寄生生物・1
洗面所で顔を洗う。手を動かすだけで肩が痛い。夕べ、痛めた右肩が軋む。蛇口から流れ落ちる水を受けた掌も、それを掬って冷やす頬も熱を持って、ずきずき、響いている。
「っ、てて……ッ」
水道の蛇口を止め、顔を振って水気を払い、気配を感じて振り向くと、そこにはフェリーが立っていた。ちんまいけど愛嬌がある、まだ十代の軍曹。けど見かけによらず元気で、職務上は勇敢で凛々しい。
「おぅ、サンキュ」
タオルを差し出され、相変わらず気のつく奴だと感心して、受け取り顔を拭く。終わってタオルを返したら、水気を切ってはっきりした視界の中、フェリーの表情は見たことないくらい思いつめていて。
「ハボック少尉、教えていただきたいことがあるんです」
「ナンだ?」
「喧嘩って、どうやって申し込むんですか?」
「……申し込むんじゃねぇよ、売るんだ」
大抵は、それも押し売り。
「誰に売りたい。俺か?」
「そうです」
「買ってやってもいいけどな、あれだろ?中尉絡みだろ?」
「……はい」
「だったらまず、中尉ンとこ行って来い。順番は守れよお前も見てただろ。昨日、ブレダが中尉にゴメンナサイされたの」
あれは男らしい男だ。昼食時の食堂でホークアイ中尉に言った。俺との結婚を止めてくれって。中尉を好きだから自分と付き合ってくれ、って。言い終わると同時に、トレーを持ったままの中尉から頭を下げられ断られてたけど。
わざと俺が居る前で言った、あいつは本当に堂々とした奴。
「……はい」
フェリーは素直だった。俺が返したタオルを受け取って洗面所から出て行く。そのすぐ目の前に居た。
「ハボック少尉、様子は……」
男子トイレの中に入れず、廊下で俺を待っていた彼女が。
「中尉、好きです。結婚してください」
どうなの、と、俺の具合を尋ねる彼女の語尾にフェリーの告白が重なって響く。思い切りいいなぁこいつと、俺はまじまじ、フェリーの後姿を眺める。ブレダでさえ、求婚はしなかった。
「……ごめんなさい」
中尉の返事はブレダん時より遅かった。驚いただろうし、戸惑ったんだろう。咄嗟に意味が分からなかったのかもしれない。六つか七つか、年下のガキに、男子トイレの前でプロポーズされるとは、さすがの中尉も思わなかったらしい。
「じゃあお願いです。ハボック少尉との、こんな結婚は止めて下さい。僕、こんなのはいやです。中尉が、少尉も、みんなに笑われてる、こんなのは」
イヤです、って繰り返す、フェリーは本当に優しくて素直な奴だ。そう、俺と彼女はセントラル司令部の中では笑いもの。偉い人の政略結婚で、用済みの情人二人、うまく『始末』されて。
「僕、中尉を大好きです。少尉のことも好きです。だからこんなのは嫌なんです。お願いします」
打算的で汚くて、後ろ指差されるのに相応しい『カップル』。俺たちを納得させるために大佐が慰謝料を幾ら払ったのか、その金額は様々に推量され、信憑性のない噂があちこちで渦巻く。誰も俺に聞いてこないから応えられないが、尋ねられたら俺は言うだろう。金額は、ゼロ。
代わりに別の約束を与えられた。
「ごめんなさい。でも私はこれでいいの」
ブレダに向かっては、『私は彼でいいの』って答えてた人は優しい目で、フェリーを見詰めながら言う。自分を好きだって言う男に、誠実な女が見せる真摯な顔。こういう表情を、俺は向けられたことがない。俺は女に、真面目に愛を告白した事がないから。
「ごめんない。きっとあなたとの方が幸せになれるだろうけど、私はこれでいいの」
ブレダの時と殆ど、おんなじ台詞だった。ブレダには、「あなたの方が」って言ってたっけ。
「あなたの気持ちはとても嬉しいわ。ありがとう。でも、ごめんなさい」
優しい返事だった。はっきりしてるから優しい。容赦なく絶望させるから優しい。可能性はゼロだという宣告は、フェリーを涙ぐませる代わりに彼女の逃げ道までふさいでいく。
「……ッ」
ナンにも言えずに彼女に一礼して、フェリーは走っていく。途中でナンに気付いたのか止まって、戻って来て俺の前まで来て、喧嘩売る気かと思ったら、俺にも一礼してまた走ってった。……馬鹿だなぁ。
殴ればいいのに、俺のこと。泣いてるヤツには殴られてやるのに。今日の大将もそうだった。冗談止せよって言って口では罵りながら、目は真剣で泣き出しそうだった。あんな顔されると悪意がもてない。そっちも真剣に、大佐のこと愛したのか。
俺の女と戦場で鋼の大将が、『遊んだ』時に俺が抱いた敵意は今回、湧いてこなかった。多分、俺が悪い事をしてる自覚があるからだ。
俺は今、とても悪い事を、しようとしてる。でも止めるつもりにはなれない。
だって幸せだ、こんなに。
好きな相手と『結婚』することが、こんなに幸福なことなんて思わなかった。
メイン料理に牛タンのトマト風味を頼んだとき、確かに向いの席で女性上官が、おやという顔をした。理由はそのモノが目の前に据えられて、湯気を放ちだしても分からなかった。茶褐色のソースを口の中に一口、スプーンで掬って運び込むまでは。
「……ッ……」
声も出せずに、ひきつる俺に。
「……馬鹿ね……」
率直な感想とともに、上官は心配そうな視線を寄越す。反論の余地はない。すっかり忘れてた。
自分の口の中がぐさぐさだってこと。
「はい」
白いけど硬い指が、自分の前の皿を俺に寄越す。東方産地鳥のペッパーステーキ。ポテトとブロッコリーの添えられた腿肉はセントラルによくあるブロイラーの水っぽい肉と違った盛り上がりを見せて、実に美味そうだけど。
「……食いかけですよ?」
「あぁ、そうね」
一応、気を使ってみた俺に、彼女は頷くなり手元のナイフで自分の腿肉を一欠けら、切り取り、食べて、皿をもう一度、俺の方へ寄越す。俺はありがたく好意を受け皿を交換した。まだ口の中がじんじん、ひりひりしてた。トマトソースの熔けた褐色のシチューは俺の大好物だが、今日は食べられそうにない。
「大丈夫なの?」
「はぁ、まぁ、口ン中ですから、治りは早いと思うンすけど」
鋼の大将に思いっきり殴られた左側の、目の下は青く変色して周囲は腫れてる。軍人のツラが歪んでんのなんかはよくある事だが、昨日、ブレダとやりあった腕が痛くて、まだ、自宅で料理を作ろうって気にはなれない。
勤務明けてから私服に着替えて、食堂で食って帰ろうとしてたら、中尉が呼び止めてくれて、メシ食って帰るところだって言うと、奢ってやるから待ってろって言われた。彼女の残業が終わるまで一時間くらい、煙草をふかしながら雑誌を捲りながら待って、私服に着替えた彼女と連れ立って司令部を出て行く。
視線が背中に、やけに痛かった。彼女との『婚約』以来、俺はそういう目をむけられることが多い。嫉妬と羨ましさと、非難の篭った目だ。政略結婚に伴う恋人や情人の整理はよく聞く話だが、こういうやり方をする奴は滅多に居ないと、ひそひそ、囁かれる噂。
俺たちを結婚させて、それで俺たちとの関係を絶った事を結婚相手とその親族に納得させ、彼の縁談は順調に進んでる。今日も勤務あけで会いに行った筈だ。夫に急死され実家に帰ってる未亡人と、その娘。あの男が生きてた頃には一度も会わなかった二人に。
「……、の……?」
彼のこと考えていて、目の前の人が言ってる言葉を、よく聞いていなかった。
「え?」
俺が問い返すことに馴れた人は、
「大丈夫なの?あんまり不穏なら、対処を考えるわ」
「何がですが」
「あなたの風当たりよ。あなただけ責められて。……ごめんなさい」
俺の食べかけのタンシチューを、オイシそうに食べていく人は本当に申し訳なさそうに、俺にかすかに頭を下げる。いい人だなって、俺は思わず、笑ってしまう。
「気にすることないですよ、中尉が。今日の大将は、大佐の方の客だったんだし」
「ブレダ少尉は、私でしょ」
「あいつ重機関車ですよ。まだ腹が痛い」
ブレダに喧嘩を売られたのは昨夜、酒保で。男同士は便利なもんで、誰かが俺の隣の椅子を蹴り倒せば、それがはじめの合図になる。憲兵の見回りを警戒して、酒保の扉に内側から突っかえ棒をして、俺とブレダの喧嘩は始まった。
「普通は、適当なトコで仲裁が入るンすけどねぇ」
軍人やってりゃ喧嘩することもある。腹にたまって発酵させるより、やりあってカタつける方がいい時もある。そういうことに馴れた連中が、でも今回は、誰も止めなかった。『売った』ブレダに、皆が好意的だったからだ。
「……ちゃんと勝ちましたよ?」
中尉が食べるのを止めて俺を見てるから、俺はニカッと笑ってみせた。そんな顔しないで、心配しないでくださいよ。よくあることです、男同士では、揉め事は日常茶飯。特にいい女を挟んでは。
「あいつが寝たマンマ起き上がらなかったとき、俺まだ立ってましたからね。椅子に縋って、ふらふらだったけど」
俺が勝ったというより、ブレダが先に、飽きたのかもしれなかったけど。俺を最後まで殴り倒しても、中尉がブレダの方を向くわけじゃないことに、途中で気付いて、面倒になったのかもしれない。俺からは絶対、止めるわけにはいかなかった。女に選ばれた意地がある。選んでくれた女の顔を潰すわけには行かなくて。
そもそも。
実力が拮抗していなければ、仲間内で『喧嘩』という名の決闘に、発展する筈がないのだから。
勝敗は最初から分かっていた。女が選んだ男の方が勝つ。
食事の代金は彼女が払ってくれた。ごちそうさまですと、俺は晴れ晴れと言った。
「中尉、今度の非番はいつでしたっけ?」
「明後日よ」
「引越し先、そろそろ探そうと思ってンすけど、どういうのがイイとかあります?やっぱ学校とか公園とか、近い方がいいんですよね」
「ねぇ少尉」
「はい」
「あなた、こうやって見ると好青年なのにねぇ……」
妙に感慨深く言われて苦笑するしかない。どう見えようと、俺の内側はゆがみまくってる。それを誰より、この人は知ってくれている信頼感が、俺たちをかなり堅固に結びつけて。
「ひとの子供を押し付けられて嬉しいの?」
俺と彼女の連携の、中心は共通の恋人。
「俺にとっては、俺の子供なんですよ。……誤解しないで、中尉と俺の、って意味じゃないです」
一瞬だけど彼女の目に浮かんだ嫌悪を、俺は見逃さなかった。
「俺と大佐の子供を中尉が産んでくれる、みたいに俺は思ってます」
男には出産の強烈な体験がない。自分の女が産んだのを自分のだって、思うしかない。だから彼女がやがて孕む種子を、俺が俺のだって思うのは自然なことだ。俺の女の、なんだから。
「俺ね、大佐に、こんなまで、ちゃんとして貰えるとは、思ってもいませんでした」
恋して愛して、抱いて尽くしてきた。きたけどそれは、俺が勝手に、好きでした事だ。まさか報われるなんて思わなかった。
「大佐の子供の、父親になれるの嬉しいです」
「ハボック少尉、あなたって」
「はい」
「実に見上げた変質者ね」
「……、それは……、ちょっと……」
「一つだけ約束して欲しいの。女の子が生まれても、エッチなことしないって約束して」
「しませんよ。そんな変質者みたいなこと」
「変質者じゃないの?」
「……、方向性が、ですね……」
俺はただ、一人の人を変質的に愛してるだけであって、変態な訳じゃない。そりゃあ健康な男だからある程度、助平なことは否定できないけど、でも。
「男の子でも女の子でも、セックスの対象にはしません。何を賭けても誓ってもいいです。だって、自分の子供ですから」
「本気で言ってるみたいね。実に見上げた変態よ、あなたは」
「……あの……」
綺麗な人の心からの感嘆が俺を、がくりと落ち込ませる。
「まぁ、でも、心強いわ、あなたが居てくれて。変質者でも変態でも、悪党でも嫌な男でも」
「……、あの、中尉」
「子供を愛してくれる人は多い方がいいわ」
それに異存はなくて、俺だって大佐と俺の子供を一人で育てることは難しいから、中尉が一緒に育ててくれるのは嬉しい。
そのまま一緒に歩いていく。中尉のアパートに向かって。なんとなくいつの間にか、手を繋いでた。
「……まだ居ないんですか?」
「今はまだよ」
「たくさん欲しいな。十人くらいでもいいです」
「あなたは良くても、私の身になって。出産って、痛いらしいわ」
「でも中尉だってたくさん欲しいでしょ?」
「……そうね」
中尉の返事は柔らかかった。この人も今、幸せの中に居るんだって分かった。俺たちは幸福だ。周囲にどう見えても。
中尉のアパートの前に来た。そこで立ち止まって、小声での会話。
「……今日は大佐、来ないの?」
「来ないんじゃないかしら。連絡も合図もないから」
「真面目に努力してンすか?」
「あなたからそんなこと言われるのは微妙に不本意だわ。受胎可能な時期じゃないのよ、今は」
「そっか。おんなの人って、周期がありましたね」
「なにを今更、カマトトぶってんの」
呆れた声で叱咤され、照れ隠しに苦笑。俺たちはきっと他人が見れば、『部屋に入れてください』『また今度ね』の攻防をしてる、ように見えるのだろう。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
言い合って分かれる。そのまま俺は自分のアパートに戻った。途中の不動産屋で物件の広告を貰って、本屋で女性の妊娠に関する本を買った。