「……どうして」

 痛くて呻いてると思ったら、聞こえてきたのはそんな呟き。

「どうしてお前は俺を苦しめる」

 ゆっくり皇帝は起き上がる。すぐさま立てはしなくて床に座り込んだ。その姿勢に俺は確信を深める。足を君で床に座る、胡座の姿勢はブラタルとその周辺独特の姿勢。床に直接尻をつけるような真似を、帝国ではする筈がない。石畳が冷たすぎるから。

「欲しかったから」

「……やろう」

 ひどく苦っぽい声で、皇帝は思いがけないことを言う。

「お前が欲しいならやろう。その代わりに、お前は俺のものだ」

「母太后は?」

 俺の口からその名が出た瞬間、廃皇子は微妙に笑った。

「まだ気にしているのか。お前が気にする必要はない女だ。あの女を父帝から寝取ったのは、若気の至りの意趣がえし。皇籍剥奪されて自棄を起こしていた。あの女のせいで一生を狂わされた、復讐のようなものだ」

「でも彼女あんたの女だったんだろ。あんたの子供まで産んで苦労して」

「俺の女はお前だけでいい」

「息子は?アレクの父親はお前だろ?自分が父親に愛されなかったからって息子を愛さなくていい道理はないんだぜ。あんたがアレク自身なら、なんで蘇った」

 疑問をぶつけてみる。

「アレクは皇帝として立派に国を治めてた。今更、あんたが出てきても出番はない。かなえられなかった可能性が惜しかったか?そんなのは叶わなかったから惜しがってもらえるんだぜ。あんたに、支配者の資格はない」

「お前を愛していたから」

「自分の命惜しさに息子を殺しちまうような男に、愛情なんてあるとは思えねぇな」

「サティ。何度、同じことを言わせれば気がすむ」

「あんたが今頃になって、出てきた理由を俺は考えた。結論は一つだけ。俺が必要だったのさ。母太后をうまく切り捨てる為に」

 ゆっくり、皇帝の首は左右に振られる。

「違う、サティ、俺は」

「俺はアレクが可愛かった。母親を持て余してると分かったら引き取ろうとするくらい、あんたにはお見通しだったろう」

「冗談じゃない。誰がお前を他人に渡すものか。お前が愛しくて地獄から」

「同じことを何度も繰り返すな。飽きる」

「いいから聞け。何も教えなかったと言ったろう?その通りだ。お前には話さなきゃいけないことが沢山ある」

「聞きたくねぇよ、今更」

「いろいろあったんだ俺にも。お前ほど波乱万丈な人生じゃないが、それでも。俺の人生にケチがつき始めたのは父帝の婚姻から。まさか父上に、大きくなりすぎた犬みたいに捨てられる日が来るとは思わなかった。世を拗ねたな。愛情も生殖も薄汚く思えて」

「だからって母太后の純潔を踏みにじる権利が、あんたにあったとは思えないが」

「お前は戦場でオストラコンの王女を庇っていた。内縁関係のくせに堂々と愛しあって、周囲もお前たちを祝福していた。……同じことをしても許される奴と許されない奴が居るのは何故だ?」

「知るかよ」

「お前が羨ましかった」

「妬ましかったの間違いだろ」

 言葉といっしょにため息を、一つ。

「アレキサンドル」

 呼ぶと皇帝は、身体を強ばらせる。

「最初っからグルだったんだろ、お前たち」

 煙草を吸いたくなった俺は胸のポケットに手を伸ばす。シガーケースを開けてみて、中に入っていたものを見て眉を寄せる。禁煙飴。 無言のまま俺はぱちんと音たててケースを閉じた。皇帝からは俺が何をやっているかは見えない。

「俺は嘘つかれるのには慣れてる。でも騙された、ふりをし続けんのは我慢できない。最初からグルだった訳だお前らは。お前は廃皇子だ。どっかで入れ代わったんじゃない。もともと、そうだったんだ。……だろ?」

 沈黙は長かった。皇帝の表情は揺れる。不安、動揺、困惑。

「お前の暗示をといたのは一昨日だって医師は言った。俺が廃王子からの手紙を受け取ったのは二十日前。ズレてる。お前はジェラシュから、俺が旅立つことを聞いて、急いで足止めをしたんだ。母太后の始末をさせる為に」「……それは、違う」

 言葉とは裏腹に、俺を見上げる視線はアレクのもの。いや。

 これは廃王子。俺が昔、惚れていた男。癖が悪いくせに真っ直ぐな目をしてて、その不均衡に、妙に魅かれていた。

「あなたを引き留めたかったのは、単にあなたを引き留めたかっただけ。何かに利用しようなんて、思ってなかった」

「信じられねぇよ」

「最初から記憶があったんじゃないよ」

「だろうな。最初から嘘なら、いくら俺でも気づいたさ」

「はっきりそうだったって意識したのはあなたと寝てから。懐かしくて……、何度も思い出すうちに記憶が綻びた。それまでにも知らないはずの事を、なんで知ってるんだろうって思ったことは、何度かあったけど」

「あんたの告白なんか聞きたくない」

「聞いていけ」

 皇帝の口調が変わる。

「お前はいつもそうだ。聞きたくないことは聞かず見たくないものは見ない。指先をちょっと焼いただけで怖じて巣穴に引っ込む」

「アレキサンドル」

「俺と話すつもりはない、か?でも同じ事だ。お前の可愛いアレクは俺自身。俺はずっと後悔していた。あの時の、皇后とのことは気の迷いだったんだ。皇籍復帰に彼女の口添えが欲しかった、それだけだ」

「死人の戯言だ」

「聞け。お前には義務がある。お前が八年前、俺を許してくれればこんな事にはならなかった。俺は脳移植なんか思いつきもしなかっただろう。俺はお前に誤解されたまま死ねなかった」

 皇帝は立ち上がる。俺のそばに来ようとして、でも俺が肘を、スッと横に張ったから諦めた。それは拒絶の仕種じゃない。殴り倒す準備。

「俺はお前とやり直したかった。どうしても、なにをしても。今度は誠実にお前のことだけ愛そうと思いながら、手術を受けた。

「俺の知ったことじゃない」

「お前を愛している」

「いい迷惑だ」

「ホントに愛してるんだよ。本当に」

 口調がアレクに代わる。泣き出しそうな声。「他はいいから、それだけ信じてよ。あなたと毎日会いたかったんだ。後見をしてくれた頃みたいに」

「お前の勝ちだ」

 アレクは顔を上げる。

「俺はまんまと騙されて利用された。お前とは相性が良くないらしい。いつも騙されてばかりだ。実際うまかったよ、アレク。お前に俺はベタ惚れだった。ティスティーよりジェラシュより、お前が大事だった」

「過去形で言わないで」

「俺は便利な道具だったろう?お前を保護して帝都を奪還して、用済みになったらそばから消えた。……違うな、消された」

 帝位についた後のアレクと会えなかったのは、アレクが俺と出来てるそぶりをみなの前でしたから。あれも最初から計算のうちだとしたら、

「お前には負けたよ。完敗だ。……で、母太后」

 俺はカーテンの向こうに声を掛ける。蒼白な顔で立ち尽くす女。男に子を殺された女。残酷すぎる、現実。女は健気に立っている。「……エラディ」

 皇帝は顔色を変えた。困惑し、俺を睨む。睨まれても俺は屁でもない。

 皇帝は女に手を伸ばす。女は逃れて、意外な行動をとった。俺の背中に隠れた。

 柔らかな女の感触が背中に心地いい。俺は思わず口元を緩める。女はガクガク震えている。俺は皇帝の方を向いたまま腕を後ろにまわして、女を庇う。

「いつも、これだ」

 皇帝は面白くなさそうに舌打ち。

「女はお前の背中に隠れる。おれがお前に劣るとでもいうのか」

「決定的にあんたが俺に勝てないのはそこだ。あんたは何時までも愛されたがりのガキで、女子供を自分が愛そうとはしない。そういや昔、ティスティーが言ってたっけ。永遠に一人で自分を、可哀想がってろって」

「僕を見捨てるの、エル・サトメアン。廃皇子を見捨てた前帝みたいに」

「前帝か……。あいつ捨てたか?」

 俺はふと真顔になった。

「俺は結局面識はなかったが、前帝があんたを見捨てたとは思えない。皇族から廃したって、戸籍に線を引いただけだろ。父子の関係はそのまま、外国に追放も地位の剥奪もせずそばに置いていたのを捨てたって言えるか?」「言えるさ、わたしは」

「邪魔なら殺した方がすっきりするのに殺さなかったのは愛してたからだろ。俺も父親や兄貴やら、苦労して生かしてるからよく分かる。前帝は十分、お前を愛していた」

 一気に言って、ついでのように、

「ちなみに俺も愛していたぜ、大昔。だから殺せなかった」

 十年前に出来なかった告白。

「……そんなの今更言われても困る」

「お間の勝ちだ。二度も騙せばもう十分だろ。三度目は、なしにしてくれ」

「嫌だよもう会えないなんて。あなただって、僕と会えないの嫌だろ」

「医師と母太后は貰っていく」

 宣言に、

「……え?」

 皇帝は眉を寄せる。少し、恐い顔になる。「気に入ったんだ二人とも。お前には邪魔なものだろ。俺が貰っていく。来るよな、母太后?」

 肩越しに尋ねると、俺の背中で母太后は頷く。じんわりシャツが湿ってくる。可哀相に、泣いてる。

「……殺して、その男を」

 彼女は震える声で、でもはっきりと、別のことを言った。

「その男を殺して。わたしの息子を殺した男を、殺して」

「エラディ、落ち着け」

「正当な要求だな」

「このガキはもう駄目だった。分かるだろう?熱で脳がやられていた」

「だからといってお前が入り込んでいい理由にはならないわッ」

「全くだ」

 俺は頷く。

「殺しておくか、今ここで」

 俺は一歩踏み出す。本気だった。少なくとも一瞬の気分は。

「後々の為に」

 皇帝は後退しかけて、辛くも踏み止まる。「……いいよ」

 ごくりと唾を飲み込みながら、それでも俺から目はそらさなかった。

「いいけど、理由はあなた自身にして。そこの女の為になんてのは嫌だ」

「やめておこう。後が面倒だ。お前は一人で、朽ち木を支え続けろ」

「帝国なんかおまけだよ。僕はあなたとやり直したくて生き返った」

「別の相手えらべ。俺じゃ同じ結末になって終わりだ。うんざりするほどそっくりじゃねぇか、あん時と」

 俺の背中には女が居て、俺はもう、こいつの言葉を信じられない。

「同じように惚れて絶望して別れる。当たり前だな。お前はお前のまんまだし、俺は俺だ」「変わったことも少しはあるよ。あなたが僕を好きだってこと、僕は知っている」

「だから、なんだよ」

 馬鹿にしたように笑ってやる。

「好きな相手だからって殺せない訳じゃない」「だから殺していいって言ってるじゃない。命はもうあなたにあげる」

「要らねぇよ今更」

「昔なら受け取ってくれた?」

「今も昔もそんなの要りゃしねぇ」

 欲しかったのはもっと別のもの。

「誠実も愛情もあなただけに」

 白々しくって笑える台詞だった。

「二度目の僕は誠実だったはずだ」

 ちゃんちゃらおかしくって、不覚にも涙が出た。

「最初っからだましておいて?」

「……サティ」

 皇帝は歩み寄ろうとする。

「二度も裏切りゃ、もう充分だろッ」

 短く叫ぶ。男の足が止まったのは、俺の台詞の語尾が震えていたから。

「あんたの勝ちだ。同じ手で二度もひっかけりゃもう満足だろ。俺の負けだよ騙された。だからもう、放っておいてくれ」

「なに言ってるんだお前」

「触るな」

「サティ。傷つけたかったんじゃない。勝ちたいんでもない。お前を愛してるんだ。それだけだ。……そこの女はもう、とおに棄てた女だ。女も俺を先に棄てた。末期癌で死にかけた俺の隣から、息子の為に医者を奪った。あいつは俺より息子が可愛かったんだ」

「あなたの息子だったからよッ」

「どうせ死ぬ病人より助かるかも知れない子供の方が、そりゃ優先されるさ」

「サティ。俺はお前とは違う。自分のことをそんな風に、他人事みたいには思えない」

「あなたが、望みをまっとうせずに死んだのが可哀相で……、せめてあなたの息子を皇帝にしたくって、わたしは」

「愛しているんだ、サトメウアン。信じてくれるならなんでもする」

 母太后を庇って退室しかけていた俺は振り向く。顔が笑ってしまう。意地の悪い気持ちが止められない。なんでもなんて言葉を使うこのガキが、憎い。

「二度目のが演技じゃないってんなら」

「演技ってなに。愛してるんだよあなたを」

「皇帝やめてブラタルに来い。俺に仕えろ」「……」

 呆然と皇帝は立ち尽くす。口を閉じさせることが出来て、俺は満足した。

「出来たら、可愛がってやる。出来ないなら二度と近づくな」

 言い捨てた瞬間、俺は耳を疑う。皇帝が笑い出したから。自棄や自嘲ではない。いかにもおかしくてたまらない、という声で。

「そんなにわたしを好きか、サティ」

「なに寝言いってやがる」

「いいとも迎えに行ってやる。ブラタルで楽しみに待っていろ」

 その台詞の意味に俺の表情が引き締まる。「軍を率いて迎えに行ってやる。討伐の理由は、そうだな。お前が帝国の母太后を拉致したことか」

 本拠地へ帰しておいて討つ、謀反人に対する討伐。

「ナカータもオストラコンもブラタルも、東方諸国は最近、サラブの側に寄りすぎている。いい機会だ。帝国に反逆すればどうなるか、教えてやる」

「あんたに俺とタイマンはる度胸があったとは驚きだぜ」

「和平条件はブラタル海峡主の身柄だ」

「なら俺は、彼女の自由を」

「……格好つける奴だ。素直に優しくしてくれと、言えばいいのに」

 男は顔を近づける。宣戦布告された以上、逃げるのは厭で俺は避けなかった。母太后の悲鳴が耳に届く。

「愛しているよ、サトメアン」

 優しい声はアレクのもの。

「持っていっていいよ。医師も母太后も。あなたが気にしてるなんて知らなかった。言ってくれれば、さっさとそばから遠ざけたのに」「気にしてんじゃない。気に入ってんだ」

「古い時代の陰がなくなって、これで王宮も少しはすっきりする」

 俺は母太后の耳を塞いでやる。彼女がぼろぼろ泣き出したから。ひどい言葉をこれ以上、聞かせたくなかった。

「邪魔者は連れていけばいい。その上であなたを取り戻す。気に入る部屋を用意しておくよ。あなた好みがうるさいからちょっと心配だけど」

「……アレキサンドル」

「信じられたら、何もかも捨てておいで」

 そんなことは起こらない。お前が俺に勝てる筈がない。お前は俺の捕虜になって、引き換えにまた、利権をむしりとられる。

「愛してる」

 ならどうして助けてくれなかった。泣いて頼んだのに、お前は廃王子に俺を売り渡した。 お前はいつも、遅すぎる。俺はもう、二度と恋なんかしない。永遠にしない。

 

終章

 

「和平交渉?今更、何故だ?」

 直通回線を隔てて皇帝は尋ねる。

『いなくなったからさ、切り札が』

 ブラタル領主の声は自棄じみた率直。

『聞こえたかい?出家したんだよ、叔父上が。ブラタルの人食い虎が。陛下が執着してた情人が』

「出家?何故」

『それはこっちが知りたいさ』

 突き放すようなブラタル領主の口調。

『母子ともに犯した罪を償って、巡礼に行くってさ。あんな年増に、叔父上とられちゃったよ』

「逃げたのか、あいつ」

『何からと思う?』

 決戦寸前だった相手に、領主は悪友に対するような口調で尋ねる。

『あの人がブラタルから消えるなんてさ。何があの人をそこまで追いつめたと思う?そんなこと出来たのは誰だと思う?』

「逃げたのか……」

『そう。あの人らしくもなく戦争から。それとも陛下から?』

 領主の嫌みを皇帝は聞いていない。聞かれていないことを承知で領主は続けた。

『なんで逃げたんだと思う?』

 失礼、と声を掛けて、電話の向こうは人が代わった。

『どうぞご心配なく。巡礼に化けてサラブに潜入されたようです。地理史を書きたいとずっと言っておられましたから』

「……危なくないのか」

『危ないことは別にないでしょう。懇意の商人に手引きさせておられるようですし、あの方は顔が知られていません』

 興奮したナカータ領主と対照的にレイクは落ち着いて語る。

『失恋すると旅に出るのはあの方の癖です。以前も何度か、そんな事がありました。オストラコン王女と一緒に居られなくなった時も、その前にも。そのうち傷が癒えたら戻って来られますよ』

「……誰と一緒なんだ?」

 受話器を持つ手が震えている。声が震えないように、腹に力をいれて尋ねた。

「一人ってことはないよな。誰と?」

『医師を同行しておられます』

 予想していた、でも一番聞きたくない答えだ。

 行ってしまった。手の届かない場所へ。

『よい選択だと思います。サティ様が母太后をお連れになって以来、母と子犯せる罪だとかなんとか騒ぐ輩もおりましたからね。禊ということで、暫く巡礼されるのもいい。それでですね、こちらとしてはサティ様の不在を余所に知られたくないのです。無論、ことは東方海域の治安に関わります。母太后拉致の贖罪は戻られてからということで、ことの次第は、極秘に……』

 レイクの言葉の途中で回線を切る。冷静に善後策を検討する気分ではなかった。肝心のサティが居ないでは戦争をする名目が立たない。

 和議という事になるだろうが、今はそれどころではない。

 胸から溢れた黒い感情が、やがて部屋を埋め尽くし胸まで満ちてくる。とうとうそれが喉まで這い上がって、

「撃っておけばよかった……」

 正直な後悔。