鮫が言ったのは誘い文句。家光は今日来てねぇし、もーちょっといいじゃねぇか、と。
その誘惑が結果としてボンゴレファミリー存続の危機を救った。ザンザスがかすかに頷き、さっとボーイが走って桟敷の席が用意される。テーブルにリネンのテーブルクロスが掛けられ料理と酒が運び上げられ、一番奥のソファにどかり、ヴァリアーのボスは腰をおろす。当然のように銀色の鮫もついて来た。来客を仕切っているディーノがギリギリ、嫉妬と腹立ちで奥歯を噛み締めていることも知らずに。
彼らを桟敷に招待したボンゴレ九代目への、憎しみが心の中に浮かんでくるのを、必死に押し殺していることも知らずに。
金の跳ね馬の憎しみは、やや的外れだった。
「十五分。……、六分」
「ニヤニヤしてんじゃねーよ、なに考えてやがる」
ザンザスを桟敷席に誘ったのは九代目ではなく、次期ボスである沢田綱吉の方。もっとも、九代目の許可をとってのことだ。養子といえ蜜との対立に胸を痛めている九代目は、綱吉がザンザスに親切なのを嬉しく思っている。その『親切』には好意だけではない、欲望という邪気が含まれているのだが。
「チューぐらいしたかな?」
ザンザスたちが桟敷席に上がってからの時間を、山本武は腕時計をチラチラ見てカウント中。心から楽しそうに。
「ディーノさん、どう?」
主だった招待客に挨拶を一通り終えて、側近二人とともに休息中の澤田綱吉がオープンサンドを食べながら獄寺に訪ねる。手元のグラスに入っているのはコーラ。
「すげぇ人相悪くなってます」
スーツを粋に着崩して、ドクロをデザインしたアクセをじゃらりと身に着けて、こういう場では映える獄寺が答えた。粋な手つきでグラスを持っているが、中に入っているのは水割りではなく、こちらもウーロン茶。
「駆け上がりそう?」
ハムのサンドイッチを美味しそうに食べる綱吉の表情には期待感が溢れていた。
「どうでしょう。跳ね馬はあれでけっこう気配りの男ですから。ザンザスだけならともかく、九代目に恥をかかせるような真似はしないかもしれません」
「つまんねーのなー。やっぱこー男なら、オレのオンナに手を出すなババーン、って、派手な啖呵きって欲しいのなー」
「ンなドラマみてーなこと、現実にゃそうそう起こんねーよ」
「ザンザスがボクについてくれるなら、スクアーロさん取り戻してあげるんだけどなぁ」
その態度を、沢田綱吉はザンザスに伝え続けている。仲良くしようよ、という申し出は丁寧に無視され続けているが、アピールを止めるつもりはない。
「おごちそうさま。じゃ、ボクたちも、そろそろ行こうか」
ナプキンで口元を拭って沢田綱吉は桟敷を仰いだ。今日は邪魔な父親、門外顧問の沢田家光が居ない。天敵の不在にザンザスも少しは気持ちを和らげてくれればいいなと思いながら。
桟敷へ続く階段を登りつめ、来訪を山本がルッスーリアに伝えた。面会を拒むことも出来ず、ソファの一つがあけられて、沢田綱吉が招きいれられた、その時。
空間が歪んだ。天と地の両方から押しつぶされる感覚に、その場の全員が怖気だつ。
「ザンザス、俺を……ッ!」
沢田綱吉が叫ぶ。最後まで聞かず、ヴァリアーのボスは掌に宿した憤怒の焔を目の前の少年にブチ込む。リングも特殊弾も投薬も必要としないそのちからは、ごく自然に、生来、ザンザスに宿っていた特性。
だからこそザンザスが『養子』としてボンゴレ本家に迎えられたとき、周囲は彼を九代目の直系として認識した。歓迎はされなかったし母親の素性の卑しさを問題視する声も大きかったが、本人を偽物だと言った人間は一人も居なかった。それほどザンザスはボンゴレを誰より鮮やかに具現していた。
それほどの死ぬ気の焔が、血の繋がりのないザンザスに何故、宿っていたのかは分からない。普通に考えれば娼婦であったその母親に、九代目本人ではないとしてもボンゴレの血筋の誰かが種を孕ませて、その結果、生まれた子供がザンザスであったとしか考えられない。けれどもボンゴレリングはザンザスを拒んだ。
なぜ、なのかは、分からない。分からないけれど、だからといって価値が変わる訳ではない。憤怒の焔を打ち込まれそれを自身のちからに変換した沢田綱吉は特殊弾なしでオレンジの瞳のハイパー化を遂げて、襲い掛かる恐ろしい圧力に対抗した。
真っ白な光が天地を貫き、竜の鳴動を止めたことに、気づくべき者たちだけが気づいた。
「十代目!」
「ツナ!」
「ザンザス、ザンザスッ」
「ボス、しっかりしてッ!」
桟敷でそれぞれのお供たちが騒ぐ。沢田綱吉は床の絨毯に膝をつきなんとか意識を保ったまま顔を上げる。ザンザスはソファに崩れ落ちたまま目を開かない。顔色が青白い。
「ザンザスにナニしやがった、てめぇッ」
「落ち着けスクアーロ。敵はツナじゃねぇよ」
「ご、めん……。咄嗟に……」
沢田綱吉は額の汗を掌で拭いながら詫びる。
「……食べちゃった」
正直な実感。ちからが必要で、打たれた以上のザンザスの焔を貪り喰らってしまった。特性は違うものの、同じボンゴレの死ぬ気の焔。より純度の高いザンザスのちからはバリアフリーで沢田綱吉に流れ込んだ。
それは生命のエネルギーそのもの。奪い尽くされたザンザスにしてみれば、たまったものではない。
「ちゃったじゃねぇぞぉッ」
「ごめんなさい」
意識を失ったザンザスを背中に庇いながら牙を剥く銀色の鮫に、次期十代目の少年はもう一度、頭を下げて謝る。
「おい。抜くンなら、覚悟しやがれよ」
同じように十代目を背中に庇って獄寺が指に自慢のボムを挟み、義手の左腕を無意識に構える銀の鮫と相対。
「スクちゃん、待って。今はそうじゃないわ」
敵は違うと、銀色の鮫と獄寺の間にルッスーリアが体を滑り込ませるのと。
「今のは、何だっ!」
地震かとざわめく広間から、金の跳ね馬が階段を駆け上がってきたのは同時だった。
「攻撃です、ディーノさん。多分、白蘭の」
沢田綱吉が答える。山本武に抱き起こされながら。一度は自分でヨロリと立ったが、自身を支えきれずにまた床に崩れる。膝をつく前に山本の腕が抱きとめたけれど、こちらはこちらで、全力を振り絞っている。
「ムリするな、ツナ。喋るな」
「ザンザスと九代目をボンゴレの本邸へ。ヴァリアーの人たちは本邸で二人の警護を。スクアーロさんも一緒に」
額に冷や汗を、また浮かべながら、それでも沢田綱吉は指示を出す。呼吸は荒いが口調は落ち着いている。
「情報収集と迎撃体制をとれ。白蘭への報復は、ディーノさんにも、ご協力いただきます」
綱吉の言葉は依頼ではなかった。この会場を仕切っていたのはキャバッローネであり、敵襲を許した責任の半分はそちらにある。勿論だ、と、金の跳ね馬は答える。ボスであるディーノが居る会場に白蘭が仕掛けたということは、キャバッローネに対する明らかな敵対行為でもある。
「獄寺君」
「はい、十代目」
「僕の代わりに指揮を……。それと、ヒバリさんが、ドイツに来てる、筈だ。呼んで……」
そこまでで、沢田綱吉の言葉と意識も途切れる。よ、っと、その身体を山本が肩に担ぐ。同じようにザンザスもルッスーリアに担がれた。その前を獄寺と銀色の鮫が歩く。
「スクアーロ」
「後でな」
行くなとディーノに告げられかけた銀色の鮫は、短い言葉だけで一瞥も与えずにその場を後にした。ボンゴレ十代目の指示がある以上、ディーノもそれ以上は言えない。実際、今はそれどころではない。
広間の奥では側近たちが九代目を囲んで壁を作り周囲を警戒していた。そこへ獄寺が向かい、事情の説明を説明し、沢田綱吉から指揮をと命じられたことを告げる。九対目が頷いて沢田綱吉の指示が追認された。急に気分が悪くなったということにして、ボンゴレ九代目は意識を失ったザンザスとともにボンゴレの本邸へ運ばれる。途中、ルッスーリアの運転する車から、スクアーロが連絡を入れたヴァリアーの本拠地では、ボスはこっちに返せよという意見もあったが。
「ンな悠長なこと言ってられねーんだよッ」
車内の空気をビリビリと揺らして獰猛な鮫は電話の向こうの仲間たちに向かって怒鳴った。ボンゴレ本邸はここから車で二十分も走れば着くがヴァリアーの本拠地は二時間かかる。途中で白蘭からの襲撃を受ける可能性を考えれば、長い移動は出来ない。
「それよりてめーら、さっさとこっちに出て来い。あ?ジジィがイヤとか言ってる場合じゃねーんだッ。急げよ、いいなッ」
電話が切られる。
「ボスの様子はどう?」
ルッスーリアの口調も珍しく緊張して固い。
「びくりともしねぇ」
ぎゅ、っと、男を抱きながら銀色の鮫が答える。かすかな呼吸は伝わってくるけれど握り締めた指先は冷たくて、抱きしめる鮫の心まで冷やした。
「……チクショウ……」
口惜しがる、歯噛みの声が、重く地を這う。
長い時間と沢山の人間を関わらせて、一瞬の勝負に出た白蘭側の作戦は失敗。
「術士は何人やられた?」
さして残念そうでなく、新興マフィアの正体不明なボスは部下に尋ねる。
「三十四人です」
部下が答える間にも、魔法陣に似たサークルの中で術士が血を吐いて倒れるのがモニターに映る。
「三十五……、三十六人です」
命をふり搾ったのはボンゴレの二人だけではない。白蘭に所属する術士たちも、地脈を動かすという難事に命がけで挑んで、そして破れた。術が通らなかった報い、逆凪の風に打たれて一人、また一人と、呪詛返しを阻む円陣の中で尚、自身の命を守りきれず、重圧を受け踏み潰された蛙のように、血を撒き散らし命を散らしていく。
「絶対いけると思ったんだけどねぇ。ボンゴレもやるね。死ぬ気の焔とかいうの、ホラ話じゃなかったんだね」
「そもそも、あなたの計画がムチャですよ」
その隣では入江正一が遠慮のないコメント。
「あんなに大きな組織を、こんなに一度に、潰そうなんてムチャ過ぎる。パフォーマンスが好きなんだから、白蘭サンは」
「まあいいじゃないの正チャン。これであっちの力を測ることはできたよ」
「せめてもう少し、散らばっているところを狙えば、どれかはやれたかもしれないのに」
「はいはい。せいぜい今後は相手を見くびらず、真面目に対決することを誓います」
「ウソばっかり」
「三十七人です」
「残り三人、か」
足を組んでモニターを覗き込む白蘭の目尻が笑っていることに入江正一は気づいていた。組織の誇る術士たちを集めて遂行されたこの作戦だが、目的は。
「……」
どうやら別にあったらしい。残り三人の死を待つ自分のボスに気づいた入江正一は口を閉じ、じっとモニターを眺める。
「どうしたの正チャン?」
隣でにっこり、微笑まれて。
「あなたのことを、怖いと思っているところです」
「大丈夫。正チャンのことは愛してるから」
「神々の寵愛は、気まぐれで移り気で、撫でた手を翻して、首を引き抜かれるんでしたね」
「ボクは神様じゃないよ?」
「みたいな、ものですよ」