間食

 

 

 完璧な警備を誇るボンゴレファミリーの日本における本拠地の館。さらにその最奥、十代目ボスが住む一角。

「バンッ!」

「うわっ!」

背後からいきなり掛けられた声に、扉の鍵穴から中を伺っていた美男子が飛び上がる。

「お、脅かすかな、リボーン!」

「それはこっちの台詞だぞ獄寺。ファミリーのボスの寝室を伺う不審な人影め」

「ちげーよ。十代目はいま通信室だ。俺はただ、ちょっと」

「知っている。退け、俺は中に入る」

「いや、あの、だから、リボーン、あの、中、いま、ヤバイんだって」

 獄寺は普段の寝室なら入れる。いま出来ないのには明確な理由がある。中にはボスのオンナが寝ているから。

「ヤバイのはオマエだけだ、獄寺。俺は子供だから大丈夫だ」

「あ、そっか、そうだな、リボーン。んじゃこれ、頼まぁ!」

「それはムリだ」

 獄寺の手元の寿司桶の中には山本が作っていた太巻きが納められている。ナマモノではなく牛肉の大和煮とレタスとカニの棒肉をマヨネーズ風味で巻き込んだもので美味い。獄寺隼人の大好物である。山ほど巻いていった。

「アイツはここではモノを喰わない。水も殆ど飲もうとしないくれぇだ。口をこじ開けてムリに食わせると腹の中で腐らせて胃潰瘍から腹膜炎を起す。手間のかかるヤツだぜ」

 まるで捕らえられた鷹。生餌を鳥かごの中に入れられても無視して餓死を選ぶ。殺したくなければ空に放すしかない。

「わかってる。だから心配してんじゃねぇか。いつから連れて来られてたんだアイツ。今日で何日目だ?大丈夫なのか?」

「心配無用だ。本当に大丈夫じゃなくなる前にツナが手放す。今までもそうだっただろう」

「そ、れはそうだけど、ナンか今朝とくにきちそーでさ、ダイジョーブ、かなー、って」

「ヒバリは頭がいい。ちゃんと事態を分かっている。ここでは誰もアイツを攻撃しないから冬眠に近い眠りで体力を温存させている。それに拒食は、ヤツの意思表示だ。あいつは、ここでは飼われないってツナに言っているんだ」

「なんか、ドロドロだな」

「オトコとオンナはいつでもドロドロだ。まあいい、獄寺、手を出せ。これをやろう」

「お?」

 差し出された掌に載せられたのは棒アイス。

「サンキュ」

「じゃあな。お前、あまり心配するな。ヒバリはお前に心配されるようなタマじゃねぇ。それより自分の頭の蝿を追え」

「ハエ?」

 日本語の言い回しを分かっていない獄寺が頭を振る。目立つ艶やか、さらさらのストレート。

「山本、っていう名前のな」

 リボーンの台詞に暗喩を読み取って獄寺がヒッという表情。それ以上構わず、アルコバレーノの赤ん坊は寝室の扉を押し開けた。

 

 

 部屋は空調が効いて涼しい。窓は南の壁面全てを埋め尽くす天井までの大きなものだが、遮光防音の分厚いカーテンに隔てられた部屋は薄暗く静かだった。羊水の中のように。天幕で半ば閉ざされた寝台の中で眠る人間を包み込むように。

「ちゃおっす、ヒバリ」

 ベッドのマットリスはスプリングではなく、極上の鳥の羽を詰め込んだもの。横たわる人間の体の形に沈んで柔らかく受け止める。その姿態にはしかし違和感があった。ただの眠りにしては体中から力が抜けきっている。マネキンを倒したような、冷たい死体のような、そんなことを連想させる姿。

 服装は朝と同じ。ただしスーツのシャツだけ。上着もスックスも靴も見当たらない。シャツも袖を通して羽織っているだけで前のボタンは留めていない。腰から下には薄いかけ布団に隠れて見えないが、何も身につけていないかもしれない。少なくとも、見える膝から下は素肌。

「起きねぇかヒバリ。アイスわけてやるぞ。オレのアイスだ。オマエが好きな宇治金時味だぜ」

 箱入りの棒アイスの袋を頬に当てられて、眠る美形はそ、っと目を開いた。そうして笑う。ゆっくり嬉しそうに目尻が緩む。ごく珍しい柔らかな表情。

「やあ、あかんぼう」

「食わねぇか。うめぇぞ。俺のアイスだ」

「……そうかい」

 声は少し掠れていた。シーツの上でゆっくりと身体を起す。といっても起き上がりはせず、横向きからうつ伏せになっただけ。

「じゃあ、いただくよ。ありがとう」

「ほらよ」

「甘いね」

 アイスというより氷菓。それでも凍った小豆と抹茶と練乳の味わいが舌の上で溶けて、乾いていた喉には染み込む美味さだった。

「外はいい天気だぞ、ヒバリ」

「そう。でも今は興味ないね」

「お前はいつでも好きなときに晴れた空を飛べるからな」

「なにかボクに言いたいことがあるみたいだね、赤ん坊」

「お前、ツナを憎んでいるか?」

「いや」

 もう一本、と手を出しながら、切れ長の目の二枚目は無造作に問いに答える。

「ボクはこの事態を、それほど深刻には考えていない」

「そっか。だろーな、ほら」

「ありがとう」

 六本入りの箱の中から二本まとめて渡されて美形は礼を言った。

「ツナはお前を本当に必要としてるんだ。アイツは今、お前が居ることだけで辛うじて生きてる」

「分からないでもないけど、興味ないね」

「アイツは外に行きたいんだ。今も空を飛べるお前が羨ましくてたまらないでいる。お前に自分を注ぎ込むことで辛うじて息をしてる。俺の教え子を愛してやってくれねぇか」

「無理だね」

 かし、っと、歯並びのいい唇が固いアイスを噛み砕く。

「ボクは彼の能力は認めているし、性格を面白いと思わないでもない。でも色恋の対象には出来ないよ。正直いって、ボクの相手じゃない」

「ま、無理もねぇな。お前は六道躯の寵愛を何年も受けていたヤツだ。ツナじゃ喰い足りねぇのは当たり前のことだ」

「その言い方は少し引っかかるな。ボクもあの変質者を愛してやっていた」

「躯が今どうなってるか、お前、知っているのか?」

「知らない。でも慣れてるよ、突然の出現にも唐突な失踪にも」

「このまま会えないかもしれねぇぞ?」

「だとしてもボクらには大した問題じゃない。瞬間ごとに最後の覚悟はしてきた」

「オマエと躯につるまれちまったらツナは旗色が悪ぃな。六道界の愛憎をその身に刻まれたオマエに恋しちまった、ツナは運が悪い」

「凄いな、その言われ方」

 愉快そうに美形は笑う。引き締まった辛口の顔立ちだが、目尻と口元からは端正さでも消しきれない色香が漂う。

「沢田のことも嫌いじゃないんだよ。彼の情熱には時々負けて稀に灼かれる。仕方がないね、ボクも生身だから」

「そっか」

「まだ帰しては貰えないのかな」

「さあな。お前がオレのアイスを食べたことはツナには黙っておく」

「頼むよ。少し喋りすぎた。ボクは眠るよ。おやすみ、あかんぼう」

「おやすみ、ヒバリ」

 赤ん坊の姿をしたもと家庭教師はボスの寝室を出る。パタンと扉を閉めててくてく、中庭まで歩いた。風が少し出て、回廊をざーっと緑の流れが通り過ぎる。梅雨があけてやがて夏が来る。眩しくアツい、灼熱の。

「少しじゃなくてずいぶんと喋り過ぎてくれたぞ、ヒバリ。おかげでお前がツナに揺れてることがオレには、よく分かっちまった」

 空は青くて、白い雲が浮かぶ。

「お前は雲でツナは大空。惹かれないではいられない運命だぞ」