振り返ればその年末はザンザスにとって試練の冬だった。
隠されていた事実を知ってクーデターを起こすまでの狭間の時期の帰省。最後の雌伏の日々。ノエルの前から新年をまたぐ二週間、眉間に深刻な皺を寄せながら過ごした。
「あー、ナンか、服がきもちわりィ」
御曹司の不安定さは私室に引っ張り込まれ少年にも分かった。戯れながら一夜を過ごし、翌日は目覚めた時点で昼前。昼食を一緒に食べ、また肌を寄せ合ううちに日が暮れた。
夕食を養父ととらなければならない御曹司は、少年が着替えるのを眺めながらひどく不機嫌だった。少年の迎えはボンゴレの本邸近くのホテルに待機していて、そこまではオカマの格闘家が少年を送ってくれる手はずになっていた。
少年の生家は北イタリアのマフィアの幹部の一員で、ボンゴレとは友好関係にあるが同盟というほどでもない。父親の配下の若いにぃさんが迎えにきてくれているのを、ボンゴレ本邸の敷地には入れられない。
帰るなとかまだ居ろとか、そんなことは言われなかった。けれどシャツに袖を通す少年は、ベッドの中から自分を眺める御曹司の、発火しそうな不機嫌には気づいた。
「裸で居すぎたかなぁ。布がなんかさぁ、動きにくいぜぇ」
なんでそんなに睨むんだよぉ、と、思いながら、沈黙に耐え切れず口を開く。ベッドの中で裸でシルクのボアシーツとシルクの毛布と、御曹司の素肌の体温に埋もれて丸一日以上を過ごしたから、関節の動きを制限する衣服に違和感を覚えた。
「おまえ着なくっていいのかぁ、ザンザス?カマが怒鳴り込んでこねぇか?」
ルッスーリアという名のおつきは、昼食と一緒に二人分の服を運んできた。少年にはクリーニングされアイロンをかけられ、襟には型紙を嵌められて形を整えられた学校の制服。あのバカでかい車の中で脱いだものだった。御曹司にはディナージャケットが届けられている。今夜はボンゴレ九代目と、どこぞの高級レストランでお食事らしい。
「……知るかよ」
御曹司は裸のまま。下着もつけず、本当に機嫌が悪い。そっぽを向いた横顔が急に愛しくなってシャツの袖ボタンを嵌めながら少年はベッドに近づく。名残のキスを、しようとしたら顔を背けられてしまう。
「ナンだよぉ、させろぉ」
「家に帰ってどうするんだ、てめぇは」
「んー。ノエルには姉貴が焼いたターキー食って年末にはお袋が作ったザンポーネ(豚足の皮に肉を詰めたサラミ風のハム)食って、カポダンノ(元旦)が過ぎたら用一つ済まして、あとは学校始まる六日まで多分寝てる」
「ふん、つまらねぇな」
そこでようやく少年は御曹司が不機嫌な理由に気がついた。いつも無愛想な奴だが今はまたいつもに増して刺々しい。この表情とこの口調は、もしかしたら。
「はぁい、若様、坊やちゃん。お着替えは終わったぁ?」
うわさをすればなんとやら。ノックの音がして、返事をする前に派手な髪の色のサングラスをしたお付がやって来る。
「いやぁ若様、まだ裸じゃないのぉ。いやいやぁ、九代目をお待たせする訳にはいかないのよぉ。今日は幹部と分家と門外顧問もお揃いなのよぉ。遅刻なんか出来ないわよぉ」
「オレは病気だ。風邪をきいて寝込んだ」
「だぁめぇ、いやぁー!」
ベッドの毛布に潜り込もうとする御曹司をカマのマッチョが、ぐいぐい毛布を引っ張って阻む。
「ぼ、坊や、ねぇ手伝ってちょうだい、お願いッ!」
「ノエル前なのに会食かぁ。いーとこのボンは大変だなぁ」
「ノエルのパーティーはお庭で盛大な園遊会ですもの。お身内でお話をしている余裕はないのよぉ」
「キャビア、出るのか?」
「パーティーに?もちろんよ。シャンパンとキャビアがないパーティーなんてあり得ないわ」
「いいなぁ。いっぺんアレ、腹いっぱい食ってみてぇんだぁ」
「……召し上がる?」
「あんの?」
「若様の着替えを手伝ってくれたら夕食に出してあげる。キャビアを一センチ乗せたオープンサンド」
「やりぃ」
少年は嬉しそうに声をあげ御曹司がひっかぶった毛布に手を掛ける。するりと、それは少年の手の中に納まる。
「ついでにノエルのパーティーまで居たらいいじゃない。招待状がなくても平気よ、もう中に居るんですもの」
ノエルは明後日に迫っている。
「園遊会でごはん食べてからお帰りなさいな。キャビアもフォアグラもトリュッフもあるわ。ああでもパーティーまで待たなくても、どっちも今夜、お料理してあげる」
「……豚になるぞ」
毛布の下から現れた素っ裸の御曹司にお付が絞ったあたたかなタオルを差し出す。御曹司は自分で顔を拭った。髪はお付きの格闘家が拭った。
下着とスラックスは御曹司が自分で身につけたがおろしたてのシャツの固いボタンは少年が外して着せかけ袖を通させて着せてまたボタンを嵌める。お付きの目を盗んでその胸元に頬を押し付けると、お月など全く気にせず御曹司は少年の顎を掴んで唇を重ねる。
「坊やのお供にはお土産を持って帰ってもらいましょうね。お家にはわたしが交替をいただいて送ってあげるわ。そちらにちょうど、用事もあるし」
格闘家がそう言った瞬間、少年が唇の端だけで少し笑う。
「さぁ、若様」
王子に仕える侍従の恭しさでお付は小腰を屈め部屋のドアを開く。出て行き際に御曹司は振り返った。視界の中で少年が、せっかく結んだシャツのネクタイを外しているのを見て確認してから出て行く。帰ってきても居る、ということを確信してから。
部屋の中から見送った少年は、若様を送って戻ったお付に電話室に案内された。御曹司の部屋にももちろん電話はあるがそれはボンゴレファミリー内のいわば『社内回線』で、外部である少年の生家へも繋がることは繋がるが、番号を知られる訳にはいかないのだろう。
「あー、だから、ボンゴレの、息子にザンザスってのが居て、同じ学校で。……、そう、ソイツ。今そいつんち。……んー、要するに、そーコト。いやボンゴレの客じゃねぇけど」
剣士としての将来を嘱望される銀色の少年がボンゴレの御曹司に『さらわれた』話は既に、目撃者たちを通じて実家にも伝わっていて、話は早かった。
「またンなこたぁ考えてねぇよ。……、あぁ。ザンザスとキャビア食って寝てる。ノエルこっちで過ごして帰るから。……分かってる」
実家の反応は悪いものではない。歴史・実力ともにナンバーワンのボンゴレ本家の跡取り息子に気に入られ、手駒になるのは悪いことではない。うかれた様子の電話を切って、御曹司の寝室へ戻る途中でついて来てくれる格闘家に、少年は。
「なぁ、あんた相手、してくんねぇ?」
逞しい腕や盛り上がった肩を眺めながら言った。密度が高そうな筋肉だ。このカラダならマトモな相手になりそうだった。
「ダメよぉん。怪我させちゃったら、若様にわたしが殺されちゃうわぁ」
「……」
少年は薄く笑う。今度ははっきりと。
「坊やみたいな上玉に、手加減し通せるほど温和じゃあないのよ、ア・タ・シ」
子ども扱い、格下扱いをしているのではないという意味のお付きの発言に少年は嘲笑交じりの笑みを引っ込める。
「若様は、ご存知なの?」
「さぁ。オレは喋ってねぇけど」
「ならご存知じゃないわね。話さないの?」
「必要ねぇだろ」
「テュールは、強いわよぉ?」
「だな。でもオレの方がつえぇ」
「自信家ねぇ、坊やは」
「つけさせたのは、あんたらだ」
ヴァリアーへのスカウトはこのお付きだった。自身、業界最高峰の呼び名も高い暗殺部隊の一員でもある。少年が出した条件をヴァリアーのボスはのんで、勝負は新年、早々に行われる。
車の中から御曹司のベッドへ直接、運び込まれた少年は珍しそうに廊下に並んだ銀の燭台を眺めながら歩く。
「いらっしゃい、坊や」
大勝負を控えて勝負の勘を鈍らせたくない様子の少年を格闘家はホールに導いた。
「喧嘩の相手は出来ないけれどダンスなら教えてあげる」
「だんすぅ?」
「そんな嫌そうな顔をするものじゃないわよ。自分のカラダをコントロールするのにこれほど役に立つものはないわ。わたしたちのような格闘家も舞踏家には一目置くの。スピードと重心のキレと方向転換の速さを鍛えるには一番」
「……ふぅん」
専門家の言葉に少年は素直に頷く。生意気な自信家だが可愛いところもある。
「学校で初歩のステップは習っているわね。じゃあお手をどうぞ、坊や。音楽はわたしが歌うわ」
「オレがテュールに勝ったらあんた、その坊ややめろよ?」
「いいわよ、勝てたらね」
差し出された両手に手預け、押し付けられるままに腰をぴたりと重ねて、格闘家が口ずさむリズムに乗ってリードされるままステップを、踏み出したのは、午後の五時。
「……なにしてやがる。てめぇら」
会食は愉快ではなかったらしい。出て行った時の五倍は深くなった眉間の皺とともに御曹司は本邸の敷地に与えられた館へ戻ってきた。
「ああぁ、若様ぁ、助けてぇ」
青色吐息で音を上げるオカマの格闘家の、手をぎゅっと掴んで離さない少年は。
「おぅ、お帰りぃ、ザンザス!」
曇りのない銀の瞳をきらきらさせながら、コートを纏ったままホールへ踏み込む御曹司を振り仰いだ。それでもステップを踏む足の運びはとめない。
「もぅいやぁ。かんべんしてぇ。十代の心肺機能にはついていけないわぁ。あぁああーん」
「ダンス習ってんだぁ。すっげぇ面白いぜぇ。歌ってくれよザンザス。それとももしかしてオマエも踊れんのか?」
「代わってちょうだい若様ぁ。ごはんも食べずに四時間もぶっ通しなのよぉ。壊れちゃうぅー」
「キャビアはどうした」
御曹司のその言葉に、少年は四時間、動かし通しだった足を止める。
「……忘れてた」
本当に忘れていたらしい。
「腹減った……」
それはそうだ。もう夕食にしてはかなり遅い時間。
「もって、く、るわ、食堂に居て、ちょうだい」
ぜぇはぁという感じで、しかし足運びには少しの乱れもなく、お付きの格闘家が厨房へ向かう。
「アイツと踊ってたのか、四時間?」
「おぅ。あいつすっげーステップ踏みやがるな。でもだいぶついていけるよーになったんだぜぇ」
「……」
あの格闘家の凄さは御曹司も知っている。だから無言の感嘆は目の前の少年に向けられたものだった。アレを四時間引っ張りまわすなんざ、キサマどういう機能してやがるんだ、と。
「でもマジ腹減った。なぁ食堂って何処だ?オマエ腹いっぱいか?一緒にキャビア食わねぇかぁ?」
御曹司に近づきコートを脱がせながら少年が尋ねる。
「食わねぇ」
「付き合いわりぃの」
ちえっ、という風に唇を突き出す少年の首筋にもネクタイを外し襟をはだけた喉にもうっすら汗が浮いている。衝動のまま御曹司はかがみ、白い喉に噛み付く。
「ザ……、ッ」
突然そんな真似をされて、まだ自分の価値に気づいていない少年はすくみ上がる。楽しかったときらきらした目で見上げられて、御曹司は発火した。
「ん……、っ、は……」
御曹司の背後には別のお付きが居たけれど見てみぬふり。ボンゴレの御曹司が気に入った『相手』の一人や二人を何処でどうしようが、咎められるほどのことはない。
「風呂に入ってる」
濡れた唇を少年の襟に擦りつけ拭いながら若い御曹司は言った。
「上がる前にメシ食い終わって来い。食堂は廊下を真っ直ぐの突き当たりだ」
「セックス、すんのか?」
「する。話も、ある」
「分かった」
ちゅ、っと自分からも軽いキスをして、少年は軽やかに駆け出した。その背は無邪気にさえ見えた、のに。
結局。
テュールとの勝負は、まさかの結果になって、その話はイタリア、否、世界中の暗黒街へと伝わった。
「……」
そんな勝負の予定も知らなければ、ヴァリアーにスカウトされていたこと自体、聞かされていなかった御曹司は不機嫌。
「メジャーデビューはスクアーロちゃんに先を越されたわねぇ」
オカマの格闘家が言ったことは正しい。ボンゴレの御曹司とはいえまだ部屋住みのザンザスより、少年時代はヘナチョコだったキャッバネーロの未来のボスよりも、早々と華やかに銀色の鮫は『世界』へ躍り出た。