大型犬への告白・1
皿に乗った卵。
チーズとハムを添えられた朝食の定番。別皿で日替わりのサラダとスープ、トーストにコーヒー。それが日常の食卓。寮住まいの一般兵士たちのメニューと大差はない。敢えていうなら兵士たちにはプレートのセルフサービスされるところを、私のは従僕が朝、食堂に運んでくるというだけが違いだ。
その、卵が今朝は、見知らぬ姿で皿に乗り、私の前に来た。
「……、失敗したのか?」
ひっくり返った目玉焼き。色よく焦げた白身が裏返しになっている。
「両面焼きッすよ」
従僕でもないくせに、何故か私の朝食を運んできた男が言う。サーバーにたっぷり用意されたコーヒーを、持参の自分のカップにも移して。
「大佐、目玉焼きの白身が生なのお嫌いですよね」
その通りだった。
「でも黄身はなるべく、とろとろがイイんすよね」
そうだ。
「とすると、焼き方は両面焼きしかないでしょ。フライド・エッグって手もあるけど、朝からさすがにカロリーが」
言いながら、勝手にあいた椅子を引いて腰掛ける。コーヒーに、私より先に口をつけながら。
「どーぞ。……、気に入ると思うけど」
見慣れない物体を前に、ナイフとフォークを持ったまま固まる私を促す。冷めるのも嫌で、ナイフを入れた。香ばしく焼けた白身の中央を破くと、ふっくら持ち上がった場所から温かな黄身のソースがとろけだす。そこに塩コショウを振って、トーストにつけて食べるのが。
「……、美味い」
私はお気に入りだ。トーストに絡める必要上、黄身はなるべく生がいい。でも白身は十分に焼けていないと嫌で、矛盾する条件の中、朝の目玉焼きは日によって違う、白身と黄身の、二者択一の場だったが。
「どうやって作った、こんなの」
「どうって、だから、目玉焼きを、さっとひっくり返して、両面焼いてるだけですが」
「コペルニクス的展開だな」
「大袈裟すぎやしませんか。ってぇか、ここの料理人、あんまり料理、うまくないっスよね」
そうなのだろうか。よく分からない。十四の頃からもう十五年、軍隊生活の私はかなりの味オンチだ。好きなもの、食べたいもの、美味いものはあるが、どれもこれもがグルメとは程遠い。片手で食べれるジャンクフードばかりで、それは食卓につく余裕のない時に、誰かが差し入れてくれる軽食の味だ。
でなければ、こんな目玉焼き。
「違うか。喰うとこ見ないから分かんないだけですかね。ここでメシ喰うの大佐だけなんだから、もっと注文つけりゃいいのに」
そんなことが出来るんだとさえ、私は気付いていなかった。暫く、無心に両面焼きとやらいう卵を、パンとともに食べるのに必死になっていたら。
「美味しそうに食べますねぇ」
コーヒーを飲んでいる男が笑う。そういうお前も、嬉しそうに笑うものだ。私を見てるのがそんなに楽しいか。
「だってパジャマだし」
今日の勤務は夕勤だ。最近は懸案事項もなく、穏やかな日々が続く。やっと錬金術の研究に時間がさけるようになった。食事を済ませたら書庫に篭るのに、どうして着替える必要があるんだ。
「新しいパジャマ、買ってきたら着てくれますか?」
パジャマごときを拒むまでもない。シースルーや女物や、動きにくい着ぐるみとかでない限りは受け取ってやる。そう答えると男はみっともなく目尻を下げた。本当に嬉しそうだ。今日にでも買って来るだろう。
「俺、こっちに引っ越してきたいなぁ。いけませんか」
当たり前だ。ここは私の住まいでお前のじゃない。お前にとってここは職場だろう。仕事を楽しむ分には構わないが、公私混同したら首にするぞ。
「はいはい、分かってますよ」
食べ終えた皿を重ねて、男は食堂から出て行った。私は洗面所で歯を磨き書庫へ。中央から送られてきた錬金術研究所の研究発表やら各地の国家錬金術師たちのレポートに目を通す。私が推薦して採用された奴らのは特に熱心に読んだ。鋼の豆のは特に期待していたが、冒頭だけで書き流しとわかる代物だったのに落胆する。それでも勿論、他よりは秀逸。
テーマは筆記具及び筆記面の性質と錬成陣の性質の因果関係。あのガキが錬成陣を描いているところなど見た事がないから多分、これはでっちあげのテーマだ。そのくせに興味深い。何に描くか、なんで描くかによって確かに、錬成陣は微妙に変化する。
一番効くのが自身の血であることは錬金術師ならみなが知っているが、その血も心臓から押し出され体内を還流している暖かなものでなければ効果は薄い。ヒマな時に採血しておいて、大物の錬成陣を描く時にまとめて使うという訳にはいかないのだ。流せる血には限界がある。
ふとそこで、私は思いついた。錬成陣の、位置はどうだろう。複数の錬成を相互に作用させるのは超上級テクニックで、国家錬金術師クラスでも出来る奴は限られている。もちろん、素晴らしく優秀で適性と才能に満ち溢れ、努力を怠らない私には出来る。……ある程度。
円陣は基本性質が均衡と調和。それはつまり、閉じて完結しているということ。円が完全で高度であればあるほどに。だから錬成を作用させあえというのは、法則の逆説だ。卵の黄身は生で白身はよく焼けた目玉焼きが食べたいというくらいの絶対的な矛盾。
だと思っていたが。
平面的な存在である錬成陣の、上下はそういえば開いている。並べて作用させあうことが矛盾でも、表裏というのはどうだろう。それこそ目玉焼きをひっくり返して焼いて、矛盾する条件を完璧に満たしあったように。
ソファに仰向けに転がっていた私はがばりと起き上がる。机の引き出しから、用意してある発火布を取り出す。布に描いても滲まない染物用の顔料を使って表裏に陣を描く。ダメだ、布が薄くて裏側に透ける。いやいっそ、裏からたどって逆向きの陣を。構築式が鏡文字になる。そういえば以前、鏡文字と錬成陣の相互関係を研究した文献がどこかにあった。
机から書棚へ。国家権力と潤沢な予算にあかせて集めた資料の山を引っ張り出す。本を読むのが嫌いでは、また、読んだ内容を覚えていないようでは錬金術師にはなれない。記憶を頼りに羊皮紙に記されたページを捲っていく。本のタイトルも内容も、『古代ローマ帝国における恋文の研究』というものだが、これは鏡文字を錬成に応用しようという研究の報告書だ。
興奮して手が震えた。
「えー、ジャン・ハボックであります!」
ドアの向うで声がする。
「本日、イチイチマルマル、ハイマンス・ブレタと勤務を交代いたしまして、待機に入ります!」
「ハイマンス・ブレダであります!本日、イチイチマルマル、ジャン・ハボックより業務を引き継ぎまして。警護任務につきます!」
警護責任者の交代時刻だ。これだけは私が休日であっても直に報告に来る。居眠りや研究や、もしかしたら情事の、邪魔をしないよう廊下から扉ごしにだが。
踵を鳴らす音が二重に聞こえた。二人して敬礼したのだろう。そのまま、立ち去っていく気配。両開きのドアを私は押し開けて、
「ハボック少尉」
立ち去っていく後姿の片方を呼び止めた。報告を終えて緊張をといた男は、ポケットに片手を突っ込み、ブレダとなにやら談笑しながら遠ざかりつつあったが、
「へいー」
とても上官に対する口調でなく振り向く。ブレダもつられて足を止めた。机の引き出しから引き抜いてきた札を何枚も指に挟んで、
「街で一番高いシャンパンを買って来い」
待機に入った奴の目の前に出した。
「美味いつまみもだ」
「へい。ナンすか、珍しく、休日を堪能する気分になりましたか?」
尋ねてくるのに、そんなところだと答えて書庫に戻る。俺の分もとブレダが言って、いいぜと奴が答えている。私があいつを私用に使うのはいつものことだから、ブレダも不思議には思わない。
捲くりかけていた本を机に置いて、深呼吸。今日は祝日だ。研究が新しい階層に進化した。表裏、そして上下。中央研究所の連中さえ持て余し気味の錬成の相互関連に、私の手は触れた。この世で最初に一つの真理を解明できるかもしれない。
「失礼しまーす、開けますよー」
扉が開く。シャンパンとチーズとサラミと、グラスが二つと、男が入って来る。今日、私に真理をもたらしてくれた男が。