『カエサルの憂鬱』
呼び鈴が鳴らされ家を出る前に、玄関の姿見を眺めて確認した。顔色はいいか、服装はきちんとしているか、髪型は、目元は?
相変わらず自分が天下の二枚目である事を確認して、迎えの車が待つ玄関先へ向かう。一戸建ての官舎の車寄せでは衛兵が敬礼。職務柄の無表情の中に好奇心が透けて見える。高級将校ばかりが住まわされたセントラル司令部至近の区域でも、大総統専用車のお迎えは珍しい。
招待されているオペラ座へ、男は先に向かったらしく車内には居なかった。多分今ごろはヒロイン役の歌手を膝に乗せている。今夜のセルビリアはさぞ色っぽいだろう。
運転手と秘書官が車から出て、運転手が私のために後部座席のドアを開く。それに片手を掛けたまま、私は大総統の秘書官へ声を掛けた。
「元気かい」
何年も私の隣に居てくれた金髪の。
「はい」
「誰かに虐めらていないか」
「いいえ」
「こまったことがあればすぐ連絡をしたまえ」
「はい」
「父上から、なにか連絡は?」
「いいえ」
「他の連中からは?」
「いいえ」
「私は元気にしているよ」
「はい」
はいといいえ以外の返答を禁じられているのだろう。返事はいつもその二つきり。
「お車へ、どうぞ」
運転手に促され本皮のシートに腰を落ち着けてからも、助手席の金色の後頭部に向かって。
「私は元気だよ。君とあいつが居なくなって、すこし淋しくてつまらないが」
「はい」
「セントラルでの暮らしにも慣れてきた」
「はい」
「でもやはり、かなり淋しいがね」
「……はい」
近況を綴り続けていた。
到着したオペラ座の桟敷席に、男は先に陣取って遅れてきた私に笑いかける。つい目をそらしてしまう。昔はキライじゃなかった顔まで、今は吐き気がするほど嫌悪感が募る。男はやや不快そうだったが、言葉にしては、何も言わなかった。
演目は『カエサルとセルビリア』。カエサルはつまり、暗殺されたジュリアス・シーザーのことだ。セルビリアは彼を暗殺した連中のうちの一人、かのマルクス・ブルータスの母親。
にして、ジュリアス・シーザーの、一説によれば最愛の、愛人。
舞台は着々と進行する。男の横でぼんやりと眺めながら、どうして自分がここに居るのかを考えていた。
人生の目的ははっきりしていた。大総統の地位について軍事の実験を握ること。それはしかし、この男の直接の対決を意味していなかった。狙っていたのはこの男の『次』であって、これを倒しての権力継承は現実的でなく、犠牲も大くなるから。
それが甘い考えだったことを思い知らされて、それでもわたしを生かしておく理由が分からない。立場を思い知らせるためと告げられても、それがどんな立場なのか。
「史実では、ここで」
黙って舞台を見詰めていた男がようやく口をひらく。響きの低い武人らしい声をキライではなかった。あぁ、こんなことになるのなら、こんな男とセックスなんかするんじゃなかった。
「我が子よ、お前もかと叫んだ。そして抵抗をやめた」
そもそもなんでこんな男と寝たのだったか。ちょうどヒューズの結婚が決まって自棄になっていて、後釜を狙う連中がうるさくて、一番偉い男とそういうことになれば連中が口を閉ざすと思った。
「ブルータスの母親はカエサルの長い愛人で、ブルータスが出生した時期にもフタリの仲は公然たるものだった。ブルータスにはカエサルの実子だという噂が出生当時からあって、それが気に入らなかったものか、彼は実父かもしれないカエサルを憎み、何度も反逆の側に組した」
言い訳かも知れない。えらい男からの誘いに調子に乗っただけだったかもしれない。そうしてヒューズに対するあてつけも、少し。お前には棄てられたけどもっと大物をひっかけたぜ、という示威も、ないことはなかった。
「カエサルもブルータスを我が子と思っていたらしい。この脚本ではセルビリアへの愛情で許したことになっているが、愛人の息子への寛恕だけでは説明のつかない情けを見せている。ファルサスの会戦でブルータスに降服を促すときの、彼の書簡は自分が泣き出さんばかりだ。滅ぼしたくない、降服をしてくれ、と。最後には自分に会いたくないなら降伏文書の交換は代理人で構わないからと言い出す始末だ」
長い言葉に誘われて視線を向けると、男もこっちを向いて、じっと見詰めてくる。
その隻眼に、愛情が、こもっているのが……、うざい。
「憎まれる理由に心当たりがあったのだろう。憎まれても、まだ愛していたのだろう。その気持ちが、わたしにはよく分かる気がするのだ」
「本を一冊読めば書いてあることを、偉そうに薀蓄しないでください」
「そう。本を読めば書いてある。結局、王権はブルータスの手に落ちなかった。ブルータスを倒したアントニウスのものにもならなかった。男たちの間にはエジプトの富と王女とがゆらめくが、カエサルが死に損でブルータスが殺し損だったことは明らかだ」
「オクタビアヌスへの譲渡はカエサルの遺書どおりでしょう」
「勝てば故人の遺書などどうにでも造り上げる事が出来る。エジプトにシーザリオンが、ローマにはブルータスが、それぞれ認知も難しい庶子とはいえ居るのに、そんな遺言を書くものか」
「いったいあなたは、なにを仰りたいのですか」
舞台ではカエサルの死をセルビリアが嘆く。男はそちらを見て、そして。
「あぁはなりたくないものだ」
本当に苦しそうに呟いた。
「君の血肉になるのなら倒れることにも意味があるだろうが、今はアレがオチだ」
「だからなんです。はっきり言って下さい」
「軽挙は慎みたまえ。君は、私の後継者だ」
……おもい、がけない。
言葉に耳を疑う。
こいつ今、なにを口走った。
「大総統の地位は相伝ではない。本当に力のある者が権力を握らなければならない。君以外に候補者は居ない。君は、そのことを、もっと自覚したまえ」
だから、なにを。
「君にクーデターを唆す連中は、君に火中の栗を拾わせようとしているに過ぎないのだよ」
自分の愚かさは、もう、よく分かっているが。
「いずれゆっくり、何もかもを話す。それまでは、大人しくしていたまえ」
「いずれというのは、いつですか」
てきぱきと尋ねたのは自棄だ。
「それが本当なら、いま聞かせてください」
国家への忠誠を崩されて、自棄を起こしていた。
「望むのならば、何もかもを話そう」
いまさらもう、失うものは、ない。