頭に鉢巻、袖をたすき掛けにして纏め、両手に掃除機を持ち、背中にはたきを背負った姿で。
「今日という今日は、掃除をさせて貰いますよっ!」
助手の少年は、万事屋の事務室へと突撃した。
「……おー」
糖分の額の下、家主はぼんやりと答える。考え事があるから用がなければ入るなと言われて四日目、溜まった埃と憂鬱に埋もれていた家主は、死んだ魚のようにどろりとした目で、少年のやる気を受け入れた。
「掃除機かけますから向こうの部屋に移ってください。お茶淹れてますからどうぞ。お茶菓子もありますよ。姉が職場から貰ってきたやつが」
「おー」
いつもなら、毒入りじゃないのかとか何とか、軽口を叩く男は妙に口が重い。低い声で返事をしてのっそりと隣室へ移る。ちゃぶ台の上には茶托が載って茶碗が据えられていて、蓋を取るとやけにいい色と香りのお茶が入っていた。客用の茶葉だ。
「……」
男は茶碗を手に取る。貧乏道場とはいえさすがに武家育ちで、少年は茶をいれるのが上手い。苦さの底に甘みのあるまろやかな茶を飲み、いかにも酔客がキャバクラに持って行きそうなクッキーの詰め合わせに手を伸ばす。
「美味いね、これ」
「どうも」
「銀さんも女の子に生まれたかったよ。ちやほやされてお菓子買ってもらって、いいよね、女の子って」
「いいことばっかりでもなさそうですけどね」
掃除機をかけながらの会話はどうしても声が大きくなる。
「悪いことしたなら謝ってきたらどうですか?」
と、少年は、開けた襖の向こうから、雇い主に背中を向けたままで言った。
「何日も落ち込んでるより、そっちがずっと、楽だと思いますよ。銀さんらしくないし」
そんな生意気なアドハイスを、わざわざ顔を見ないようにして、口にするガキの小癪さが憎い。
「桂さんと喧嘩したんですか?」
そんなよそうに的外れ具合はご愛嬌だったけれど。
「ヅラはカンケーねーよ」
確かにここ数日、男は意気消沈して落ち込んでいた。事務所の椅子に座ったまま身動きせずぼーっと物思って、いた。
「そうですか。銀さんとまともに喧嘩出来る人が他にも居たんですね」
それは、つまり、お友達が他にも居るんですねと、言っているのだった。
「なぁ、ぱっつぁん」
生意気な、と、男はまた、不愉快になってしまって。
「はい、なんですか?」
「オンナってなぁ、寝ないと分かんないモンだけど」
「未成年に何をいきなり仰るんですか」
「思いがけなくイイのと思いがけなくワルイのと、どっちがタチワルイと思う?」
「そりゃあ、イイ方が、男にとって、性質は悪いでしょう」
「……チェリーのくせに言うじゃん」
「もーちょっと表現をソフトにして下さい。いくら神楽ちゃんが居ないからって」
「銀さんそれでね、すんげー困ってンだ」
「そうですか。相手が誰かは、聞かないでおきますけど」
少年の、その、口ぶりで。
「……」
見当をつけられてしまったと男は察した。しまったと、いまさら口元を掌で覆っても遅い。
「悪いことをしたなら早めに謝ったほうがいいですよ」
「そんなんじゃないよーん」
「そうですか」
ならいいんです、という風に、掃除機を掛け終えた少年は机の上を拭く。それが嘘だということは分かっています。でも武士の情けで追求はしませんよ。と、眼鏡を掛けた横顔が言っている。
それから暫く、掃除を続けて、そして。
「じゃ、ボクは買い物に行ってきます」
少年は外へ出て行く。一人にされた家主は等分の額の下へ戻ろうとして、途中で気が変わり洗面所へ向かった。ばしゃばしゃと、派手な水飛沫を足元まで撒き散らしながら顔を洗う。湿った癖毛は今だけ大人しくなって、顔を上げた鏡の中に、髪が落ち着いて妙に若く見える赤めの男がぼんやりと自身を眺めていた。
「別に、そんなに落ち込むほど悪いことは、してないんだよ」
鏡の中の男に向かって呟く。妙に言い訳じみた声になってしまってセルフ励ましは逆効果。かえってどっぷり、落ち込んでしまいそう。
「だって布団敷いて貰ったのに逃げなかったんだぜ?イエスってフツー思うだろ。思ったオレに罪はないんだよ。だってさ、アイツ、男知らずのバージンでもなかったんだから」
落ち込みついでに自暴自棄になって、一番苦い、ところを言葉にしてみる。途中で抵抗されたけれど無理やり薙ぎ倒したこと、抱いてみたら嘘みたいに具合が良くて、つい夜中まで頑張ってしまったこと、などなどはよくある間違い。やっちまったよと頭をかく程度で、何日も続く憂鬱の原因ではない。
「……なぁ」
鏡の中の男につい、憂鬱がこぼれてしまう。聞いて欲しそうな表情に見えた。そのキモチが、男にもよく分かった。
「誰かの、カノジョ、なの、かなぁ……?」
整った顔立ちをしているけれど、かなり硬派で相当の強面。華奢でも可愛らしくもない。けれどそういえば本当にソッチの奴には、ああいうのが一番好かれるんだよなと、昔の色々なこと無駄に思い出してしまう。
「だから抵抗、したのかなー。銀さん間男しちゃったのかなー。ってーか、そーならオトコをあんな座敷に連れ込むんじゃねぇよ。なぁ?」
無体なことをしたのかもしれない。けれどこっちが遊ばれた危惧も完全には払拭しきれない。あんまり美味かったから手放しがたくって、夜中も抱きしめて眠ったのに、起きたら寝床はもぬけの殻だった。
土方さんはお先に帰られましたよと女将が朝食を持ってきてくれるまで男は呆然としていた。先に帰られたことより、腕の中から抜け出されても気づかなかった自分の間抜けっぷりがショックだった。頑張りすぎて疲労困憊ではあったけれど、それにしたって、士道不覚悟もいいところ。
「アイツいったい、ナニ考えてんの?」
連絡はない。何も言ってこない。尋ねて来いとは言わないが電話一本くらい挿れてもいいんじゃないか。いやでもちょっと待て、電話を掛けるべきは自分の方だろうか?番号は知らなくもない。調査の仕事を依頼された時、仕事用の携帯のそれは教えられている。掛けようと思えば掛けられなくもない。
「……ん、だけど、さぁー」
知っているのはあっちも同じ。あっちから掛けてこないということは、つまり、それが意思表示。
「なかったことにされんの?」
考えようによっては、それは消極的な寛恕。こっちも悪かった水に流してやるぜという心の広い『返事』かもしれない。後腐れなくて好都合な筈の、やり逃げを許してくれそうな様子が、好都合だとは、どうしても思えない。
「謝るツモリ、とかはないんだけど」
悪いことをした覚えはない。抱いて寝たのは悪いことではない。背中と肩の爪あとが二三日、身動きするたびにひきつれて痛かった。自分から顔を寄せてきたのも腕を廻したのも、背中をかきむしったのも無我夢中のことだったのだろう。だとしても、あれだけ気に入った様子で耽溺していたくせに、ごちそうさくまぐらい言ってきやがれチクショウ、と、男は恨めしく思っている。
それがいわゆる逆恨みだとは承知で。
「なぁ、カレシ、居るの?」
その一言を。実はけっこうマジなんですという告白とオレはイカガですかという伺いを兼ねた短い語句を、どうしてあの夜のうちに、さっさと言っておかなかったのかと後悔している。
あの時は腕の中に居たのに。腕枕という訳ではないけれど布団に深くもぐって男の懐に頭を預けて、さらさらの黒髪が顎の下にあった。あの時なら簡単に言えたのに。あの時にそれを言えていたら、連絡をとるのがこんなに気重にはならなかったのに。
「カラダが気に入りましたから付き合ってください、って、お試しから何日からして言われたら、怒るよな、フツー」
抱いたのを悪いとは思っていない。けれど、自分に足りないところがあったことは認めざるを得ない。そのせいで今、身動きがとれなくなってしまっている。
「なぁ……。カレシ、って、誰?」
胸の中が苦い。