失礼します」 皇后に会釈して退室。暫くして追いかけてくる足音。それが誰のものか、振り向かなくても俺には分かった。 「待て、ナカータ領主」 呼び止められ立ち止まる。腕の中のティスティーがきゅっと身を竦める。 「待つんだ。話がある」 「俺にはないね」 「いいから聞け。仕方なかったんだ。皇后陛下がお前とのことを邪推して、」 「わざわざ寝間を、見に来たくらいだもんな」 さらりと言えた。廃王子は一瞬、しまったという顔をしたが、 「バラしたのはそこの女だ」 ティスティーを指差し糾弾する。被告の立場から原告に、するりと身をかわそうとする。 「知っているだろう、皇后陛下とその女は血縁がある。お前とのことを皇后陛下に暴露して、俺達の邪魔をしようと」 「違うわ」 腕の中でティスティーは声をあげる。 「何が違う。反論があるなら受けてたつぞ。男の腕に隠れていないで、こっちを向け」 廃皇子は足音あらく近づいてきて、俺でなくティスティーの肩を掴んだ。 俺は両手が塞がっていて拒めない。ティスティーは悲鳴をあげ顔を俺の肩に埋める。 「泣き真似をするなッ」 廃皇子が怒鳴る。ティスティーは俺にしがみつく。この度胸のある女が、まさか本気で恐がってる訳じゃないだろう。 でもしがみつかれた以上は庇わない訳にはいかないし、俺がついててティスティーを殴らせる訳にもいかない。 「手を離せ」 静かに言うと廃皇子は、俺を睨んでから手を引いた。俺はティスティーを抱え直す。 「……話が、ある」 俺にはないと、二度は言わなかった。 「彼女を送ったら戻ってこい。待っている」 言われた瞬間、今度は俺の胸に激情がわいた。俺は激しい顔をしていただろう。 目があった瞬間、廃皇子がかすかに怯んだから。 口を開く。でも、言葉は発しなかった。 別の女と寝た部屋で俺を待つつもりなのかなんて、嫉妬丸出しの台詞。そのくらいなら待たれなくていい。 「愛している」 背中に届く言葉を俺は無視した。 「愛しているんだ、サトメアン」 あんたを二度と、信じない。 ティスティーを抱えた俺を見るなりオストラコン大使館付の運転手は後部座席のドアを開けた。 俺はティスティーの身体をシートに運び込む。 俺の身体を押し込むようにしてドアを閉め、捕獲した獲物を逃がさないうちにという速度で走り出す。 俺はティスティーの、乱れて首筋にはりついた髪をすいてやる。伸ばした手に女の手が伸びてくる。 はねのけられるのかと思ったが、その手は俺の手指に絡んだ。 「……馬鹿だな、お前」 「冗談でもやめてそういう言い方」 女は上体を起こす。俺は手伝ってやった。背中を支えた俺の腕に身体を投げ出しながら、 「あたしはこの世で一番聡明な女よ。あなたを愛しているだけ」 もたれかかる身体を、俺は感謝をこめて抱きしめる。 「送っていこう、大使館まで」 「あなたどうするの?廃皇子のとこへ戻る?」 「いや。奴とは、きれた」 俺にとっては決まったことだから過去形。 「可哀想に、サティ。泣いていいわよ」 女の優しい腕に抱きしめられる。 「平気な顔してるけどホントは悲しいでしょ。泣きなさい。誰にも聞こえやしないわ」 「優しいなお前。怒ってないのか」 「心配してたわ。あなたが傷つくんじゃないかって、ずっと。廃王子は計算高い男よ。知っていたのに、どうして言うこときいたの」 「……さぁ。寂しそうに見えたから、かな」 「あなたみたいな人をよく裏切れたものだわあの男。どうしてやろうかしら」 ティスティーの語尾は怒りに震えていた。俺はでも、腹はたたない。結末がこんな風になることは最初から分かってた気がする。 あれは悪い男。それでも……。 ねぇ、と、女はひどく優しい声を出す。 「今夜はうちの大使館においでなさい。美味しいもの食べてお酒を飲んで、ゆっくり眠れば少しは元気も出るわ」 ティスティーに、悪気はなかったと思う。 「ついでに夜景はどうだ」 でも俺はもう囲い込まれたくなかった。 「ホテルの部屋一つ、あてがあるんだけど」 「素敵」 ホテルの部屋。ベットの中。 「帝国から、報奨がでないの」 女は歌うように言う。俺の肩に顎を乗せながらうっとりと。 聞いても俺は慌てなかった。予想していた事だった。 戦争は降伏させ賠償金を支払わせて初めて『勝った』ことになる。 今度の戦は領土が手に入った訳でも賠償金が出た訳でもない。だから『勝ち』ではない。 「……だろうな」 「落ち着いているのね。あなたには分かり切っていたこと?」 「あぁ」 俺の言葉に女はため息を一つ。 「大勝利だと思って浮かれていたわたしたち、馬鹿みたいだった?」 「つきあってらんねぇ、とは思ったかな」 「ひどい、男」 言いながら女は俺の身体の上で起き上がる。言葉と裏腹に顔は笑っている。 「それでどうするの?」 俺の髪を撫でながら問いかけ。 「避けてた帝都へ来たって事はあなた、解決策を思いついたんでしょ。いつもそう。右往左往している他人の頭越しに手を伸ばすの。 馬鹿にしてるわ。でもそこが、好き」 「明日、連合軍の連中を集められるか」 「お安い御用よ。でも放っておいても自分から来るんじゃないかしら。みんなあなたなら何とかしてくれるって思ってる」 「してやりたいって、思ってんだぜこれでも」 俺なりに、精一杯。 翌日、諸侯やその代理人はホテルの最上階に集まった。何度も集った面子の筈なのに皆、妙に緊張している。 ティスティーだけが俺の横に座り、冷房が嫌いな俺の為に窓をあけたり茶をついでくれたりと忙しかった。 全員の顔色が悪い。今の今まで責務を放り出していた俺だけが平然とした顔で、皮切りの台詞は我ながら実に偉そうな、 「目ぇ覚めたか」 全員がうなだれる。 「祭りは終わった。お前らはそれを分かってないから話しのしようがなかった。これは後片づけだ。楽しくも面白くもない」 最初にそれを言っておく。 「我々の現状認識が甘かったようです」 「このままでは国に帰れません」 諸侯の中では長老格のパルス連合の首領が情けない声をあげた。可哀想になった。 「莫大な戦費がかかったよな。俺の懐も風通しがいい。でもそう悲観するな。俺たちは悪事を行なった訳じゃない。 侵略軍を撃退した、そのこと自体はいい事なんだ。悪いのは俺たちじゃなくて、俺たちに報奨金を払えない帝国のシケっぷりさ」 そこで俺は一同の顔を見回す。 「だが、出来ない奴にしろと言ったって、無理なものは無理だ」 「我々に破産せよと仰るのですか」 「そうは言っていない」 「何かお考えが?」 「一つだけ。金も領地もとれないなら、別のモンもぎとっていきゃいい。目に見える物だけが富じゃない。 下手な地べたを貰うよりいい手段があるぜ。幸いここに居る全員の国は海洋国だ。海軍力があるトコばっかりだから当たり前だけどな」 「自由貿易権を請求するのですか?そんなものを手に入れても、いまさら……」 「そうとも限らないぜ」 俺の一言に場はしんと静まる。 「ご領主、何をお考えなのです」 「今度の戦争で痛手を受けたのは俺たちばかりじゃない。サラブの連中もそうとうの被害金額だ」 つまり、誰も得をした者は居ないのだ。 「戦争屋の俺が言うのも何だが実際、戦争なんてロクなもんじゃねぇ。でも嘆いてても始まらない。 貿易で儲かるのがどういう時か、考えてみろよ。ほかの奴らが手に入れられないものを手に入れた時。ほかの奴らより早く運んだとき。 距離や危険に比例して利益あがっていく、だろ?俺は」 隣でティスティーが目を見開く。俺の言おうとしてる事が分かったらしい。 「サラブの連中と交易しようと思う」 「そんな」 「無茶ですよ」 「連中が行なうのは強奪です。異民族との商取引の習慣は彼らにはない」 「彼らを領海に出入りさせるのですか?『商品』として若い男女が誘拐されてしまう」 「連中とは意志疎通が出来ない。まして交易、そんな事が……」 「出来る」 自信を持って俺は断言した。 「今度の戦争は引き分けだ」 「違うわ。向こうの大将は敵前逃亡で味方から処刑された。うちのあなたは戦争が終わった今も私たちの首領。 あなたの方が随分と上等よ。その分だけはこちらが勝ちよ」 「俺だって破産寸前だぜ。奴らの状況も似てる筈だ。今頃はサラブの首都で軍務大臣と大蔵大臣が、雁首並べてつるし上げの最中だろ。 あっちの戦費はこっちより莫大だった」 「然様でしょうな。ご領主が半分近くを海の藻屑にしてしまいましたから」 「海上防衛線を縮小したようですよ。艦数が本当に足りないらしい」 「連中も金は欲しい。遠洋貿易は利潤がでかいのはあんたたちも知ってるだろ?……ノッてくると、俺は思う」 しんとする会議室。 「難しい交渉になるでしょう」 「通商条約だけで済むとは思えません。代償に何を求められるか」 「俺の首とかな」 冗談のつもりだったのに場は凍りついた。 「俺は奴らと張り合った。対等の取り引き相手として認められる。任せてみないか、俺に」「……ご領主が、そう仰るのでしたら」 「ナカータご領主、今後ともお見捨てなく」 他所の大臣のくせに俺の臣下みたいに、俺に深々と礼して歴々は引き上げた。白紙委任状に署名した後で。 委任状に最後にティスティーが署名して、それで、俺が帝都へ出てきた用事は済んだ。委任状を丸めて懐に納める。 ティスティーはおや、という表情。 「わたしにくれるんじゃないの、それ」 「ちょっとな」 「ちょっと、なぁに」 「たまには俺にも花を持たせろよ」 首を傾げたティスティーの目線を避けながら、俺はちらりと横顔で笑う。途端、ティスティーの顔が優しく綻ぶ。 「ふふ、いいわよ。サラブとの交易交渉は自由貿易権を得てからにしましょう。嗅ぎつけられると邪魔が入るから。 帝国から関税権を取り上げなきゃならないわね。……信用できる協力者が欲しいわ。ブラタルに商館を持つ大商人たちの中に、適当な人材は?」 「どんな風なのが適当だ?」 「目端がきくこと。それに限るわ」 だったらいいのが居る。このホテルのオーナー。呼べばすぐ来るだろう。その為に俺を援助し続けた。 「でも少し、悔しい。結局わたしたち帝国の空手形を掴まされたことになるのよね」 ティスティーの声が低く落ちる。何かを言い出そうとしている。 「実利も欲しいけど名声も大切よ。わたしは帝国に利用されただけなのは、真っ平」 「……だから?」 俺は先を促す。 「報奨を放棄する条件に廃皇子の皇籍復帰無効を申し入れるわ。 私たちをただ働きさせておいて奴だけ目的を達するなんて、そんなの許せないから。骨折り損のくたびれ儲けは、双方ともでなければ」 その時、俺の耳に蘇ったのは自分自身の声。勝ちはやるよと、確かに俺は奴に言った。 嘘はお互い様、とも思ったが、 「止めておけ」 「庇うの?優しいのねサティ。……妬けるわ」 帝都へ来て、五日目の夕方。 俺はようやくナカータ公邸へ足を踏み入れた。俺より先に到着していた甥っ子が顔を見るなり抱きついてきた。 続いてレイクと異母兄に、それぞれ抱きしめられる。 「今夜帰ってこなかったら、宮廷を焼き討ちしようと思ってたよ」 ジェラシュは笑う。こいつならしただろう。 「工作部隊をわざわざ寄せたのに」 「あんまり無茶な真似、すんなよ」 言いながら懐から委任状を取り出す。甥っ子は両手で大事そうに受け取る。巻いてあるのをひろげて、 「凄い。ホントに白紙委任状だ。嘘みたい。なんでこんなのがとってこれるの叔父上」 笑って頭を撫でただけの俺に、 「追いつめてから差し伸べた手だから?溺れるのを待って出した助け船だから?叔父上ってけっこう、意地が悪いよね」 「説得が面倒だっただけだ」 東方諸国からの委任状を欲しがったのはこの甥っ子。サラブとの交易なんて突拍子もない解決策の立案者。 子供は、恐い。俺は身にしみてそれを知ってる。何故って俺自身、恐い子供の一人だったから。 「叔父上、もう何も心配しなくていいよ」 頼もしい台詞に俺は頷いたが、異母兄は、 「生意気言うなよ、お前」 眉を寄せる。この子の天才ぶりにまだ慣れないらしい。更に何か言おうとした異母兄の口元をレイクがパシッと音立てて弾く。 「あにすんだ、おい」 「口を慎め。ジェラシュ殿はサティ様のご養子。お前にとっては主筋の方だ」 人食い虎の氷の牙、とか言われてる怜悧を形にしたようなこの男が、実は大層な子供好きだと知ってる者は少ない。 「手前の息子に敬語つかえってのかよ」 「喧嘩すんな」 俺はため息をつきつつ、独言じみて呟く。「大戦に勝って戦後処理も終わって、あとは家族の仲悪ィのが悩みの種……」 「帝国の廃皇子のことよりも?」 「あの男がどうかしたか?」 尋ねる俺の本心を探るように、じっと見てくる子供。 「お前らに比べれば、屁みたいなもんだ」 「本当に?なら仲良くするよ。そこの男を」 子供は背後の異母兄を見る。目には敵意がある。子供にとっては父親なのに、態度は固くて心許していない。 「嫌いだなんて言わない」 「言ってるじゃねぇかよ」 異母兄は苦々しく吐き捨てる。それでもこの『父親』が『子供』のことを、親身になっているのだけが救い。 その夜は、俺は久しぶりに子供といっしょに寝た。子供が俺から離れなかったから。 ベットの中に入れてやるなり子供は健康な寝息をたてる。つられて俺も、眠った。 安らかな眠りはけたたましい呼出し音にかき消される。不機嫌に俺は音声をオンにした。月明りの中、子供は目も覚まさない。大物。 『……オストラコン王女がさらわれましたッ』 俺はベットから飛び起きる。 「さらわれたって、誰にだ。詳しく話せ」 早足で玄関へ歩きながら寝間着を着替える。後ろから、俺に助けを求めに来たオストラコン王国大使館の大使が追ってくる。 「廃皇子様です。帰国前に話したいことがあると仰って、迎えが寄越されたのです」 「誘拐って言うのか、そういうのを」 袖のボタンを留めながら呟く。それでも脚は緩めなかった。廃皇子が誘いティスティーが応じる。 その構図の中に、ひどく胡散くさいものを感じて。 「王女は毒針を携行なさっておられるそうです。侍女が遠ざけられていて、気づくのに時間がかかってしまいました。 今頃は廃皇子様の館に到着している頃かも」 泣き声ぎりぎりの大使の訴え。 「マジかよ……」 俺は呻く。寝ている俺をたたき起こした筈だ。 「ナカータ領主様、お願いします。ティスティー様を止められるのはご領主だけです」 大使の声を背中に聞きながら、俺は用意された車に乗り込む。 「王宮に繋げ」 車内電話から回線を繋がせる。 「皇后に。至急の用だと言え」 俺の名前が効いたのかオストラコン大使の手腕か、深夜というのに皇后と回線が繋がる。 何事かといぶかしむ女の耳へ、 「王宮の警備訓練をする。今から治安部隊にそう伝えて、廃皇子の館から一番近い門を開けさせてくれ。 ……説明してる暇はない。あんたの男が大事ならそうしろ」 俺の言い方が気に触ったらしい。皇后は明らかに悪意のある口調で非礼を咎める。 「開けないなら乗り越えるが、市街戦になっても知らないぜ」 俺の車の後ろには十台、人数にして三十人がついてきている。俺は軍人だ。最後には力づくを選ぶ。 皇后は更に説明と手続きを求めてきた。俺は挨拶もせず電話を切った。 催涙弾と煙幕弾を打ち込んで、警備員を片っ端から凪ぎ倒し、俺は廃皇子の屋敷を制圧した。 ジェラシュが呼んだ工作部隊を、まさか自分が使うとは思わなかった。 館の最奥、主人の寝台に土足のまま乗り上がる。仁王立ちにして、廃皇子の額に銃口を押しつけて、ゲーム・エンド。 かかった時間は二分と少し。ちょろい襲撃だった。 「……手応え、なさすぎだな」 俺が言うと、廃皇子は蒼白な顔色で、シーツの上で起き上がる。 「礼儀知らずだな、サトメアン」 無理した笑み。その強がりを、俺は思い切り鼻で笑ってやる。 「ティスティー」 呼ぶと女は浴室から出てきた。シャワーを浴びていたらしく髪が濡れている。 「帰るぞ」 決めつけるように言うと、 「あなたに迎えに来られたんじゃそうするしかないわね。怪我はない?」 「まさか。腹ごなしにもなりゃしねぇ」 「誰にも無理よ、あなたの相手なんて。一つだけ教えて。あなたは私を助けに来たの、それともこの男を庇いに来たの?」 「お前を助けに」 余分な言葉をつけないで俺は即答した。 「そう、なら許してあげるわ。……よかったわね、皇子様。優しい恋人で」 ティスティーは俺が銃をつきつけた廃皇子の、顔の上で手をひらひらさせた。 指輪の石の下から針が出ているのを見て廃皇子は顔色を変える。馬鹿が今頃、牙に気づいたらしい。 「わたしはあなたが嫌いだわ」 俺に銃を向けさせたまま、優位に立ってティスティーは廃皇子に語りかける。ずるいやり方と思ったが口には出さなかった。 「あなたは女を馬鹿にしてる。寝床で可愛がってやれば懐くと思ってる。そのくせ自分が庶子であるから不当な差別を受けているつもり。 わたしに言わせれば女も庶子も、同じ差別よ。人はそれぞれに不利を背負ってる。なのにあなたは自分だけ特別に不幸と思い込んでるわ。 その自意識がわたしには、不愉快窮まりなかった」 医師はこの二人を近親憎悪と言っていた。そんなものかもしれない。 「一人で、自分を可哀想がっていなさい」 「先に部屋から出ろ、ティスティー」 俺の指示に従ってティスティーは扉の外へ。廊下に退出したのを見届けてから、俺はつきつけていた銃口をどけた。 跳ね起きようとする廃皇子の胸元に、 「おっと。引き金から指は外れてないぜ」 もう一度、つきつける。年に何度か訓練を受けるだけの男に俺の相手は無理。廃皇子は俺を見据える。 そして唇から漏れた言葉は、 「……サトメアン。お前を愛している」 俺を笑わかせた。 翌日の式典は延期になった。叙勲されるべき俺が王宮内の廃皇子の館に襲撃をかけたとあっては、それも当然のこと。 俺は謹慎し、帝都を騒がせた責任をとって領主の地位から引退すると問責の使者に伝えた。 「大袈裟な」 東方諸国連合の面々、俺のシンパたちは懸命に慰留した。皇帝にもとりなしてくれたと、後になって聞いた。 「ご領主は廃皇子を、殺した訳でも怪我を負わせた訳でもない。 己の恋人を深夜に連れ出されて血迷ってしまっただけの、若者同士の、よくある事件です」 「然様。これは傾国の美女を巡っての騒ぎ。ご領主は確かに乱暴でした。が、廃皇子様も軽率の謗りは免れますまい」 「十七歳になったばかりのそのお若さで、引退なんて、まさか本気ではないでしょう」 俺は誰にも耳を貸さなかった。ただ、 「廃皇子は苦境に立っているようですよ」 午後の茶を子供と飲んでいるとき、レイクがそんなことを言い出しす。 「喧嘩両成敗、というのが原則です。サティ様が先んじて地位の返上を申し出た以上、廃皇子にも相応の罰が必要ですから」 俺にナッツ、子供にケーキを置いてレイクが立ち去った後で、 「……わざと?」 子供が俺にそっと尋ねた。俺は返事をしなかった。 翌日、一日遅れで式典は行なわれた。 出席したのは俺ではない。小さな体で礼服を、俺よりきちんと着こなした甥っこ。 レイクと異母兄に付き添われて出ていく子供を俺は露台から見送った。 サラブとの交渉はうまくいった。 ブラタルがサラブと通商条約を結んだことを知った帝国からは厳重な抗議がきたが、俺は気にしなかった。 サラブから俺の首は要求されなかった。それどころか、サラブは人質を寄越した。俺と対戦した指揮官の弟。 兄の敵前逃亡の責任をとって送り込まれたのは、まだほんの少年。ジェラシュはそいつを監禁するつもりだったらしいが、 「留学生、ということにしませんか」 例によって例のごとく、子供に甘いレイクが提案した。 「十四歳ですよ。将来を潰してしまうのはあまりに可哀相です」 俺はレイクに同意した。ジェラシュも無理にとはいわなかった。条約締結の主導権はジェラシュが握った。 白紙委任状がジェラシュの手にあったから。ティスティーからは怒られたが、俺は子供に一度やったものを取り返すなんて出来ない。 ジェラシュは異母兄とともにナカータへ赴き、俺は古巣のブラタルへ戻った。そして相変わらず、多くの時間を海の上で過ごした。 俺は野心を思い出した。執務室の壁に張った大きな世界地図。陸地を繋ぐ海の部分には引かれているのは航路の線。 沿岸に添ったせせこましさが気に入らない。海原を真一文字に切り裂いてみたかった。 廃皇子からは暫く音沙汰がなかった。物別れして以来、最初の使者が来たのは二年後、俺が十九歳の秋。 その秋、ブラタルはお祭り騒ぎだった。 連日の海峡の空には花火が打ち上げられ、商人たちは振舞酒や食べ物を庭に並べて道行く人々を呼び入れて乾杯した。 街には酔っ払いがあふれ財布をすられてもみんな笑っていた。 騒ぎの原因は俺が念願だった西周り航路をみつけたこと。航路は99年間ブラタルの占有となる。7 商人たちの商業権は急沸し、海峡沿岸の港の係留権や倉庫の相場は発見前の200倍に跳ね上がった。金鉱脈を、見つけたようなものだ。 俺の前には祝いの使者が溢れて贈り物が積み上げられた。無闇やたらにめでたい気分だった。 十日あまりも続けた酒宴で、頭のネジが四五本、外れていたのだろう。 俺は酔ったまま廃皇子からの使者に会った。帝都の気候や皇帝の健康状態なんかを機嫌よく尋ねた。 もっともその上機嫌は使者の口上を聞くなりさめた。奴は白々しくも旧交を温めたいなんぞとぬかしやがった。 俺がみつけた航路目当てなのは知れていた。 「廃皇子にはお変わりないとみえる」 皮肉に言おうとしたが出来なかった。笑ってしまった。我ながら空っぽの空虚な笑い。 「昔通りで嬉しいですよと、お伝えしてくれ」 それきり会見は打ち切った。返礼の使者も出さなかった。帝都の行事に招待もされたが行かなかった。 あの男に、利用されるのは嫌だった。 当時の俺のことを、帝国のジャーナリストはこうレポートした。 『ブラタルにはあらゆる国籍の交易商人たちが往来し、ブラタル海峡貿易から生ずる莫大な利益を巡って対立し、 駆け引きし、互いを陥れようとしている。そしてブラタル領主は彼らをどういう風に扱えばいいかを心得ている。 彼の華美な威容は、彼らを威圧するために特に考慮されたものである。 彼はすべての人間に、一様に、迅速に、しかもひどく目立つやり方で公平に振舞う。 彼は過酷な独裁者である。何一つ、彼の思い通りにならないものはない。 この地では司法より行政よりアクナテン・サトメアンという、帝国の人間には耳慣れぬ東方色の強い名を持つ一個人が優先する。 しかし同時に彼が偉大な庇護者であることも書き記さねばならない。 彼がブラタルを治めて以来、生命と財産の安全は保障された。 その結果、ブラタルは極度に発展し、現在も空前の繁栄を続けているのである』 と。 第五幕・戦乱再び 廃皇子が死病にとりつかれたという噂が海に届いたのは二十歳の春。それから少ししてある航海から戻ったとき、 「廃皇子、死にましたよ」 レイクからそう聞かされて、でも、大して心は動かなかった。 「死ぬ前にあなたに会いたいと、ずいぶん騒いでいたようでしたが」 「俺に?なんの用だったんだろう」 「さぁ……」 その半年後、二十歳の秋。 皇帝の死が近いことと皇位を巡る争いを、俺は遠い話として聞いていた。 外交の実権は甥に譲り渡していたし、帝都とは極力、関わりを持つまいと思っていた。 「……SSS信号?」 それが発せられていると報告を受け、俺は眉を寄せる。商航路探索の為に艦隊を率いて漕ぎ出した海の上。 「はい。間違いありません」 報告してきた通信士官は断言する。断言されてもおかしいものはおかしい。 ブラタル海軍への最優先接触コードを俺が与えているのはティスティーとジェラシュだけ。 二人とも政変中のこととてそれぞれの本拠地で情勢を見極めてる最中。こんな時期に海でふらふらしてんのは俺みたいな半端者だけだ。 「信号発信地は西北西約400ノウス」 この船の速力ならすぐそこ。 「行くだけ行くか」 罠だったとしても海の上ならそれを踏み破る自信がある。退屈していたこともあって、俺は目的地修正を命じた。 発信海域に到着した瞬間、俺は自分の好奇心を悔やんだ。海上に浮かんでいたのは亡霊。 大昔の大戦で廃船になった筈の、死んだ男の船。そういえばこれにもコード登録をしていた。すっかり忘れていたが。 使者として小船でやって来たのは昔馴染みの医師。下げられた頭に、 「挨拶はいい。事情を話してくれ」 言うと、医師は頷き口を開く。 「船の中には、皇太子殿下がおられます」 「……皇帝、死んだのか」 そのくらいは俺にも察しがつく。 「そうです。帝都にはオルロフ大公の勢力が強く、皇太子殿下の安全が保障できない情勢でしたので、皇后ともども、脱出されました」 だからってナンで、よりにもよって俺んとこに来るのかと文句をいいかけた時、 『未確認艦隊を補足しましたッ。速度20ノウス前後で接近中。こちらからの停船要求に反応なし。 敵対行動に出るものと思われます』 オペレターの緊張した声が響く。 戦闘はすぐに終わった。海の上で、俺の勝ちは最初から決まっている。 帝都の船の甲板に俺が移った時、ちょうど船室から皇后が上がってきた。 真っ白な顔をしている。無理もない。帝都からの追手は一時間で蹴散らしたがそもそも、爆撃音など聞き慣れないだろう。 彼女の背後にぴたりとついている少年の顔を見たとき、俺は言葉を失った。似ていたから。 あまりにも。腹違いとはいえ兄弟だから似ているのは当然といえば当然。しかし、それにしても……。 俺と母子は間近で向き合う。不意に皇后は膝を折った。 俺は反射的に彼女の肘を掴んで保持した。緊張のあまり失神したのかと思ったから。 そうでない事は俺を振り仰いだ彼女の表情で分かった。唇を噛み締めて、失神どころか明確な意志の宿った目をしていた。 俺は驚いて言葉が出ない。膝まづくつもりだったのだ、この女は。 孔雀のように豪奢で高慢だった彼女が、かつて嘲笑を仕組んだこともある俺に、自分から。 自分の為に、ではないだろう。可憐なほどの覚悟をきめた目がそれを物語っている。誰かの為に何かを決意した目だった。 息子の庇護を乞う為に、彼女は俺に膝を折ろうとした。 「……足下に気をつけて」 場を納める為に、俺がそう言えたのはたっぷり三秒は見つめあってから。 「よく逃げてこれたな。もう安心だ。誰にも手出しさせやしない」 本心からの言葉だった。俺の顔をまじまじと、穴があくほど皇后は見つめた。 「大変だったな。もう大丈夫だ」 基本的に俺は女子供に甘い。優しいと言うより庇う習性がついている。いつ何処で海の藻屑となるかもしれない船乗りだから。 「もう大丈夫だ」 繰り返し言い聞かせると彼女の肩からはよくやく力が抜けた。抜けた力は涙になって瞳を潤ませ頬を流れ落ちる。声を忍んだ泣き方。 「歩けるか?」 問いかけると頷く。 「こっちの船に移れ。とりあえず今夜は近い港で疲れを癒して、明日はブラタルへ行こう」 「……ありがとう」 女の言葉は短い。それでいい。その一言を言われる為に、走り回るのが男の役目だから。 大抵の港で、最も居心地のいい館は勢力のある大商人たちの商館や別邸。 「お客様は庭園つきの離れにご案内いたしました。お疲れのご様子ですので、お食事をお出しして寛いでいただいております。 ご挨拶は、ご遠慮した方がよろしいでしょうか?」 「そうだな、止めておけ」 母子を館に送り込んだ後で俺は手代と打ち合わせる。時世に鈍感では貿易商人の手代は勤まらない。 母子の正体に薄々気づいているだろうに、そ知らぬふりをする心配り。 俺に出されたのは香り高い火酒。ちびちび嘗めながら、俺は医師を呼んだ。以前は廃王子の側近だった昔馴染み。 「改めてお久しぶりです、ご領主。……いえ、ご先代とお呼びするべきですね」 「久々だな。もう会うこともないと思ってたが、縁があったらしい」 「腐れ縁、とお思いになりますか?縁は、私とご先代の間にあるのではありません。戦乱がご先代を呼ぶのです」 「お前はいつも戦争の渦の中心に居るな。政治弄りが好きなのか?」 「渦に巻き込まれるのが嫌なのですよ。下手に引き込まれるより、いっそ最初から中心に居る方がいい。 動きがよく見えて、かえって安心できる。……知らないところで起こった流れに生き方を左右されるのは嫌いです」 「そんなもんか」 よく分からないまま相槌をうった俺に医師が笑い出した。 「お変わりないですね、ご先代」 「そうか?自分じゃけっこう変わったつもりだがな」 「外見は、少し派手になられましたが」 医師の言葉に俺は笑う。十六の時より身長は十センチ近く伸びた。 髪は色を抜いて毛先は茶というより赤だし、耳たぶにはピアス。緑の石は翡翆と思われがちだが、この世に一つしかない緑のダイアモンド。 服装も、昔は黒い軍服ばかりだった。隠居の今は好きなものを着てる。 ジェラシュにはチンピラに見えるから止めてとたまに頼まれる、花柄や迷彩色のシャツ。 はだけた胸元はよく泳いでるせいで日に焼け、サリブの商人から贈られた胡桃ほどのサファイアのの原石を、 研磨もさせず皮紐で縛ってこれ見よがしに吊るしてる。自由気まま、かつ権力を握りしめた俺。 「本質は何一つお変わりでない。相変わらずの大物ぶりで。 渦にも波にも流されない重量があるからあなたはそうしていられるのです。我々のような小魚と違って」 「はっきり言っていいんだぜ、鈍いって。あの男の墓守でもしてるかと思ったらライバルだった弟の方に乗り換えていたのか」 「皇后陛下に侍医として招かれまして」 「お前も大変だったな。帝位継承で揉めている話は聞いていたが、 皇后と皇太子が亡命しなきゃならないほど深刻だったとは知らなかった。よく、ここまで逃げて来れた」 ねぎらうと、医師の表情が崩れた。歯を見せて笑う。ほんとうにほっとした顔で。 「ご先代にそう言っていただけると全ての疲れがふきとぶようです。ここへ参ったのは賭でした。 他に、確実に帝都の手がまわっていない場所を思いつかなかったのです」 確かにここはまっさらだ。帝都の勢力争いに巻き込まれるほど阿呆らしい事はない。そのことを、俺は身をもって知っている。 「ご先代は廃皇子と物別れしてから三年、帝都には来られなかった。何をどう考えておられるのか分からないまま」 「別に何も考えちゃいなかったし」 酒瓶からグラスに酒を注ごうとした、俺の手が瓶に届く前に医師がそれを持ち上げる。 杯に受けて、俺はそのままテーブルの上に置いた。 三年前と同じ麗しさで医師は笑う。薄幸そうな雰囲気も少しも変わってない。 「今も考えちゃいない。俺は隠居だ。皇后と皇太子をどうこうしようなんて大それた事を考える立場じゃない」 「お言葉ですが東方の実権を握っているのはご先代です。帝都の覇権を取り戻して下さる実力者は、貴殿をおいて他にはおられません」 「わざわざ見込んで来てくれたんだ。お二人の身の安全は請け合おう。俺の領地で俺の客には指一本触れさせ……、なに笑ってんだよ」 「失礼、あまりにも久しぶりにそんなお言葉を聞くので」 「お前が失礼なのには慣れてるけどな」 「悪意はないのですよ、本当に、随分長い間、政治家ばかりを相手にしてきたので。 精一杯努力するとか誠意を尽くすとか、そんな逃げ場を用意した言い回ししか、聞いていなかったので。ご先代」 「なんだ」 「わたしはあなた好きですよ」 「有り難うよ。でも、保護以上のことはナカータの当代と交渉してくれ。国境超えて軍を動かすにはあいつの同意が要る」 「現領主殿ですか……」 医師は前途多難といった表情でため息。俺の甥っ子はサラブの連中やオストラコン王女と対等に渡り合う政治家。 「そのことはおいおい考えるといたしましょう。身の安全を請け負ってくださるだけで助かります。 ここ数年、皇太子殿下のまわりには油断のならない敵ばかりで、お気の安まることがなかったのです」 「世間じゃ俺こそ油断も隙もない男の典型らしいがな」 「いいえ」 医師は不意に真顔になる。 「あなたほど安心な方はありません。あなたはお強い。宣戦布告をせず背後から刃をつきつけはしない」 「するぞ」 医師の言葉を俺は即座に否定した。 「必要があるなら何でもする。あんまり俺に夢、見るなよ」 「当分その『必要』はないでしょう。女子供に刃を向けるあなたではない」 「俺が知ってる女子供は、恐いのばっかだけどな。皇太子殿下って、いくつだ」 「十二歳であらせられます」 「へぇ……」 十歳くらいかと思ったと、俺は口には出さなかった。十二歳ならジェラシュと同じ歳。ジェラシュの方が、ずっと背は高い。 皇太子は小柄だ。長身だったあいつとは違う。違っていることになんだかほっとした。 「背は低いけど器量は大きいですよ。会ってみられませんか、明日にでも」 「段取りしてくれ。ただし皇太子にだけ」 「皇后陛下をまだお恨みなのですか。肝心の廃皇子がなくなった今でも?」 「そんなんじゃない」 恨むとか憎むとか、そんな気持ちは少しもない。昔からなかった。 ただ裸の脚の記憶が鮮烈過ぎて、あの女性と一対一で向き合う勇気がでなかった。 翌日。 離れで皇太子は俺を待っていた。行儀よく椅子に腰掛け、俺が近づくと立ち上がり俺が座るのを待つ。 卓上に用意されているのは山盛りの果物。見るなり俺は苦笑してしまう。昔、帝都の晩餐会で恥をかかされそうになったことを思い出して。 「どれにします?」 皇太子は手元の果物ナイフを取り上げて俺に尋ねた。似たパターンだと俺は思った。 昔、死んだ男にも何にするかと問われたことがある。あの時は曲名、今は果物の種類。 内容は違うが目的は同じ。俺を味方に懐柔するための手段。 「リンゴでも貰おうかな」 剥くのが簡単かと思って俺はそう言う。皇太子の手つきは思った以上に危なかった。 途中なんども代わろうかと言いかけて口を噤む。皇太子は一生懸命だった。 一生懸命な子供に大人が横から口を出しちゃいけないことくらいは知ってる。 「どうぞ」 「ありがとう」 俺にとっては昼食なので、リンゴ一つ分くらいさっさと食ってしまう。厚剥きされてだいぶ身の薄いリンゴだったし。 「次は?」 「桃を」 皇太子は桃を剥き出す。 「……桃の剥き方、知らないのか」 途中でつい声を掛けてしまった。皇太子が桃を握り潰しそうだったから。 「ぐるっと一周、窪みがあるだろう?それにそって刃を入れるんだ。そう、で、ナイフはもう置いていい。左右に捻じれ。ほら……」 桃は片面に種を残したまま二つに割れる。感嘆の表情で皇太子は俺を見た。 俺は種のついていない片身を皇太子に差し出す。皮をうまく捲りながら食べると手も汚れない。 「皇帝になりたいのか」 聞くつもりでなかったのにそんなことを聞いてしまった。 皇族の口説きもワンパターンだが俺も学習能力がない。しかしどうして冷たくできるだろう、こんな可愛げのある子供に。 「なってどうすんだあんなモノ。いいコト一つもないぞ」 「なったことないのに、なんで分かるんです」 子供は果物ナイフを置いて俺を真っ直ぐ見上げてくる。 「でか過ぎるんだな、多分」 規模が大きくなるほど核心はぼやける。 「だいたい名前聞いただけで、うさんくさいと思わないか?ナカータ帝国皇帝、なんて。 人間が帝国一つ、直に治めれる訳はないだろ。……あの帝国は役人たちのもんだ」 権力構造の中で一番とくなのは頂点でなくその側近である。 「親政を復活させようって動きもあるらしいが、無理だ。あんだけでかいと個人じゃ治まらない。組織化しないとな」 そんなことを俺は皇太子に話した。皇太子は黙って聞いていたが、やがて。 「お話はよく分かりました。でも僕は皇帝になりたいんです。力を貸してください」 ほら見ろと、俺はこの場に居ない医師に言ってやりたくなる。子供は恐い。子供は賢い。 目にも言葉にも力がある。子供ほど油断ならないものはない気がする。少なくとも、俺はガキの頃よりは丸くなった。 聞くだけ聞いておいて結論をつきつける、このしたたかな子供に俺は負けた。 翌日、俺はブラタルへ戻り、翌々日には母子を連れてナカータの現領主、ジェラシュのところへ出向いた。 船酔いするという皇后の為に陸路をいった。 ジェラシュが領主になって以来、ブラタル・ナカータ間の交通網は整備され、高速バイパスを三時間も走ればつく。 前後は護衛車両に囲ませたが二人を乗せた車のハンドルは自分で持った。なんとなく、他人に任せる気になれなかった。 「あいつに会ったら、正当とか正嫡とかって、あんまり言うなよ」 途中、俺は母子のどちらにともなく告げる。 「どうして?」 俺をまっすぐ見上げ、尋ねたのは皇太子。 「庶出とか嫡出とかにこだわらず、一番出来がいいのを跡取りにするのがこのへんの流儀だ。俺もあいつも正妻腹の嫡々って訳じゃない」 俺もジェラシュもそんなのを気にしちゃいないが。 だいたいこのへんの領主や王族は正式な結婚をすることが少ない。財産権とか相続権とかの手続きが面倒だから。 帝都でいうところの私生児ばかりだが、それでもそれなりの秩序はあって、誰の子なのかは大概、はっきりしてる。 「なんでそんな無秩序なの?父親と母親が結婚してないなんて、子供に無責任じゃない?」 たたみかけられ、俺は頭を抱えたくなった。 ブラタルあたりと帝国とじゃ文化風俗に差があって、人は生まれた場所の規律から抜け出せない。 「実力主義なんだ。候補が多けりゃ多いほど、マシな跡取りが選べるだろ」 庶子が候補者になれるだけではない。直系以外の甥や姪、もしくはその配偶者。 身内の中から身内や家臣に支持された者が地位につく。たまには俺みたいに実力でもぎとっちまう奴も居る。 「帝国ガチガチの男系相続だもんな。だから婚姻にこだる。こっちはそういうのが緩いんだ。 女系相続も多いし、特別出来のいいガキが生まれりゃ、父方母方まとめて継いじまうこともあるし」 「……ふーん」 皇太子は一応うなずいた。でもやはり納得はしていない雰囲気。 「それで後継が混乱しないの?順番決まっていないなら、誰もがなりたがるんじゃない?」 「決まっていたって混乱はするさ」 そう言うと、子供はようやく本当に理解した顔で笑った。 交渉は領主と皇后の間で主になされた。俺と皇太子は黙って聞いていた。俺は退屈だったが皇太子は興味津々で、目を輝かせてた。 「帝都からも書状が来ています。皇太子を追放した理由が書いてある。皇太子の歳がいたらず政務を採れないことと、もう一つ。 皇太子の母親が、あなたのことですが、オストラコン王国に帝国を売り渡そうとした、と」 「嘘よ」 「でもオストラコンから政治顧問を招こうとしたのは事実でしょう。外国出身の后というのは難しい立場です。 里方とのつき合いは慎重にしないと、政敵から売国奴呼ばわりされてしまう。帝都の空気は政変を起こした公爵に同情的のようですね」 「正嫡はこの子よ。きちんとした手続きを踏んで皇太子になったのだもの」 「身分だけで人はついてきません」 「あなたはオルロフ公の味方なの」 「いいえ。でもあなたの味方でもありません。叔父が退屈しかけているので結論を先に言いますが、お味方はします。 理由はあなた方が庇護を求めているからです」 皇后はほっとして表情を緩めかける。そこへ皇太子が、 「条件は?」 ごく平静に言った一言は俺を目覚めさせた。 「厳しいですよ」 間髪入れず答えた甥に俺は感心する。 「味方する理由はそこですからね。どちらに手をさしのべる方が得か、ということを考えると結論は決まってる。 負けている側にが当然、恩は高く売れる。帝都のオルロフ公は黙認を申し込んでいるだけですから」 「代わりに何が欲しい?」 「それは勝ってからのお愉しみです」 「叔父と甥とで、よく似ていること。そこの男は以前、独立戦争に尽力したふりで、敵と通じて交易を為したし」 「皇后陛下、ここはナカータです。叔父は神様と同じですよ。口を謹んで下さい」 「あなたは混乱に乗じて利益を得ようとする」 「漁夫の利を狙っています。嫌ならお断わりになればいい。愛国者になってみますか?」 「いいじゃない母上、それで」 二人の喧嘩を皇太子がさばいた。 「先のことなんて細かく決めても、なるようにしかならないんだから」 会見が終わって皇后と皇太子が別室で接待される間、俺はジェラシュと飯を喰った。七年間俺が育てたこの子は俺の癖をよく知ってる。 一口大のクラッカーに乗せられた、肉や魚や野菜のうまそうな料理。それを子供は摘んで、端を噛ってから俺に手渡してくれる。 「なんであの二人を保護したの」 「お前には怒られると思ってた」 「怒ってる訳じゃないけど、なんで?政治嫌