『近藤さーん、こんどーさーん』
甲板で子供のように右手を振っているのは沖田総悟。左手には拡声器が握られて、音声はやや割れているがよく通る若い声が浦々に響きわたる。
『お迎えに来やしたぜー、お勤めご苦労さんでさぁー』
港の灯台に立つ近藤勲が手にした双眼鏡からは悪魔のように天真爛漫な笑顔が見える。そして、その隣には。
「佐々木殿、どうぞ」
双眼鏡を譲られるまでもなく、その立ち方で、佐々木には分かっていた。
「どうも」
けれども一応、確認のためにレンズを覗き込む。小柄で、一見は華奢に見える姿はいつまでも少女のよう。
「信じらんねぇ、愚図さだぜ」
空気が澄んでいる。きらきら、太陽の光が波に反射して輝く。眩しいほど明るい。
「エリートさんは動きがおせぇ。幕臣は赦免になったってのに閉じ込められてんのを、よくまぁ何年も、放ったらかしにしてやがったもんだ」
あきれ果てたという口調で、心の底から馬鹿にした表情で、二枚目は形のいい唇から佐々木に厭味を投げつける。
「あんたが本気で突っ込んで、破れねぇ牢屋がこの世にあるたぁ思えねぇがなぁー」
「まぁ、そう言うな、トシ。方法論の違いだ」
近藤勲も同意見らしい。憎まれ口をたしなめたが、内容を否定はしなかった。
「表から出すことしか考えつかれなかったんだろう。真面目な方だから」
「はは。ゴリさんから馬鹿正直って言われンのは相当だねぇー」
つられて万事屋まで笑う。
「脱獄、ですか」
「おぅ」
「余計なことを。赦免状を手にしたところでしたのに」
「あんたが高杉から一筆とった時、総悟本土に送り込んどいて良かったと心から思ったぜ」
佐々木の抗議を二枚目は意にも介さない。そして佐々木と同様に、沖田総悟が本気で突っ込んで破れない牢獄などこの世にないだろう。
「うわ、ちょっと、ナンだよ、柳生の九ちゃんも居るじゃん」
佐々木から双眼鏡を取り上げて甲板を覗き込んだ万事屋が声を上げる。
「なに、坊やと九ちゃんにタッグ組ませたの、トシちゃん」
「万全を期してな」
「情夫と情婦を組ませる、土方さんはおさすがです。両方に随分と愛されていらっしゃるんですね」
「個人的な事情はカンケーねぇ。見廻組の救出に旧幕臣系が協力すんのは当たり前だ」
その『旧幕臣系』は組織上、役方(文系)と番方(体育会系)に家筋でキッチリ分けられていた。佐々木自身は小太刀とっては日本一といわれたその実力のせいで番方の見廻組を創立しその責任者となっていたが、腕自慢の番方からはそのエリート様式を忌避される傾向があった。
更に頭の佐々木が高杉と通じていてたことが維新派によって戦後暴露され、佐々木個人は本当に、旧幕臣の中では孤立している。
「とか言っちゃって、まぁ憎らしい。弱いわき腹ドスで突き刺すのがホントに上手だよねぇトシちゃん」
「うちの副長は面倒くさがりですから、いつでもケレンなし力ずくの真っ向勝負一本です。なのに奇手っていう、不思議なやり方が本当にお上手です」
万事屋の厭味に山崎がのったところを見ると、この腹心も沖田を江戸へやる話を聞かされていなかったらしい。ナイショにしていたことを責められて。
「そんなに褒めるな、照れるだろ」
二枚目は笑った。それでごめんと、謝ったことになった。
「おーい、ズラぁ、エリザベスも居るぜぇー」
「坂本だろう、貴様らの片棒を担ぎおって」
「坊やと九ちゃんのコンビ、見ものだったろーね。オレガローヤの番人ならすたこら逃げ出すけど」
「嘘つきやがれ。嬉しそうにヤるだろ」
「試合か喧嘩なら。でも死闘はヤだよ。二対一じゃちょっと負けそう」
「ちょっとか?」
「うん。ほんのちょっとだけ。怪我させたらオマエが怒るし」
「ま、救出の手段はどーでもいい」
ふーっと気持ちよさそうに二枚目が煙草の煙を吐く。一服が実に美味そう。
「その一筆が江戸に届く前に出さねぇと始末されるだろ。ソコの酔狂な本人と違って鬼兵隊はドマジだ。連中はあんたと見廻組を絶対に許さねぇ。なぁ?」
同意を求められた酔狂な本人は二枚目の危惧を否定しなかった。空手形になるかもしれないことを承知でしらっとした顔で、一筆を佐々木に与えたコレは騒乱の凶星。甘いばかりでないことは分かりきっている。
「連中はボスの命令にゃ逆らわねぇっていうあんたの認識は正しい。だからこそヤバイ。あんたがそれ届けようとした時点で奴らはあんたの部下を皆殺すぜ。指示が届く前に始末しちまって『行き違う』のは、『仕方ない』からなぁ」
それはいかにも鬼兵隊の面々がやりそうなこと。美形のカリスマを神格化する余りそれを否定する人間と過激な衝突をする。集団ヒステリーはカリスマである高すぎ本人さえ時として制御不能。桂小五郎を敵対視して暗殺計画の黒幕として暗躍する部下たちに手を焼き、説諭するのも面倒で、桂本人を攫ってこんな遠くまで家出をしたほど、手のつけられない狂騒。
紅桜の時もそんな事があった。あの時も狙われたのは桂だった。愛情というよりも絆、切ろうとして切れない、解こうとしても解けない、深い縁が刻まれてしまっている。
「そだねえ。でもオマエ、佐々木サンたちとは一緒に駆け落ちしてやんないよなぁ、はる」
幼名で呼ばれても高杉は怒らない。そして否定もしなかった。懐から取り出した煙管に葉を詰め、咥えて火を点ける。煙草とは違う白い煙が、薄く立ち上る。
「そんでお譲ちゃんら始末した部下たちを処罰もしないよな。身内に甘いンだから、ったく」
「全くだ」
酔狂なカリスマに一番愛され庇われている『身内』である桂が、憤懣やるかたないという表情で万事屋に同意する。
「オマエの手勢はいつもオマエの言うことしにしか従わない。命令系統や総大将を無視して部隊単位で勝手なことをしでかす。オマエの指示ならまだいいが本当に勝手にしたことまで、オマエが追認してかばってやるからオマエの部下たちは調子に乗るのだ」
声にも言葉にも、かつて『総大将』としてこのカリスマの部隊の統率に苦労した実感が篭ってた。
「……ようするに、私が甘かったということですか」
近藤勲を含めた全員から総否定され、赦免状を与えた本人にまで反故になる可能性を否定されず、佐々木は自分が間違っていたことを認める。
「下策の極みだな」
来訪の初日にも言った言葉を容赦なく、黒髪の二枚目は繰り返した。
「仰るとおりです」
佐々木は逆らわない。
「ここはあなたの縄張りで、彼らはあなたの手駒です。あなたの土俵であなたの褌で、あなた相手に相撲をとろうというのは無謀なことでした」
「そうだ」
佐々木の言葉を悠々と二枚目は受ける。
「ここはウチのシマで連中はウチの客分だ。てめぇに勝手な真似はさせねぇよ」
個人ではなく組の『モノ』だと細かい訂正はしたけれど。
「それでもやって来た、甲斐はありました。信女さんをはじめ部下たちを解放いただき感謝いたします」
「ありがとうで済むとは思ってねぇな?」
「思っておりませんが、何も持っていません」
「あんたはアンタってだけで価値だ。カラダで払ってもらうぜ」
「床捌きには自身がないのですが、ご指導いただければ精進いたします」
と、相変わらずの無表情で、淡々と佐々木はそんな台詞を口にする。内心がどうなのか測りがたい男だ。
「……ご要望にお答えすると申しているだけです」
それでも、すっと懐手のまま、向き合う位置に移動して威嚇する万事屋に冗談ですよとは言わなかった。
「あんまり無茶な要求はするなよ、トシ。佐々木殿のおかげで茂々様はあの時、大阪から江戸へ逃れられたんだ。俺たちが見廻組の自主釈放に協力するのは、当たり前のことだ」
「タダでやってやるほどの義理はねぇよ」
「協力自体は否定されないんですね土方さん。ホントにあなたは、身内に甘いんだから」
「身贔屓が強いんだよ。トシちゃんこそさぁ、強面で売ってるくせに部下のドジ庇っちゃいがちだよね」
「そういえば愚弟がご厚情を頂いたことがありましたな」
昔のことをふと、思い出したような表情で佐々木が言う。
「思えばアレを生かしておいたおかげで私はこうして生きているのでした。私の失脚後も佐々木家が取り潰しを免れたのも真撰組隊士であったアレが家督をついだからです。そのお礼も含めまして、要求をお伺いしましょう。どうぞ」
「つけろ」
シンプルに言い放つ二枚目の、視線の先には煙管をくゆらす隻眼の美形。
「あとつけろ。目ぇ離すな。何処でなにしてやがるか逐一報告しろ、報告書は函館の会館おくりだ」
本人の目の前で奴を見張れと佐々木に告げつつ、二枚目は懐から皮の包みを出す。言われた本人は何処吹く風、いいともやめろとも告げずそ知らぬ様子。
「経費だ。足りなくなったら、会館から送らせる」
「行き届いたことです」
素直に受け取った佐々木は砂金の入った袋を懐に仕舞ながら、
「……だからおもてになるのでしょうな」
佐々木の口から思わずこぼれた呟きを二枚目は無視した。
「土方殿、頼みがある」
けれど桂が声を掛ければなんだという風にそっちを向く。
「金子を借用いたしたい。担保になるようものを、今は持っていないが」
いつもサバサバと凛々しい桂らしくない遠慮がちな頼み方に二枚目が笑う。借財を申し出るのはおそらく、生まれてはじめてのことなのだろう。
「あ、トシ、オレが連帯保証人になる」
という近藤勲の発言と、
「あんたなら口約束でいいぜ」
二枚目の二つ返事が重なる。山崎が肩にかけた荷物から別の袋を取り出す。
「かたじけない」
「いいなぁ、ズラァ。オレも口約束で金借りてみてぇよ」
「佐々木殿、これを」
中身を確認もせず、桂が袋を佐々木に差し出して。
「はるを頼む。どこかで行き倒れていたら、どうか助けてやってくれ」
深々と頭を下げられる。佐々木が返事をするより先に背後から、高杉がその頭に肘を置いてのしかかった。
「……なにをする」
「ついてきたいンなら連れてってやるぜ?」
「寝言は寝てから言え。俺は江戸に帰ってなるべきことがある」
「まずは刀の砥ぎ直しだな」
「うるさい」
「じゃあな」
さらっと、あっさり、高杉は言ってくるりと、背中を向ける。
「え?」
と、声を上げたのは近藤だけ。桂も万事屋もそんな別れ方に少しも驚かない。そういう奴だと知っている。