっと。

「ご協力、ありがとう」

 一応いうと手をおろした公爵は、上着を持ったままの手でアリスの胸に触れた。

「着とけって、言ったろう」

 防弾チョッキを着ていなかった。アリスは曖昧に笑っただけ。着るつもりはない。

 会議場の安全責任者として、万一銃を持ち込まれた日には、最初に撃たれて死ぬ義務がある、と。

 思っているのが顔に出ていた。

「強情者め」

 公爵も呆れ、それでも押さえつけ着せようとはしない。秘書官は扉を支えうやうやしく一礼。公爵は上着にもう一度、袖を通して部屋を出ようとした時。

 扉の影に、不意に現れた人影。

「はい。皆様、国王陛下のお成りでございます」

 秘書官が腰を屈めて言う。

 落ち着いた態度で扉を一度しめ、今度は内側へ向けて開いた。

「え?」

 聞き返すアリスとオルグ。

 二人は秘書官が腕を組み屈んだころ、ようやく事態を理解し、急いで膝をつく。

 そこに居たのはトゥーラの国王。

 二年前、公爵が起こした政変によって擁立された時はまだ十四歳。

 当時は本当に少年、という感じだった。その後すくすくと成長しかなり男に近づいた。歳はミツバと一つしか違わないが、背たけはウィルスを追い越しそうな勢い。

 国王の背後にはそのミツバも居た。

「みんなちょっと、席を外してくれ」

 ミツバが要請する。さては秘密の打ち合わせかと合点したアリスとオルグはさっと立ち、国王に会釈して部屋を出る。秘書官はそれに続きながら、

「はい。公爵様のお髪を崩されては、お出ましが遅れてしまいます」

 独言じみた台詞。

 国王は部屋へ入る。ミツバを外に置いたままぱたりと扉は閉じられた。国王も公爵も、二人とも一言も口をきかなかった。

「……職務に戻ります」

 オルグは言って、ミツバに一礼し立ち去る。秘書官も衣装ケースとバスケットを抱えて控室へ。

 残ったのはアリスとミツバの二人だけ。

「びっくりしたわ」

 黙っていられず、アリスはミツバに話しかける。

「陛下の到着は正午じゃなかった?」

「正午だよ。これから王宮に一回戻って、今度は公用車で来なきゃ」

「無茶されるのね」

「まったくだよ。兄貴といいアケトといい、無茶ばっかしやがる。俺の苦労も少しは考えてほしいよ」

 ミツバは公爵と、血縁上は叔父甥で戸籍上は養父子。しかし年齢が近いので子供の頃から兄貴と呼んでいた。いまさら変えるつもりはないらしい。

「でも本当にそっくり」

 アリスはため息とともに呟く。

 誰が誰にかは、言わない。

「生き写しってあのことだわ」

「そうなのか?」

「あなたもう思うでしょ?」

「俺、顔、よく覚えてないんだ」

 ミツバはさらっと言った。しかし聞いたアリスの表情は曇る。

「そうなの?……そうね。あなたが物心ついた頃には、あの方、地方勤務ばかりだったものね。今度、写真を見せてあげる。あなたともよく似ているわ。鼻筋とか」

「うん」

 頷いたもののミツバはあまり興味がなさそう。視線は手首の腕時計。

「……あたしたち、ここに居ていいのかしら。失礼にあたらない?」

 アリスがいい終えないうちに扉は開き、国王は姿を見せた。

「急ぐぜ。あんたも着替えなきゃ」

 ミツバは腕時計を見ながらせかす。国王は早足で去っていく。

 アリスはへんな勘繰りをしたのが恥ずかしくなって、ノックもせずに扉を開いた。

 すぐ後悔した。

 公爵はズボンの前をあけベルトを外し、シャツの裾を直しているところだった。

 立ち尽くすアリスを救うように、

「あれ、一人か。お供は?」

 笑いながら尋ねる。

「秘書官なら先に行ったわよ」

「俺のじゃない。お前の」

「オルグのこと?部署に戻ったわ。それにお供じゃなくって同僚よ」

「もう別れたのか?」

「おつきあいしてるわけじゃないわ。最初っから」

「あんなに仲よかったのに?」

 アリスとオルグは幼年学校以来、十年ごしのつき合い。同期のなかではアリスがボス、オルグがサブみたいになっていた。

 しかし士官学校の卒業式で答辞を読んだのはオルグ。アリスは卒業式当日、警察学校との集団乱闘の責任者として独房に放り込まれていた。

 学生時代はいろいろな無茶をして、身元引受人だった人に迷惑もかけた。が、部隊に配備されてからはこれといった問題は起こしていない。

 服装や髪型、それに言動は理想的な軍人の形式美からは遠いが、まぁ実力でカバーできる程度。

「ありゃいい男だぜ」

「そうね。口が固くて信用できて時々おもしろいわ。腕もいいし」

 首都治安部には職務の性質上、一芸に秀でた人材が求められる。五課は格闘技、四課は狙撃。射撃成績900点以上が集まった四課の中でもオルグは出色で、針の穴さえ打ち抜きかねない技量。

「じゃ、なんで」

「それは秘密」

 アリスはバチンと片目をつむってみせる。「好きなのは好きなんだけど。わたしと張り合える珍しい奴だし、張り合えるけど最後には負けるところが可愛いし」

「いい男には早めに寝転んどけよ」

 公爵はたらしと呼ばれるに相応しい台詞。「なんで笑うんだ」

「だって真面目な顔するんだもの。こんな時だけ」

「これ以上に真面目な話があるか。男を焦らはすぎると手近ですまされるぞ」

「それは大丈夫みたい。高嶺の花にご執心みたいよ。……分かってんでしょ」

 片方の眉を吊り上げてアリスが笑う。

「お前の恋仇にはなりたくない」

 ため息まじりの公爵。

「そんなの、いつものことじゃない」

 あくまでもアリスは笑っている。女らしい度胸をみせて。

「亡くなった方の時も、半島妃の時も。……陛下のこと、びっくりしたわ。あんなに近くで拝見したの初めてだったから」

「でかくなっただろ」

「本当にそっくり」

 アリスの言葉に公爵の眉が寄る。

「亡くなった方に」

「……アエリアス」

 公爵の声が冷える。

 彼の起こした政変によって退位させられた国王は国境近くの保養地に隠棲させられている。

 死んではいない。

「それは、寝言でも言っちゃならないことだ」「だってそう思ったんですもの。思ったこと言わないでおくのは苦しいじゃない。言えるのはこの世であんたとミツバだけよ」

「誰にも言うな。心でも思わないようにしろ」「あなたにしては頑なね。そんな恐い顔しなくても、他で喋りゃしないわ」

「疑ってる訳じゃないけどな」

 恐い顔と言われたからか、公爵は手の甲で頬を撫で、そのまま部屋を出ていこうとした。「で、その国王と寝ちゃったって、本当?」

 扉を開こうとしていた背中が揺れる。

「……誰に聞いた」

 振り向きもせず問いつめる声はきつい。

「みんな言ってるわよ」

 アリスは平然とブラフをかける。ついきっき、聞いたばかりなのに。

 オリブス半島妃から耳元に囁かれた言葉。『あいつが国王と寝たって話、本当?』

 と。

「まさか本当とは思わなかったけど。あなたが男と寝るなんて」

 アリスの知る限り、この公爵にそっちの趣味はなかった。女癖はずいぶんと悪くって、年上の女優に引っかかったり、貴種の女をひっかけたり、さんざんしていたが。

「いったいどうしてそんなことになったの?やっぱ陛下があの人にそっくりだから?それとも」

 アリスはうきうき問いかける。

「お前……、なんでそう楽しそうなんだ?」

 ようやく公爵が振り向いた。表情はふつうに戻っている。さっき露骨に背中を硬直させた、緊張も驚愕もそこにはない。

 かえってどこか、ほっとしているような。

「あら、ばれた?」

 わるびれずアリスは舌を出す。

「興味津々なのよ、これが」

「趣味の悪い」

「恋も他人ごとだと見ていて楽しいわ。知ってる奴だと尚更」

「ありゃ聞くものじゃない。するもんだ」

「じゃ後学の為にってことで、教えて。先に口説いたのどっち?」

「馬鹿なことを」

 もう一度、公爵は部屋から出ていこうとする。

「あ、ちょっと待って」

 その肩を掴んで引き戻し、アリスは公爵の唇に軍服の袖を当てた。ハンカチは持ち歩いていない。

 唇が濡れていた。このままで半島妃と会わせるのはあんまりな挑発。

「あたしはあなたの身方よ」

 美貌を間近で眺めながら、アリスは真顔でそう言った。

「妃殿下が仰っていたの。あなたにしては洒落た真似だって。あたしもそう思うわ」   少年王が成長すれば擁立者は追放されるのが定石。それを避ける唯一の方法は身内の娘を王妃に据えて王の外戚となること。男を懐柔できるのは女だけだから。

「あなたにしては上出来よ。議会と軍に利用されて政変まで起こして」

「そんな風に思ってたのか、お前」

「前王を追放する汚れ役だけ押しつけられて終わり、じゃあんまりだもの。心配してたのよこれでも。あなたって貧乏籤の引き癖があるから」

「俺をそんなふうに言うのはお前だけだ」

 トゥーラ王国のサージ公爵とえば世間では、油断も隙もない野心家と思われている。

「……ね、偉くなりたかった?」

「唐突だな」

「オリブス妃が仰ったの。偉くなけりゃつまらないって。そんなものかしら」

「家族より大事なものなんて俺には思いつかないがな。お前もさっさと、母上と仲直りしろ」

「喧嘩してる訳じゃないのよ」

 離れてゆく腕を指で撫でながら、子供のよように言い募る。

「ただ分からないの。あの人にはわたしが、わたしにはあの人が。近くに居たらそれだけで苛つくのよ。親子だから」

 理解しあえないことそのものが。

「だから離れているだけ」

「言い訳になるかよ、そんなの」

「だって母さんのうっとおしさって特別よ。頼んだ覚えもないのにおまえのためよ、おまえのためよって」

「はいはい」

 アリスの言い訳を公爵は聞き捨てる。

「お前もちゃんといい男みつけろよ。なんとか色気は出てきたみたいだが」

「あら、そう?」

「いい色だ」

 唇を指でつつかれる。なんのことだか最初は分からず、思いあたって、アリスはふふんと鼻で笑う。

「あなたの好きな色?」

「わりとな」

「だったら妃殿下は、やっぱりあなたに未練があるのかしら」

「誰だって?」

「これ妃殿下の口紅よ。さっきキスしたの」

「……なんだと?」

 三度ふりむく公爵はものすごく嫌な顔。

 彼にとって、半島妃は鬼門だ。

 公爵と彼女は昔つきあっていて、公爵が捨てられる形で別れた。

「あたしといまキスしたらあの方とも間接キスよ。二年ぶりくらい?」

 むすっとした顔のまま出ていこうとする公爵の、

「妃殿下の控室、ちゃんと寄ってよ。わたしが伝言を伝えなかったって思われるから」

 背中にもう一度、なげつける言葉。

 

 国王陛下の臨席のもと、会議は滞りなく始まった。陛下は開会式と昼食会だけで退席し、実務的な会議の議長はサージ公爵が勤めた。もっともそれにも一騒動あって、パルスラ領主は年若の貴殿が何故そのような重役を勤めるかと噛みついたらしい。

 噛みつかれてびびる男ではない。公爵は議長国の執権故にと答え、算奪による執政に正当性はあるのかという抗議には、内政干渉は受け付けないと答えた。

 ともかく国王陛下退出後、会議場の扉は封鎖され、夕方まではこれで一安心。

「仮眠するわ。なんかあったら起こして」

 アリスは部下に言って仮眠室へ。公爵が寝ていたソファーに横たわる。

 冬だし、服を着ていたままだっから匂いはしない。ただ、かすかな気配というか、人肌の感触、みたいなものが残っている。

 アリスは機嫌良く目を閉じた。

 そして見たのは、懐かしい夢。

 

 九つか十か、そのくらいの歳。

 アリスの母親は恋人に囲われて広い館に住んでいた。正式な結婚じゃなかったけど、母親の恋人は若くて他に女性はおらず、週末ごとに足を運んでいた。歳の離れた弟を連れて。 その日、連れてこられた幼なじみは頬を腫らしていた。服も襟だの袖だのが破れていて、ボタンは殆どついていなかった。

「……乱暴されたの?」

 母が尋ねた言葉には性的な被害、レイプ、という含みがあった。彼は奇麗な子供だったから。

「違うらしい。詳しいことは喋らないが」

 答えたのは幼なじみの兄上。母の、恋人。

「殴ったのは陛下?こんな子供に、なんてこと」

「殴り返しはしたみたいだがな」

 兄上に手を出せと言われて幼なじみは右手を出した。女の子みたいに白い皮膚の、でもずいぶん骨張った関節が赤く染まっている。

「あなたよく平気ね。弟がこんな目にあったっていうのに。あの子だって、今頃……」

 あの子というのが多分、弟のことだろうとは分かった。母が産んだ弟は生まれて数日のうちに何処かへ連れていかれた。

「し」

 口元を押さえられ母は悲しそうに目を落とす。そのままぽろぽろ泣き出した。幼なじみの兄上は母を慰めにかかり、そこでようやく、アリスに口を挟む隙が出来た。

「……大丈夫?」

 近くで見ると怪我は本当にひどかった。唇がざっくりきれていて、左目が真赤に充血している。喧嘩の怪我には慣れていたアリスが息を飲むくらい。虐待を受けた、という感じ。 幼なじみはアリスの方を向かないまま頷いた。

 その時の衝撃は今も、ありありと思い出せる。

 幼なじみは愛想のいい奴で、いつもへらっとお人好しな感じに笑っていた。そうすると目尻に皺がよってせっかくの美形が台無しになる。

 花形役者からお笑い芸人への転落。

 でも本当は、笑ってる彼が好きだ。

 表情を決して視線を伏せていると、長い睫が目許に影を落として、無茶苦茶に迫力のある美貌になる。そこに居るだけでその場の重力を支配できそうな、凄味。

「ごめんな、アリス。そいついま喋れないんだ。……口、あけれるか?そっとでいい」

 言われて幼なじみは唇を開く。黒手袋で顎を支えて兄上が隙間を覗き込む。

「三本か。飲み込んでいないな?」

 幼なじみは頷く。

「義歯は怪我が治ってからじゃないと。暫く欠けたまんまで我慢しろ」

 頷く。

 それから数日、彼は母の館に匿われた。

 何人かの大人が彼を尋ねてきたけれど、彼は会おうとしなかった。館の庭は広く周囲の林との境界も曖昧で、季節は初夏。木の上に上った子供を探すのは難しかった。

「木登り出来るほど元気ならいいわ」

 そう言って笑ったのは顔をベールで隠した貴婦人。

 真っ白な細い指と静かなのによくとおる声をお持ちだった。指輪とかイヤリングとか、そんな飾りは一つもなくて、着ていた服もベージュのワンピース。

 でも、ただ物じゃないことは母の態度でも分かった。びくびくしながら、お茶を出していた。

「ありがとう」

 貴婦人は受け取って飲み干す。カップに何故か口紅がついていなかったのを覚えてる。それが上流階級の嗜みの一つだと知ったのは後年。その時はただ不思議に思いながら、アリスはカップを引こうとした。

「可愛らしいこと。お嬢様?」

 柔らかな口調の言葉。

「は、はい」

「うらやましいわ。わたくしも娘が欲しかった。男の子なんて少しも愉しくない。親は喧嘩と情事の後始末をしてまわるだけ」

 アリスにとってはいやな話題だった。

「この子も喧嘩ばかりなんです。男の子たちの大将で、将来は軍人になるなんて言っています」

 母のいつもの愚痴だった。けれど答えは、いつもと違っていた。

「そう、頼もしいこと」

 そこで初めて貴婦人は笑った。

「母上にそっくり。髪の毛だけは引っ張らせないようになさい」

 貴婦人は帰り際、軽く頭にキスしてくれた。

 さらに数日後、兄上がやって来て夕食の席で、弟に言った。

「よく当てたな。陛下のここ、痣になっていたぞ」

 目尻を指さしてそう言われ、幼なじみはほんの少し笑う。

 アリスはほっとした。彼が連れてこられて初めての笑顔だった。

「父上とも話し合ったが、陛下には正式に抗議することにした」

 幼なじみの怪我は、腫れはひいていたけれど唇の傷はまだ繋がっておらず、連れてこられてからその日まで一言も喋らなかった。

「陛下にお預けした俺の息子も、取り戻すつもりだ」

「本当に?」

 目を輝かせて顔を上げ、口を挟んだのは母親。

「嬉しいわ。やっと親子水入らずで暮らせるのね」

 そこでアリスはふっと不安になったのを覚えている。

 母が恋人とその子供とで水入らずの親子をするなら、連れ子のアリスは異質な存在になる。

 母親の恋人は子供好きで、アリスを邪魔にしたことは一度もなかった。どころか格闘家として有名だった彼はアリスに、体術のイロハから教えてくれた。おかげでアリスは物心ついていらい、素手の喧嘩で負けた記憶がない。

 母親の恋人に継子差別されるとは思わなかった。不安だったのは母親のこと。彼女の愛情を、当時から信じていなかった。

「……俺を」

 鹿肉を小さく切って、傷に触らず食べることに苦心していた幼なじみが、そこでようやく口を開く。

「国王の膝に戻して、か」

「まさか。お前は俺の弟だ」

 フォークを食卓に置いて兄上は気色ばむ。

「父上ともそのことは話してる。お前はうちのだ。遣りも戻しもしない」

「反逆罪でやられるぜ」

 幼なじみは食事を続けながら言った。

「自分の息子は取り戻す、俺は返さない。そうすると国王には跡取りがいなくなる」

「知ったことか。もう遠慮はせん。陛下は勝手すぎる。俺の息子を取り上げた上に、お前まで取り戻そうとして」

「どっちも断れば、第一王位継承者はあんただな」

 兄上は不意をつかれた表情。

「反逆罪でやられる。あんたも、親父もだ。アケトがあんたの子だって証拠はどこにもなんだから」

 鹿肉のソースが傷に染みたのか、幼なじみは顔をしかめ言葉をとぎらせる。水を飲んで気を取り直してから、

「王位を狙って虚偽の説をなし国政を混乱させた者、またはその企てをなした者、またはなそうとした者は、死罪。お袋の助命嘆願があってもいいとこ、国外追放。あんたと親父が居なくなりゃあいつの天下だ。そう思わねぇか?」

 兄上は考え込んで、やがてがっくり肩を落とす。

 そしてアリスには悟るところがあった。

 母の恋人が、実は大変な身分の人であること。

 そして母親の産んだ弟が、もっと大変なことになっていること。

 そこまで知れば、残りはおいおい分かってきた。

 幼なじみの頭髪はサージ公爵家には珍しい金茶の色。それは帝国出身の王妃と同じ色。国王自身は黒髪だったけど母方にパルスの血が入っているから、黒髪でない子供が産まれるのは不思議でもなんでもない。

 でも。

 当時、それはまずかったらしい。幼なじみの出生当時は。

 傑出した一個人から発生した王朝の常で、トゥーラ王国は王家の血統を尊ぶ。なのに二代続けて異国出身の王妃を娶ることには根強い反対があった。

 それをおしての婚姻で、産まれた子供が異国人じみた金茶の髪というのは、非常にマズかったらしい。

 だから幼なじみは公爵家にやられた。公爵夫人は国王陛下の姉上だ。養子先としてそう不釣合いではない。

 しかしその後、国王夫妻にはなかなか子供が出来ず焦っていた。

 そんな時、母が産んだ男の子は健康そうな黒髪の赤ん坊。父親は国王の甥だから、王家の血統はひいている。

 そして、その男の子は……。

 

 会議は荒れたらしい。

 予定時刻を一時間以上オーバーして、今日の日程はとりあえず終了した。

 会議場の扉が開いた途端、早足で駆け出し母国へ連絡をとる各国VIPの秘書や補佐官。役人たちも緊張した面持ちで駆け回る中を、公爵は澄ました顔で退出した。

 会議の議事録は公表されなかった。アリスたちは警護側にはその内容がひどく気になった。政治問題自体に軍人が介入することは戒められているが、今回に限り、それが会議の治安に直結している。

 オリブス半島妃とパルスラ領主は和解したのか、していないのか。

「ボス、サージ公に聞けないんですか」

 上司と公爵の癒着を不愉快に思っている副官さえそんなことを言う。

「どうかな。あいつあれで忙しいからね」

 公爵家に電話をしようかするまいか、悩んでいたら逆にかかってきた。さては気を利かせて教えてくれるのかと、思って電話に出てみたら、

『もしもし、姉貴ッ?』

 聞こえてきたのは思いがけない声。

 周囲に人が居ないとき、ミツバはアリスをそう呼ぶ。

『ちょっと出てきてくれよ。手伝って欲しい。治安部の許可はとった。……あんた以外の、誰にも頼めないんだ』

 

 店は混雑していた。でも、その男は見つけやすかった。樫の木みたいに頑丈そうな背中にダンスガールたちが群がっている。

 心当たりの店にそれらしい男をみつけ、アリスはほっと息を吐く。

 男は女たちを無視していた。一目でサラブの人間と分かる彫りの深い、浅黒い顔立ちが腕時計を眺める。手首を返した途端、文字盤から発した光は鋭い。宝石が象嵌されている。懐はそうとう豊からしい。

「こちらへどうぞ」

 入り口近くに立ったまま男を眺めるアリスに、店主が近づいて囁く。案内されたのは最奥のテーブル。観葉植物にうまく隠れ、隙間から店内は見えるけど他の席からは死角になっているという絶好の位置取り。

 注文もしないのに店主は美味しそうなサラダとカナッペ、ミネラルウォーターを運んできた。

 店の人間は詳しい事情を知らない。でも彼らにはアリスが首都治安部の人間であるというだけで十分な脅威。治安部は一般警察より遙に強い権限を持つ。

 夕食を食べ損ねていたアリスは店主の好意に甘えた。チャシャとラディッシュのサラダは辛子とオリーブオイルで調味されて野菜の風味たっぷり。

 クラッカーに肉や魚を載せたカナッペも缶詰めをあけて盛り付けたいい加減な品ではない。なかでも鮭の薫製と玉葱のマリネが美味だった。最後の一片を口に入れた瞬間、

「失礼します」

 店主が今度はクリームソースのパスタを持ってくる。鮭をほぐした身のピンクと、バジルの緑とがいいとりあわせ。

「代金、先払いしといていいかな」

 いつ乱闘になるかもしれないのでそう言うと、

「とんでもありません。こちらは当店の、心ばかりの」

「ご協力感謝します。風紀委員会にはこのことを、ちゃんと伝えるから」

 言いながら懐から軍の経理課いきの伝票を取り出す。作戦遂行中の士官に支給されるもので、領収証を貰う手間がかからない。

「どうなるか分からないけれど、こちらの備品に損害がでたら、あわせて請求して」

 店主は恭しい仕種で伝票を受け取った。

「迷惑料、つけていいから」

 そこまで言うとようやく安心したのだろう。かすかに笑う。そして深々と一礼。

 軽く頷きアリスはパスタを口にする。我ながら慣れたものだと思う。国家権力を背景に鷹揚に振舞うことに。

 士官学校時代は自分がこんな風になるなんて思わなかった。成績は良かったが素行が最悪だったので、いつか除隊になるだろう、というのが周囲の大方の予想だった。自分でも、そう思っていた。

 なのに現在、同期では出世頭だ。つい先日までオルグと並んでいたけれど今は頭一つ抜いた。

 いろんな批評があることを知っている。

 能力はあるのだから大人の分別をもてばこれくらい当然だ、偉いぞ……、というのは特別師範になってあたたび出入りしている、士官学校の教官たち。

 切れ味のいい奴だったのにすっかり鈍りやがって、そんなに出世したいのかね、というのは同期の連中の一部。

 どっちも的外れだが好意的ではある。女をつかってひいきされているのだ、という主流の噂に比べれば。

 何を言われようが気にはならない。他人の口で疵つくほど意識過剰じゃない。

 パスタには濃厚な旨味があるのに口の中でふわっととけて、ずいぶん上等のクリームが使ってあると分かった。

 あいつが昔、気に入っていた店。食い道楽な男。

 カウンターで、男は相変わらず文字盤を睨んでいる。こんなに美味しい店だから何か食べればいいのにと思う。パスタの次には仔牛の、骨付肉のグリルが出てきて、

「もう、これでいいから」

 たちまわりになった時に満腹じゃ困ると思って店主に釘をさした。

 でも出された皿は、押し戻すには、あまりにも美味しそうだった。肉の表面はからっと焼けて焦げ目からいい匂い。中も極上の焼き上がりで、ナイフを入れた途端に肉汁があふれる。

 ほんのかすかなニンニクの風味。レモンバターに粗びきの胡椒と岩塩。それだけの味付け。でも噛み締めるほどうまみが口の中に広がる。ここ三日間レンジでチンした軍隊食ばかりだったから、舌にからみつく柔肉がよけいに愛しい。

 ゆっくり味わっているうちにふと気がつく。これからここに現れる男のこと。あいつも多分、食事をしていないんじゃないか?

 コーヒーを持ってきてくれたボーイに、

「ね、何か持ち帰れるもの、ある?」

 ボーイの表情が揺れる。ないのだろう。そりゃそうだ、こんな色街近くの酒場に持ち帰れる食べ物なんてない。でも。

「何をお作りしましょうか」

 ボーイは愛想よく笑った。

「簡単でいいよ。サンドイッチとかで」

 多少潰れてもそれなら食べられるかと思って言った。二分も待たないうちに包みが届く。それを懐に入れた途端、人波の中から現れたのは。

「悪い、遅くなった」

 背後を気にしながら、カウンターの男に声をかける。

「ミツバまくのに手間取った。場所変えよう。じき追いつかれる」

 はきふるした感じのジーンズに白いパーカー。フードを深めに被って髪を隠してる。そんな格好していると彼はますます若くって、学生じみて見える。

 アリスはゆっくり立ち上がりカウンターへ。

「座れ。一杯くらいいいだろう」

 男は彼の腕を掴み強引に、隣の席へ腰をおろさせようとする。

「阿呆。うちの跡取りなめるなよ。鼻が利くんだ。じき追いつかれる」

「一杯だけ」

「酒は飲めない。知っているだろうが」

「一滴でいい」

 男は強硬だった。侍る女を追い払い右隣の椅子を引く。嫌そうに乱暴に、彼は男の隣に腰を下ろした。

 奥の店主がさっとグラスを置く。中身は水で、そこに一滴、自分のグラスから男は酒を注ぐ。

 彼は嫌そうに一気に飲んで、

「行くぜ」

 男の襟を引く。男は素直に立ち上がった。そして二人の行く手を阻むよう、立ち塞がるアリスに気づく。咄嗟に半歩。引かれる男の右足。戦闘態勢に入るのが早い。

「手ェ出すな」

 男より前に居た彼、サージ公爵が左腕を出し男の動きを阻む。男は動きを止めた。右足は、引かれたままだったけれど。

「見逃せ。大事な話がある。分かるだろう」「ろくでもない話だって事は」

 サラブは大陸の西側に位置する勢力。国家と言うより部族連合体で、ほんの五十年前まで、東方諸国と激戦を繰り返していた。

 トゥーラ王国の始祖、戦争に強かったブラタル海峡主・アクナテン・サトメアンによって撃破され通商条約を結び、それ以来、小競り合いは時々起こるけど決戦はない。だが相変わらずの、仮想敵国。

 サージ公爵の後ろからこっちを見てるのはサラブの有力部族の一つ、ベルチスタンの将軍。

 彼には本来、会議の正式な参加資格はない。ただ去年、パルスラと永久貸借権の交換があってパルスラ領海内にとび領地を持った。

 トゥーラ王国を牽制する為のみえみえの策略。一応のってサラブの将軍は来たが、どうも本気でパルスラを後援する気はなさそうだ。証拠に今、公爵と会っている。

「そこを退け」

「ミツバの頼みなの」

 その一言で公爵は説得をあきらめた。品のない舌打ち。目線を左右に走らせて逃亡の隙を探す。でもそれは無駄なこと。

 混雑した店の人波が割れていく。よく知った匂いが鼻先を掠める。私服を来ていても気配は隠せない。嗅ぎ慣れた軍人の気配。その先頭には、

「兄貴」

 ほっとした顔のミツバ。

「帰ろう。アケトに独り歩きばれてるぜ」

「お前がばらしたのか」

「電話が掛かってきたんだよ」

「女のとこに行ったとでも言っとけ」

「信憑性なさすぎるぜそんなの。あんたがンな非常時に女にかまってる訳ねぇじゃん。あんときだって姐御には一言もなしで、おかげで見事にふられちまったんだろ」

「それ妃殿下のこと?」

「うん」

 アリスに頷いてミツバはサラブの将軍と向き合う。身長で三十センチ近く、体重も三十五キロ以上はミツバが劣っている。

 けれど少しも貧相には見えない。なんの遜色もなく堂々と、

「悪いけど将軍、連れて帰らせてもらうぜ」

 言い放つミツバにアリスは惚れ惚れした。

「俺が呼び出したんだ。まだ話がある」

 公爵が抵抗する。

「……まぁ、いい」

 二人の会話を聞いていた将軍がその時、初めて口を開いた。

「一人で出てきた時点で本気なのは分かった。契約の杯も一応はすんだし、今夜のところは退こう。依頼は引き受けた」

「ホントかよ。やけに気前いいな」

 公爵は露骨に嬉しそうだ。

「貸しはそのうち返してもらうぞ」

 つられて笑う将軍の目尻が緩む。

「そりゃもちろ……」

 そのまま、将軍は公爵の顔に向かって屈んだ。

 咄嗟に公爵は阻もうと腕を上げる。でもその腕は、何故か途中で止まった。

 ミツバとアリスが引き剥がそうとするが、間に合わない。

 その時。

 それまで身動きもしなかった別の客がカウンターから立ち上がる。不自然な動きだった。そして唐突に、肘をまわしてサラブの将軍をつきとばす。

 中腰の姿勢で不意をつかれて将軍はたたらを踏む。その時にはアリスが客に躍りかかっていた。人垣をこえて何時の間に、前に出たのか誰にも見えなかった。

 アリスが出たのは刺客と思ったからだ。サラブは暗殺や毒殺が横行する国。そんな国の将軍が一人でこんな場所に居るのは危険なこと。

 本当は、仮想敵国であるサラブの将軍が殺されようがアリスの知ったことではない。知ったことどころか、いっそ祝福してみたいほどだ。

 しかし今、ここではまずい。

 ここで将軍に怪我でもさせたら呼び出した公爵の責任問題になってしまう。

 アリスは右肘を男の胸元につきだす。この距離なら相手が刃物や銃を持っていても十分渡り合える。距離が近すぎて得意なケリは出せないが、肘でどついた後ならいける。

 頭で考えた訳ではない。脊椎反射で、身体が動いていく。しかしアリスの肘は空をきる。男が不思議な反応をしたからだ。

 男は後ろに下がった。

 攻撃を避ける為に下がった訳ではない。

 それならアリスは連続で蹴りが出せていた。でも男は彼女が攻撃を仕掛ける前に下がった。反撃なんて考えてもいないタイミングで。

 アリスの動きが止まったのは、それに違和感を感じたから。

 相手から敵意が感じられなかった。

 空振りの肘を戻し構え直して男の顔を見た途端、アリスは口を阿呆のようにあけた。

 アリスだけではない。

 彼女の背後で将軍、斜め前ではミツバとその連れ。全員が呆然。

 公爵だけが麗しい眉をこれ以上ないくらい寄せて、苦虫をかみ潰したような表情。

 立っていたのは昼間にも会った国王。

 黒いシャツとスラックス姿。黒髪は雑にすきあげた感じで流している。こんな酒場にはちょっと若すぎる。けど目立つほどじゃない。 アリスは気づかなかった。彼女より先に、この客はこの店に居た。

「……車、どこに置いてんだ?」

 一番先に正気に戻ったのはミツバ。

「表の路地に」

 客はあっさり答える。

「んな目立つとこにかよ」

「目立つのでは来ていない」

 国王は答え、公爵の肩に手を掛けて、

「帰ろう」

 ミツバに言うのとは違う優しい声。

 腕を引かれ、公爵は無言で従う。でも怒ってるのは強ばった表情で分かった。天下の美貌がぴしりと凍りつく。はっきり言って、恐い。

 通り過ぎざま、公爵はミツバの耳になにか囁いた。

「姉貴、悪いけど兄貴に付き添ってくれよ」

 ひびって腰が引けているアリスにミツバはひどい頼み事。

「俺らバイクなんだ。街中でおっかけっこになったらそれが有利かと思ってさ。ちょっと話もあるからそのまんま、うちで待っててくれ。俺もゲスト送り届けたらすぐ戻る」

 びくびくしながら、それでもアリスは二人の後を追った。

 

 運転手がドアをロックすると同時に、

「いつもこうやって見張ってんのか」

 公爵の恐い声。

 アリスは助手席で竦む。

 自分に言われた訳ではなかったが、それでも竦んでしまう。この男のこんな声をきいたのは初めてだった。幼なじみの公爵はいつもアリスには優しかった。

 アリスだけではない。

 女と子供には、彼はたいてい、とても優しい。

「そうだよ」

 国王はいっそ堂々と答えた。運転手は聞こえないそぶりで職務に精励している。

「目を離したら俺が手当り次第、男をベットに引っ張り込むとでも思ってんのか」

「まさか。でも和姦でも強姦でも、僕が嫌なのは同じだから」

「ふざけんな」

 車は高級車だが貴賓用ではない。運転手との仕切りもテーブルもなくて、バックミラーにうつる国王の横顔は若々しく清潔。

「お転婆が許されるのは生娘のうちだけだ。男は処女には遠慮するからね。でもあなたはそうじゃない」

 でも口からこぼれる言葉はきわどい。

「あなたが僕と寝てるって、みんなが知っている」

「お前が言い触らしたんだろうがッ」

 公爵の、かなりイラついた怒鳴り声。

 やっぱりね、とアリスは思う。

 そんな気はしていた。そうだろうとは、思った。

 こっちが本音だ、たぶん。

 平気そうな顔をしてたのが嘘。

「お前さえ黙ってりゃ誰にも知られやしなかった。それをわざわざ、宣伝するみたいにしやがって」

「しなきゃあんたが僕のって周囲に分からないじゃない」

「オンナだって言い触らされる俺の身にもなれッ」

 激昂する公爵。

「あなたの見栄っ張りは嫌いだよ。それで二年もお預けくわされてたからね」

 あくまでも冷静な国王。

「だまっていてもいつかはばれたさ。女とはどんな噂になっても平気なくせに。……噂になった方が都合がいいんだろ。他の男が手をださなくなるから。僕も同じさ」

「一緒にすんな」

「でも本当は少し後悔してるよ。あなたの周囲がこんなに動揺するとは思わなかった。……あなたのまわりの、男たちが」

 国王は深刻なため息。

「牽制のつもりが呼び水になってしまった。何より気に障るのは、あなたがそれを嫌がってないこと」

「この上、男の下心、嫌がるそぶりなんざ恥の上塗りじゃひねぇか」

「恥なんて言われると腹がたつね。いっそ酒場で剥いてやればよかった」

「変態め。つきあってられん」

「性はあなたの方が悪いよ。見栄と強がりが厄介だ。怪我することより怪我を恐がってるって思われることを恐がる。僕とのことを平気って証明する為に、他の男と寝てしまいかねない。だろう?」

「知るか」

「あなたの貞操は信じられない」

「俺が強姦されて舌かみ切るようなオンナだったらお前、いまごろ息してないぞ」

「いつしたっけ、そんなの」

 国王はシートを軋ませ公爵の方を向いた。

「指をくわえて待ってたよ。僕は、ずっと。あなたの覚悟が決まるまで」

「黙れ」

「あなたのことレイプしたのは僕じゃない。その分まで僕にあたるのは止めてほしい」

「黙れって言ってるだろうがッ」

 アリスは無意識に歯を食いしばる。

 公爵がぶち切れて手を出した、と思った。夢のような顔をしているくせに手の早い男だから。

 目を閉じてその瞬間を待つ。

 けれどぶつ音は聞こえてこず、代わりに不自然な沈黙。そっと目を開けバックミラーで背後を覗くなり、アリスはいそいで目を伏せた。

 見えたのは若い国王の後頭部だけ。

 公爵は国王の襟首を、掴んで自分の方へ引き寄せている。顔の。すぐ近くに。

 何をしてるかは一目瞭然。

 両腕で頭を抱き込むようにして、重なった顔、そして唇。どちらの身動きか、シートと服の擦れる音。

 

 車は市街地を抜けて都市高速にのり、やがて山の手の官公庁街にさしかかる。そこを抜けて、更に坂道をのぼると、虎の紋章つきの門が見えてくる。

 両脇には塀も柵もない。ただひたすらに見通しのいい芝生と、その中心に車道。暗くて今日は見えないが芝生は野球場が二十ほど作れる広さで、昼なら地平線が見える。

 門扉もない前庭はいっけん不用心だが、賊の侵入を防ぐには遮蔽物となる樹木一つないこの原っぱが一番いい。門を通って屋敷につくまで車でも十五分ほどかかる。警備は厳重で、途中何度もサーチライトを浴びた。

 緊張していたアリスだが、眩いライトを受けるたびに機嫌がよくなっていく。警備が仕事なので厳重なチェックは頼もしく、愉しくなってくる。

 けれど幼なじみの公爵は昔、この屋敷が大嫌いだった。馬鹿馬鹿しい広さが不便だと下町にマンションを借りて住んでいた。

 サラブの将軍と密会していたあの店の近くだ。

 公爵が十六歳か、そこらの頃。

 前王とトラブルを起こした直後に帝国に留学し、戻ったばかりだった。

 くりかえすが、王族は十五歳で成人とみなされ職務につく。彼も当時、内務省官僚として勤務していた。

 超キャリア組で、十何年後には閣僚入りすると見られていたけれど当時はまだまだ下っ端で、仕事もしてたが遊び歩いてもいた。

 両親も兄上も存命で、彼は気楽な次男坊だった。