寄生生物・10
差し出されたカップの中の液体を、職場復帰した中尉はまじまじと眺める。天気のよい昼下がり、窓の外には花の枯れた花壇の土が陽を受けて白っぽく見える。射撃のうまい女性中尉は頬こそ痩せてやややつれていたが、顔色は悪くない。
不審そうに目を細める彼女に、
「ハイビスカスとローズヒップのミックスです」
鮮やかに赤い色。ほんの少し、酸味を感じさせる香り。
「砂糖入れますか?ハチミツもありますが」
ポケットからスティックシュガーとハチミツの小瓶を取り出して、中尉の机の端に置いた。
「私はコーヒーを、頼んだと思うのだけど」
「中尉は暫く、コーヒー禁止です」
「なぜ?」
「カフェインは男性ホルモンの分泌を阻害して身体に悪いからです」
「男性ホルモンがどうしたの」
「女性にも男性ホルモンはあるし、男にも女性ホルモンはありますよ。バランス違いますが。排卵前の卵子を取り巻く卵胞液中の
テストステロンは男性ホルモンでして、カフェインを摂取しすぎるとその濃度が下がって、そんで、」
「ハボック少尉」
「心配なんです。中尉の体調がもとに戻るまで、ロイ・マスタング大佐統括軍幕は、コーヒー禁止となりました」
気がつけばその場の全員が大人しく、赤いハーブティーを啜っている。責任者不在のためブレダ、ファルマン、フェリーの三人も揃って、フェリーは金髪の少尉が買って来た何種類ものハーブティーの缶を興味深く眺めている。
小柄で聡明な中尉は悪あがきをしなかった。大人しく、カップの中の液体に口をつける。味は酸味が勝って、美味いとか甘いとかいう感じではなかったが、それをいうならコーヒーも苦くて毒のように黒い。
「……いつか」
「はい」
「軍部全体を、完全禁煙にしてみせるわ」
「……」
金髪の少尉はひどく情けない表情。それがおかしかったらしく、フェリーが声を出して笑う。ブレダとファルマンもつられて。決して愛想のいい人ではないが、女の存在は男たちを和ませる。
どの男より、雄々しく凛々しい人だけれど。
午後の休憩が終わって、また司令部が動き出す。機材や書類を抱えて男たちは右往左往だが、女性中尉は殆どの時間をデスクワークに費やした。膝と腰には、絹製の軽い布が掛けられて、彼女を冷えから守っている。
安くはないそれを、わざわざ買って来た若い男と二人きりになったのは、定時を一時間も過ぎた日暮れ時。
「ハボック少尉」
呼ばれて振り向いた男は、
「はい」
たいへんよいこに、明るく返事をした。
「あなたは嫌な男だわ。ただ、女に花を贈っても、名前も覚えてこないようなところが可愛げだった」
「ども」
「いつからこんなに可愛くない男になったの」
「中尉がまだ、ヨタヨタしてられるからですよ」
「していないわ」
「してます。ご自分で分からないだけです」
断言する口調さえいつものようではない。強い。
「射殺されても外には出しませんよ」
図面を片手に抱えたままで若い金髪の男は胸を張り、脚を踏ん張るゼスチャー。女性中尉の外勤はしばらくナシだと、それも彼女が職場復帰するなり、下官総意のもとに決まっていた。弱っている女を男たちは連帯して庇いにかかっている。本人の不快を承知の上で。
男は、損ばかりする生き物だ。
「メシ買って来ます。何がいいですか。フェリーが八時くらいにあがるそーっスから、一緒に帰って下さいね。俺はもちょっとかかりますけど、大佐の病室で、今日は寝ますから」
「ロイは、元気?」
「だいぶ回復してますよ。よく眠ってます」
「そう」
万年筆を手から離して、中尉はふうっと息を吐く。図面を席に置いた金髪の少尉は、中尉の背後に回りこんで、肩に手を掛けた。
「お揉みしまっーす」
「始めてから言わないで。気をつけなさい、セクハラになるわよ」
「俺たち婚約中でーす」
「……あぁ」
そうだったわねと、薄情な言葉。すっかり忘れていた。
「中尉、お見舞いには、行かれないんですか?」
「私はまだ怒ってるの。あなたはさっさと、恨みを忘れすぎよ」
「忘れたわけじゃありませんけどね。ハガネの大将がベタつきしてて、安心だけど心配なんスよ。大佐が元気になるまではそばについてて貰わなきゃなんねーから黙っとくけど、落ち着いたらもーいっぺん、話、しなきゃなんないでしょーね」
「今度のことで、私は学んだわ」
「はい?」
「男って、本当にアテにならないわ」
「……」
張り詰めた肩をいい気持ちで、揉みほぐしていた男の手が止まる。背中に冷や汗が滲んでシャツの下で背骨のくぼみに沿って冷たく、腰へ流れ落ちた。
怖い。
「続けて」
肩をもめと、中尉は静かに促す。ぎくしゃく、少尉は揉み続けた。
「もう一つ。……無意識って怖いわね」
「そっスね」
思いがけず早々と、中尉の『意識』が別の方向を向いたことに、男はほっとして肩を揉む手にリズムが戻って来る。
「想像妊娠で擬似妊娠中毒症なんて、我ながら笑えるわ」
女の自嘲的な感慨を、
「早く元気になって、また頑張りましょーね」
前向きすぎる男のコメントが明るく掬い上げる。
「無意識の力で、子宮まで膨れるのよ。馴染んだ『親友』のフリくらい、簡単にするわ。そう思わない?」
男の手が、ピタリと止まった。
「……大佐の錬成が」
「私たちはアル君という成功例を知っている」
「思い込みだった、って、仰るんですか?」
「だから私たちの意識もあれを、事実として簡単に受け入れてしまったけど」
「違いますよ。ちゅ……、准将は、いらっしゃいました。俺、あの時、確かにしばらく、准将と一緒でした」
鋼の錬金術師によって肉体に憑依されていた二十数秒間。
「エド君が出来たからって、ロイにも出来たとは限らない」
「大佐も、『俺』のこと呼んだでしょ、『マース』って」
「あれは、ロイが喧嘩したまま死なれたショックと後悔で、おかしくなって、私たちまで巻き込んだ無意識の願望。私はそう思っておくわ」
「俺、准将でしたよホントに。んで、准将は、ホントに大佐のこと、凄く好き、でした」
「ロイの分霊に乗っ取られていただけよ」
「愛してられました。男の精一杯で」
「そんなもの」
ふんと、中尉は鼻先で笑い棄て。
「何のアテにもならないわ」
「……おっしゃるとーり、です……」
「ありがとう。もう結構」
肩を揉む手を止めさせて、しかし、若い男の大きな掌は、女の肩をぎゅっと抱き締めて。
「元気になったら、セックスしましょうね」
金髪に半分埋まった、柔らかな耳元に囁く。
中尉の唇が動いて、キツイ台詞を投げつけるより先に、
「……大佐と」
男は続けて、罰当たりな言葉を。
「オトシマエをね、俺もずいぶん、考えてたんですよ」
中尉がちらりと視線を流すと、若い男が牙を見せながら笑っていた。ここには居ない獲物の蜜を欲しがって飢えを隠さない様子はいっそ、堂々として見える。
「二人で苛めましょう。泣き出してしまうまで。泣いてもやめないで。大佐がまだ知らないくらい、ぐちゃぐちゃに気持ちよくして、離れるなって俺らに縋りついて来るまで」
あの男の手指が届いていない場所まで、深く。
「俺たちがどんだけ愛してるか、も一回、身体に教え込んどきましょ」
「あなたはロイを許したんじゃなかったの?」
「あの時は。でも落ち着いたら話は別です」
「本当に男って信用できないわ。瞬間的な生物ね」
「それが男の精一杯なんスよ」
一瞬の激情、一瞬の覚悟、一瞬の力、刹那の情熱。
女のように継続して身の内で愛で育て、自分自身を割り裂いて与えた核を自分より大きく育て上げる、そんな適性は最初から、神に与えられていない。
「でも心からです」
「あなたは見上げた変質者よ。楽しみにしているわ」
「……はい」
男は笑う。無邪気とはいえないが明るく。
つられて女も、口元を緩めた。