下は早くお戻り下さい」

 アレクは俺を離さない。抱いたまま車から降りようと脚を寄せる。

「付き添うつもりだ」

「困ります。医師は本邸の治療室に待機している。人目があります」

「構わない」

 アレクは強情だ。

「いけません」

 しかしレイクも粘り腰。

「ここはナカータ領主の治外法権です。ブラタルではない。お分かりでしょう?サティ様はここではナカータ領主の臣下。

陛下を庇って差し上げることは出来ないのです」

「なに、ぐずぐずしてんのさ」

 よくとおる澄んだジェラシュの声。

「早く治療室に運んで手当を。全てはそれからの事だよ」

 ジェラシュの言葉にレイクは退く。力を振り絞って、俺はアレクの腕の中からジェラシュを見た。

「……ジ、」

「喋らないで寝てな」

 ジェラシュの手が俺の目蓋を塞ぐ。

「大丈夫。叔父上が目覚めるまでは何もしないから、安心して寝てな」

 ジェラシュにそう言われ、俺は本当に安心したらしい。意識は完全に途切れた。

 

 至近距離とはいえ女持ちの22口径、肩口を掠めた傷じたいはそう重傷ではなかった。

ただ、その後の乱暴な性交のせいで、貧血を起こしていた。

 造血剤を飲み点滴をうたれる。それが終わる頃には、気分はずいぶん回復していた。

「……迷惑かけたな」

 枕元のジェラシュに声をかける。

「心配したよ」

 ジェラシュはぽとんと頭を、俺の枕の横に落とす。小犬が懐くみたいに。

「撃たれたってきいて、死にそうに心配した。……ね、撃ったのって、皇帝?」

「いや」

「じゃあ母太后?」

「まぁいいじゃないか」

「よくないよ。叔父上。あなたは自分が何者か分かってない」

 5センチと離れていない距離で、俺とジェラシュは視線を交わす。

「帝都の政治家たちは今、みんな竦んでる。皇帝の結婚を推進してんのもそうじゃないのも、二十人近い候補もその後ろ楯も。

まさかと思ってた大物が登場したからさ」

「俺はたかが海峡の主だ」

「実力は皇帝に匹敵するか、それ以上だよ」

「それでお前はどの党派だ?」

「何処でもないよ。阿呆どもと徒党を組んで足ひっぱられるのは御免だ。ただ皇帝には、まだ結婚して貰いたくないと思ってる。

彼の力量を見てみたいから。母離れするのと入れ代わりに妻の実家に後見されたんじゃ、裸値を測る機会がなくなってしまう」

「測って、軽かったら離反するつもりか」

「それは測ってみてからの話さ」

「だから俺が帝都に来たことを皇帝に漏らしたか」

 静かな問いかけ。でもその場の雰囲気が音をたてそうに張りつめる。

目立たぬよう控えていたレイクと、あきれた顔で俺を見ていたアケト。

二人が同時に息を飲むのを背後に感じながら、俺は視線をジェラシュに据えて動かさなかった。

「……どうして、分かった?」

 ジェラシュは流石に、口先で誤魔化そうとはしない。

「分かってたのは最初から」

 俺の身辺の防諜は完璧だ。居所をそう簡単に知られるヘマはしない。なのにアレクは俺が帝都に来ていることを知った。

更に、俺が公邸から抜け出したことも。そんな真似を出来るのは公邸の主人しか居ない。

 ジェラシュは、最初からアレクとつるんていた。

「分からないのはお前がなんでそんな事したのか、だ。俺が邪魔か?」

 だから母太后に始末させようと思ったのか。問いかけの意味を察してジェラシュは首を横に振る。

そしてゆっくり、ベットから起き上がった。

「ううん。……大好き」

 腕をまわしてくる。俺は避けなかった。

「遠くに行かせるくらいなら彼に渡した方がマシってくらい、好き」

 俺の次の航海、失われた大陸捜しにこの子は反対していた。

行かないでよと言い続けてたが最近は言わなくなって、諦めたのかと思っていたらとんでもない。

 邪魔する方法を考えてたらしい。

「母太后に始末させようとしたのは?」

「あんな女に負けるあなたじゃないさ」

「結果論だな」

「……サティ、頼む、許してやってくれ」

 がばっと、俺の足下に身体を投げだしたのはアケト。

「まだ子供なんだ。何も分かっていないんだ」「十八ってのは充分な歳だし、もっとガキの頃から、そいつは何もかも分かってた」

「この子はお前を好きなんだよ。愛して」

「うるさいよ、アンケセアム」

 鋭い声でジェラシュが父親の言葉を阻む。

「口出しするんじゃない」

 真剣な顔をして俺に向き直る。

「お前は矛盾してる。俺にそばに居ろと言ってみたり、死地に追い込んでみたり」

「冷静になんかやってられないよ阿呆らしい。

好き放題してる馬鹿がどんどん欲しいモノ手に入れてくのに、なんでいつも指、くわえて見てなきゃならないのさ」

「俺に爪を立てた理由は何だ。何が不満だった。言ってみろ」

「別に。敢えて言うなら、そこの男が言ったことが原因かな」

 俺を愛しているから?

 訳が分からない。頭のいい奴だから、意識的に俺を混乱させようとしてるのかもしれない。

「まぁそれはともかく、俺に気づかれた時点で今回はお前の負けだ、ジェラシュ。

俺は誰にも負けてやらない。可愛いお前が相手でも、負けてはやれないんだ」

「……うん」

 目を閉じて頷く。

「悔しくないよ。負け惜しみじゃない。あなたに負けるのはけっこう、満足」

「これから後は大人しくしてろ。俺の邪魔するな。皇帝に情報を漏らすな」

「分かりました」

「いい子にしてたら忘れてやる」

 負けてやることは出来ないが見逃してやることは出来る。俺はこの子を愛してる。

 ジェラシュは頷き、お休みなさいのキスをくれた。

「母太后のこと、どうするの?」

「今更俺に尋ねるのはずるい。負けたら黙って、成りゆきを見ていろ。お前とナカータに悪いようにはしない」

「皇帝のことは?思いつめられちゃってさ、どうするの。あのタイプはしつこいよ」

「どうにかする」

 しなければなるまい。

 

 アレクは俺の私室で二時間近く待たされた。食事を追えた俺が寝室にやって来た時、怪我した俺より顔色が悪かった。

「……どうした?」

 俺が珍しくそっと尋ねたくらい。

「順番待ちさせられたよ」

 若い頬には屈辱が浮かんでいる。

「人目を忍ぶのって、辛いね。……いっそ正式に、あなたを娶りたいよ」

「無理だな。皇室規範を読んでるだろう?皇帝の結婚は初夜の後立ち会い人が要る。

そこで花嫁が処女だったことが証されなきゃならない。俺たちの初夜はとおの昔だし、俺が処女だということはどう証ようもないし」

 敢えて性別の問題には触れなかった俺の、寝台にアレクが乗る。

「済ませたら、帰れよ」

 半分呆れながら、それでも俺は身体を開いてやった。この子とはもう後がない。名残惜しさがあった。

「じゃあしない。代わりに横で寝かせて」

「おい……、宮殿に戻れ」

「何の為に?もう母に遠慮する必要はないだろう?」

「お前、いま……」

「花嫁選びなら保留だ。彼女らを集めたの母上だからね。主催者が失脚した以上、彼女によって選ばれた候補者は差戻される」

「誰が選んでもあのメンツになると思うが」

「そう?あなたならオストラコン王女をいれないだろ」

 話がじわり、危ない方向へ進む。

「いいから戻れ。俺の良識の問題だ」

「そんな物あったの」

「みんなそうな風に言うけど、俺はけっこう良識派なつもりだぜ」

「だったら少しは優しくして」

「お前が優しいとか冷たいとか、言う基準が俺にはよく分からない。俺はただ、お前の為を思ってる。……アレキサンドル」

 抱きしめる。優しく。いつも触って撫でたかった。

「別れよう」

 可愛いこの子は、俺の掌からとおに飛び立った。

「……それも僕の為?一度聞きたかったんだけど、あなたは僕をどうしたいの」

「どうも」

 したいとは、思っていない。

「立派な皇帝になれとか、お決まりの台詞を言わないトコは好きだよ。

聞きたくないけど聞いていい?あなたホントに僕と廃皇子を重ねてない?」

「ない」

「じゃあなんで僕にだけ普通の幸せ押しつけようとするの。好きにするのが一番だってあなたは知ってる筈なのに」

 どうしてって、それは。

「……意識が抜けないんだろうな」

 俺はつい笑ってしまう。この子は可愛い。愛しい。

欠点も短所もまとめて抱ける、曇りのない気持ちは何処か、恋からずれているかも知れない。

「お前を、我が子みたいに思ってるよ」

「あなた自分を廃皇子に重ねてない?」

 違うと咄嗟に、否定できなかった。

「だから母上に優しいの。僕を守ってくれたの。医師に親切なの。……あなたは、けっきょく、死んだ男を忘れられないの。

僕は精一杯あなた愛したよ。言うことはなんでも聞いたし、あなた以外には目もくれなかった。

なのにあなたの中から彼を消せなかった?」

「アレキサンドル。お前は、若い」

「だから、なに」

 キッとしてアレクは俺を見る。

「一生を決めるには早すぎる」

「別れるって、僕が言う訳ないのは分かってるよね。絶対に嫌だ。あなたから離れない」

「アレ……」

「あなたが逃げたら追いかけるよ。僕は死んだ男とは違うから。ブラタルまで航海出来る。……逃げたら、追いかけるよ」

 そんな言葉を聞きながら、俺は眠りについた。

 

 翌日。

 熟睡していた俺は、しつこく鳴らされる呼びだし音で目覚めた。

「……なんだ」

 不機嫌を形にしたような声でインターホンを取る。

「サティ様、大変です」

「そこに皇帝居るか?早く隠せ」

「ティスティー殿下がそちらに向かっています。そろそろ到着される……」

 乱暴に俺は受話器を起きベットから降りる。レイクもアケトも女には甘い。ましてや、俺の女だったティスティーには。

 俺の背中に頬を押しつけてアレクは眠っている。幸せそうな表情で。惨いと思ったが乱暴に起こした。

「起きろ、アレク。早く服を着て、見舞いに着た格好をしろ」

「……サティ?おはよ……」

「挨拶してる場合じゃない」

 足音が聞こえて、俺はアレクを突き落とした。何がなんだか分からないアレクの上にシーツを掛けて寝間着を脱ぐ。

身体に昨日の跡のこってるかもしれないが、知ったこっちゃなかった。

 扉が開いた瞬間、

「よぉ」

 裸の背中で、振り向く。

「早いな。着替え中だ。待っててくれ」

「いいわよ」

 ティスティーは一瞬おどろいた。が、悲鳴をあげてドアを閉めることはしない。

「久しぶりだわ、あなたの裸」

 悲鳴どころかそんなこと言って笑ってる。 姑息な思いつきを俺は後悔した。

「相変わらずうっとりする腰付きね」

「ドア閉めて庭で待ってろ」

「けちけちしないで、たまには見せてよ」

「うんざりするほど見ただろ、昔」

「見たけどうんざりはしなかったわ。あなたはあたしの裸にうんざりした?」

 俺は黙った。口でかなう相手じゃない。

「わたしの機嫌、損ねない方がいいわよ。お望みのものを持ってきてあげたのに」

 ウィンクと一緒に彼女は、手もとをひらひらさせる。握られているのは写真。

「写真よ。わたしが産んだ、あなたの子供」

「ティスティー殿下」

 そこへ遅れて、レイクが登場。

「お庭に席をご用意いたしました。どうぞ」「そう」

 案外あっさりティスティーは歩き出す。俺にウィンクをくれて。

手を振ってみたいような可愛い仕種だったがそんなのをしている場合じゃない。

 シーツをめくると、その下で、アレクは朝に似つかわしくない顔をしてしいた。

「……どういうこと、これ」

「宮廷に帰れ」

「なんで彼女は予告もなしであなたの寝室に入れるの。僕は裏口からで、あんなに待たされたのに」

「アレク、落ち着け」

「あなたもあなただ。裸を平気で晒して。腰つきがどうとか、どうして言わせておくの」

「中庭から車の出口は見えない。彼女はひきつけておくから、帰れ」

「子供って、なに。あなたの子供って言ったよね、彼女。……居るの?」

「認知、させてもらってないけどな」

「知らなかった」

「そりゃ、極秘だから。あいつがオストラコン王位を継ぐまでは」

 それはレイクさえ知らない重要機密。教えてやったらさぞ喜ぶだろうが、教えてやる訳にはいかない。

 だって、危ない。

 俺の子供は当然、ブラタル海峡を相続する権利を持つ。同時にティスティーの息子である以上、オストラコン王国も。

そして俺はかつてナカータ領主でもあったから、息子にはナカータ公領の潜在継承権まで、あるのだ。

 ティスティーが懐妊した後でようやく、俺たちはその重大性に気づいた。

その子は将来、帝国に匹敵する領土を手に入れる可能性のある超重要人物。

 公表できない、と俺は思った。母子が巻き込まれるにはあまりにも危険だ。なにがって、ナカータが。

領主の地位を巡って権謀渦巻くあの場所の、毒針の味を俺はよく知っている。そうして俺は、ジェラシュが恐かった。

 ジェラシュにとって、この子は面白くない存在。実子の誕生後、養子が追われることはよくある話。

ジェラシュがこの子に悪意を持つことが俺は恐かった。俺はどちらも愛していたから。

 ティスティーは俺に、ジェラシュの放逐を望んだ。

ジェラシュを追い出してナカータを取り戻し、三領地の統一後継者として生まれる子を祝福しようと。

俺には出来なかった。そうして、俺たちは別れた。

「僕にまでどうして秘密にしてたの」

 お前にこと秘密にしたかったさ。だって危ないだろう。三領地をまとめて継ぐかもしれない子供の存在は帝国にとっても脅威だ。

「帰れ」

 秘密を知られて、俺はかなり不機嫌な気分。

「いやだ。帰らない。だってあなた目を離したらなにするか分からないじゃない。母上にあんなことするくらいなんだ。

オストラコン王女と……」

「妄想し出すな。服を着ろ」

「誰とも、寝ないで」

 ごく真剣な、アレクの台詞だった。

「誰にも触らないで。触らせないで。裸を見せないで。僕だけにして」

「分かったから急げ」

「彼女と、会わせない」

 着替えを取ってやろうとした腕を掴まれ、ベットにひきこまれかける。その瞬間、俺の肚の中で何かがきれた。

 殴ってしまった。顔を、拳で。

「……ッ」

 さっさと部屋を出ていく俺に、アレクは何かを言おうとしたらしい。でも口の中が切れていてうまく喋れない。

その隙に、俺はその場を逃げ出した。

 

「ここに女の人を置いているの、サティ」

 庭のテーブルでティスティーは俺を待っていた。開口一番、そんなことを言い出す。

「違うの。じゃあ隠れていたのはわたしの想像通りの方なのね。お気の毒に、主人と密通した下女みたいに寝台下に詰め込まれて」

「お前、知っててあんなこと言ったのか」

 俺は呆れてティスティーが煎れてくれた茶を飲む。

やや猫舌な俺の好みを知ってるこの女は、ポットを高く持ち上げて冷ましながらカップに注いでくれる。

「なに考えてんだ」

「わたし女王になるのよ。帰国したらすぐに」

「……へぇ。お目出とう」

 そのためにどれだけ努力してきたか、知っている俺まで嬉しかった。

病弱なオストラコン国王は娘に前から王位を譲りたがっていた。ただ議会の承認がなかなか得られなくて、継承が長引いていたのだ。

「そしたらあの子は王太子よ。誰にも指一本ささせないわ」

「よかったな」

 議会がティスティーを女王として認めた以上、俺の息子には正式な位階が授けられる。

ジェラシュも下手に手出しすることはできない。

「昨夜、撃たれたそうね。母太后に」

 俺はカップの縁ごしにティスティーを見た。

「皇帝に聞いたか?」

 そんな暇がアレクになかったことを承知で、俺は尋ねた。

「逆よ。あなたの暗殺計画を皇帝に教えてあげたのはわたし。舞踏会の途中ですっとんで行ったわ」

 撃たれたのはそれから後だから、それはティスティーが事情を知ってる理由にはならない。

しかしまぁそれ以上、俺は追求しなかった。早耳なのは昔からだし、帝国の防諜体制はザルだ。

「母太后はとうとう皇帝に引導を渡されたんですってね。王宮でどんな話になっていると思う?

あなたは皇帝の結婚を阻んで、じゃまな母太后を追い落とした。やり手みたいに言われているわ」

「……へぇ」

 なるほど、よそ目にはそう見えるのか。

「口惜しくないの結局あなた、外れ籤を引かされて。いいように利用されたのよ坊やに」

「慣れてる」

 外れ籤を引くのも利用されるのも。

「言ったのがあなたでなけりゃ意気地がないって罵りたいくらいよ。相変わらずなのね、サティ。

損することが嫌じゃない?悪評が気にならない?ならないでしょうね。あなたって、神様入ってるから……」

 呆れたような諦めたようなティスティー。

「そのくせいつも切り札はあなたの手の中。あなたが政争に絡んでくるのは嫌い。右往左往してるわたしたち、馬鹿みたいだから」

「欲で動くからだ」

 俺の言葉にティスティーの顔が上がる。まじまじと俺を見つめる、瞳は少女時代と少しも変わらない。

「……あなたを好きよ、サティ」

 告白は、敗北宣言の代わり。

 差し出される写真。男の子が笑ってる。母親に抱かれてカメラの方を向いて。

「みんなあなたにそっくりだって言うわ」

 俺もそう思った。

 

 辞去する彼女を見送ってから、俺は宮廷医師に連絡を取った。

『昨日大変だったそうですね。貧血で気を失うなんて、タフでうってるあなたらしくない』

「皇帝は王宮についたか?」

『えぇ、ついさっき。あなたは来ないのですか?母太后の処分は?』

「戻っているなら、いい」

 それだけ言って俺は電話を切る。

「もう一度お休みになりますか?」

「うん……、いい。それより」

 俺は煙草を唇に挟む仕種。レイクが眉を寄せる。俺の望みならなんでも叶えようとする男が、それは、という表情。

 ただの煙草を欲しいと言っているのではない。ハシェの葉を刻み込んだ、疲れきった時に時々吸う、麻薬成分の入った葉巻。

「一本だけ、ですよ」

 医師の処方箋がなければ吸えないそれを肺まで吸い込んで、俺は目を閉じた。

「お休みになった方が、いいのではありませんか。お疲れのように見えます」

「まぁ、少しだけ」

「どのみち今夜は外にだしませんよ」

 風邪をひいた子供に宣言するような口調でレイクに言われ、苦笑する。

「それは、困るな」

「擦り傷とはいえ銃創は銃創です。発熱を薬で無理に押さえているます。安静が必要です」

「狩り出したいのが居るんだ」

「雌狐一人、いつでもいいでしょう。殿下が檻に入れといてくださいますよ」

「大虎が居る。宮廷で幽霊と会った。あの虎と張り合えるのは俺だけだ。今も、昔もな」

 さすがにレイクの顔色が変わる。

「生きていたんですか?」

 俺が答える前に、

「サティ、電話掛かってるぜ。名前名乗んないんだけど」

 受話器を渡しながらアケトは、

「王宮からの直通」

 秘密のように囁く。アレクだろうと思って俺は受話器を取る。俺の息子のことをもう暫く、口止めしておかなきゃならない。

 

『お前は、ずるい』

 受話器から聞こえてきた声。俺は表情を凍りつかせた。

『潮の香りのする戦場を覚えているか。そこで初めての夜は?』

「……誰だ」

『お前は十六だった。毛の生え揃ったばかりの子兎みたいに可愛かったのを、俺はよぉく覚えてる』

「名を名乗れ」

『お前を愛していた男。死に際に会いに来てもらえず、以来さまよっている』

 無機質な回線の向こう側で漏らされたため息はひどく明瞭に聞こえた。まるで同じ部屋の中、耳のすぐ後ろでつかれたみたいに。

 受話器を握り締め俺は身震いした。覚えのある息だった。昔、同じようなため息をつかれた事があった。

『わたしが誰だか分からないか?昔の男がそんなにたくさん居るのか?……そんな筈はないだろう。

お前は初心で貞節な『女』だ。はしたない真似はしない』

 受話器をしげしげと眺める。

『お前にそうひどい真似をした覚えはない。お前はまだ十六で、身体も完全にできあがっていなかったから、そっとしていたつもりだ。

殴ったことも、無理じいした事もない。嘗めさせた事もなかったろう?舌を噛み切られでもしたら困るからだ』

「……忘れたな」

『思い出せ』

 きつい言い方には覚えがある。育ちのいい坊ちゃんは、イラついてくるとこういう声を出した。

『愛しあったことはあった。勝手に一人で忘れてしまうつもりか?そんな勝手は、許してやれないな』

「もしかして、あんたが俺の知ってる男なら」

 俺は慎重に言葉を選ぶ。直感は電話の向こう側がそいつ自身と告げていたが、罠ということも有りえる。

「カタはついてる。あんたは死んだ」

『生きている。こうしてお前と話している』

「帝国の執政でも軍司令官でもなくなったあんたになんの価値がある。死んでいるのと同じだ」

『電話では、埒があかない。直接話がしたい』

「きたな」

 俺は嘲笑する。

「そう言われて俺がのこのこ、出向くと思うのか」

『会うのが恐いか?』

「あんたを信用していない」

『本物だって事、お前には伝わる筈だ。お前にだけは』

「知るかよ」

『何が証になる。なんでもいい尋ねてみろ。わたしとお前しか知らない事を』

「俺はあんたの何も知らないし、あんたに俺の何かを知らせた覚えもない」

『強情なのは変わっていないな。……意地を張るな。お前の負けはとぉに決まっているんだ。お前がそれを知らないだけで』

 俺の眉間がひくつく。負けという言葉が何よりも嫌いだ。

『いい子だから、会いに来い』

「とりあえずデートの場所を聞こうか」

 馬鹿にしたような俺の物言いに、

『部下を差し向けて捕えようとか思っているなら無駄だ。

お前は誰も呼ぶ事は出来ない。何故なら、わたしが呼び出す場所は王宮内だから』

「……へぇ」

 俺の答えがズレたのは意外だったから。電話の相手が本物にしろ、偽物にしろ、王宮内に居るのはゆゆしき事態。

内部の相当に実権を握る者がグルということになる。でなければ王宮に潜伏することなど、できない。

『午前零時。待っている』

「何処でだよ。王宮ったって広いだろうが」

『何処でもいい。何処にいても分かる。わたしからそこへ出向く。……幽霊だからな』

 回線は一方的に切られた。

「頭髪のDNA鑑定が出ています」

 受話器を見つめたままの俺に、レイク。

「本物です。先帝の長男、廃皇子クラシカル・ナカータのものに間違いありません」

「……そうか」

 廃王子は死んだ。俺は遺体と遺伝子を確認した。廃王子からの手紙は何らかの悪戯、そう判断していい。

 でも、それでも、何かが信じられない。何処かひっかかる。どうしても、あれが本物、みたいな気がする。

「信じてないんだろ」

 珍しくアケトが口を挟んだ。

「お前はいつもそうだ。全部任せた顔して、本当は自分以外のナンにも信じてない」

「アケト」

 レイクが咎めるのを手で制して、

「まだ恨んでるのか」

 俺は笑いかけた。

「十年も前のことを」

「永遠に恨むぜ。世紀の大戦に俺だけ置いてきぼり食わされたんだからな」

「お前が死んだらジェラシュはどうなった。お前の子だ。俺が死んだらお前以外の、誰があの子を後見してやれた」

「あいつ、俺を親だなんて思ってねぇよ」

「思ってる。甘えている。あの子が自分から絡むのはお前にだけだ」

「どうだか……」

 

 夕日を浴びながら王宮に電話をした。初めてだった。

 名前を名乗るとばたばたと慌てて、数人の手を経て、受話器の向こうに皇帝が出た。会いたいと、俺は言った。

「今、王宮の南口に居る」

『……何の用』

 さすがにアレクの声は固い。

「いま本当に一人きりだ。警護の人間も運転手も居ない」

『危なくないの?』

「危ないさ」

『よくそんなの、あなたの側近や領主が許したね』

「許してない。逃げ出してきたんだ。でもじきにおいつかれる。お前が門を開けてくれなかったら」

『一人は危ないよ。公邸に戻った方がいい』

「お前に触りたい」

 つれない相手に、俺は恥知らずな台詞。

「お前が欲しい。俺が帝都に居れるのはそう長い間じゃない。お前と寝たい。……、あ」

『どうしたの?』

「雨……」

 語尾に重なって雨音。

「まいったな」

『サティ、もしかしてオープンカー?』

「濡れネズミだ。このままじゃ風邪をひいて、肺炎おこすかも」

『公邸に帰りなよ。傷を濡らすと化膿するよ』

 アレクは強情だ。でも俺はひく訳には行かなかった。中には狼が居る。俺の獲物。

「塀が高いな」

 見上げながらそう言う。

「お前が遠い」

『……門を開けてもいいよ』

 ため息とともに、低いアレクの声。

『なに考えてるのかなんて聞かないよ。気紛れに突き放したり手繰り寄せてみたり、最初からだったね。

その度に僕は落ち込んだり有頂天になったり。あなたみたいな性悪を、なんでこんなに愛してんだろう』

 つぶやきが、俺の耳には甘く心地よい。

『来たいなら門を開けさせる。ただし二度とは帰さない。それでいいならおいで。指輪は外してね』

「だからこれは外れないんだって、何度」

『嘘つき。そんな筈ない。あんなたが自分で外せない輪なんか身に付けるもんか』

「ほ……」

『外さないなら、中には入れないよ』

 アレクは強情だった。仕方なく、俺は右手で左指の指輪の噛み合わせをずらす。

右に三度、左に三度、そして右に九度。カチリとかすかな音がして、二重の指輪は噛み合わせが外れて、俺の指から落ちた。

 監視カメラに向かって左手をさらす。数秒後、重そうな鉄の扉はゆっくり開いた。

 

 ずぶ濡れの俺は足下に水溜りを作りながら歩く。回廊の途中まで迎えに来てくれたアレクは右の頬が腫れて、可哀想だった。

 そこで秘書官は引き取り、アレクの私室に案内される。執務室の奥の一角、帝国皇帝の起居の場としては派手さに欠ける。

実用本位で、地味と言ってもいい。ブラタルの俺の部屋の方がよっぽど豪奢だ。

 寝室はベットと本棚とサイドボードが置かれただけの素っ気無さ

。床に敷かれた、昔やった最高級の絹の絨毯だけが華やかな色彩。サイドボードには本。ベットの枕元に写真。

 その写真を見た瞬間、とっさにそれが俺だとは分からなかった。長年見慣れた面ではあるが人間の記憶なんざ曖昧なもんだ。

十年前の自分の顔なんか忘れてる。

 銀の肩徴が縫われた軍服を着てる。ということは、西国境戦争の時のだ。

黒い軍服はナカータ領主が着るもので、俺がそれを着てたのはあの戦場の日々だけ。

 艀を渡ってるところで何か声を掛けられ、返事をしてるのだろう。振り向いて口を開いてる。

視線はカメラとは無関係な場所に向いていて、隠し撮りだとすぐに分かった。

「よく見つけたなこんなの」

「執念でね。探せば、なんとかなるもんだよ」

 ようやくアレクが口を開く。開いたついでみたいに抱き寄せられ、間近で見ると、頬の痕跡は本当に痛々しかった。

「歯、大丈夫だったか?」

 殴り慣れていなくて、加減がきかない自分を俺は悔やんだ。

「歯は辛うじて。でも口中傷だらけ」

 言いながらキスされる。

「舐めてよ」

 言われるまま、俺は舌を差し入れた。ゆっくり粘膜を辿っていくと、ところどころに鉄の味がする裂けた部分。

奥歯の形に点々と裂け目があって、なるほど歯に当たって切れるんだなと、俺は妙に納得した。

 ベットに縺れ込みながら、

「帰さないからね。覚悟しておいてよ」

 念を押される。

「愛人にする気かって二年前、あなたに言われて僕は怯んだ。その後、何回自分を呪ったか知れない。

もぉ怯まないよ。繋ぐからね。逃げられないように」

 下手に何かを言うとよけいに興奮させそうで、俺はアレクを抱きかえすだけ。

「ホントだよ。力ずくで縛ってやる。あなたあんがい、そうされるの好きだし」

「ベットの中では」

 それ以外では、御免だ。

 

 夜が更けた。

 遊び疲れて満足した子供のようにアレクは眠ってる。俺の片脚を抱いてもう一方の膝に頭を預けて。

二人して裸のままだからすごい格好だ。寝息が内股をくすぐる。

 俺はそっと脚を引き抜こうとした。代わりに枕をアレクの頭の下に、うまく差し込もうとしたが、

「……なに」

 アレクは目敏く目覚める。身体は少しも動かさず片目だけ開けて、薄暗闇の中、脱ぎ散らかした服を着る俺を見てる。

「なんでもない。お休み」

 ズボンをはいて生乾きのシャツを羽織る。冷たさが熱っぽい身体に気持ち良い。

「逃げらんないよ。鍵かかってる」

「開けろよ。行きたいトコがある」

「どこ?」

「お前銃持ってるか?」

 俺の質問にアレクは起き上がった。

「貸せよ。ナイフだけじゃいまいち心許ない」

 俺はズボンの内股に隠していた細いナイフをベルトに差す。

女と違って男の身体には武器を隠せる場所が少ない。銃は、どうせ取り上げられるだろうから最初から持っていなかった。

「武装して何処へ行くつもりさ。まさか母太后始末しに?」

「まさか。待ち合わせしてんだよ」

「誰と」

「幽霊」

「誰の」

「死んだ男」

 アレクは首を傾げ、それでもサイドボードの酒瓶の奥からリボルバーを出してきた。

母太后が持っていたようなのとは違う、男の固い掌にぴったり馴染む重さの。

 シリンダーを回して弾丸を確認する。一発装転するとアレクがもう一発、弾を差し出して、俺は開いた穴にそれをいれる。

六連発の銃でも弾は七発撃てる。七発目は命弾になることが多い。

「待ってよ。幽霊ってどういう意味」

「カタリだろうがそう名乗った。手紙と電話が来たんだ」

「それであなたは帝都へ出てきた訳。僕が呼んでも無視してたくせに」

「それだけじゃない。始末する用事がたまってたから、きっかけになっただけだ」

「始末する中に僕も入ってたの」

「鍵開けろ。庭に出る」

 俺はそこで待つつもりだった。幽霊を、もしくはそのふりをした奴、もしかしたら死んだ筈の廃王子本人を。

中庭には回廊の柱や樹木が多くて、身を隠す場所には不自由しない。

「始末をつけるまでお前は……、おいッ」

 いきなり背後から抱きすくめられて俺は慌てる。左手の銃は安全装置は外されていて、引き金をひけばいつでも弾が出る状態。

「おい、馬鹿、危ないって」

「撃ち殺すつもりなの?彼が生きてたら、僕の銃で」

「手に余れば。生け捕りにできるならするけどな」

「彼が憎い?」

「あぁ」

 短く答える。本当のことだった。

 アレクの固い掌が俺の身体を這う。

「離せ。続きは戻ってきてからだ」

「やっぱり愛人って僕の方だと思うんだ。あなたはだって、僕をベットの中で愛してくれるだけで」

「アレクサンドル、おい」

「本当のことを何も教えてくれない」

 王宮の時計台が十二時の鐘を鳴らす。奥宮の最奥、皇帝の私室であるここにも諸門の閉まる音が聞こえる。

これから夜明けまでは誰も、出ることも入ることも出来ない。

「行くぞ、俺は」

「その必要はないよ」

 言ってアレクは俺の左手首を掴んだ。そのまま俺を腕の中で半回転させ向き合う形にもってくる。

「撃っていいよ」

「……あ?」

「撃っていい」

 そう言われても、別に撃ちたくはない。

「撃ち殺されてもいい。それで証明になるなら。サティ。エル・サトメアン」

 裸の男は銃を自分の左胸へ持ってくる。そうして俺の髪を指に絡める。無防備に曝す急所。

「前ナカータ領主。昔わたしのものだった、おまえ」

「……なに?」

 ぞっと、背中を戦慄が走った。

 台詞まわしに覚えがあった。

「……、」

 銃を握っている掌が緩む。体温に馴染んだ鉄の塊を取り落とした。重い音をたててそれは絨毯に転がる。

真摯といっていい真剣な表情で、アレクはじっと俺を見下ろしている。

「わたしだ。……俺だよ、サティ」

 俺は目を見開く。口を開けたが、言える言葉はなかった。悲鳴をかみ殺す為に歯を食いしばって、咄嗟に逃げようと暴れる。

絨毯の上に組み敷かれて、それでも。

「逃げられないって」

 言いながら男の手がベルトに挟んだナイフに触れる。鞘ごと引き抜く。頭を押さえられて俺は目を閉じた。

殺されると、思った。目蓋の裏にバッと広がった顔。ティスティー、レイク、ジェラシュ、アケト、そして写真を見ただけの息子。

 身体を強ばらせた俺に、

「なに震えてんだ、ほら」

 男はナイフを握らせようとする。受け取るまいと、拳を固く握りしめる。

「持て。好きなところを刺せ。初夜の償いを、そういえばまだしていなかった。

年端もいかない生娘を無理に抱いたんだ。殺されたって、文句は言えなかった」

 男の手が胸に触れる。耐え切れず、俺は悲鳴を上げた。

「……サティ?」

 困ったような男の声。

「震えるな」

 言われても身体の震えは止まらない。奥歯が鳴って、涙が滲んでくる。

必死で身体をよじらして逃げようとする。それこそ本当の、年端もいかない生娘みたいにだ。

「なんだおい、どうした?」

 どうしたもこうしたもない。顔をのぞき込もうとする男から首をねじって逃げる。

「殺すんじゃなかったのか俺を」

 顎に手を当てられ正面向かされる。目をあほせるまいと、俺は必死で目蓋を閉じる。

その隙間を、いきなり濡れた舌で舐められて、金属音に近い悲鳴が出た。

 助けを求めてじゃない。恐怖で。叫ばないと、気が狂いそうだった。

「おい、俺が誰だか、お前わかってるか?」

 問われて、答える。

「……悪霊ッ」

 男は絶句し、やがて背中をふるわせて笑った。

「戦場の海に、女を連れてくる罰当たりのくせに」

「きよ、清めたまえ、は、らいたまえ。うなばらの、にしの、はての」

「お前もけっきょく迷信深い海の男か。そんなしどろもどろなお祓い、効きゃしない」

「いやだ、いや……、触るなッ」

「俺の名前を言ってみろ」

 耳元で囁いて男は俺の、脚の間に手を伸ばす。布ごしに触れられて俺は硬直した。恐怖で。

「名前だよ、俺の名前。言え」

 引っ掻くようにされて俺は叫んだ。

「は、いおうじ」

「それが名前か」

「痛ッ……、いや」

「名前を言えっていってるんだ」

 名前、本名?

 忘れた。違う、知らない。

「分からないのか、あぁッ?」

 威嚇が激しくなる。怯えて俺は、

「教えなかったじゃないかッ」

 泣き声になった。実際、本当に、俺は半分泣いていたのだ。恐くて。

 幽霊なんて本気にしていなかった。悪霊なんて迷信だと思ってた。心霊現象だの超常現象だのに出くわした事は一度もない。

だから俺は、自分がそれを恐がってることも知らなかった。

「あんたは何も教えなかった。名前も歳も、本当のことも、なにも……」

 身上書を読んだことはあった。でもそんなのは覚えてない。

「なにも……」

 しゃくりあげる俺を持て余したのか、可哀想になったのか。

「そうだったな」

 男の指が優しくなる。繊細な愛撫はしかし、俺を苦しめたという意味では同じこと。

「そういえばそうだった。俺の名前はな」

 耳を塞ぐ。死霊の名前を聞いたらひきこまれる。塞ぐ手はそのまま、男は俺の耳元に口をよせる。

「お前に焦がれて地獄から帰ってきた、俺の名前は」

「……イヤだ」

 聞こえてしまう。生々しい声で。

「クラシカルだ。クラシカル・クラーク。基本とか、礎とかいう意味だ」

「イヤ。……勘弁してくれ」

 抵抗を諦めた俺は哀願する。

「許し……、嫌だ」

「許してくれって、俺も何度も言ったよな。お前許してくれるか?俺の女に戻るか」

 首を振る。激しく横に。考えてした動きじゃない本能でそうした。頭より先に身体が拒絶した。

「だったら、駄目だ」

 そう言われた瞬間の、俺の気持ちは絶望。諦め、なんて自主的な覚悟が入る余地はない完全な。

 どのみち逃がすつもりはないのだ。許す、女に戻ると言っていても、ならヤるって言ったに違いない。

見逃すつもりは最初からないのだ。

 腰骨を掴まれる。男の顔がそこへ下りる。いつもそうだった。唾液でそこをぐちゃぐちゃになるまで、舐め廻すのが好きだった。

 上半身が自由になって俺は腕を伸ばす。意味があってした行動じゃなかった。でも偶然は、指先に銃を触れさせた。

冷たい重い感触。 死んだ方がマシとか、思った訳じゃない。理性で考えて比較して判断する、そんな余裕は、俺にはなかった。

 ただ恐かっただけ。そして銃に触れた瞬間、助かった、と心から思った。

 俺が銃を掴んだことを男は気づいた。でも取り上げようとする気配はない。ただ見守ってる。

当たり前だ、死霊は死なない。撃っても死ぬのはアレクであって、死霊は別の人間に憑く。

 だから男は落ち着いていた。俺が銃口をくわえ横向くまで。

 自殺はこれが、一番成功率が高い。

「この、馬鹿野郎ッ」

 男が叫ぶ。シリンダーを掴まれる。

俺は必死で指に力を入れたが、シリンダーを押さえられ、その抵抗で、引き金を引くことは出来なかった。

 男はそのまま銃を奪おうとする。奪われるまいと俺は抵抗した。

銃口をくわえたまま離さない俺に、業を煮やして男はちからずく。嫌な音がして奥歯が欠けた。痛い、なんて思う余裕はなかった。

 それどころではない痛みが頬に走ったから。一度や二度ではない。馬乗りの状態で頬を往復して、何度も何度も殴られる。

平手じゃない、拳で。

「ふざけた真似を……、二度とやってみろ」

 絨毯に押さえられた手首に銃口が押しつけられる。骨にあたってゴリッといった。

「両方の手首と肘と、膝に鉛弾ぶち込んでやる。シーツの上で俺に脚ひらく以外、なんにも出来ないように」

「……に、ま」

「アァッ?」

「最後に、あた」

 ま、と、続けられなかった。

 はだけられたシャツで手首を縛られる。身体をうつ伏せにされて、腰を抱えられた。

「……ヤ」

「挑発しといて今更。前戲なしで痛い方が好きなんだろ?マゾめ」

「嫌だ、い、イヤ」

 本当に嫌だった。恐かった。恐くて、恐くて。

「アレク……、アレクサンド、ル」

 名前を呼んてしまう。

「……助け」

 男は一瞬だけ動きを止めて、やがて躊躇をふりはらうように、いっそう激しく動き出す。

「アレク、助けて……」

 ぐしゃぐしゃに泣いた。自分の涙で濡れた絨毯が頬に擦れて冷たかった。

「アレク、アレク。……アレ」

 ただ名前を呼び続ける。結局俺が、一番信じてるのはその名前の主。

仲違いしてても別れ話の途中でも、アレクの愛情だけは信じてる。

「はなせ。止めろ。俺もう、別に男、居るんだからな」

「別れたんだろうー?そいつとは」

 別れようとはしてた。でも愛情が消えた訳じゃない。むしろ逆だ。愛してるから、別れなきゃならなかったんだ。二年前も、今も。

「いまさら、あんたがなにしても、俺アレクんだからな」

 男は大きく息を吐いた。そして俺を優しく抱え直す。気が狂いそうな最後の、そして最強のリズムの中で。

『……ごめん』

 アレクの声を聞いたような気がした。

『ごめんね……』

 

 翌日。

 俺はちゃんと、普通に、光の中で目覚めた。

 俺は死霊になっていなかったし、肘も膝も、撃ち抜かれてはいなかった。

身体を動かそうとするとあちこちが軋んだが、これは一晩中