な、素直な笑顔。

 笑っていると、けっこういい男だった。

「お前があんなに一生懸命、庇ってくれるとは思わなかった」

「誤解しないでよ。別にあんたを好きだからじゃないわ」

 アリスは憎まれ口をたたく。しかし。

「俺はでも、今でもお前を好きだぜ。もう一回結婚を申し込みたいくらいだ」

「嫌よ」

「今でもオルグを好きなのか」

「好きとか嫌いとかより前に、あたし結婚自体をしたくないの」

「幸せにするけどな」

「パルスラの男が女を、どうやって?」

「お前なら大丈夫だ。元気な男の子、ぽろぽろ産んでくれよ」

「調子にのるのはいいけどあんた分かってるの?それの意味」

 アリスは国王が手渡した手袋を指さした。「全快したら決闘、ってことよ」

「……はぁ?」

 ダドリーの顔が情けなく歪んだ。

「ウィルスの仇をとるつもりなんじゃない?」「嘘だろそんなの。おい、助けろよ」

「そんなこと言ったって受け取っちゃったものは仕方ないわ。せいぜいウィルスが治ったら、丁重に返してもらうのね。……ところで狙撃手の件だけど」

 本格的な尋問にかかるべく、アリスが袖をまくりあげる。

「あー、こほん」

 ミツバが咳きばらして、

「パルスラの甥御殿、部下たちが心配してるぜ」

 ダドリーを秘書官が別室に連れだし、そこでミツバはほっとため息をついた。

「やれやれ。なんとかおさまったな」

 心底つかれた様子でソファーに腰掛ける。らしくないほっとした表情。そこでようやくアリスは気がついた。ミツバが懸命だったことに。

「陛下のあれ本気だったの?まさかね。脅しよね」

「わかんねぇよ。あいつの本心なんか、誰にも」

「オリブス半島妃もダドリーも陛下を恐いって仰ってたわ」

「そりゃそうだろうさ。俺だって恐い」

「どうして?何処が?」

「アケトのことよりあんた、自分のこと心配しなよ」

 椅子に座りながら、ミツバ。

「会議出席者間で起こった事件だから、あれ自体はあんたの責任じゃねぇけど」

「サラブの救助作戦は成功したの?」

「水と食料の補給には成功したけど救出は出来なかった。それであんたの処罰だけど」

「そんな気の毒そうな顔しなくてもいいわよ」 アリスは苦笑する。

「罰には慣れてるから」

 始末書以上は四年ぶりだけど。

「とにかく治安部に連絡して、パルスラ領主の警備を固めなきゃ。狙撃手のことはいま、聞き出してくれてるんでしょ?」

「パルスラ領主への暴力、及びその後の職務放棄で解任。自宅謹慎」

「……え?」

 アリスの眉が寄せられる。

「その程度?やけに軽くない?」

「その代わりたった今からだ。自宅に直行してもらう」

「待ってよ。いまあたし作戦遂行中なのよ。あんたも言ってくれたじゃない。あたしの警備なら安心だって」

「四課の隊長代行も、即時解任」

 そう聞いた瞬間、

「暗殺を黙殺する気なの」

 咄嗟にアリスは聞き返す。笑っていた目がきゅっとしまって、ぎらっと光った。

 ミツバは苦笑した。

「さすが、だてに兄貴と長年つきあっちゃいないな」

「馬鹿でも分かるわそのくらい」

 ダドリーに入国証を与えて便宜を計り、しかも。

「わたしはともかくオルグにはなんの責任もないじゃない」

「連帯責任、ってことになるか。奴は解任だけで謹慎はなし。あんたと四課のあいつは治安部の部長候補だ。こんなことでケチはつけられない」

「こんな庇われ方は嫌よ」

「兄貴も引っ込んだし、とりあえずこれで何があっても、かげがえのない人間に致命傷にはならない」

「なにかって……、なによ。暗殺なんかで歴史が動いて、ろくな結果になったことはないんだから」

「個人的には同感だけど、これは国王判断なんだ」

「ウィルスの怪我をひどくしたから?あれは不可抗力よ。だいいちあんな怪我してうろついてるウィルスが一番悪いわ」

「同感だけどさ、怪我だけじゃなくて、あの領主、言っちゃいけない言葉をいったんだよ」「……男妾って、あれ?」

 アリスがそっと尋ねる。ミツバは苦笑しながら頷く。

「アケトが無茶苦茶、怒ってる。あれは執り成しようがない」

「だからってこんなのウィルスが許さないでしょう。テロとか暗殺とかって、あいつには不向きよ」

 嘘ひとつろくにつかず、直球勝負しかしない男。

「俺もそう思うけど、国王判断なんだって。あいつ強情なんだよ。翻意させられるとしたら兄貴だけだ。いま意識がない」

「あたしは嫌よ。あなたや陛下が、こんな」

「これは政治だ。分かってくれ。それに」

「いや……」

 言い募るうちに不覚にも涙が出てきた。

 理論で押せない分、感情が押し寄せてきて。 泣き出したアリスに、ミツバはひどく困った表情。

「姉貴、あのさ」

「考え直して、お願い」

「そんなにパルスラ領主が気になるのかよ」

 激しくアリスは首を左右に振る。

「いやなのよ。あたしは、暗殺とかに、あなたや陛下が関わるのは」

「アケトがあんたの前でダドリーを放免したのはあんたへの通達だ。あいつなりに気ぃ使ってんだ」

「あなたたちの為にと思って、あたし今まで一生懸命やって来たのよ。なのに」

「わかってくれよ。あんたには分かってほしい。あんた俺たちの……、姉さんだから」

「こんなのは、嫌」

「ごめん」

「絶対。いや」

「ごめんな」

 

 翌朝、アリスが目覚めた時刻は十時過ぎ。いつもより四時間も遅い。

 頭が重い。ベットのなかで暫くじっとして、ようやく起き上がる。寝室を出ると広々としたリビング。太陽の光がいっぱいに差し込んでいる。今日もいい天気らしい。

 顔を洗う。鏡を見る。くしゃくしゃの赤毛に縁取られて、泣きはらした目の女が居た。

「景気の悪い顔……」

 思わず呟く。目蓋が腫れて厚ぼったい。顔全体もむくんで、とにかく、見られたものではなかった。

 鏡から目をそらしバスタブに湯をためた。歯を磨きながら昨夜のことを思い出す。泣いたのなんか、十年ぶりくらいだった。

 歯を磨き終えさっさと脱いで、熱い風呂に肩までゆっくりつかる。もとは公爵が住んでいたマンション。彼が本邸へ戻る時に譲ってもらった。風呂好きの彼らしく、浴槽は大きくて足が十分に伸ばせる。顎までつけて温まりながらアリスは目を閉じた。

 なんであんなに、泣いてしまったのだろう。 ミツバが困っていた。

 泣けばなんとかなるなんて思ってやしない。そんな女は大嫌いだ。

 もともと女は嫌いなのだ。

 陰気で優柔不断で愚図で鈍間で僻みっぽくて、すぐに泣く。泣く女は大嫌いだ。なのに昨日、なんであんなに泣いてしまったのだろう。

 無性に悲しかった。

 パルスラ領主が暗殺されることが?

 ……違う。

 言うことをきいてくれなかったからだ、ミツバが。

 陛下も。

 甘えていただろうか。

 甘やかされているのは確かだ。サージ公爵がからは妹分として扱われ、彼が付き合っているどんな女より大切にされてきた。際限なく甘いあいつに慣れてつい、ミツバにまで、甘えてしまった。

 公爵になら泣き落としは通じたかもしれないけど。

 風呂から上がって、アリスはタオルを巻いたまま脱衣所の鏡をもう一度、眺める。汗を流したおかげでむくれはだいぶとれて、情けなかった顔もマシになっている。

 鏡に向かって笑った。

 最初はぎこちない。いつも通り、自信満々に微笑むことが出来るまで真面目に練習する。出来た頃には元気も出た。

 ジーンズとシャツを来て、マンション一階のカフェへ降りる。

 

 一階のカフェはカウンターとテーブル席、あわせて二十人も座ればいっぱいになる小さな店。出勤時刻には朝食をとる客でにぎわうが、時刻が半端だったせいか、客はアリスだけだった。

「おや、おはよう。こっちにおいで」

 顔見知りのマスターに呼ばれてカウンターへ。マスターはアリスに、自分が読んでいた新聞を譲ってくれる。

「モーニングにするかい?」

「もっと元気が出るもの食べさせて」

「分かった。任せておきなさい」

 にこにこしながらマスターは厨房へ。アリスは新聞をめくる。一面にかでかと昨日の騒ぎが載っている。

 くわしい情報はマスコミに伏せてあるけれど、議長役だったサージ公爵が救急車で搬送されたのは隠しようがない。

 記事はその騒動と、警護責任者の更迭にまで言及していた。実名は出ていない。

「さぁ、お待たせ」

 出てきたのはクラブハウス・サンドイッチ。八枚切りのトーストに、挟まっているのは厚さ5ミリはありそうなステーキと野菜、チーズとハム。両手を使わないと持ち上がらないようなボリューム。

「今日は昼から仕事かい?」

 アリスの職業を知っているマスターは背の高いグラスを背面の戸棚から取り出しながら尋ねる。

「いいえ。お休み」

「だったら大丈夫だね」

 カウンター下の冷蔵庫から取り出されたのはワインクーラー。真冬でも氷をいれてレモンを絞って飲むのが、アリスは好きだった。公爵の冷や麺好きをどうこうは言えない。

「さぁどうぞ」

「ありがとう」

 大口あけてかぶりつく。実際、そうしなければとても噛み切れない。彼女が食べるのをマスターは愉しそうに眺めた。

 普通の女の子なら一つをもてあますサイズを二つ、アリスはまたたくまに食べ終える。食後のコーヒーを出してくれながら、

「公爵の怪我はどの程度か知っているかい?」 マスターは尋ねる。

「気になりますか」

「とても。彼は何年も、この店でわたしのつくった朝食を食べていたんだ」

「大丈夫ですよ。多少の傷は残るけど」

「本当のところは、パルスラ領主とオリブスの妃殿下の喧嘩を止めていて怪我したという話だけど」

「話せませんよ、そういうことは」

「失礼。君から何か聞き出そうとした訳ではないよ」

「わかってます。マスターはウィルスが心配なだけですよね」

「妃殿下のこともね」

 彼女も以前、このマンションに泊まってはウィルスと一緒に朝食をとっていた。それに時々アリスもまじっていた。

「いっそパルスラの領主を、なんとかしてあげることは出来ないかねぇ」

「マスターは妃殿下をごひいきだから」

「そんな事はない。君の身方だよ」

 アリスは笑うだけ。誤解されていることは分かっていたけど黙っていた。本当のことを説明するより、三角関係と思われている方がずっと手間暇かからない。

 新聞の続きを読むアリスに、

「今日は東環状線にはへ出ない方がいいそうだ」

 交通網に詳しマスターが教えてくれる。市街地と港と王宮を結ぶ幹線道路。

「午後から通行規制をするらしい。あの道は渋滞しだすとびくとも動かなくなる。外国からの客が来ると、これだから嫌だね」

「首都の宿命ですね」

「走った方がずっと早いくらいだ」

 走った人が居た。

「妃殿下が以前」

「そう、彼女が走られたのだった」

 マスターは楽しそうに話す。

 やはり彼は半島妃のファンらしい。

「外国からのお客様を迎えた国際会議で」

「うちの外務省の公用車が捕まったんですよね、渋滞に。エンストか何かで出発が遅れて」「ちょうど公爵が乗っていて、遅刻する訳にはいかないと、走っていくことにした」

「短気な男だから」

「後続車に乗ってた妃殿下が自分も行くとおっゃったが」

 当時はまだ妃殿下ではない。外務省勤務の女性外交官。

「それじゃ走れないだろう、と公爵に言われて」

「そんな言い方じゃなかったそうですよ」

 アリスも妃殿下の話しをするのは楽しい。「女は駄目だ走れなからって、足手まといと言わんばかりだったって。だから妃殿下、かちんと来られたんです」

 それ以前にも公爵に、いや、こちらも当時は公爵家の次男坊だったが、含むところがあったらしい。帝都の中央学院への留学から戻って外務省入りするなり、彼は参事官になった。

 中央学院卒業という学歴に公爵家の公子の条件を加えれば妥当なところだが、副参事官だった妃には面白くなかった。年齢も経歴も彼女が上だったのだから。

 かちんときた彼女は車を降りるなり靴を脱いだ。エナメルの先の尖った踵の高い靴を。ストッキングの素足でアスファルトを踏み、ロングのタイトスカートの後ろの切れ目を横に持ってくる。両手で生地を掴み左右に裂引く。太股の半ばまで裂けた。

「これで文句なでしょ、って風に妃が顔を上げて。彼女が脱いだ靴を拾ってやったとき、ウィルスは」

「恋におちておられた」

 アリスとマスターは顔を見合わせてくすくす笑う。他人の恋路はやっぱり面白い。

「ごちそうさま。また来ます」

 代金を支払う。外は明るく、本当にいい天気だった。

 謹慎中の軍人は自宅の敷地から出ることが出来ない。この店は建物内だからなんとか見逃されるとしても、公道に一歩を踏み出した途端、処分不服従として罪に問われる。

 カフェから足を、踏み出した瞬間。

 満足と解放感で身体が軽くなった。

 

 屋敷は、昔通りのたたずまいだった。

 門には鍵がかかっていて、旅行中かと思った。それなら都合がいい。母親と顔を会わせずに用事がすむと喜んだのは一瞬。

「まぁアリス。お帰りなさい」

 玄関からすぐのホールに母親は居た。スーツケースを三つも四つも広げて、中に細々した衣類や小物を、詰めている最中。

「……こんにちは」

 ただいま、とはどうしても口から出なかった。

「今日はどうしたの?お仕事はお休み?」

 公爵が政変を起こして以後は元旦も帰っていなかったから、ほぼ二年ぶりの再会。それでも母親は無邪気に笑いかける。

「ごめんなさいね散らかしていて。暫く旅行に出かけるものだから」

「そうなの。行ってらっしゃい」

 アリスも普通に答えた。ただしその礼儀正しさは、母娘という感じではなかった。

 公爵家と比べるとおもちゃみたいなこの屋敷だが、それでも一応、通いの使用人は居る。

「お手伝いさんたちは?」

「お休みをあげたわ」

「卒業式のドレス、取りに来たんだけど」

「あら何処か行くの?そういえば髪型も素敵ね。お化粧も」

「うん、ちょっと」

 カフェで食事をすませてすぐ、アリスはサロンで髪型を整え化粧をしてもらった。

 唇が赤すぎる気がしてきになったが、どの色が似合うかなんて分からなかったから任せていた。美容師は髪を伸ばせとうるさかった。滅多にない素晴らしい赤毛だから、と。

 それからドレスを買いに行ったのだが、そこでアリスは重大な問題に直面する。男たちがホワイト・タイで集まるような夜会に着ていくドレスは、今日買いに行って今日着れるものではなかった。

 仮縫いに二日、本縫いに一日、最低かかると言われて目の前が暗くなった。仕方なく四年前、士官学校を卒業した時に母親がつくってくれたドレスを取りに来たのだ。もちろん、卒業式もその後の懇談会も軍服だったからドレスには袖も通していない。

「着てくれるの?嬉しいわ。どなたとデートなの?」

 二階の部屋にあがるアリスについてきながら、母親はにこにこ笑っている。

「うん」

 てきとうに誤魔化しながらクローゼットから取り出したのは藍色のサテンドレス。身体にあててみてアリスはため息つきそうになった。胸元も袖ぐりも、これでもかというほどえぐれている。

「よく似合うわ。あなたの髪を引き立てる色よ」

「風邪ひきそうな服」

「毛皮を羽織るのよ、上に」

「こんなの着たら下着はどうするの」

 素朴な疑問だった。アリスはふだん、動きやすいバッククロスのブラをつけている。スポーツ選手なんかがよく使う、肩が紐でなく伸縮性のある布でできたあれだ。とてももじゃないが、それは使えない。

「ドレスと一緒に作っておいたわ」

 母親は引き出しをあけ、ドレスと同じ色のミャミソールを取り出した。胸にパットもついていて、なるほどこれならブラはしなくていい。

「パンツは?」

「はかないのよ」

 当然のように母親は答える。

「ドレスに下着の線が出るのはみっともないわ」

「これだけ出してりゃいまさらって気がするけど」

「出すべきものとそうじゃないものがあるの。色っぽいことと下品なことは近いようでまったく別なのよ。殿方にはドレスを着た曲線を観賞していただくべきで、その中身までは想像させちゃだめ」

 母親の言葉を聞き流しながらアリスはドレスのデザインを確かめた。

 腰までは身体に密着しているが股のへんからは金魚の帯鰭のように膨らんで、足回りに問題はないけど武器は隠せない。身体の線が出てしまう、こんな布地の下に刃物は仕込めない。

 それでいいじゃないか、という気がした。 素肌と素手でいままでやってきたのだ。最後になるかもしれない今夜も、それで通せるのはいっさ清々しい。

「どうしても、というならこんなものもあるけれど」

 黙り込んだアリスをどう思ったのか、母親が出してきたのは薄い生地でできたスパッツもどき。胸の下から腿の半ばまであって、なるほどこれなら線が出ない。

「でも色気がないわよ。あなたのスタイルなら補正下着の必要なんてないのに」

「色気はどうでもいいから」

 問題はそんなことではない。

 パンツを履かずに足を頭より高く振り上げる度胸は、さすがのアリスにもなかった。

「下着の雰囲気はとても大切よ。こんなのを見たら公爵もげんなりされてしまうわ」

 アリスの母親はまだ愚痴っている。

「自信たっぷりに脱げる下着をつけていないとシンデレラの階段を踏み外すわ」

「汚れたパンツを見せられなかった女が結局、花嫁になったんじゃなかった?」

「夢物語をいつまで信じているの。ガラスの靴は階段じゃなくベットに落ちていた筈よ。でなくて男が、女を捜すものですか」

 アリスは返事をしなかった。このへんがこの母娘の断絶の原因。母親は娘を対等な女同士として扱いたがり、アリスはそれを強硬に拒む。女であり過ぎる母親となさすぎる娘。「ウィルスを誘惑する気はないから」

 同じことを公爵が言っても気にならないのに、この母親が言うと腹が立つ。

「そうなの?残念。あの方はとてもいい方と思うのに」

「あんなに嫌っていたじゃない」

「昔はね。でも今となっては、頼るのはあの方だけでしょう」

「あたしがウィルスとどうかなって、どうするっていうのよ」

「安心するわ。きっと一生、あなたの後ろ楯になってくださるでしょうから」

「あいつ女には薄情よ」

 訳ありの女を、彼が簡単に棄てるのを何度も見た。

「子供を生めば大丈夫」

「あいつの子を?嫌よミツバのライバルになるじゃない」

「……それもそうね」

 母親はふと考え直す。

「あなたにはミツバがついているもの。大丈夫よね」

 そんな言い方に、アリスはイラッとした。それじゃまるで、庇ってもらわなければ生きていけないみたいじゃないか。

 守っているのは自分のつもりなのに。

 いつもはアリスが尖った声を出すと黙りこむ母親が、

「ねぇアエリアス。あなたにはいつか言おうと思っていたんだけど」

 今日はしつこかった。

「ごめんなさいね」

「なにが」

 振り向きもせずアリスは帰り支度。

「あなたが殿方を嫌いなのはわたしのせいかと思って」

「わたしは男嫌いじゃないわ」

 さらりと言えた。本当のことだったから。嫌いなのは女だ。自分自身を含めて。

「そうかしら。心配なのよ。あなた結婚もしないで一人で、これからどうするの。女の子がいつまでも軍人をやってる訳にもいかないでしょう」

 母親の、昔からの口癖。子供の頃からさんざん喧嘩をした。家庭内暴力寸前までいったこともある。

 アリスはアリスなりに軍人として一生懸命、やっているのだこれでも。

 身体を張って意地を張って。もちろん素質にも師匠にも恵まれた。有力者とのコネもある。……あるどころではない。

 でも努力もしている。なのにそんな風に言われると情けない。腹が立つ。それは悲しい裏返し。

「それと、これを」

 差し出された大きな封筒にアリスは眉を寄せる。既に切手さえ張られた表にはアリスのマンションの住所。住所の上には特別書留と赤で記されてる。

 見た途端、アリスはぞっと、嫌な気持ちがした。

「なんですか、これ」

「屋敷の権利証よ」

「だと思った」

 大きな声をあげるまいと、アリスは深呼吸ひとつ。

「いりませんよ」

 静かに言えた。

「まだ怒っているの……」

 母親は呟く。

「言葉の綾だったのに。何年も前のことなのに」

「さようなら。旅行、気をつけて」

 努力して穏やかにアリスは立ち上がる。

「待ちなさい。あなたコートを持っていないでしょう。わたしの毛皮を」

 追いかけてくる声から逃げるように車に乗り込んだ。

 

 午後五時。夕焼けが街を染める時刻。

 アリスはパルスラの大使館前に立った。

 毛皮は着ていない。代わりに黒い皮のロングコートを着ている。一昨日、国王が着せてくれたあれだ。

 極上のなめ皮で足下まですっぽり隠れている。頭にはショールを巻いていた。

 守衛に名乗ると不思議な顔をされた。とりあえず奥に取り次いではもらえたがボディーチェックをと言われてコートを脱ぐ。守衛は見るなり目を丸くした。

 胸の膨らみが半分見えているような、こんな薄着とは思わなかったのだろう。胴のあたりに形式的に触れて、それでチェックは終わった。

「なんの用だ」

 パルスラの領主が出てきたのは出迎えではない。玄関先で追い返す為。昨日ぶった頬がまだ少し腫れてる。

 そりゃそうだ。普通の女にぶたれたのとは違う。

「お城のパーティーに、同行していただきたくて参上しました」

「君は寝惚けているのかね」

 領主の対応は冷たい。恥をかかされた、と思っているのだろう。

「それともまさか、詫のつもりではないだろうな。そんな厚化粧をしてわたしが喜ぶとでも?」

「化粧、やっぱり厚いですか」

 アリスはそっと頬に触れた。メイクも髪型も美容院任せだ。

「どこかの女好きの公爵なら喜びそうだがな、わたしに色仕掛けは無用だ。とっとと帰るがいい」

「だれも何とも言ってくれないけど」

「わたしは忙しいのだ」

「これはあなたの顔と思うんです。母にはわたし、少しも似ていないから」

 髪に掛けていたショールを外す。

 はらっと、顔の横でほどける頭髪。

「君はいったい、な……」

 領主の怒鳴り声は途中で途切れた。

 視線はアリスの髪に張り付いている。これだけは母親とそっくりの、炎のように真赤な髪。

 パルスラ領主の視線が髪から顔へ向く。アリスも彼の顔を見つめた。領主の手が、彼の身体の横で震え出す。

「君は……」

 言葉は続かない。手どころか顎までがくがくと震えている。無理して喋れば舌を噛むだろう。

 守衛が呼んだのだろうか、奥から何人か出てくる。その中の一人に見覚えがある気がしてアリスは微笑む。側近らしい男もじっとアリスを見る。

「……ジュディ様?」

 呼ばれてアリスは目を閉じた。懐かしい幼名。もう殺されてしまったも同然の名前。そう呼ばれていた時代は前世の記憶のように虚ろだ。

 けれど、確かにあったのだ。

「ご息女ですよ、ご領主」

 秘書官は大声で領主に呼びかける。領主はいちどごくりと唾をのみ、

「ジュディか。本当に?」

 震える声で問いかけ。

 問われてアリスは目を開けた。

 まぶたをきつくつむっていたせいでぼんやり、かすむ視界。

 その中でブラタル領主がアリスを見ている。 顔も覚えていないと思ったのに。

 何故か懐かしかった。

「ええ、お久しぶり」

 アリスが笑う。

 赤い花弁の、花が咲いたように見えた。

 

 しとしと、雨が降ってきた。

 昼間はいい天気だったのにと、車の窓ガラスごしにアリスは空を見上げる。どんよりとした厚い雲が王宮のそびえ立つ山頂にかかっている。

 車は坂道にさしかかり左右に揺れだした。さっきから領主は一言も喋らなかった。背中も横顔も凍ったようにピキーンと張りつめている。

 王宮の貴賓用の門前で車から降りる。車どめには大きく屋根が張り出して、濡れる心配はない。

 来賓用の門の外側で、儀仗兵が二人が踵を鳴らし、式典用の杖を打ち鳴らし到着を告げる。

 アリスはここに来るのは初めてではない。四課の手が足りない時に応援で、五課の彼女も何度か出入りした。警備用の出入り口からはいって門の内側で待機した。

 その時に見覚えた通り、領主のそばに寄り添い腕を絡めようとしたら、

「……いいのか」

 領主は掠れた声で尋ねる。ようやく視線がアリスの方を見た。痛々しいほどに真摯に。「わたしはこの国でたいへん評判が悪い。わたしと一緒に居るところを見られたら、君が困るのではないか?」

 アリスは言葉では答えず、微笑んだ。

 評判なんてそんなもの、いまさら気にはならない。

 謹慎を無視してここに居るということ自体が既に大問題。

 もう一度腕をさしのべると、領主は肘をはってくれた。出来た空間に手を通す。慣れないハイヒールが歩きにくくてよろめく。領主は支えて、ゆっくり歩いた。

「殺されたと思っていた」

 領主が再び口を開く。

「わたしがですか?」

「君の母上あてに送った養育費が送り返されて、安否を調べさせたが、行方不明だった」

「知りませんでした」

 アリスの母は父親の話をしなかった。アリスも、とくに尋ねはしなかった。

「出来る限り調べたが消息はつかめなかった。母上の親筋も口が重かった。だからトゥーラで、君と母上は殺されたと思っていた」

「どうしてそんなことを?」

「わたしがトゥーラの国益とは違う立場をとったから」

「まさか、そんな」

 アリスは笑う。

「そんな物騒な国ではないですよ、ここは。親類があなたに居場所を言わなかったのは安全の為です。パルスラの内乱のとばっちりで誘拐されたりしないように」

「母上は?彼女も生きているのか」

 期待に満ちた問いかけに、

「再婚しました」

 説明すると長くなるので、簡潔な嘘をつく。

「相手はこの国の重臣で、彼女の息子はこの国の爵位を継ぎます」

 それは嘘ではない。

 領主の表情が絶望にくもる。

「その子のためにも、母とあなたとのことは消す必要がありました」

 ミツバが母親と引き離され公爵邸に引き取られたのも、母方との縁を少しでも薄くするため。アリスとの関係がぼかしてあるのもそのせい。

「そうか」

 それからしばらく領主は黙った。

「それで君は、なぜ軍人なんてやっているのか」

「やりたかったからです」

「女のする仕事ではない」

「わたし子供の頃、あなたに捨てられて悲しかった」

 アリスの言葉に領主は腕を強ばらせた。

「男の子に生まれてくればよかったと思いました。でも今は捨てられて良かったと思ってます。あなたのお国は、住みにくそうだ」

「そんなことはない」

「万人規模で移民があってる。あなたのところからここへ」

「大国は豊かだ。豊かさの為に誇りを捨てる生き方がいいとは思わない」

「黒パンとヨーグルトだけで生きていくのも、ご自身だけなら結構なことですが」

 ぐきっと足首をゆらすアリス。領主が咄嗟にもう一方の手を出して支えてやった。

「ありがとう。……他人に強制するのはどうでしょう。厳しすぎやしませんか」

「属領出身というだけで屈辱を得て犬のようにはいつくばって生きていくよりもマシだ。」「昔は差別もあったみたいですが、今はたいしたことないですよ」

「わたしは知っている。この国に留学していた時代に」

「何十年前の話です、それは」

「人の心はそう変わるものではない」

「変わりますよ。捨てられて泣いてた子供が、かえってせいせいしたと、今は思ってんですから」

「……」

 領主は黙り込んでしまった。

「すいません。いまさら恨み言を言うつもりはないんです。ただあなたのお考えがあまりにも古すぎるんじゃないかと」

「望んで別れたのではない。君とも、君の母とも」

「パルスラの習慣ですね。『子なきは去る』というのは。子供といっても必要なのは男の子だけで、女の子しかもたない妻をおいたままでは、あなた、領主になれなかった」

「そうだ。親類たちの支持の条件だった。君の母親と別れて別の女を娶るのは。……君たちし別れることは辛かった」

 苦悩する声でそう言われ、

「でもなんにもしてない」

 アリスは情け容赦なく反論。

「パルスラの習慣を変えようとか、女子差別をやめさせようとか、あなたは一度もしていない。本当に骨身にしみて辛かったのなら、なにかしたんじゃないですか?」

 虚をつかれた形で領主は言葉を失う。

「ダドリーはしていましたよ。少なくとも、異国人として差別を受けたと思った瞬間に暴れまくっていた。過剰防衛だったたけど、あいつの誇りはよく分かった」

「奴は売国奴だ」

「あなたは偽善者だ」

 それきり二人とも黙った。

 しばらくして、

「もしもわたしが君に、してやれることがあるなら」

「ありますよ。でもしてはくれないでしょう」「そんなことはない」

「ウィルスの身方をしてくれと言っても?」 組んでいた腕に隙間ができる。そして。

「……君は公爵と親しいのか」

 返ってきたのはそんな台詞。

「君は公爵と、その……、特別な関係なのか」 訊ねられ、アリスは笑った。

「きかれると思ってましたよ。母の再婚相手が公爵の身内だったので、兄貴みたなものです」

「いい噂は聞かない男だ」

「私には優しいくて、いい奴です」

「手を切るつもりはないのか、あの男と」

「切るも切らないも、あいつ家族同様ですからね」

「あんな男は君のためにならないと思う」

「女房子供が世話になった相手に、言うにことかいてなんてことおっしゃる」

「世話になったのか……?」

「母の再婚相手、早死にしましたからね。それからは経済的にも社会的にも」

「そうか……」

 領主は考えこんでしまった。

「それなら君は居場所がないのではないか」「は?」

「義弟が爵位を継ぐと言っただろう。母上は息子の縁に繋がっていればいいが、君はそうもいくまい」

「誰に繋がらなくても、わたしもう子供じゃないですから」

「パルスラへ来ないか」

「わたしの話、聞いてませんでしたね」

 

 アリスは会場へ着くまでに何人もの知った顔に会った。驚いて目を見開く者、声を出さずに笑う奴、いろいろ居た。

 応援でこちらに来ていたアリスの部下たちは彼女を見るなり顔色を変えた。謹慎処分中の彼女がこんなところへ出てきたのを知って。「ボス……」

 回廊の途中、人気のない場所で副官が声を掛けてくる。

「あんた、なんでこんな所に。それにその頓馬な格好」

「後任は誰になった?」

「あんたの後はサリハで、四課の兄貴のあとはフセインです」

「やる気のない人選」

「そりゃあんたらに比べれば。や、んな事はどーでもいいんですよ。あんた謹慎処分中だろ?なんで」

 よりによってパルスラ領主の同伴者として、こんな所へ出てきたのかと、目顔で問い。

「訳ありでね」

 アリスは思わせぶりに答えると、

「あぁ、そういうこと」

 副官は納得した。公爵あたりから極秘の指示でも出たと勝手に思った様子で。

「じゃ、俺はこの辺に居るから。他にも何人か、中庭近くに五課から来てる」

「分かった。ご苦労」

 回廊を通り過ぎたところで、

「今の男は?」

 不思議そうに領主がきいた。

「君をボスとか呼んでいたが。……変わった仇名だな」

「部下ですよ」

 なに寝言いってんだか、という表情を隠しもせずにアリスは答えた。

「ちょっと批判精神が旺盛な奴でしてね。扱いにくいところもありますが能力はある」

「君は部下を持っているのか」

「大尉ですから。会議場の警備責任者でした」「君が?」

 不思議というか不審というか、理解の範疇外、という表情の領主。アリスはかまわず、ようやくバランスを取ることに慣れてきたハイヒールで歩いていく。

 それでも歩みはのろく、次々に他の出席者に追い越されていく。そのうちの一人が振り向いて、

「……やっぱり、アリス?」

 誰かと思えばオリブス半島妃。

 今日も真紅のドレスを着て、耳元に同じく真紅のルビー。大きさは二つとも親指の爪ほどもある。同伴者は外務省時代の同僚かなにかだろう。

「見違えたわ。あなたって、やっぱり、美人ね」

 パルスラ領主には敢えて目もくれない。顔を合わせれば罵っていた昨日までが嘘のよう。国王に釘をさされているのだろう。でなければこの豹変は理解できない。

「そうですか?さっき頓馬な格好って言われましたよ」

「誰から?」

「部下の一人です」

「きっとその人はあなたの軍服姿を好きなのよ。凛々しくって、とても素敵だもの。あれもいいけれど、ウィルスはきっとその姿も好きよ。会った?」

「いいえ」

 ゆうべ国王が連れて帰ってそれっきり、なんてことはいえない。

 妃は公爵の容体をききたそうだった。が、隣に居るのがパルスラ領主だったので我慢した。また後でねと言い残し会場へ入ってゆく。「……君は」

「半島妃ですか?友人です」

「大丈夫なのか?」

「なにが?」

「君を利用するつもりで近づいたのでは?」

「わたしがあなたの娘だって彼女は知りません。オリブス半島の領主と知り合う前、彼女が外務省の下っ端だった頃からの友人です」

 まさか惚れていたとは言えない。

「今でも大好きな人です」

「……」

 

 ようやくたどり着いた王宮の大広間の一つ、樫の間。今夜はここが晩餐会の会場になる。 パルスラ領主の席はやや奥まって、オリブス半島妃とはずーっと離されていた。サラブの将軍の顔は見えない。多分まだ、王都に戻っていないのだ。

 出席者は揃っておらず、早く到着した面々が席を立って談笑し親睦を深めている。

 パルスラ領主のところへ来る人間は居ない。公海協定を不成立にしたこの男は皆から恨まれてる。オリブス半島の軍艦も抑留したままで、悪人の役回り。

 やがて国王の出御をしらせる鐘が鳴り来賓たちは席につく。トゥーラ国旗の色でありトゥーラのシンボルカラーでもある群青色のテーブルクロスの上に形良く畳まれた王室の紋章を刺繍した麻のナプキンを膝に広げて、晩餐会が始まる。

 目の前に置いてあるのは大きな皿。そしてその上に小さなスープ皿。給仕がやって来てとろりとした液体を満たす。鼈のコンソメ風味。

 スープが終わる頃には挨拶も終わって会場は盛り上がっていた。けれどパルスラ領主に話しかける者はない。

 隣で背筋を伸ばしたまま、毅然と孤立を守っている男に、たずねたいのを我慢する。こんなのが楽しいんですか、それで領地の為になってるんですか、自己陶酔とは思われませんか、と。 

 前菜がまず、アリスの席に運ばれた。テーブルの上席だったから。給仕は動かない。

 暫くしてから鴫肉の冷製を皿に置いてくれた。そして。

「まだ食うな。ソースが来る」

 ごく小さな声で耳元に囁かれる。驚いたのはその言葉ではない。ゆっくり歩いて領主に、十数人分の冷製の盛られた皿を差し出しているのは、髪をオールバックにしたオルグ。

 領主は皿の端に置かれた大きなスプーンとフォークで冷製を一人前、皿に移す。自分でしなきゃならなかったらしい。恭しい仕種で会釈し、オルグは次の客へ。

 仕種は決まっていて、背の高い色男だから、本職の給仕に勝とも劣らない。でも感心してる場合じゃない。

 なんだってこいつがここに居る?

 アリスと同じ自宅謹慎の筈。

 澄ました横顔。そこに理由は書いてあった。アリスと同じ、ただの意地。どんな手段を使ってか会場の、給仕にまじってさりげなく視線をパルスラ領主の身辺に走らせてる。

 晩餐が終わり、出席者たちは場所を移動する。樫の間で、今度は舞踏会だ。松明の点された中庭を移動する。闇に炎がよくはえて、幻想的な雰囲気。

 しかしアリスはそれどころではない。足もとは石畳だ。継ぎ目の凹凸、ふだんの靴ならあることにも気づかないような、ほんのちょっとした窪みに苦労しながらひょこひょこ歩いて行く。

 追い越す来賓たち、とくに男性客の中には足を止め手を貸そうとする者もあった。が、エスコートしているのがパルスラ領主だと気づくと去って行く。回廊を過ぎる時、

「あんた、大丈夫か?」

 副官が寄ってくる。

「いいから持ち場についといて」

「見てて恐いんだよ。今にも足くじきそうで。靴あってないんじゃ?」

「靴はあってる。あたしのあしが合わないだけ」

「それを合わないって言うんだ。ちょっと見せろよ」

「馬鹿、わッ」

 靴を脱がされそうになりアリスはよれた。屈んだ副官の肩に手を掛ける。見方によってはラブシーンにも、見えないことはない。パルスラ領主は照れたのか少しアリスから離れた。そして。

 不意に崩れ落ちる。

「……え?」

 どさっという音を聞いて副官が振り向くと、領主はうつ伏せに地面に倒れている。

 銃声は聞こえなかった。消音器を使ったか、距離のあるライフルか。たぶん後者。

 副官が立ち上がろうとした時、アリスは既に地面を蹴って領主の上へ滑り込んでいた。 八センチのピンヒールが折れる。

 ドレスの裾が翻る。

 肩がのあたりに熱を感じたが、気にならなかった。

 倒れた領主の胴をまたぐようにして周囲を見回す。回廊の庇の角度からして狙撃手の位置は左手の建物の屋根。

 ふり仰ぐと、そこに立ち上がる影が、見えたような気がした。

「不審人物発見、樫の間より南西方向の建物の屋根上。逃走の恐れありッ」

 習慣でつい、胸元に向かって叫んでしまう。いつもはそこにコムの端末があるから。今日はなにもない。ただし聞いていた副官がそのまま復唱したので支障はない。

 更に行方を確かめようとした時、アリスの視界が塞がれた。

「走れっ」

 不意に目の前に出てきた影はオルグ。顔は見えなくとも声で分かった。どこで調達したのかMO106、狙撃部隊御用達のライフルを手にして。

 光増幅機がついているのが見えた。星の光があれば十分というあれだ。その性能は赤外線スコープの比ではない.

 アリスは領主の身体の上から退く。地面に転がった彼を引き起こし走ろうとする。せめて回廊の中心まで。

 襟を掴み引き起こすと領主は立ち上がった。スムーズに身体は動いている。たいした怪我はないらしい。

 そのままアリスは引き摺って行こうとした。

 隣ではオルグがライフルを構えている。彼の視界は真昼のように明るい筈。

 膝をついた姿勢でほんの少し首を傾げて、オルグは狙撃手をみつけたらしい引き金に掛けた指に力がこもる。寸前、

「やめろッ」

 ライフルの銃身をつかんで揺すったのは領主。連れて走ろうとしたアリスの腕からすり抜けて。

「やめるんだ、撃つな」

「ご領主、こちらへ」

 アリスは領主を引っ張った。

 肩になんだか、痛みを感じながら。

「撃つんじゃない。わたしはへ撃たれてもいい。……エラディ」

 肩に力が入らない。アリスは領主にふりほ