第一幕・嵐の前
覚えている限りで最初の記憶は母親の死。 蝋燭の炎が金欄の壁布に弾かれて憂鬱な色彩を放つ、天井の高い暗い部屋。身内の女たちが母の遺体の周囲を取り巻き、死化粧し花を添えてやるのをぼんやり見ていた。
人の話ではその後、母親の寝台によじのぼり一緒に寝ようとしたらしい。咳が治ったら一緒に寝てくれると言っていた。母様は咳をしていない。だから一緒に眠れる筈だと、まだろくにまわらぬ舌で言い募ったらしい。四歳七カ月。あどけない遺児の戯言は女たちの紅涙を絞ったとか。
「……ティ、サティ様」
名前を呼ばれて被っていた上着を頭から外す。車の後部座席でうたた寝をしていた。
夕焼けの眩しさに眉を寄せる。レイクが身体をずらして陽光を遮ってくれた。子供の頃からの傅役で今は影のように寄り添う側近。
上着を着る。差し出された蝶ネクタイの締め方が分からない。顎を上げるとレイクが締めてくれた。着慣れない礼服が窮屈で、俺は気持ちが悪くなる。
「何時だ」
「六時四十分です」
俺の住むブラタルからここまで、海路をとれば二時間で到着する。しかし港の使用許可はおりず、陸路だと幹線整備されていない山地や荒れ地を通らなければならなくて、七時間近くかかった。
「お急ぎ下さい。七時には会食が始まります」「あぁ」
車から降りた途端、不覚にも足がもつれる。思わず漏らした舌打ちに、
「お疲れなのですよ」
いたわるようにレイクが答える。そうかもしれない。ブラタルを出発する直前の三日間、不眠不休で駆け回っていた。
まだぼんやりした頭をふって車から降りる。夜風が頭上を通りすぎ、周囲の樹木を揺らした。木の葉と枝のざわめきに悪意を感じる。俺の来訪は歓迎されていない。けれど俺がここへ来るのを拒める者はない。何故ならば俺はこの広大な館の主、ナカータ領主の息子の一人だから。
庶子でも十三男でも、父親の顔の記憶さえなくても息子は息子だ。一族の集まりに出席する権利はある。あると自分に言い聞かせながら車から降りる。踏んだ地面からも歓迎されてない気がして、俺の不機嫌は増した。
「サトメアン、こっちだ」
玄関ホールで待っていてくれたのは異母兄。父方親族の中でただ一人、俺と親交のある兄。「遅かったな。間に合わないかと思ったぞ」
「早く来れる訳ないだろ」
不機嫌に、俺は異母兄にあたる。
「留守を狙って電報よこされて、ご丁寧に海峡封鎖してくれて。高速道路もあちこち工事中だったしな。いっそ電報なんざ寄越さなきゃよかったんだ。そしたらなにもこんなトコ、来なくてすんだんだ」
「分かってる。悪かったサティ。怒るな」
異母兄は困った顔で俺を宥めた。
「もっと早く知らせられれば良かったけど、色々あったんだ。許してくれ」
「それは、分かってる。あんたが俺の為に一生懸命してくれてたことは。……ありがとう」 真っ直ぐに見上げてそう言うと異母兄は頬を赤らめた。芸のない反応。俺が真顔で目を見ると殆どの人間はしどろもどろになる。ブラタル海峡の紅真珠とかナンとか言われた母親に、生き写しとかしのぐ美貌とか、ツラの皮一枚を誉められんのも飽きた。
「礼なんて言わなくていい。お前も父上の息子には違いない。親族会議に出席する権利はある。特に今夜はナカータの行く末を決める大切な会議だから。さ、こっちだ。もうみんな集まってる」
肩を抱かれ広間へ導かれる。この館に入るのは初めてじゃない。幼い頃、ごく短い期間、父親に引き取られここで暮らしたこともあったらしい。俺は覚えていない。
「サティ様」
ついてきたレイクがそっと、俺に金属製の薄いカードを握らせる。
「合図をお待ちしています」
俺はかすかに頷いた。異母兄は首を傾げ、でもそんな事にかまってる暇はないという感じの強さで俺の腕を引いた。
母親の死後七日目にやってきたナカータ領主からの使者は息子である俺を引き取ると言った。
親族たちは反対したがブラタルは当時ナカータ領主の庇護を受けるほんの小勢力。ナカータ公の申し出を拒む力はなかった。叔母や叔父たちは俺を泣く泣く手放した。取って喰いはしないのにと使者が笑うのを、叔母の一人がギッと睨んだという。友好使節という名目の人質としてナカータ領主の館に滞在させられた挙げ句、その子を孕んで捨てられた女が俺の母親だった。
十二年前、四つ五つだった俺がこの館に滞在した日数は僅か半年。俺はその日々を覚えていない。来た日のことも帰った日のことも。ただその短い期間に俺は傷を受け、癒えない傷だけが、かつてここに居たことの証。
俺を背中に庇うようにして異母兄が広間の扉を開ける。広間にはナカータ領主の親族が五十人ばかり集まっている。みな落ち着きなくうろうろし、三四人ずつ集まっては額を寄せ低く囁きあい、俺と異母兄の入室に反応したのはごく小数だった。
「最後の弟がたった今、到着しました」
異母兄は声を張り上げる。
「今朝がた外洋探索から帰ってきたばかりで遅くなってしまい、申し訳ありません」
俺の代わりに言い訳をしてくれた異母兄に背中を押され広間へ足を踏み入れる。あちこちからとんでくる視線。値踏みするような嘲笑するような。足下に敷かれた絨毯を踏み意地の悪い目つきの壁をこえ、俺は領主のいる上座へと近づく。
「やって来ましたよツラの皮の厚い」
「困りましたね。今夜はごく内輪の集まりですのに」
「内緒話が、出来なくなりますな」
あちこちから聞こえてくる、俺に聞かせることが目的の囁き。
「気にするなよ」
異母兄が俺の耳に蓋をするかのように呟く。「お前のことがみんな気になるんだ。評判いいからさ。無視されるよりいい反応だぜ」
そんな言葉を聞きながら導かれた場所は領主と同じテーブル。ただし末座。隣は異母兄。「さぁ、座れ」
優しく言われたが俺は足を止めない。肩におかれた手を外し領主の前へ。領主は俺に気づいて目線を上げた。ゆっくりと。
初めて見る父親と視線を交わす。
自信と自惚れと力に満ちた顔。髪は短く切ってる。眉は凛々しく切れ長の瞳は酷薄で、鼻筋が通って口元は強く引き締まり頑丈そうな顎に続いている。男盛りという言葉がぴったりの、四十過ぎだがけっこうな色男。
目線があっても男は何も言わなかった。俺も言わないまま、懐から一通の書状を取り出す。上書きを見た途端、微動もしなかった男の表情が揺れた。
俺は手首を翻し書状を男の目前に広げる。それが確かに自分の筆跡であることを認めて、「どうしてお前が持っている」
男は俺に口を開く。
「大陸を往復してるぜ、その書状」
俺も口を開いた。声は普通に出た。
「ナカータからの密使が、西国境線を警戒してた帝国の巡視艇に取っ捕まった。密使が持ってた密書は帝国の諜報部に送られたが、帝国諜報部には東方古代語の暗号を解読できる人間がいなかった」
「どうしてお前がそんなことを知っている」「いいから聞け」
問いに答えない俺を男は不快そうに見た。俺はかまわず言葉を続ける。
「総合大学の東方研究室に解読を依頼した。が、そこにはオストラコン王国のスパイが居て書状を秘密裏にすり替えてくれた」
「では内容は帝国には?」
「ばれてない。辛うじて」
「オストラコン王国か……」
男の表情が好色に崩れる。
「お前は王女と仲がいいらしいな。たらしこんでいるのか」
「俺の女だ」
さらりと言った俺の言葉に広間がどよめく。 オストラコン王国はナカータの三倍の領地と二倍の人口を持つ、東方諸国連合の長。ブラタルとは細い海峡をはさんで向かい合っている。俺の母親はオストラコン王家に縁があり、俺は子供の頃からオストラコン王家には出入りしていた。王女とは幼馴染みで、ガキの頃からの仲良し。
「顔のいい息子はつくっておくものだ」
男は満足そうに笑う。初めて見た笑顔は意外な子供っぽさ。目尻に皺がよって切れ長の目が無邪気な感じになる。悪党もこれだけ魅力的に笑えればなまじな善人より上物。
「父には父の思惑があるのだ。ともかく座れ。ラクサス、この子と席を替われ」
男の左隣に座っていた兄が顔色を変える。抗議するように口を開いたが、男の一瞥にあって何も言えないまますごすごと立ち上がる。ラクサスという名は確か長兄で二十五歳。俺より九つも年上のくせして父親に逆らえないらしい。親子というより支配と屈伏の関係。
「さぁ座れ、サトメアン」
上機嫌で男は椅子を引く。その仕種に俺はこの男のやり口を見た。序列で支配している。息子たちに順番をつけ、上へ上へと足掻かせて。自分は常に順位をつける側から動かない。 うまいやり口だ。でも欠点がある。他人から与えられる評価を拠所にしている雄の顎からは牙が抜ける。だから十二人もの兄のうち、父親に反逆を企てた者は一人も居ない。
ここに連れてきてくれた異母兄はちょいと義理のある俺を庇うだけあって、兄たちの中では唯一骨のある男だが、それでも反逆というよりは不服従。
「願い下げだ」
俺は短く答える。
「ここで飯を喰う気はない」
広間には緊張が満ちる。この男にこんな口をきいたのは、俺が初めてなのだろう。
男はにやりと笑う。
「拗ねるな、サトメアン。長年放っておいたことを恨んでいるのか。お前には母親が居ない。故郷に置いておいた方がのびのび暮らせると思ったのだ」
それは詭弁だ。でも真実も少しだけ入っている。俺はブラタル海峡で自由に育った。ここに繋がれた兄たちと違って。
「あんたはサラブのやり口を知ってるか」
海の向こうからやって来た侵略者。
「それなりにな」
「嘘つけ、ろくに接触した事もないくせに」 俺は連中と直に戦ったことが何度もある。「連中は情け容赦ない。人身売買の習慣があるから、戦争で負ければ植民地の人間は完全に『モノ』扱いだ」
「それがどうした」
「あんたの交渉相手、そいつは二枚舌で知られたしたたか者だ」
「サトメアン……、あとでゆっくり、その話は聞こう」
「ナカータが寝返ればサラブの侵略者たちは勝つかもしれないさ。だが連中を勝たせてあんたにいい事は何もない。あんたとの約束なんざ連中は守らない。戦争が終われば男は奴隷、女は売春婦」
「サトメアン、いい加減にしろ」
男の額に青筋が寄る。
「息子と思って我慢しているが、その口のききかたは、」
「俺は息子としてここに来たんじゃない」
懐からもう一通の書状を取り出した。これは紙じゃなく羊皮紙。丸めて内ポケットに突っ込んでたせいで胸元がゴワゴワしてて気持ち悪かった。
取り出した羊皮紙を、手に持ったまま男の面前に突き出す。読み下した男の顔色が変わる。
俺がその時、笑ってしまったのは。
上着の胸元がすっきりして気持ちよくなったせいだ。
朗読しろと男の右隣に座っていた次兄に羊皮紙を押しつける。まるで毒物かなにかのように次兄はそれにおそるおそる手を触れ、震える声で読み上げた。
『
帝国西国境侵略者討伐における、援軍派遣に関する申合せ。
出陣戦艦の各国割当……、糧食の手配、軍需物資その他……。
尚、東方諸国連合艦隊、総指揮権はブラタル海峡主、アクナテン・サトメアン氏へ委任するものである。
オストラコン王国国王、署名。
パルス首長国連合諸首長、署名。
オリブス半島首領、署名。
東特別経済域自治会会長署名。
クラーク帝国皇帝承認印
ブラタル海峡主、署名。
』
しんとする広間。
「どういう事だ、これは」
「あんたが知ってるか知らないか知らないが、ブラタル海峡のアクナテン・サトメアンってのは、海軍関係者にはちょいと知られた名前なんだ」
ブラタルは貿易港として栄える以外に発展しようがない場所だ。商人を庇護し貿易港として関税収入を増やすために、『海の遊牧民』なんてふざけた仇名を持つサラブの海賊たちを掃討孅滅することが俺の仕事。
サラブは二十幾つかの部族で連合国家を組んだ集団。海峡のこちら側とは文化も風俗も政治形態も違っていて、理解するのが難しい。難しいが、それが出来なきゃ迎え撃つことも出来ない。
俺は連中とは腐れ縁だ。やり口も戦術も知ってる。面子もだいたい見当がついてる。何よりも俺には実績があった。俺例外の誰も持たない、サラブの連中からの白星。
「百戦百勝負けナシなんだ今のとこ。強面で売ってるわりに実戦経験が一回もないあんたと違って」
各国の大将たちはこぞって俺を連合軍指揮官に推した。そのことは既に帝国に通達され承認を受けている。知らなかったのはナカータの領主だけ。知らせなかったのは俺の指図。
俺は、ナカータ領主の不穏な策動に気づいていた。
「そういう立場で、今夜はあんたの」
男の代わりに俺が笑ってやる。傲慢に、余裕綽々に。
「裏切りを断罪に来た」
「冗談だろう」
男はようやく笑みを復活させる。
「お前のような小勢力の子供が」
「それだけ実力がずば抜けてるってことさ」 勇猛で知られるサラブの海の男たちに、悪魔のように嫌われる男が俺。『ブラタルの人食い虎』なんていう訳の分からない仇名までつけられて。
辺境の一海峡主に過ぎないことも歳の若さも、勝負の世界では問題にならない。
「大口を叩くものだ」
「俺はあんたより強いよ」
本当のことだからあっさり言えた。
「隠居しろ」
笑っているのにも飽きて、俺は男に結論を投げつける。
「あんたが敵に寝返りかけたのは忘れてやる。ナカータ領主の地位を俺に譲れ」
「戯言を言うな」
「本気だ。あんた専制政治はうまいけどやり方が古い。国際感覚がない。味方を出し抜いて悦に入って、結局は同じ鍋で煮られることが分かってない。あんたがボスのまんまじゃナカータは生き抜けない」
「生意気なことを言う」
「あんたは無能だ。阿呆じゃないぶんよけい有害な無能。証拠に密書を他国に押さえられた。あんたの裏切りが帝国に知られてみろ。ナカータはオストラコン王国と帝国とに挟み撃ちされちまうぜ」
男は言葉につまった。
「無能な父親でも親は親だ。仕方ないから、俺が始末をつけてやる。なに帝国もサラブとの決戦前にもめ事は起こしたくないさ。俺が連合艦隊を率いて討伐で手柄をあげれば、あんたのヘマくらい大目にみるだろうよ」
「つまり貴様は、下剋上するというわけだな」 男は初めて、本気で俺を見据えた。
「よかろう、サトメアン。今この時から、お前は私の息子ではない」
男の宣言が終わるのを待たずに、俺はテーブルを乗り越えた。飾られた花瓶が床に落ちる。グラス、フォーク、ナイフ、スプーン、そんなものが触れあって雑多な音をたてる。
俺は銃も刃物も持っていなかった。この距離ならそんなものに頼らなくても倒せる自信があった。テーブルに手をつき乗り越えた勢いのまま男の顔面を爪先で狙う。男は腕で防ぐ。腕ごと折るつもりで、俺はそのまま体重をかけた。
女の悲鳴。男たちの怒声。鉛を仕込んだ靴の先端に十分な手応え。でも、さすがと言うべきか。男は片腕くらいでへこたれなかった。折れていない方の拳を固めて、俺に突き出す。俺は半身に身体をひねる。
拳を避けられて男の身体が泳いだところを膝にもう一発、蹴りをお見舞いする。床に倒れた頭頂部に右手の拳を、力いっぱい打ちこむと男はゆらり、身体を揺らして昏睡した。
力の抜けた男の体を片腕で支えてやる。床に落とすのは何故だか気が引けて。もう一方の手でさっき渡された金属版を口元に持っていき歯でその一部を折り取る。
いきなり流れ出す音楽。
「……なに」
広間の人間はみな驚いた。俺も驚いた。
ジャジャン♪という感じの唐突な前弾きの後、一瞬の間を置いて始まった演奏が広間に満ちる。兄たちが非常警報のボタンを幾つ押しても演奏が途切れることはなかった。
「衛兵、衛兵ッ」
「貴様ぁ、父上に何をするッ」
兄たちのうち何人かが殴りかかってくる。俺は戸惑った。職業軍人のつもりだから素人に手は出したくない。俺の困惑を救うように、「お静かに」
広間の扉が開いて、その向こうにずらりと居流れているのは衛兵。そして背後に、ナカータ軍を代表する老将軍。
「いいところへ、将軍」
「末弟の乱心だ。取り押さえろ。射殺しても構わないッ」
「お言葉ですが、混乱しておられるのはサトメアン様ではありますまい」
将軍は落ちついている。衛兵も広間に足を踏み入れようとはしない。老将軍は俺に向かって深々と一礼。俺は顎をひいてうなずく。
父親とは初対面だがこいつとは馴染みだ。海の上の戦場で何度も一緒に戦った。危ないとこを助けてやった事も一度ならずあって、以前から俺に転んでいた。
「前領主殿は?」
「ここだ」
失神した男をテーブルに持ち上げる。
「殺したのですか」
「死んではいない。そんなにヤワでもないだろう。……あぁ、生きてる」
「ようございました。出陣の血祭りを身内の血で間に合わせるような姑息な真似、サトメアン様にお似合いではありません」
「うん」
俺は素直に頷く。
「ぐるだったのか、将軍」
「貴様、父上を裏切ったな」
「ナカータに忠実だっただけです」
老将軍は堂々と答え、
「これは目出度いことなのですぞ」
広間の連中に優しく言い聞かせる。
「前領主殿の未来は行き詰まっていた。うすうす感じていたでしょう?彼は時代遅れになった。自分の凋落に気づいて、焦って、悪足掻きしてた。結果、もっともマズイやり方で自分だけが助かろうとしていた。そうでしょう?」
答えはない。兄弟や従兄弟、叔父叔母たちはみな、固い表情で俺を見つめている。俺は目をそらした。
「お歴々も、本当は心配でたまらなかったのでしょう?でも彼を裏切るのが恐くて、心を誤魔化してついてきてたのでしょう。楽になりますよ、これからは」
答える者はない。誰一人として。
「さよう、これはめでたいことなのですよ。お身内の方々」
続いて登場したのは内務省長。ナカータの内政責任者。
「聡明かつ強力な新領主を得て、ナカータは国難を乗り越えて発展してゆくことが出来るでしょう」
文官と武官の最高責任者が二人して俺を言祝ぐ。言い返せる者は誰も居なかった。俺は俯いた。どうにも芝居がかってる気がして恥ずかしかった。が、
「せっかくの会食を、邪魔して悪かったな」
顔を上げ発言。そうしないと内務省長はいつまでも話し続けそうだった。
「スープが煮詰まってないといいが。じゃあ」 言ってさっさと広間を出る。
「サトメアン様、お待ち下さい」
「お食事をしていって下さい。会食の、主役はあなたです」
「新領主のお披露目の打ち合わせを」
将軍と内務省長が驚いて追ってきたが俺はふりほどいた。玄関ホールへ戻ると、待っていたのはブラタルから一緒に来たレイク。
「ナカータ領主にご就任、おめでとうございます」
静かな声で祝福されて、
「目出度いかな。ま、地獄の蓋は開いたってところか」
俺は素直に答えた。
「どうなさいますか、これから」
「ブラタルに帰る」
ナカータの首都は海から遠すぎる。オストラコン王国その他の諸国と連絡をとって、連合艦隊結成の段取りをつけるには海峡を扼するブラタルが一番都合がいい。
「今すぐに?継承の披露はどうされます」
「これ以上ここに居たら飢え死ぬ」
俺が言うとレイクはひどく悲しい顔をした。「そうですね。すぐに車をまわします」
「運転は誰かと代われ。お前も疲れてるだろ」「いいえ、それほどでも」
「ブラタルに帰るのか」
背後から声がして振り向くと、立っていたのは異母兄。俺に親切だった、たった一人の。「よぉ、アケト」
俺は初めて異母兄の名を呼んだ。
異母兄の本名はアンケセアム。男名前を省略した呼び名は普通、ト音を最後につける。俺のサトメアンも本来はサムトとなるべき。なのにサティなんて女の子みたいな愛称で呼ばれているのはヤワい見た目のせい。ガキの頃からなんで慣れてるが。
「黙ってて悪かったな」
異母兄は首を横に振る。
「秘密厳守、だったんだろう。仕方ないさ」「あんたからも領主の身内に伝えといてくれ。悪いようにはしないって」
「せっかく父上を追い落としたのに、何故継承の披露もせずに行く」
「そんなのしてる暇が無いから。こうやってる間にも西の国境はじわじわ侵略されてる。ナカータは大陸の東端、距離があるからと思って安心してるらしいが……、海は繋がっているんだぜ」
戦争のことを考えると無意識に俺の表情は引き締まる。
「ブラタルに連れていってくれないか」
異母兄の申し出に俺とレイクは顔を見合わせる。俺はどうしていいか分からなかったから首を傾げた。レイクは首を横に振る。
断ろうとした俺を、
「頼む、サトメアン」
異母兄は強く押し戻す。
「海に出たいとずっと思っていた。ここは溜め池だ。水が淀んでいる。それにお前、戦争に行くんだろう。弟のお前を出征させて、兄貴の俺がのうのうと暮らしてる訳にはいかない。……そんなの男じゃないだろ」
俺は一瞬だけ迷った。でもこの兄は特別だ。俺はこの兄に預かりものをしてる。大事なものを、一つ。返すつもりはなくて、その分、なんだか借りがある気がする。
「運転手でいいなら」
俺が言うと、レイクはそれ以上は反対しない。助言を求めれば意見を言うが、その意見を俺がきかなくっても俺の決断を絶対として受け入れる。
「いいとも」
アケトは喜んで俺達のあとについてくる。
来たときは人目を晦ます必要があったから車は一台でレイクと二人きりだった。帰りはそんな必要もなくて、港に艦が用意してある。ナカータの軍はずいぶん前に領主を捨てて俺に寝返ってた。
港までは二十分くらい。警護の車に囲まれて車は市街地を抜けていく。賑やかな通りの一角で、「止めてくれ」
レイクが言って、車は路肩に停車する。レイクが車からおりる気配を、俺は後部座席でうとうとしながら聞いていた。
「サティ様、お休み前に食事を」
言われて目をあける。レイクが手にしているのは屋台で買ってきたらしいフィッシュ・アンド・チップス。揚げたての白身魚の匂いが空っぽの胃を刺激する。
レイクは魚をつまみ半分噛った。噛った後のを俺に差し出す。俺はレイクの指ごと噛みちぎりそうな勢いで歯をたてる。半日ぶりに口にした食べ物だった。魚とジャガイモの破片を幾つか口にして、満腹からはほど遠いけどやけつく空腹からとりあえず開放され、俺はもう一度目を閉じる。
そっと上着を掛けられた気配がした。
「……今後の為に聞いておきたいんだが」
アケトがそっと問いかける。
「お前ってサティの、その、なんだ。恋人みたいなもんだと思っていい訳か?」
「妙な想像をするな」
レイクの声は低い。俺には絶対服従の男だが、俺以外には大人しい気質じゃない。
「サティ様の恋人はオストラコン王女、ティスティー殿下だ。俺はこの方に幼い頃から仕えているというだけだ」
「でも」
「さっきのことなら、毒見だ。他意はない」
うとうとしながら、俺はレイクの心づかいを感じた。俺には癒えない傷がある。その傷をレイクは庇ってくれてる。
「食えないんだよ、俺」
でも俺は本当のことを言った。嘘をつくのは性にあわなかった。
「生の野菜と果物以外は食べられない。肉や魚は、誰かの食べかけじゃないと」
「おかしな食生活してんな。それじゃ困るだろ」
「別に」
「会食とか晩餐会とかの時は?」
「必要ないから、そんなのは」
「今まではそうでもこれからは困るぞ。お前ナカータの領主なんだ」
「大丈夫だろ。すぐ戦争始まるし」
終わった時には、たぶん生きていないし。「なんでンな妙なことになった」
「さぁ。四つ五つのガキの頃、毒殺されかけたっていうから、もしかしてそのせいかな」
俺の言葉に異母兄は息を呑む。毒殺犯ははっきりしていない。庶子の母たち全員に動機はある。無論、こいつの母親である可能性も。「……サティ、知らないだろう。父上はお前のことを一番愛してたんだぜ」
暫く黙った後で異母兄は、そんな突拍子もないことを言い出す。
「ブラタルの女領主だったお前の母親は、自分に惚れたナカータ領主を散々っぱら利用した。父上は若い頃、ブラタルの為にかなり無茶をしてる。お前の母親を守る為にだ。でもお前の母親は父上を好きになれなかったらしい。出産で故郷に帰ってそれっきり。死ぬまで父上に会いに来なかった」
聞いていた話と違う。
「お前もそうだ。強引に引き取ったお前を父上は膝から離さなかった。他の兄弟の母親が揃って嫉妬するくらい。毒殺未遂があって、父上は本当にお前の為に、泣く泣くお前をブラタルに戻した。なのにお前は父上に、手紙の一枚も寄越さなかった」
「嘘ですよ、サティ様」
助手席でレイクが顔色を変えて振り向く。
「嘘です」
「何が嘘だ。サティをブラタルの身内で囲い込んで独占して、オストラコンの雌虎に差し出して甘い汁を吸って。父上があんな風になったのも、そもそもはお前らがサティの母親とサティを父上から取り上げたからで……」
異母兄は言い募るが、俺はろくに聞いていなかった。眠くて、眠くて。
父母の関係に興味はない。それはもう過ぎたこと。終わってしまっていて今更、何を知ってもどうしようもないこと。
「……おやすみ」
言うと異母兄は口を閉じ、レイクは
「お休みなさいませ」
優しく応えてくれた。俺の本心を誰よりも分かってくれてる、俺の腹心。
俺は本当は、ナカータ領主になんてなりたくなかった。
連合艦隊指揮官にも。
でも俺は逃げる訳には行かない。義務感じゃない運命と諦めている訳でもない。ただ俺は知っているだけだ。俺以外の誰にもそれが出来ないことを。
そして俺なら、出来るかもしれないことを。「お休みなさい、サティ様」
俺が眠っていないことを察して、レイクはそう声を掛ける。
「今はお休みなさい。何もかもを忘れて」
優しい声に意識を明け渡した。
帰りは夢もみずに眠った。
ブラタルへ戻ってからは忙しかった。連合軍というのは編成が難しい。足の遅い重火力艦や補給部隊を先発させつつ、帝国と参戦条件について交渉する。
「どいつもこいつも好き放題言いやがる」
手柄を立てやすい先陣を望む者、被害の少ない後詰めを希望する者。前線指揮官たちの希望と国許の意向が違っていたりは毎度のことで、そのたびに俺は頭を抱えた。各国の利害も主張も微妙にズレていて、俺は幾度、申請書を投げ出したか分からない。
「言いたいことは言わせておきなさい。どうせ今のうちだけなんだから」
投げ出すたびに拾ってくれたのはオストラコンの王女、ティスティー・オストラコン。 俺より二つ年上の十八歳。国王代理でブラタルに滞在してる。俺の執務室で実際に仕事してるのは俺よりこの女であることが多い。 すらりとした体躯の美人だ。虫も殺さぬ顔をして豪胆。なんせ一国の王女に生まれながら十六才で俺と関係し、それを隠そうともしない女。父王は娘の素行に関しては諦めているらしい。俺に抗議するどころか、宜しく頼むと韻物を寄越した。
あばずれかというと気品に満ちていて、優しく笑いながら毒舌を吐く。今日も彼女は俺の机に陣取り、俺はソファーで決裁済みの書類に目を通す。
「帝国軍総帥はやっぱり廃皇子ね。皇帝は高齢過ぎるし、皇太子は幼すぎるし」
「なんだ廃皇子って」
俺は物を知らない。政治家として必須の人物知識は皆無だ。オストラコン王国の王女としてまっとうな教育を受けたティスティーが、横についててくれたお陰で恥をかかなかった。「皇帝の長男よ。でも庶子だったから八年前、嫡出の弟が生まれた時点で皇籍剥奪されたの。だから、『廃皇子』」
「ふぅん」
「確か結婚も出来ない筈よ。庶子から嫡出子が生まれたら皇系が混乱するから。齢は二十四。けっこう評判いい男。写真見ておく?」 差し出された資料に添付された略歴は見事だった。帝国の大学院を飛び級して卒業、他国への留学経験もある。卒業学部は政治関係だが十五の時から帝国軍の夏期演習に参加している。語学に堪能で経済修士号も取得。治世者として必要な知識全般を学んでる。
俺はなんとなく眉を寄せた。真っ当な経歴の男は苦手だ。写真の『廃皇子』も眉を寄せている。整った顔立ちだが、頑なな口元が少し、危うい感じでもある。
「皇帝になる気だったんじゃないかしら、彼。野心がなけりゃここまで努力は出来ないわ」
「お前みたいにか」
「そう、私みたいに」
女は華のように笑う。
「庶子だから皇帝になれないとか女だから国王になれないとか、おかしいわ。私はオストラコン国王になる。だって私よりうまく統治できそうな男が身内に居ないんですもの」
女の台詞を俺は気持ち良くきいた。自信に満ちた嘯きは鮮やかで刺激的だ。けれど。
「サティ、あなただってそうでしょ?」
「俺か?」
自分のことを問われて戸惑う。
「俺はどうかな。野心……」
以前はあった。海を知り尽くす事。
最終戦争によって旧世界が崩壊してしまう以前、人は大洋を縦横に横切っていたという。その技術は今では失われてしまった。
最終戦争前に宇宙に打ち上げられてた人工衛星は大半がスペース・ダストとして地球軌道上を巡り、時々地上に落ちては大惨事を招く。それも厄介だが、更に手に負えないのは未だに活動を続けてる軍事衛星。
原子力炉つきのそれは半永久的に動き続ける。そして地上を飛行する航空機、降格レンズ、大出力の通信装置、なんかを宇宙から破壊し続ける。なんのことはない、人類は宇宙に自らを律する神を打ち上げた。嫉妬深い神様は人間が力をあわせることを嫌って、大戦後の世界は二つの大洋で区切られたまま。
でも海流や星が変わった訳じゃない。昔誰かがみつけた海路なら、俺も見つける自信があった。それが俺の念願で、野心。その為の努力もしてきてた。でも。
今の俺に夢や未来を考えることは出来ない。「サティ、もしかして、あなた」
「大人になりたい」
女の問いを阻む為に口走った台詞。
「背が伸びる筈なんだもっと」
俺の母親は背の高い女だった。父親も大男だから順当に成長期を終えれば俺はかなり、でかく育つ筈。
「今でもあなた、小さくないじゃない」
「お前を一回、見下ろしてみたかったな」
「どうしてそんな、過去形で話すの?」
女は責める。俺は笑う。たぶん、俺は大人にはなれない。
俺は戦死の覚悟を決めていた。誰にも何も言わなかったけれど、察しのいい連中は気づいている。
連合艦隊の大将としてはブラタル海峡主じゃ肩書きが情けない。せめてナカータ領主の称号くらい欲しくて父親を追放したが、本気で領主の地位に腰を据える気はない。
だから親父は監禁しただけだし兄弟にも手を出さなかった。正式な継承式もしていないから、俺の『十七代』はひどく不安定だ。死んだら歴代領主の系譜から外されるかもしれない。
それでも良かった。とりあえず生きている今、領主と名乗ることが出来れば。
「あたしね、王位より大事な夢があるの。……あなたの子供、産みたいの」
女はそっと屈み込む。俺は女の体をソファーに倒した。化粧を殆どしない女の肌からは、香水ではないかすかない香りがする。
「愛しているの、エル・サトメアン。大事にするからあなたの子供をちょうだい。あなたを、あなたは……」
「いい匂いだなお前」
柑橘類にかじりついた瞬間の芳香に似た匂いが好きだ。
身分も門地も美貌も頭脳も若さも、誰にも劣らないこの王女は俺の女で、俺の前でだけ女というハンデを背負う。可哀想に。
俺が死んだら泣くだろう。
「幸せにしたかったよ、お前を」
「してよ、いますぐ」
真っ昼間、執務室。
部屋の鍵を掛けてカーテンを閉めた。ソファーに戻ってかき抱くと女の身体はびくっと竦んだ。そういう俺も脱がせる手はぎこちない。俺達は二年前、俺が十四で元服式をすませた夜に他人じゃなくなっていた。でもお互い多忙で、特に俺は一度の航海で半月も一月も戻らなかったりするから、身体が馴れ合うほど緊密な回数はこなせなかった。
何か言いかける女の口を唇で塞ぐ。女は言いかけた言葉を大人しく諦めた。水気の多い果物の皮を剥ぐように服を脱がす。女はじっと、俺の肩口に額を寄せてされるがまま。
女の肌は柔らかくて暖かい。中は潤んで滑らかで、気持ち良い。安らぎを形にしたらきっとこの形。
「俺さ……、生まれてこのかた、ろくな目にあわなかったけど」
母親に早死にされたり父親に嫌われたり毒殺されかけたり。とどめは十六歳で死地に向かわなきゃならなかったり。
「女にだけは恵まれたよ。お前この世で一番いい女だ。ガキの頃から好きだった。お前に愛してもらえたことだけ、ずっと自慢できる」 死後も、と、俺は言わなかった。でもティスティーには伝わってしまったらしい。しゃくりあげる彼女を、俺はずいぶん長く抱き続けた。
「……入っても、いい?」
ティスティーが帰ると入れ違いに執務室にやってきたのは子供。事情があって生まれた時から引き取った甥っ子。例の異母兄の息子。「兵糧の計算、ここでさして。ナカータから来たあいつうるさくって、うんざりだよ。なんであんなの連れて帰ってきたの」
歯切れのいい口調もきつい黒目がちの目も、こうして見ると異母兄に似ている。
「俺が死んだ後、お前の後見にと思って」
「役にたたないよ」
「居ないよりマシだ」
「あんなぼーっとした男」
八歳で、この子はオストラコン総合大学の大学院の学生。戦乱で今は休学しているが。赤ん坊の頃からどっか違った子供だった。テストしてみたらIQは170もあった。英才教育を受けることを本人が望んで、俺は好きにさせた。
「切れ者はお前、張り合って追い出しちまうだろ」
俺の言葉に子供はフン、と鼻先で笑った。それから暫く計算機を叩き、書類に書き込みをしていたが、
「補給計画書、ここに置いとく。王女様に明日、見せておいて」
「分かった」
この子はティスティーと仲が悪い。決して顔を会わせようとしない。それでも協力しあってるのは俺の為。俺は時々、嫁と姑の対立に巻き込まれた婿みたいな、なんともいえない気分になる。
「まだ居てもいい?」
「好きにしろ。どうした、いったい」
この子は俺の家族で、臍の緒をつけて泣いてた時からずっと、いつでも何処にでも居ていいことになっているのに。
「ナカータから来た、あいつが言うんだ。王女様が来てる時はまとわりつくなって。子供をつくる邪魔になるから、って」
俺は思わず苦笑する。八つの子供になんつーことを言うんだ、あいつは。
それに執務室でそういう事をしたのは今日が初めてだ。いつも俺たちは、わりと真面目に仕事をしている。
「邪魔なの?だからあいつを連れて帰ってきたの?本当の子供をつくるからもう、養子は要らなくなったの?」
「馬鹿言うな。おいで」
子供を膝に抱き上げる。俺は赤ん坊の頃から育てたこの子のことがひどく可愛い。ティスティーほど自分の子供をつくろうと思わないのは、たぶん俺にはもうこの子が居るから。「俺の跡取りになるか?」
尋ねてみる。子供は間髪いれずに頷いた。「いい事ばっかりじゃないぞ。嫌なことの方が多いかもしれない。それでもいいか?」
「得とか損とかって関係ないよ。叔父上のこと好きだから」
「よし」
俺は机の引出奥から羊皮紙の正式文書を取り出した。重要書類にのみ使われる古代語で、書き記したのは譲り状。俺の持ってる全てのものを。船も軍隊も海峡の商業権も、ブラタル海峡もナカータ公領も。
「大事に持っていろ。誰にもみつかるな」
子供は受け取り読み下す。
「俺が死んだら、すぐにアケトにだけ見せろ。出来るな?」
瞬きもせず文面を見つめているかと思ったらぼろぼろ泣き出す。
「おい、ジェラ」
「……ヤだよ、こんなの」
自他ともに認める早熟な天才。八歳にして既にブラタルの頭脳といわれる切れ者。だけど。
抱き上げると軽くて小さくて暖かい。しゃくりあげる、可愛い生き物。髪を撫でるとますます派手に泣く。
「ホントに死んじゃうの、叔父上。ヤだ。ヤだよ、イヤ……」
「泣くな、ジェラシュ」
それは俺がつけた名前。日食の時に見える、ほんの一瞬だけ天を覆い尽くす金色の輪。
この子がいなけりゃ俺は連合軍の総指揮官なんて引き受けなかったかもしれない。
「泣くなよ。愛してるから」
この子の掌に本当に渡してやりたいものは地位でも領地でも金銭でもない。夢みる余地のある未来。
「行かないで。叔父上が行かなくってもいいじゃない。他の人が居るよ」
「俺じゃなくて誰が連合軍を纏められんだ」
強大な敵を前に恐れを感じていない者はない。奮い立つには信仰が要る。サラブに対して連戦連勝の俺を信じて、みな震える拳を握り締めているのだ。
「降伏しようよ。ねぇ、そうしよう。属領になってもいいじゃない。ちょっと余分に税金とられるくらいだよ」
「金だけならいいけどな。誇りとか命とか、とられた後じゃ取り返しがつかないだろ。それに、降伏したら確実に、俺は殺られる」
自信があった。俺はサラブに、恐れられている。
「死に方くらい選ばせろ。処刑じゃなくて、戦死を選ばせろよ」
第二幕・戦場
日暮れ時、今日の戦闘を終えて陣地に戻る。肩に軽傷を負った俺は治療の為に母艦に残ったせいで皆より遅れた。治療を負えて港の館に引き上げると、レイクが顔色を悪くして待っていた。
どうしたと尋ねるまでもなく、
「申し訳ないことがおきてしまいました」
頭を下げ謝る。
「実は本日、傷の治療にと帝国軍から医師が差し向けられていたのです。が、わたしの独断でお引き取り願いました。ところが……」
レイクは珍しく言いよどむ。
「代わりに今、廃皇子ご自身が見舞いにみえられています。傷の具合がどうしても心配と仰って。申し訳ございません」
「何かと思えばそんな事か」
俺は笑った。
レイクが申し訳ながっているのには理由がある。俺は基本的に人嫌いだ。人見知りも激しい。なかでも身分の高い、礼儀正しく振舞わなければならない相手は苦手。物心ついた時からブラタル海峡主で、自分より偉い人間は周囲に居なかったから。
だから帝国軍総帥である廃皇子には参戦の挨拶をして以後、一度も会っていない。敵の本体は未だ到着せず、先遣艦隊との小競り合いが続く海域にでずっぱりで、廃皇子の居る本陣からの食事や会合の招きを断わり続けていた。
「着替えてお見舞いありがとうって、言って笑えばいいんだろ?」
なんでもないことのように俺は言った。実際それはなんでもないことなのだ。しんどがる俺がおかしいだけで。
レイクの気を楽にしてやりたくくて笑う。この聡い男をだませるとは思わなかったが、まぁ気持ちだけでも。俺は、自分で言うのもナンだが優しくなっている。戦場となるべきこの地に来てからずっと。
自分が死ぬのを意識してるから。じきにこり世から居なくなると思うと、名残りにせめて、優しさを残したかった。ずっと優しくしてくれた相手に。
「応接室だろ?すぐに行く」
「いえ。サティ様のお部屋です」
さすがにそれは意外で俺は足を止める。ふつう、来客は応接室で応対され資質へは入ってこないものだが。
「どうしても、と仰いまして。申し訳ありません」
「お前が謝ることはない」
帝国軍総帥、皇帝の長男がそうすると言ったのを、レイクが拒むことは出来なかったろう。俺は歩き出した。私室で待たれているとすると着替えは出来ない。今日一日の汗と潮風の染みついたこの姿で会うしかない。
ドアを開けたらまず何て言おうか、考えながら俺は歩いた。挨拶をするべきか衣装についての言い訳が先か。それとも無沙汰を詫びるべきなのか?
分からないまま部屋に到着してしまう。予定戦場から民間人を強制退去させた後、もと商館だった建物を徴発して俺の司令部にしている。
自室のドアの前で俺はため息をついた。途方もなく気が重いのは廃皇子の第一印象が悪いせい。といっても別に、奴が俺に意地悪をした訳ではない。
むしろ、逆。参戦の挨拶をした時、廃皇子は満面の笑みで俺を迎えた。それが俺には気味が悪かった。一生懸命笑いすぎてひきつった、ひどい嘘笑いだったから。
あれくらいなら睨まれた方がずいぶんマシな気がする。モトが色男なだけに、無理に作った笑顔は醜悪だった。
覚悟を決めて、俺はドアに手をかけた。
室内には二人。一人は白衣を着て診療鞄を足下に置いた医師。もう一人、普段着の男が窓から外を見ている。男は振り向いて笑った。帝国の廃皇子。
「お帰り。君の旗艦が港に入ってくるのを見ていたよ。蜃気楼の、白い城塞みたいな船だ」 俺は黙って頭を下げる。内心でかなりホッとしていた。廃皇子は今日は普通に、自然に笑っている」
「艦名のインドラギリって雷神の名前だね。船の名前には不吉じゃないのか」
「……好きなので」
「雷を?」
俺は頷く。
暁や夜半、雲を切り裂いて走る閃光。暗黒に閉ざされた世界を一瞬だけ影絵のように照らして着える光。そしてその後の、耳をつんざき腹に響く雷鳴。
海の雷は凄まじい。その凄まじさを、俺は