どかれてしまう。

「この子の前でおまえに撃ち殺されるなら満足だ」

 エラディって、それは。

 アリスの母親の名前だった。

 オルグが領主をつきとばす。そしてもう一度ライフルを構えたけれど、今度は引き金をひかずに下ろした。狙撃手は見つからなかったのだろう。

 照明が点いていく。

「門を閉じろ。内門も外もだ」

 アリスは二人に近づこうとした。足を踏み出す。ずるっと、膝が崩れた。

「アリス、外門周辺の捜索……、アリス?」

 オルグの声が遠い。

「早く医師を」

 それは領主の声。

 オルグが振り向く。見えないけどそんな気配。そして聞こえてきたのは。

 ギャーっというか、グワーッというか、とにかく。

 化鳥のような、叫び声。

 

 次にアリスが目覚めた時、身体が沈みこむふわふわのベットに寝ていた。

 まっさきに視界に入ったのは金茶の髪。

「……っ、」

 口を開いたけどうまく舌が動かない.

「ここは王宮の貴賓室。眠ってたのは二日。肩の傷は全治二週間。弾は貫通てる。狙撃手は逃亡に成功。パルスラ領主はまだ王都に居る。何遍もおまえを見舞いに来た。お前ともう一人は処分不服従で降格及び五日の衛曹入り。相棒はもうブチ込まれてる。お前は傷が治ってからだ。パンツとパジャマはそこの袋の中。他に聞きたいことは?」

 聞き慣れた美声。

「どうしてそんなに遠くに居るの。怒ってるから?」

 公爵は部屋のすみに座っている。

「三日も風呂はいってないんだ。女の子のそばに寄れる身体じゃない」

「大丈夫よ。あたし汗臭い男の群れに慣れてるもの。こっちに来て。聞きたいことがあるの」

 アリスがそう言うと公爵は椅子ごと移動してきた。普段は絶対につけないコロンの香りが鼻先をよぎった他には、なんの匂いもしない。

「ミツバがずいぶん心配してた。お前がここまで無茶なことやらかすとは思わなかったらしい」

「あなたが起きてたら見張りをつけられたでしょうね」

「俺が居たら、お前の嫌がることはさせやしなかった」

「サラブの襲撃、成功したの?」

 ほろっとそうになるのを、アリスはそんな質問で誤魔化す。

「半分だけ。水と食料の差し入れは出来たが救出は無理だった。今夜、パルスラの領主とアケトが最後の会談をする」

「彼が陛下の言うこときかなかったら?」

「身柄を拘束、監禁。甥を領主につける」

「内政干渉ね。評判悪くなるわよ」

「慣れてる」

 アリスはベットの上に起き上がる。肩はギプスで無茶苦茶に固められていたけど、身動きにそれほど支障はない。

「お前がなりたいならお前でもいいが」

「なりたくないわ」

「だろうな」

 当然、というように公爵は頷いた。

 それがあんまり自然だったから、

「あたしのこと分かってくれるのはあんただけよ……」

 アリスは思わずため息。

「母さんは?」

「なんのことだ」

 白々しくとぼける顔は、相変わらずの美貌。「嫂上は長い旅行に行かれた。……俺も知らなかったんだが以前、射撃部隊のエースだったらしい」

 公爵は見舞い籠からリンゴをとって、器用に皮を剥いていく。果物ナイフの柄は象牙だった。

「書類は完璧に隠されてた。同期の軍人どもの口も重かった。兄貴が生前、箝口令を敷いていたそうだ。ミツバに問いつめさしたらようやく口を割った」

 均等な幅に赤い皮を剥きながら二日の間に調査した事実を教えてくれる。

「……そういやなれそめを聞いたことなかったな。兄貴ともパルスラ領主とも。軍で会ったんだろう、たぶん」

 皮を剥かれて切り分けられたリンゴが皿にのる。わきに置かれて、アリスはひとつつまんだ。

「黒手袋の一員だったらしい。腕はなまっちゃいなかった」

「どうして引き受けたのかしら」

「さぁな。……金でも義理でもないとすると私怨か。あの領主を恨んでいたからってのは、俺としては認めたくない動機だが」

「どうして?」

「殺したいほど恨んでる、なんて、あの世で兄貴の立場がないじゃねぇか」

「愛の告白とおんなじ?」

「分かってるから言わせるな」

「あたしが男の子だったら……」

「お前はよくやったよ」

 慰められながらしゃりしゃり、アリスは林檎を噛る。

「よくやってくれた。この件にゃいろんな奴の思惑が絡んでて手子摺った。肝心の場面で退場しちまったしな。でもお前が居てくれて、なんとかカタがつく」

「あたしが男の子だったら、母は追放されなくて済んだわ。父も幸福な家庭が壊れなかったら、あんな人にはならなかったかもしれない」

「兄貴の初恋はかなわなかったし、お前と俺は会えなかった。ミツバも、アケトも居なかった」

「あたしが……、」

「どっちみち俺は前王とは対立した。俺はいつがか反気を起こす。国王を在位のままで幽閉して」

「あなたそんなタイプじゃないわ。自分のこととには面倒くさがりだもの」

「殺伐としてない男なんか居ない。俺が独裁者なんかになってみろ。最悪の展開だ。手近なところで世界征服を始める。お前が女の子で世界は救われた」

「へんよ、それ」

「嫂上の帰国はなるべく早く、出来るようにする」

「そんなんじゃないの」

 父は母を庇った。子としてはそうでないよりも嬉しいことだけど、心が重くもある。

「愛しあってたのかしら」

 とおの昔に離別した両親。

「だとすると別離の責任はわたしにあるのかも」

「ガキを庇えなかったのは親が悪い。お前が気にすることはない」

 公爵は立ち上がりアリスの肩を抱いた。

「はい。失礼いたします。パルスラ領主様のお見舞いでございます」

 桜材の扉が開く。

 案内の秘書官と領主は部屋の入り口で足を止める。アリスと公爵は抱き合ってキスしてるように見えた。

 二人とも、そのまま離れはしなかった。

「……話したいことがあるのだが」

 咳払いとともに領主が催促をするまで。

「怪我人なんだ。見て分からないか」

「知っている。見舞に来た」

「身動きのとれない女を他人と二人きりには出来ない」

「話をさせて」

 アリスの言葉に不服そうに公爵は頷いた。懐に手を入れる。アリスは咄嗟にその手を止めようとするが、触れるより早く掌に、握らされたのは武器ではない。書類。

「説得してみてくれ」

 言い捨ててウィルスは出ていく。擦れ違い様に、領主にかすかに頭を下げた。傲慢だけど礼儀正しい男。

「具合はどうかね」

「大丈夫です」

「助けてくれてありがとう」

「いいえ」

 それきり短い沈黙。そして。

「庇ってくれてありがとう」

「お気になさらず。仕事です」

「君が眠っていた二日間、君に言われたことを考えていた」

 座っていいかと領主は尋ね、さっきまで公爵が居た椅子に腰をおろす。

「……三十年前、わたしはトゥーラの士官学校でひどい差別を受けた。エラディもそうだ。射撃の実力はずば抜けていたのに女だというだけで昇進もできずに」

「エースだったって聞きましたが」

「今でこそ言える言葉だ。当時は誰も女がそうだとは、認めていなかった」

「昔の話ですね」

「君にとってはそうだろう。だが私には昨日のことだった」

「それでトゥーラをお嫌いだったんですか」「なのにどうだ。たかが三十年でこの違いは。ダドリーも士官学校に入ったのにこの国のことを好きで、君はその年齢で国際会議上の警護責任者だ」

「三十年もたてば変わりますよ」

「その通りだ。後悔している。君が生まれた時に始めればよかった。そうしたら今頃は、見通しがたっていたかもしれないのに」

「今から始めれば死ぬ前には終わりますよ」

「そうだな。時は偉大だ。君を見て、初めてそれが分かった」

 領主は頷き、そして。

「それは、なんだ?」

 アリスの手の中の書類を自分から言い出す。「……よく分かりません」

 アリスは正直に言った。トゥーラ政府の正式書類は古代語で書かれていて、読み慣れない素人には分かりづらい。

「貸しなさい.サインをしよう」

 国家規模で圧力をかけられ、それでも書かせられなかった署名が目の前で、やすやすと書かれる。

 

終章

 

 聞き覚えのない名に不審を抱きながら受け取った受話器から、

『ねぇ、衛倉に蚤が居るってホント?』

 聞こえてきたのはよく知っている声。

「入ってみれば分かる」

 降格されたばかりの少尉は答えた。

「元気そうだな。良かった」

『やっとマンションに帰ったの。三日ぶりのお風呂よ。気持ちいいったらないわ』

「風呂からかけてるのか」

『今夜、暇?』

「……どういう意味だ?」

『デートの誘いよ』

 アリスの口調は笑い混じり。

「ろくな行く先じゃあるまい」

 長いつきあいで、ダドリーはアリスが何かを企んでいることを察した。

『ご明察。でもあなた断れないわ。相手は公爵だもの。わたしはただの連絡人』

 湯を掻いたのか、バシャと水音。

『風呂入りたくて仕方ないのよ、あいつ』

「……お入りになればいい」

『水、止められてるの。あいつが勝手に風呂入らないように。ほら、半島妃が銃を持ち込んだあの時も、本当は風呂とシャワー、厳禁されていたんだって』

 オルグの返事はない。かまわずにアリスは続ける。

『ドライシャンプーとか清拭とか、ビデとかはしてんだけど、やっぱお風呂とは違うじゃない』

 電話の向こうの沈黙が変質した。アリスには目に見えるようだった。赤面しているオルグが。ビデというのが悪かったらしい。

 あれは、そんな意味ばかりで使うものではないが。

『ねぇ聞いてる?エッチな妄想してる場合じゃないのよ』

「……聞いている」

『それでね、ウィルスは王宮を抜け出したいわけ』

「手引きを俺にさせたいのか」

『察しがいいわ。王宮警備には詳しいでしょう?』

 国賓を迎えた晩餐会にもぐりこんだくらい。「お送りするのは公爵邸か?」

『うちのマンシヨン。でも、内門さえ出たら自分でたどり着くわ。帰りも自分で帰ってもらうわよ。公爵邸か王宮かに。他になんか質問ある?』

「お怪我はもういいんだろうな?風呂に入って悪化するようなことはないな?」

『さすが心配するとこが違うわね。傷口見たわ。あれくらいなら、防水テープ貼って十分くらいなら心配ないでしょ』

「時刻は?」

『これからウィルスに連絡とって、折り返し電話する。お洒落する時間はあるわよ』

「わかった」

 受話器を置いた少尉は洋服タンスを開け、とっときのスーツを手にとった。