他人の存在など、生まれてこのかた、多分気にかけたことの無い男だった。

「結婚することになった」

 ちょっとは気にして欲しいと、同席のボンゴレ十代目が思うほど。

「今度は、ジジィのお道楽じゃねぇ」

 身内の女を娶らせて血の繋がらない養子をボンゴレの系譜に迎え入れようという、いまさらのピントのずれた、愛情の発露ではなくて。

「誰とだぁ?」

 来客にコーヒーを出しに来て突然そう言われた銀色のオンナは驚きを見せなかった。驚くどころか実に堂々、落ち着き払って、詳しいことを尋ねる。

「まだ喋れん。外の相手だ」

「大物かぁー?」

「相当のタマだ」

「若いか?美人かぁ?」

「オレの相手には若すぎるくらい若い。美人かどうかは、もう少し歳をとらないと分からねぇ」

「そっかぁー。ヨカッタなぁー」

 オンナはにこにこ嬉しそう。男は、ただでさえ憂鬱そうな地顔を、さらに憂い深くして。

「よくねぇ」

 辛そうに答える。望んだことではなく不本意だ、と。それはそうだろう。『家出』したこのオンナのことを、キャラクターからは考えられないほど辛抱強く、待っていたところだったのに。

「えー、良かったじゃねーかぁ。ちゃんとしたのを女房に出来て、俺ぁ祝福するぜぇ?」

「ひどいことを言うな」

 望んでのことではない本当はお前を愛していると、言いたい男は、恨みがましく告げる。

「だってよぉ、相手がそんなに若いなら、第一候補は沢田綱吉だった筈だろぉ?」

 ぶ、っと、沢田綱吉は飲みかけていた緑茶を気管に詰まられて逆流させ、げほこぼと噎せた。

「でもそーじゃなくってお前が選ばれたのは、沢田綱吉よりお前がいい男だから、上手くやってけるって思われたからじゃねぇのかぁ?」

「ヤツが異教徒だからだろう」

「仏教徒ですけど」

「んだよ、オマエの話ってそれかぁ?わざわざオレに結婚しますって言いに来たのかぁ?」

「そうだ」

「ははは、はは」

「笑うな」

「あー、ごめん。馬鹿にしたんじゃねぇぜぇ?」

 そうして、他人の存在を、気にしたことが無いのは顔に火傷の痕のある強面のハンサムばかりではなくて。

「ありがとな。ちゃんと分かってるぜ?」

 軽々と持っていた重い銀のトレーを壁際のチェストの上において、来客のそばに寄る。ボンゴレ十代目である沢田綱吉に尻を向け、応札室の豪奢なソファに座った男の膝に、手を置いて。

「すっげぇ愛してるぜ」

 囁く。かろうじてキスはしなかつたけれど、屈んで耳元に唇を寄せる様子は殆どそれに近い。男が腕を伸ばす。オンナをその中に捕らえる。オンナは易々と抱きしめられ、そのままソファの座目に横ざまり押し倒されても抵抗をしなかった。

「あのー」

 ここにオレが居ること忘れないでね、と、沢田綱吉は声を上げる。引き裂かれる恋人たちに粋をきかせてやるべきかもしれないが立場上、それは出来ない。山本の友人として、見てみぬふりをしてやれる一線を越えられると、困る。

 ソファの上で抱き合う二人は暫くじっとしていた。けれど、やがて、男の腕の中からオンナが手を伸ばす。生身の右手で男の背中を抱いた。

「ウソをついたんじゃねぇ」

 その指先に弾かれたように男が口を開く。

「オレと結婚してくれるって話かぁ?」

 思い詰めた様子の男と対照的にオンナの方には余裕がある。二度目で、しかも、諦めた後。

「てめぇに結婚してくれって言った話だ」

「はは。なぁ、最初ッからよぉ、そーゆー夢みてーなのは、俺ぁ聞き流してっから。悪かったとかウソついたとかはオマエ、思わなくていいぜぇー」

 と、告げるオンナは残酷なほど優しい。

「けど、よぉ」

「……なんだ」

「わざわざ言いに来てくれたのはマジ嬉しいぜぇ。ありがとなぁー」

「そんなことを悦ぶな」

 ボンゴレの将来のために苦渋の判断を下し、裏切りの宣告をしに来た男は礼を言われて苦い気持ち。

「えー。だってオレぁよ、マエんとき、オマエが話してくれなかったのを、ずーっとうらんでたんだぜぇー」

「……」

「知らなかっただろぉ?」

 オンナの問いに男は答えない。言葉では答えなかったけれど、切れ長の目を見開いた表情が答えになっている。

「オレは確かに、オマエ恋人でも女房でもなかったけどよぉ」

「女房みたいなモンだっただろう」

「ずーっと一緒に居たのによぉ、オマエの婚約のこと、先に話してくれなくて、みんなと一緒に知らされたの、すっげぇ悲しかったなぁー」

「……」

「えぇって驚いたみんながオレのこと見たの覚えてっかぁ?あん時、平気な顔すんのに、気力全部、使い果たしちまったんだぁ」

 愛情は少しも減っていないけれど意地の強さは使い果たしてしまった。この男の妻に臣下として仕えることは、出来そうになかった。

「オレぁオマエのナンでもなかったんだって思ったら悲しくてなぁ、ボロボロ泣いたぜ。その後で腹にガキが居るのに気づいて、そんで、多分……、縋り付いちまったんだぁ」

 この男のことを失う悲しみを、せめてのよすがで埋めようとしていた。

「オマエの無神経と薄情をすっげぇ恨んでた。だから後から、なに言われても信じられなかった」

「……」

「でもよ、もぉ忘れるぜぇ全部。なぁ、教えに来てくれてありがとぉなぁー」

 頬を寄せられ本当に嬉しそうにされながら、囁かれた男の動揺が背中を見ているだけの沢田綱吉にも伝わってくる。

「……悪気は」

「なかったんだろぉ。わかってるぜぇ。だからかえって、恨み骨髄だったんだよ、オレはぁ」

 オンナは実に落ち着いていて、あぁもぉこれだから、と、沢田綱吉の頭を抱えさせる。身近に居る獄寺や雲雀に比べると、同じくらい乱暴だが気性は真っ直ぐで素直で、純情とさえいっていい銀色にして、これだ。

 オンナはいつも、強くて恐い。

「オレが痛いとか全然思いつかなかったんだろ。オマエがオレのことスキじゃねーのは分かってたけどよぉ、オレがオマエにべた彫れなのも分かってなかったのかって思うと、今までが全部、無駄だった気がしたんだぁー」

「いくらなんでも、それはないんじゃない?」

 サイドテーブルに立って自分で淹れなおした緑茶を飲みながら沢田綱吉がつい、口を挟んでしまう。愛されていないことを分かっていない男なんか居ないだろう。分かりすぎて甘えていたことはあるかもしれないけれど。

「オレは」

「終わっちまっても、ずーっと愛してるぜぇ、ザンザス」

「テメェの妊娠も、テメェが居ねぇと困るってことも、気づいてなかったバカだ」

「あはは。妊娠はしょーがねぇよ。オマエにだけはバレねーよーにオレぁ必死だったからなぁ。孕んだ女が身近に居たことなかったんじゃあ、気づかねーのもしょーがねぇさぁ」

 男をあくまで慰める、銀色のオンナは本当に優しかった。

「てめえがさっさと、オレと駆け落ちしとかねぇから、こんなことになる」

「そんな夢はどーやったって実感わかねぇけどよぉ。まぁでも、ありがとなぁー」

 男の恨み言はいまさらいっても仕方の無い未練。不器用な愛情の告白をオンナは笑ってうけとめる。

「名付け親のこと、ジジイに頼んでくれたのは、だからかぁ?」

「承知する条件の一つにした」

「ありがとなぁ、でもごめん、もー跳ね馬に頼んじまってんだぁ。オレじゃなくって養子親がだけどよ。シジイには上手いこと言っといてくれよ」

「分かった」

 男が腕を解く。起き上がる。解放されたオンナが乱れた髪を整える仕草が艶で、沢田綱吉は口笛を吹きたくなってしまう。キャラでないので止めておいたけれど。

「ガキに」

「ん?」

「会わせろ」

「……」

 銀色のオンナが今日、初めて言葉を呑む。

「え……?」

 聞こえなかった訳ではなかったが、意味がよく分からない。

「なんで?」

「オレのガキなんだろ?」

違う、とは。

 こうなっては、いまさらもう、白々しくて、言えない。

「会わせろ」

 繰り返される、静かだが強硬な要求を。

「ごめん」

 オンナは俯きながら、でもきっぱりと拒絶。

「もう、オレのガキでもねぇからさ、ごめん」

 勝手なことは出来ないと男に告げたのは逃げ口上ではない。実子として引き取ってもらった時点で聖母としての全ての権利は放棄している。ただ愛情と庇護欲は、どう足掻いても無くしようがないけれど。

「そうか」

「うん」

「分かった」

「ごめんなぁ」

「謝るな。俺が遅かった」

 このオンナとの子供に会いたい、と。

 男はいま、初めて思ったのだ。もう何もかも遅くて、全てはいまさらなのだけれども、でも。

「俺に似てるか?」

「まだ、分かんねーけど、髪と目の色は、オマエによく似てる」

「そうか」

 男が立ち上がる。もう何もかも遅いのだ。分かっているけれど、でも。

「……市場で」

 再会をした、露天のあの場所で。

「今のこと、言ってくれたら、ガキかっ攫って、ヴァリアーに帰ってた、かもなぁ……」

 ボロボロ、オンナが俯いたまま泣き出す。毛足の長い終端に涙の粒が落ちる。あーぁ、泣かせたと沢田綱吉は内心で思った。男の結婚に関しては平然としていたのに、子供のことでは強がることも出来ず泣くのを可哀想にと心から思いながら。

 向き合っている男はもっとだろう。

「いろいろ、悪かったな」

 つい謝って、ますます泣かせてしまった。