む。ゆっくり笑った俺の顔がアレクにどう見えたか、途端に呼吸が荒くなったことで知れた。

 俺の顔の両側にアレクは肘をつく。アレクの前髪が俺の額に触れる。真上から見下ろしてくる顔は、触れれば切れそうに真剣。

 何も言えないまま俺は手を伸ばした。アレクは今度は、自分から崩れ落ちてくる。俺の腕の中に。抱きしめる。抱きしめられる。胸が重なる。腹も、腰も、脚も……。

 心には絶望があった。ずっと我慢してきたのに、これで何もかも無駄になる。満足もあった。罪を犯すことがひどく快感にも思えた。 頭の上に手首を投げ出した無防備な格好で、ベルトはすぐに外される。アレクが身動きした途端、外気が裸の下腹に触れて肩を竦めた。 思いついて手を伸ばす。逃げると思ったのか、その手はアレクにすぐ捕えられシーツに縫いつけられた。仕方ないから足で細工された壁を閉じる。闇に包まれる。

 真暗な、閉ざされた空間。

「……」

 言うべき言葉が見つからないまま手探りでアレクを捜し引き寄せた。逆らわず倒れ込みながら、アレクは俺の前のほどけたスラックスに指を掛ける。可愛い顔してても男だ。興味があるのは、そのものずばりらしい。

 てこずってたから協力しようと思って身動く。腰を浮かした途端、アレクは無茶苦茶な力で抑え付けにきた。逃げると思ったらしい。 仕方ないから力をぬいて任せる。自分の指先も見えない真っ暗闇の中、触れる肌と吐息だけが互いを探る手がかり。言葉は使わなかった。声を出すには真剣すぎた。俺も、アレクも。

 甘い地獄に、堕ちていく。

 その場所を前にもかすかに知っていた。知っていたよりずっと、深みまで沈んでいく。今度は相手と一緒だから、二人分の重みで。 この子と一緒なら、それも本望な気がした。 アレクは乱暴だった。無茶だった。自分勝手で強引で性急だった。

 でもひたむきだった。それは真摯とよく似てる。死にそうな衝撃に悲鳴をあげながら、食い尽くされる実感があった。骨まで奥歯でばりりと噛み砕かれて、なんだかいっそ爽快で満足。幸福みたいな気さえした。

「……ッ」

 苦痛と快楽の微妙な淵をうっとり漂っている最中、左手の薬指を噛られて目覚める。

「なに……」

「目障りなんだ」

 わざと耳元で音たてて、アレクは俺の薬指の、指輪に歯を立てて鳴らした。一人前の男の威嚇。俺には見せないけど案外、攻撃的なトコがあるのには気づいてた。

「外せよ、今すぐ」

 細い二重のプラチナの指輪。

「よせ……、」

「つけとく気かよ、こんなモン。指ごと噛み切っちまうぜ」

「そんなんじゃない。馬鹿、あんまり弄るな。スピーカーはいっちまう」

 俺は指を握り込もうとする。させまいとアレクは本気で歯をたてる。

「痛い、痛いって。これ発信器なんだ。通信機も兼ねてる」

 他に、電子ロックの解除や爆発物探知も出来る優れ物。第三次世界大戦前のロスとテクノロジー。ブラタル海峡主に代々、受け継がれてきた代物。

 同じ物がもう一つあって、それはレイクが持ってる。といっても鎖に通して服の下にさげてるから普段は見えない。もともとはお袋の持ち物だった。

「外れないんだ。そういう風に作ってあるんだよ。婚約指輪とかじゃないって。俺そんなもの、一度もやったりもらったり、してない」 ようやくアレクは歯を離す。

「買ってあげる。もっとあなたに似合うの」

 要らないと言うのも悪い気がして、俺は頷いた。そのまま頬すりよせて抱きしめる。

「……なんでも、してやるよ」

 言うとアレクは苦笑した気配。

「それって僕の台詞だよ」

 

 目が覚めたのは翌日の昼前。

 壁は隙間があいてる。隣にアレクは居ない。でも気配は残ってて、かすかな声。

「士官学校の教官には話をしています。サティ様が目覚められて、起きられるならまた連絡を下さい」

 レイクの声。

「うん」

 アレクが答え、外の部屋のドアが閉まる。音がしないようにアレクはソファーに座った気配。そしてかすかな、食器の触れあう音。 裸のままの踝で、俺は隠し壁を蹴る。途端に音はやみアレクは大慌てでこっちへ来る。「起きた?大丈夫?」

 唇の端にパンの欠片。俺より朝飯の方が重大事だったらしい。

「仕方ないな。お前、若いから」

 俺の言葉をどうとったのかアレクは見る見る真赤になる。素っ裸にシーツを巻いて俺は表の部屋へ出た。光さすそこに姦淫とか淫蕩とかの翳りは少しもない。

 ないのにほっとした。でも少しだけ肩透かしを食らった気もした。これじゃあまるで、長いつきあいを経てベットインしたカップルの普通の朝。もう昼近いが。ティスティーとの時もそういえばこんな感じだったと、十年近く昔のことを思い出す。

 俺は浴室へ向かう。アレクはどうしていいか分からずに無意味にうろつく。テーブルの上に置かれた皿を見て、不意に俺まで空腹を覚えた。そういや昨日は夕飯を食ってない。 食べかけのサーモンサンドを持ち上げて噛ると、

「サティッ」

 アレクは悲鳴じみた声。

「なんだよ」

「なにって、大丈夫?あなた菜食主義じゃ」

「……あぁ」

 目を丸くして手元を見られ、ようやく意図を理解した。

「食べかけなら大丈夫だ」

 もぐもぐ口を動かしながら浴室へ。ぬるめの湯に体を浸し手足を伸ばす。いき返るような気がする。生まれ変わった、ような気も少しだけ。

 アレクは何だかガタガタしていたが、

「食事、持ってきてもらったよ」

 脱衣所から俺に声を掛ける。

「んー」

「食べないの?腹減ってない?」

「減ってる」

 それはもう、切実に。でも湯船から出たくない。浮力に支えられて気持ちがいい。

「持ってってあげよか」

 言ってアレクは浴室のドアを開く。贅沢好きの俺らしく浴室は大理石張り。船内という条件もものともせず、広々としたスペース。

「サンキュ」

 トレーの上には普通のブランチメニューと、別に山盛りの果物。皮ごと食べるつもりでリンゴに濡れた手を伸ばしたが、アレクに遮られる。

「食べさしたげる」

「なんか、やらしいな」

「なに言ってるの。スープから?」

 ジャガイモがごろごろしてる、おろしたゴーダチーズの浮いたクリームポタージュは俺の大好物。空の胃袋を刺激する匂い。

「僕が一口飲めばいいわけ?スコーンに卵はさむ?ヨーグルトは?」

「フォーク使わないでくれ」

「え?」

「手で食べさしてくれよ」

 アレクは目を見開く。でも俺は別にふざけてる訳じゃない。スプーンやフォークを口に入れるのが、俺は気持ち悪い。

 アレクはおっかなびっくり、という様子で指で食べ物をつまむ。行儀のいい帝国の皇子様。そんな真似をしたのは初めてだったろう。 差し出される食物に噛りつく。俺の歯や舌がアレクの指に触れるたび、アレクは妙な顔をした。

「……やらしかったね」

 食事が終わり、トレーを脱衣所に戻す。

「だろ?」

 だからアレクが浴室に戻ってきても、不審には思わなかった。

「サティ」

 名を呼ばれ、応じて顎を上げる。目をつむってやると、今度は互いの、舌が触れあう。

「ん、」

 我ながら甘い鼻にかかった声。

「来るなら服、脱いでこい」

「……うん」

 アレクは生返事。そんな余裕はないらしい。深く噛み合いながらズボンを履いたまま片脚を湯船に差し入れる。俺の脚の間に。手早くシャツの裾をたくし上げて、ベルトを外す音。「そっとしろよ」

 一応言ったが無理とは分かっていた。脱衣所で服脱ぐ知恵もわかないくらい血が昇ってる若いオスに、なに言ったって無駄。せめて楽なように身体の力を抜く。柔らかく受けとめることができるように。

「……しあわせ」

 感極まった声でアレクが言う。当たり前だと、俺は思った。昨夜から何もかも好きにさせてる。思い通りになってる。

 当たり前なんだが、呂律の回らない幼児みたいな声で素直にそう言われると、なんだかこっちまで幸福になった。

 

 俺がアレクを可愛いのはずっと前からだ。アレクが俺に懐いているのもそうで、だから、寝たからっていきなり何かが、劇的に変わる訳じゃない。

 士官学校を、アレクは再び通学に切り替えた。以前と違うのは帰ってくるのが母親の館ではなく俺の部屋だって事。そして朝まで、そこに居るということ。

 俺は月のうち半分以上を海で過ごす。そんな時もアレクは俺のベットで眠っていく。おかげでアレクが居ない時まで、部屋にはあいつの気配がするようになった。そうして俺には、煙草を庭で吸う癖が復活した。

 何のことはない、もとへ戻っただけ。アレクが子供だった頃へ。唯一の違いはアレクがもう子供じゃないことで、大人同士が一緒にいる為にはセックスが必要だということに、俺はこの歳になってようやく気づいた。

「棄てるよ、いいね」

 俺の部屋に戻ってきたアレクが最初にしたことは、きつい目をして枕元の睡眠薬を棄てたこと。酒と一緒に飲んで寝るのはティスティーと別れて以来、習慣になっていた。

「二十歳、越えてんだけどな、俺」

 諦めながらも愚痴が出た。寝つきが悪いから薬がないのはキツイ。酒も薬もブラタルの法律では、自己判断に任せられている。

「常習じゃなくって、お酒と一緒じゃないならいいけど。でも昔、王女様と仲、良かった頃は……、飲んでなかったんだろ」

「レイクに聞いたか?」

「彼だけじゃないけど」

 俺はため息を一つ。側近や身内からの『情人をつくれ圧力』は激しかった。ティスティーと俺は、俺が棄てられた形で別れたから、いつまでも俺が独りでいるのは未練がましいと、みな口惜しがってた。

 だからみなアレクを応援している。アレクにはなんとなくどことなく、人をひきつけるトコがある。真摯というか懸命というか、ひたむきな情熱は後押しをしてやりたくなる。

「睡眠薬がわりに僕じゃ駄目?」

 真顔で聞いてくるアレクに、まさか駄目とは言えなくて俺は目を閉じた。まだぎこちないアレクの腕に何もかも委ねる。が。

「……おい」

 目を開けると灯の消された部屋、影絵のようなアレクが伸しかかってくる寸前。

「使え」

「ゴムの感触、嫌い」

「不衛生だろ」

「僕が気持ち悪い?ナンにも病気持ってないよ。だって童貞だったから」

「そういう心配してる訳じゃない」

 男同士では使うものだと俺は漠然と思ってた。アレクはそれを執拗に嫌う。あれ一枚でする時の、味がそんなに違うもんなのか、俺にはよく分からない。ティスティーとは避妊しなかったし死んだ男とはされる方だったし。「触るのもイヤだ。ぬるっとしてるし」

「そりゃ、潤滑剤塗ってあるから」

「痛いの?舐めてるの足りない?」

「それが嫌なんだよ」

「どうして」

「恥ずかしいから」

 廃王子にはそんな真似されたことはなかった。あいつは手慣れた大人だったから、情熱より衛生が先に立ってた。ぶっちゃけた話、なかにナマで出されたことはなかったのだ。

「せっかくセックス出来るのにゴムの膜ごしで、膜の中なんて馬鹿みたいじゃない。そう思わない?」

 最初の夜にそうされて動揺して、初めてだってばらしちまったのは失敗だった。以来、しつこい。

「思わないって、聞かれても」

「ゼリーもオイルも嫌なんだよ。あなたの中に僕以外いれたくないって、確か前にも言ったよね。……どうしても、駄目?」

 皇位の話をした時と同じ真摯さ。

「女の人なら良かったのに、あなた」

「なにいってんだ今更。恩なの方がよくなったか?}

「そしたら子供、産んでもらってさ。ずっと一緒に居れたのに。最近街で、赤ん坊つれた夫婦見ると羨ましくて死にそうになるんだ。好きな人に子供産んでもらう気持ちって、どんなだと思う?」

「……知るかよ」

 俺の言葉は我ながら低く掠れていた。

「ごめん。無神経だった」

 アレクは謝るが、たぶんこいつは勘違いしてる。俺は別に、子供を産めないから傷ついたんじゃない。そんなのは荒唐無稽過ぎて傷ついたりはしない。俺がその時、胸を痛めたのは全く別のことで。

「好きです」

 繰り返される告白を聞きながら、俺はぼんやり、女の気持ちなら分かると思った。子供の話じゃない。その前の、ゴム膜について。ない方がいい。その方がずっと気持ち良い。直接触れる熱は恐くて苦しいが、それでも。

 

「写真、ちょうだい」

 遠洋実習に行くから。そう言われて、俺は困った。

「ブラタル海峡主は撮影禁止だ」

「知ってるよ。だからねだってんの。写真撮れるならとぉに撮ってるよ」

 アレクは出入り自由だが、俺の暮らす奥に入る前には一応の身体検査をされる。銃火器、刃物、薬物とカメラは持ち込み禁止。

「肖像画ならそこにあるぞ」

「嫌だ。全然似てないもん。あなたあんな風には笑わないよ。すっごく挑発的に斜めに笑うか、ちらって一瞬だけ照れたみたいに笑う。どっちも好きだからどっちでもいいけど、そういう時の写真ちょうだい」

「って、言われても」

「一枚もないの?」

 ない。が、くれくれとアレクは騒ぎ、俺は仕方なく執務室の、俺に関する個人資料を集めた棚を漁る。俺の士官学校時代の成績表だの海流や季節風に関する論文だのをアレクは熱心に読む。中には門外不出の秘密文書もあるが、俺はかまわなかった。

「あなたってすごい読書家だよね。著述家でもあるし」

「海の上じゃ、他にすることがないからな」「全部航海関係ってとこがまた、あなたらしいけど。みんな写真撮りたくないのかな。俺なんかカメラ持ってたら写しまくるけど。あなたってキレイとかいうより格好いいから」

「見つからないようにしろよ。バレたら片目、潰されるぞ」

「嘘ォ」

「あ、あった」

「あった?」

 論文を読んでいたアレクがとんでくる。が、「なに、これ……」

 俺の手もとにあった写真を見て絶句。そこに写っていたのは幼児の俺。下着一枚で白いシーツに無気力に横たわってる。痩せてるというより飢餓状態。枯れ枝のような手足に突き出た腹、うつろな目。

「俺の写真だ。持ってくか?マスかく役には立たないと思うが」

「ふざけないで教えてよ。これなに」

「毒殺されかかった時の写真。医者ももう、死ぬと思ったんだろうな」

 告発の資料として撮られた。見ればみるほど悲惨なガキだ。よく大きくなったって我ながら思う。

「……知らなかった。あなたは恵まれた地方領主だと、思ってた」

「恵まれてないことはないが」

「なんでそんなこと言えるの。母親に死なれて父親には捨てられて」

「大戦には生き残った。航路探索にも成功した」

 俺は強くて金持ちだ。

「ナカータではまだ反感が強いんだろ。戦争の時だけ利用されて」

「訳もなく好いてくれる人間が居るんだ。訳もなく嫌う奴だって居る。なにもかもってのは、無理だ」

 無理はしないことにしている。ただ俺は、好いてくれる奴を守れる。

「プラス思考ってやつ?」

「なんだそれ」

「前向きのことをそう言うんだよ」

「前向きかな。諦めてるだかもな」

 子守歌を聞かなくなった時にいろんなものを諦めた。それから先は、生きていくのがずいぶん楽だった。

「生きててくれてて、よかった」

 耳元にアレクの声。

「今は幸せ?」

「まぁまぁ。お前は少し口うるさいけど、優しいってことにしておける範囲だ」

「僕が優しいと幸せ?じゃあずっと優しくしてあげる」

 キスされて、手元がぶれて資料が床に落ちる。拾い上げたのはたっぷり二分たってから。「……なに、これ」

 ばさばさ落ちた写真の中に紛れた一枚を、アレクは手を止めて眺める。

「凄いハンサム。まさかあなたの、昔の恋人とかじゃないよね」

 台詞はふざけているが口調はマジ。

「ハンサムな恋人に覚えはねぇな」

 ファイルを棚に戻しながら、俺は振り向きもしなかった。

「じゃあなんであなたの資料の中にあるの。こんな、礼服姿のが、わざわざ」

「見せてみろ。……なに言ってんだお前、これは」

 写っているのはブラタルの民族衣装を着た美丈夫。武官らしく帯刀し、右手を軽く柄に掛けている。刀の柄は鮫皮を巻いたままで、豪華な正装に不似合いな質実剛健っぷりが、かえってこの男の気性を思わせて好ましい。

 黒い装束の、腰や脇を留める金具は沈んだ輝きを放つ銀。かすかに覗く胸元は扇情的で、黒い腰布できゅっと絞られた腰付きも同様。

 こっちを見る顔はまだ若い。少年をやっと抜け出したばかりの、今のアレクと似たりよったりの年齢。でもこっちの方がずっと男くさい。将来がたのしみな、若い獣。

「レイクじゃないか。お袋との結婚式だな」「……え?」

 アレクが戸惑う。無理はない。普段のレイクは前髪を後ろになで付けた、伏し目がちにものを言う地味な男。

「ブラタルで一番、黒が似合う男なんだあいつは。強い雄ばっか散々食い散らした俺のお袋が、あいつだけはつまみ食いじゃ我慢できなくて式を挙げたくらい」

 写真の中、レイクは笑ってない。不機嫌でもないが緊張した顔をしてる。そのくせ警戒と挑発は忘れてない引き締まった顔。こいつがお袋と結婚した当時、俺はまだ三つか四つ。無論、記憶はない。

 

「……なにをしておいでですか」

 アレクが出ていった後、俺は執務室へ。写真を眺めてにやつく俺に書類を持ってきたレイクが声を掛ける。

「お前の写真見てんだよ。ほら」

「おや、こんな物がありましたか」

 二十年ほど前の自分の艶姿に、レイクは少しだけ照れた顔。

「お前っていい男だよな。お袋も幸せな女だ。最後にこんないい男捕まえた挙げ句、ガキまでおしつけて」

「式は緊張していて、よく覚えていません」

 穏やかな口調でレイクは話し出す。お袋のことを語るとき、こいつは優しい顔になる。「式が終わった後、わたしを見て笑ってくださった顔だけ覚えています。光り輝くようでした」

 その時のお袋は三十二か、三か。倍ほどの歳の女に、レイクは本気で惚れていたらしい。「あの頃、わたしが若すぎることでつまらない噂をする者もおりました。けれどわたしたちは愛しあっていましたよ。何の破綻もなく」 記憶だけに生涯を縛られて満足なほど。

「よく連れ子の面倒まで見てくれたな」

「助けて下さいましたからね、わたしを」

 俺が?

「あなたの母上に死なれた時は辛かった。首をくくってしまおうかと何度もに考えました。でもあなたが居て下さいましたから、立ち直れたのです」

「俺って似てるか、お袋に」

「お顔もお声も、笑い方も。母上の方が少しだけ、強気だったかもしれません」

「どうせ俺は気ィ弱いよ」

「あなたを自分の息子みたいに思っています。というか、そうとしか思えないのです」

 俺も物心つくまではこいつを本当の親父だと思っていた。生物学的に有りえないことを理解するまで。そう、俺とレイクは、歳は十ちょっとしか離れてない。

「俺の父親、立候補が五人くらい居たってな」 お袋はその点で俺よりも遙にやり手だ。

「大騒ぎでした。よく覚えていますよ。わたしは当時まだ子供でしたが、男たちの気持ちはよく分かる。子供の父親というのは特別な立場ですから」

 ナカータ領主が最終的に俺を認知したのは時期から考えてそれ以外有りえなかったから、だそうだ。

 

 三日ほどして、溜まってた書類にもカタがついた頃。

「実習艦から交戦許可?」

 物騒な知らせが飛び込んできた。

「何処でどいつと」

「パルス諸島から南南西1200ノウス、相手は帝国海軍艦隊です」

 それで俺には事情が分かった。1200ノウスといえば領海ぎりぎり。追尾する帝国艦隊を避けて同盟国領に逃げ込んだものの、それでも帝国艦隊が追ってきたので応戦するつもりらしい。

「指揮官を出せ。直接話す」

 応戦させるよう、腹は決まっていた。士官学校の実習艦とはいえ俺の戦艦である以上、充分な実弾は装備されている。乗り込んでるは選りすぐりの士官候補、指揮官は更に選び抜かれた教官。そんなのに、よく喧嘩売ってきたものだ。

 身の程知らずを思い知らせてやらねば。

「俺だ」

「ブラタル士官学校二等教官、ラ……」

「単独で撃退できそうな数か」

 名乗りなんぞを聞いてる暇はない。

「はい、出来ます」

 指揮官は利け者らしい。きびきびと答える。「ならパルスが助けに来る前に蹴散らせよ。手ぇ借りるんじゃねぇ。ただしなるべく、殺すな」

 艦にはアレクが居る。一年だからどうせ雑務におい使われて、船腹をいったりきたりしてるだろうが、それでも。

「パルスが追撃しようとしたら止めろ。俺が深追いするなって言ったって、いえばパルスの連中の足は止まる」

「承知いたしました」

 回線は途切れた。

「快速船団の用意。すぐに俺も行く」

 着替えながら回廊を歩き出す俺を、

「指揮官はシドです。サラブの」

 追ってきたレイクが耳元に囁いた。

「……ッ」

 さすがに意外で、俺は息をのんだが。

「なら安心だな」

 すぐ思い返す。サラブの男は強靱だ。帝国軍の敵ではあるまい。昔も、今も。

 

 ブラタル海軍が誇る快速船団は特殊な走行法をとる。エンジンスクリューによって波をきるのではなく、ジェット噴射によって船体を海面に浮かせ水面を滑って行く。構造上大きさは巡回艇サイズが限界だが速度は一般快速艇の七倍近く出る。パルスまで通常なら二泊三日の行程を七時間と少しで踏破した。ただし燃料代は三十倍ほどかかる。

「ご領主、ご領主、お久しぶりです」

 久々に会うバルスの将軍は俺の背中を何の遠慮もなく叩いた。俺のことを孫みたいに思ってるらしい。そして変わらず、俺を領主と呼ぶ。一度訂正したが直らなかったので、これはわざとだ。

 パルスの軍港に係留された実習艦には目立つ傷さえない。損傷をチェックする制服姿の士官学生たちが、俺に気づいて甲板から手を振る。

 俺は手を振り返してやった。

「パルスに迷惑かけたな、すまない」

「何をおっしゃるやら。恩を売ろうとして必死に急ぎましたが、着いた時には帝国軍は散り散りでしたよ。いやあなたのところの士官学校教官はさすがです。実に頼もしい」

 誉められて、俺は複雑な気持ち。

「なんという者ですか?紹介していただけませんか」

 馴染みになるとみんなずうずうしい。みんながそうだということは俺に問題があるのだ。頼まれると断れない。甘やかしてしまう。

「……えーと、」

 俺は名前を思い出せなかった。

「呼んでまいります」

 凛々しく返答する声に俺は振り向く。いつの間に後ろに来ていたのか、士官学校一年の制服を着たアレクがキリッと将軍に敬礼して踵を返す。

「生徒らも実によく戦いましたよ。優れた若者を見るのは嬉しいことです」

 将軍は目を細めた。彼にはアレクがきびきびした士官候補生にしか見えない。亡命中の皇太子で、たぶん帝国軍が追ってきた原因で、ついでに俺の情人だ、なんてことは知らない。 待つほどもなくやって来た教官の、顔を見るなり将軍は絶句。サラブの特徴を備えた浅黒い肌に、教官服の白襟がよく映える。

「お呼びと聞いて参上いたしました。ブラタル士官学校二級指導教官、ラバーバ・ラシード、今回の実習の主席指導官です」

 やや早口だが完璧な東方語。

「こちらパルス諸国連合軍事総監、オラニエ・ライデン殿だ」

 サラブの男は深々と一礼。

「お前の手並みを誉められていたぞ」

「恐縮です」

 縒った麻糸みたいにピンとした男は言って、将軍に敬礼。その時に少しだけ笑った。俺さえ初めて見る笑顔。精悍な顔立ちの目尻に笑い皺がよる、女が騒ぎそうな笑み。

「驚きました。あれは、例の」

 将軍が口を開いたのはサラブの男が立ち去った後。アレクは相変わらず俺の後ろに控えてる。戦場では防諜の必要上口頭の指示も多くて、伝令の為に従僕が控える。そのつもりかもしれないが俺はヤバイと思った。背中に感じるアレクの雰囲気が、ヤバイ。

「時は流れてゆきますな」

 将軍は、そんな俺の気持ちに気づかないまま感慨深そうな顔。

「七年前の対戦では帝国とともにサラブを討った我々が、こんどはサラブとともに帝国を討つ。集合離散は世の常のこと」

「本当だな」

 俺も同感だったから、頷く。

「まぁ我々パルスの将来は単純です。永遠にご領主とともにあります。敗軍の将はごめんですからな。……常勝のナカータ領主に、何を考えて帝国軍はご領主の艦に敵対行動をとったのでしょう。老衰死間近の大国、脳にまで毒がまわったか」

「そんなこともあるまいが」

「蹴散らされて逃げ出す帝国軍は、それは無様なものでした。七年前の大戦でも、そういえばろくに役に立ちませんでしたな。ご領主が戦の後で帝国と手を切り、サラブと和睦なさったのはご炯眼です。帝国は、既に死に瀕している」

「今ちょっと混乱してるだけだ」

「庇われるのは皇太子を庇護しておられるからですか」

 パルスの将軍は、不意に優しい顔になった。「捨てておしまいなさい」

 親身な忠告。

「足手まといになりますよ、きっと。虫食いだらけの倒れ掛けの巨木を、ご領主が支えてやる義理はないのに」

 老人に悪意はない。あるのは心配と思いやり。だからこそ俺はその言葉が、アレクにどう聞こえたか心配だった。

「我々は七年前、帝国にまんまと利用され裏切られました。一度あったことが二度起こらないとは限らない。今のうちに、手を切られた方が」

「忠告はありがたく聞いておくが、俺は」

「帝国皇后をお好きなのですか、ご領主」

 俺は驚いて咄嗟に声が出なかった。どこでどうして、そんな話になる。

「年上の女は為になるものです。とくに若いうちは。お気持ちは分からないでもありませんが、お諦めなさい。あなたには相応しくない。あなたに一途に尽くしてこられたオストラコンの王女が可哀想ですよ」

 ティスティーと別れたのと帝国皇后を保護したのは順番が違う。でもそんなことを言っても、たぶん聞いてはくれない気がした。噂は面白い角を曲がる。

「……、ブラタル海峡主ッ」

 更に何か言おうと将軍の言葉をとぎらせたのは別の男の声。身体検査済みの入港証を胸につけ走ってくるのは、思いがけない相手。

「うわ、本物。快速船団に旗があがってるから、まさかと思いましたが」

 馴染みの例の商人。父親は隠居して、今ではこいつが商隊を仕切っている。

「なんでまたこんなトコに。まぁいいや、うち来るでしょう?用意させますよ」

 親しげを通り越して馴れ馴れしい態度。将軍は遠慮してその場を離れる。俺には無数の浮いた噂があるが、この商人もその相関図に深く関わってる。

「助かったでしょう?困った顔をしておられましたよ」

 将軍が居なくなった後で商人は、いつもの態度に戻って囁く。

「……そういうことにしておくか」

 確かに一つの困惑からは救われた。だけど一層、ヤバイことになった気がする。背後のアレクの気配は刺々しさを増してゆくばかり。

 

「……悪気はないんだぜ」

 商人はパルスにもでかい商館を持っていて、そこには取り引き相手を接待する為の宴会場もある。生徒たちをねぎらう酒宴。士官学校在学中は本当は禁酒なんだが、戦争に勝った宴の主催は大将の義務。今日だけの無礼講に広間は沸き返っている。

「バルスの将軍に悪気はないんだ。ただ、年寄りだからイマイチよく分かってないんだよ。許してやれ」

 衝立で仕切られ、柔らかな敷物を幾重にも敷いた上に背もたれつきのクッションを置き背中をもたれさせる、パルス風の宴席で俺はアレクを宥める。生徒や教官たちからは見えない。

「気にしてないよ」

「そうか」

 露骨にほっとした俺に、

「嘘だよ」

 アレクは怒った声。

「腹立たないはずないだろ。自分の国を衰弱死とか朽ち木とか言われて。一番悔しいのは言い返す言葉がないことだ。帝国軍、弱かった……」

 傷ついた表情の原因はそれらしい。慰めようもなくって、俺は黙った。帝国軍の腰抜けさ加減は俺が一番知っている。七年前の戦場で、何度も臍を噛まされた。

「なんであんなに弱いのさ」

 原因は一杯ある。最大のそれは徴兵制であること。地方の住人を人口あたりの頭割りで出府させ軍務につかせている。町の鼻摘みや犯罪者が懲役の代わりに差し出されることも多く、資質や士気には最初から問題がある。 しかも帝国の軍隊には報奨金がない。広大な版図を持つ大国は、柄の大きさに似合わず懐が寂しい。軍人として出世の夢もなく、ろくな報酬ももらえない。そんな軍隊で上官の威令が行き届く訳はない。戦って勝てる筈もない。

「サラブの教官強かったよ。バルス諸国軍の艦隊も、威風あたりを払う感じだった。なんで帝国だけみっともないんだ。逃げる相手はかさにかかって追ってきたくせに、反転反撃した途端に浮き足だって」

 可哀想にと、俺は思ったが。

「皇帝ってもっといいものと思ってたか?」 口では別のことを言う。

「そんなんいいモンじゃないって、最初に俺は言っておいたぜ。それでもなりたいって言ったの忘れたか?」

「忘れてないよ。忘れる筈がない。なるよ」

 覚悟の決まった表情でアレクは断言。

「弱い国の王様になんかならないって言い出すと思った?冗談じゃない、逆だよ。いま帝国が侮られてるからこそ、今のを引き下ろして僕が皇帝になる。なって……」

 決意を秘めた声。

「二度と、朽ち木だなんて言わせない」

 不覚にも、俺は見惚れてしまった。屈辱の味を噛み締めるアレクに。罵りを受け入れ雪辱を誓う強い瞳。見たことないような凛々しい横顔。

「お前なら出来るさ」

 慰めでなく本気でそう言った。アレクは頷き、

「ところで、シド教官のこと」

 いきなり話題を変えた。

「強いよね、あの人」

「あぁ。見事なもんだ。兄貴も強い男だったが、血かな」

「サラブはあなたの仇なんでしょ。あなたはシド教官にとって、兄の仇でしょ。命、狙われてるんじゃない?」

「……どうかな」

 戦場は平時とは違う規律に縛られた、特別の世界。そこでの恩讐は平時に持ち越すべきでないことを、マトモな軍人なら知っている。戦場で受けた恥辱は戦場で漱がなければならない。暗殺しても、恥の上塗りになるだけ。

「教官は今は大人しく人質になってるけど、戦争になったら逃亡するよ。そうだろ?」

「……なったらな」

 今のところ俺はその危機を感じていない。サラブだって無駄に好戦的じゃない。大陸の東側で俺が睨みをきかせてる限り、平和的に通商した方が得だとおもう筈。

「戦争になったらあなた狙われるよ。今のうちに殺しておいた方がいいんじゃないの?」

 おいおい、俺を何だと思ってる。

「どうして殺さないの?」

 アレクは本当に不思議らしい。真顔で尋ねてくる。

「戦場の敵以外を殺した覚えはない」

 殺すどころか殴ったことさえない。唯一の例外は父親だが、あれはまぁ、実際俺の敵だった。

 殴られたことなら何度もある。ティスティー、皇后、そうだアレクにも。

「鷹揚に構えてるね。もしかして知ってる?彼はあなたを好きなんだよ」

 そりゃまあ、気づかない筈はない。

 サラブの男は俺に会うたび、必要以上の慇懃さを見せる。強い雄が下手に出るのは好きな雌にだけだ。

 昔、廃王子との関係が破綻した時、俺には奴の『女』だったレッテルが貼られた。以来、時々、妙に丁寧な奴がいる。俺もティスティーや皇后にはかなり甘いから、それは男の、本能みたいなものだ。

「実習中とかあなたの船団が横切ると切なそうに見てる。僕があなたの館から通ってることにも気づいてる。あなたが航海から帰った次の朝、あくびすると顔色が変わる」

「そんなことしてたのか」

「普段は授業中に欠伸なんかしたら窓から放り投げる奴が、そんな時は俯いて目を反らすんだ。無茶苦茶、辛そうに」

「あんまり大人をからかうものじゃないぞ」「たいていの軍人にあなた、神様みたいに愛されてるね。軍人ばかりじゃないけど」

 きたぜ、やっぱり。

「アレク、俺は評判倒れな男だ」

「何処が」

「色事に関するところが。お前ひとりで十分なんだ」

「身体はね。セックスしなきゃいいってもんじゃない」

「怒るなよ。お前が心配で7000ラスも遣って駆けつけたのに」

 その燃料代は俺にとっても結構な大金。

「僕のためだけってことはないだろ」

「なんでそんなに拗ねんだ、お前」

「あなたがもて過ぎるから」

 不機嫌にそっぽ向かれて俺は困った。悲しかった、と言ってもいい。この子に冷たくされるのは悲しい。

「母上との誤解、どうして否定しなかったの」「それは……」

 ちょうどいいと思ったから。アレクと寝てる事実を隠す、うまい隠蓑。濡れ衣を着せられる皇后は気の毒だが彼女はかつて姦淫をなした女。俺との不名誉な噂を、たてられたところで今更だから。

 と、アレクには言えなかった。アレクの為に皇后を利用して平気だと、俺がけっこう腹黒いことも考えてると、知られたくなかった。「むきに否定なんかしたら、かえって本当のことみたいだろ」

「オストラコン王女はあなたを待ってるの?」「さぁ」

 それは俺にも分からないことだ。

「お前より八年余分に生きてるからな。それなりに色んなことがあったさ。おまえだってあと八年もすりゃ」

「僕には何も起こらないよ。ずっとあなたを好きだから」

「俺もお前ぐらいの歳にはそう思ってたよ」「相手、誰」

「オストラコンの王女」

 その頃は彼女しか知らなかった。知らないままで死ぬんだと思ってた。人生に嵐はいきなり吹き荒れる。俺が今じゃあ海千山千の、色事師みたいに思われてる。

「僕は永遠にあなただけだよ」

「……アレク」

 俺は困って、笑うしかない。こんな若くて永遠なんて言葉口にされても、性の悪い冗談にしか聞こえない。

「先に帰る。眠いから」

 笑ったのが気に入らなかったらしい。俺を無視して立ち上がったアレクに、

「俺のとこ来るよな」

 念を押した。

 この商館にも俺専用の部屋がある。振り向いたアレクが嫌と言いそうだったから、

「来るな?」

 少しきつく言うと驚いた表情で、それでも頷いた。

 一緒に引き上げるのはあまりにも露骨過ぎるから、俺は五分だけ遅れて広間を出る。退室する俺にサラブの男が挨拶に来た。宴席の礼を言う男を、俺はしみじみ眺める。

 これは強い男。アレクが殺しておいた方がいいのじゃと気をまわすくらい。精魂込めて育ててきた士官学校の教官たちはナカータ・ブラタルのみならず、東方諸国最高の人材が揃ってる。それでも誰一人、この若いのにかなわない。

 努力では埋めようのない才能。勘というかセンスというか、そういうものがある。今はまだ俺を脅かすほどじゃない。でも将来は分からない。

 無口だ。ふだん無口とひとに言われる俺が呆れるくらいだから正真正銘の無口だ。いつも黙々と仕事をしてる。その無口なのが、

「皇太子と、ご一緒にお泊まりですか」

 尋ねてきたから驚いた。

 俺が答えるのを待たず、男は一礼して離れる。逞しい肩のへんが辛そうにうなだれて見えたのはきっと、俺の気のせい。

 

 どうしてもノらない夜ってのは、ある。散々手こずった挙げ句に諦めてアレクは身体を引いた。

「……ごめん」

 思わず俺は謝った。苦しそうな顔をしてたから。こんな顔をされるくらいなら、させてやった方がどれだけ楽か知れない。

 だけど身体は正直だ。本心が、露骨に出る。俺は今、アレクを迎えたくなかった。別のことが気になって、気持ちがひどく揺れている。サラブの男は本当は、何を言いたかったのか。 それは上手に隠された。隠されるほど、気になるもんじゃないか。

「ごめん、呑みすぎた」

 やりかけて中断された男が大抵そうなるように、夜着を引っかけるアレクはひどく不機嫌な雰囲気。俺は思わず機嫌をとってしまう。「アレ」

「そんなんで誤魔化せるほどガキと思ってたの」

 ひどく刺々しい声。

「嘘つき。あなたは酔うとトロッとするんだよ。気分じゃなくて身体の話だけど。膝とか腰とかふにゃっとなって、それはそれで扱いにくいけど、今はコチンって固いよ。……何があったの」

 凄まれる。

「気になることがな」

「だからそれ、なに」

「気づいてる奴も居るよなお前のこと」

 士官学校では一応偽名を名乗らせてるが、教官たちは知っている。アレクが帝国の皇太子だと。母親の許に戻るようなふりをして平日の夜は、俺の館で眠っていることも。

 知られつつある秘密。帝国軍も、アレクが居ると知っていたからパルスとの紛争も辞さずに追ってきた。サラブの男は追尾される訳に気づいた筈だ。そして珍しい差し出口。アレクのことを偽名で呼ばず皇太子と言った。 あれは忠告かもしれない。秘密が漏れつつあるという。まさか俺の寝床の中を、詮索したかったわけじゃあるまい。

 いつまで一緒に居られるんだろう。

 予感がした。確信といってもいい。別れなければならない時が近づいてる。こんなに好きで、一緒にいたいこの子と。

 でも仕方ない。この子には望みがある。そして俺は、この子の望みをかなえてやると、もう約束してる。

「脱げよ」

 俺はアレクの、夜着の襟に手を掛ける。

「しよう。もう大丈夫だから」

 動揺は納まった。覚悟さえしてしまえば早い。諦めることには慣れてる。

 半信半疑の様子で、それでもアレクは手を伸ばしてくる。今度はちゃんと、ゆったり奴を含めた。

「気分屋、なんだから」

 俺を揺さぶりながらアレクは耳元に、なすりつけるみたいに呟く。

「手間かかる、人だよホント、愛してなきゃ、こんなめん、どうな人、なんか……」

 俺も愛している。手放したくはない。

「泣かないで、ウソだよ大好き、無茶苦茶キモチ、いい」

 快感に掠れるこの声を、ずっと聞いていたかったけれど。

 

 帝都の情勢が切迫してきたと、甥っこが知らせて寄越したのは一月ほどたってから。使者はあの宮廷医師。出撃準備をと言われて俺は頷いた。

「わかった。で、大体の日時は?」

「準備が出来しだい、ということで」

「もう終わってる」

 俺の言葉に医師はにんまり笑う。

「さすがですね、ご先代。相変わらず鼻のきく方だ」

「帝国軍とちょっと前に揉めたからな」

 そろそろ、とは思っていた。

「ナカータの若いご領主は焦っておられます。一刻も早く皇太子に帝都を奪還させ帝位につけて、ブラタルから引き剥がそうと、躍起になっておられます」

「……」

 きたか、と俺は覚悟する。

 アレクとの事は誉められた事ではない。いずれ横やりが入るのは知れていた。

「噂を聞いた時は耳を疑いましたよ。天下に艶名を轟かせたご先代が、子供から抜けたばかりのうちの若を相手になさるとは」

 俺は答えない。答えようがなかった。

「そうやって都合が悪くなると黙り込む癖はお変わりない。ところで……」

「失礼ッ」

 ノックもなしに扉を開けたのはアレク。俺と向き合う医師を見るなり、

「久しぶりだ、ダンク。今日はどんな用件で来た?」

 睨み付けるように言う。

「お久しぶりでございます、殿下」

 医師は席を立ち床に膝をつく。

「ご機嫌伺いに参上いたしました」

「そうか。僕もゆっくり話したい。とりあえず母上の所に挨拶に行くだろう?一緒に行く」 早口で言い募りながらアレクは俺を見る。俺はかすかに顎を引く。連れていってくれ、という意味を込めて。

 二人は部屋を出ていく。ほっとした途端、『あの人に何を言った?』

 アレクの声が聞こえて、俺は椅子から飛び上がった。慌てて周囲を見回す。が、人の姿はない。

『何も。挨拶の途中で殿下が来られたのです』『どうだか。君は策謀家だからね。でも一つ言っておく。あの人を口説いたのは僕の方だ』 声はテーブルの上から聞こえる。俺はカップの影に小さな金属の機械を見つけた。医師が忘れていったのだろう。確実に、わざと。『だから僕らのことであの人を責めるのは許さない』

『責める?若と先代殿を?まさか。むしろわたしは若に拍手をしたい気持ちですよ』

『拍手……?』

 アレクの声が淀む。眉を寄せて胡散くさい顔をしてるのが目に見えるようだ。

『えぇ。口説いたか口説かれたかはこの際、大した問題ではありません。よくぞ腹の知れない先代殿を籠絡されました』

『……?』

『若と先代殿との間で何があったにせよ、世間には外面しか見えません。先代殿は庇護すべき亡命者、しかも十五歳の少年に手を出した。これは彼にとって大した弱みになる』

『……なるのか』

 アレクの呟きは呆然。

『なりますよ。ただでさえブラタルの人食い虎には色事に関して醜聞が多い。廃皇子と揉めた前科もある。あの時は年齢からいってこちらが加害者の役回りでしたが、今回は……』