庇護本能・8
意識より嗅覚が先に覚醒した。
それを、不体裁に思う意地さえ擦り切れて、いた。
「あ。目ぇ醒めましたね。おはようございます。……っていうのも、おかしい時間ですけど」
目を開けた途端、視界を占領したのは笑っている若い男。いつもこいつの笑顔は明るいが、いつもより三割増に手のつけようがないほど全開の笑顔。目尻が下がりまくっている。
「やっぱトマトが一番効きますね。ここで食べます?動けるなら、台所まで行きますか?」
「……」
よこせ、と。
言った言葉は声にならなかった。が、表情で分かったらしい男は、分かったくせに手にした大きなカップは渡さなかった。代わりに俺が眠るベッドに近づいて斜めに腰掛けて、カップに突っ込んでいたスプーンを手にとって。
「はい」
カップの中身を掬って口元に差し出される。男の顔は情けないくらい嬉しそうだった。スプーンの中にはトマト味のスープ。真っ赤な液体に、貝の形をしたマカロニとハムが浮いて、たっぷり振りかけられたチーズが湯気に溶けて、糸を引いている。空腹に負けて口をあけた。起き上がって、これを殴って、自分でスプーンを持つ力はなかった。
「美味しそう。よかった」
うまいともなんとも言っていないのに勝手に解釈し、男はシアワセそうに呟く。そしてまた、スープを掬って差し出す。かなり夢中で、一生懸命に食べた。本当に、腹が減っていた。
「あんたにモノ、食べさせるの好きですよ、俺」
すごく、と言いながら、カップを掻き混ぜて三度目のスプーン。
「これはあの人がしなかったことと思うと、余計に嬉しいです」
……誤解だ。
あいつが出来なかったのは料理であって、俺にメシを食べさせることじゃない。あれもよく買って来てはくれた。本を読み出すと止まらない俺に、街の市場や屋台から、フィッシュ&チップスにホットドックといった、片手で食べれる簡単なジャンクフードを。
……まぁ、しかし。
食べさせてもらったことは、なかった気がする。あいつはそんなに甘い男じゃなかった。
四度、大きなスプーンで掬うとカップは空になった。男は立ち上がりドアの向うに消える。男が居なくなってから、そっと室内を見回した。知らない場所だった。が、ホテルや時間貸しの部屋とは思えない。落ち着いた壁紙の、タイル張りの床が涼しげな、シンプルなここは。
「俺の部屋ですよ。そーいや初めてでしたね」
カップではなく、今度は盆を、男は持って戻って来る。一旦はサイドチェストに置いて、俺をそっと、アンティークの宝飾品みたいに、そーっと、抱き起こす。年端の行かない少女にするような鄭重さで扱われ、もう、笑えばいいのか、怒ればいいんだか。
「中尉には連絡しときました。あんたが酔いつぶれて動けないから、俺ンち泊まってる、って。車は明日、迎えにくるように言って司令部に戻してます。このアパートの前の路地奥に警備の憲兵二人、配置されてますよ」
起こされた背中に大きなクッションを当てられて、楽な姿勢で上体を起こす。
「まぁ、ここ、司令部の敷地から続きみたいなモンっすけどね。住んでるの、殆ど軍人ばっかだし。……あぁでも、角部屋だから」
安心していいですよ、なんてことを、堂々と言う様子が余裕じみて嫌味だ。
「競争率高かったンすけど、中尉に抽選登録に行ってもらったら一発でした。不動産屋も美人が好きだったみたいで」
俺の知らないところでお前たち、そんなことまで連携しているのか。
「あ、今、ちょっと怒りました?ナンにもしてませんよ、俺たち」
宥めるみたいに、俺の肩を抱くな。不機嫌な時に不機嫌を指摘されると、怒りに火を注ぐだけだとそろそろ学習しろ。
「喉、乾いてないですか?……はい」
盆の上からグラスが選ばれて、俺の口元に運ばれる。酒かと思ったらライムを落としたらしい水だった。冷たく、かすかな酸味があって、かわききった身体に染みた。ごくごくと喉を鳴らして飲み干す。カラになっても、男は俺を支えた腕を離さない。グラスをそっと、床に落として。
「あんたがあんなに、泣いたの初めてでしたね」
身体を擦り付けてくるな。気持ちが悪い。
「びっくり、しました。でも興奮した。あれの前でしたけど、抱いちまいそうになりましたよ。ホント」
……記憶にない。
「ここ運び込む途中も、意識なくても、ひくひく、してて。我慢できなくて少し触りました。すいません」
あぁ、あれはやっぱり、夢じゃなかったか。濡れた舌先で全身、特に恥ずかしい場所は集中して、何度も繰り返し、舐められる夢をみてた。甘くて熱くて、苦しい淫夢。
「だいすき、です。こうやってんのが、俺、一番好きな時間です」
目を閉じて男は一途に俺に懐こうとする。俺が反応を示さないから淋しがって、肩口に額を擦り付け甘ったれる。
「でも、あんたホントに、嘘つくの上手ですよね。今晩中、大将、司令部の書庫あさってるわけだ。明日、朝一で顔、見に行くの楽しみですよ」
笑いながら言う、お前は案外、人が悪い。
「悪くもなります。大事にしてるのに、勝手に触られて、俺がどんな気持ちだったか分かります?口惜しいとか腹が立つとかより先に、情けないですよ。オスには一番の……、屈辱、ってヤツですかね」
大袈裟な男だ。飽き飽きしてるが、もう一度、言うぞ。俺とあの子は、セックスはしてない。
「……、って、……いい……?」
シーツを剥がれる。その下は素裸だ。あそこではスラックスの前しか披かれず、それも男の手で握りこまれて、襟のボタン一つ緩めないままで、苦しかった。
「いっぱい、たくさん、したいです」
好きなようにしろ。今夜は俺の完敗だ。罪悪感が、あって最初から負けていた。
「愛してん、ですよ」
そんな告白は要らない。聞くまでもなく、知っている。
だから時々、俺はお前に逆らえなくなるんだ。