医師の声が不自然に途切れる。アレクが黙れと目線で言ったか、足を止めたか。そのまま数秒の沈黙の後、 『週末だけは母上の館に帰ってる。週に一度はいっしょに食事をするようにしている。会話はまだ少しだけど』 アレクは唐突にそんな事を言い出す。 『伺っております。ようございました』 医師の口調にはからかい混じり。 『ご先代の進言を容れられた訳ですね。ご先代は案外、道徳観念はアナクロですから。親孝行しろの母親は大切にしろのと』 『母を大事にしろってサティからはずっと言われ続けてた。でも僕は母とは絶対に口をきかないつもりだったけど……』 声に苦笑する気配。 『僕は母上と義兄との密通を不潔なことだと思ってた。 けどもしかして母上が欲望じゃなく恋に薙ぎ倒されて僕を産んだのなら、僕に彼女を責める権利はない』 医師は答えず、でも馬鹿にした雰囲気だけは伝わる。 『むしろ感謝、しなきゃならないかもしれない。この情熱をくれたのが母上なら』 『感謝。それはまた、親孝行なことで』 医師の台詞は敵意ギリギリの皮肉な口調。 『生まれてきて良かったと思ってるよ。彼と会えたからね』 堂々と言い放つアレクに俺はため息をついた。俺は正直、アレクが可愛い。パリパリ噛みつきたいくらい。 骨の髄まで食い尽くされたいくらい。 だからこそ、手放さなければならない。取り返しようのない傷をつけてしまう前に。 戦争には勝った。それは俺には当然で、当たり前の事。ただ今回、俺は前線指揮はとらなかった。 港に強引に入港し、大通りを真っ直ぐに攻め上がる。市街戦はなるべく避けて王宮を包囲。 門を警護する近衛部隊のうち、勇気があるのか馬鹿なのか、何発か弾を撃ってきた奴らも居た。百倍返しすると沈黙した。 「アレクサンドル、出番だ」 俺はアレクを表舞台に出した。こくりと頷き、アレクは出ていく。皇太子として帝都を奪還し、ひならず皇帝に即位するだろう。 懐で育ててた子供を俺は送り出した。子供は雛から鳳に成長して力強く旅立つ。寂しかったが満足でもあった。 これでいいのだと、思った。 戦勝後にはお決まりの利権の奪い合い。それらに興味のない俺は早々にブラタルに引き上げようと思っていた。 が、出来なかった。載冠式の帝冠奉侍者の役目を是非とも俺にと言ってアレクはひかなかった。 アレクだけなら無視することも出来たが、ジェラシュにまでそうしろと言われて俺は拒めなかった。 俺はジェラシュの指示には逆らわない。本来は俺が追うべき重責をジェラシュは背負っている。 着せられたのは帝国風の裾を引き摺る正装。漆黒のそれは身体にまとわりつく絹。 ふだん綿か麻しか着ない俺には着心地が悪かった。歩くたび裾を踏みそうで動きにくかった。 もっともそんなのは、不覚の言い訳にはならない。 式典会場へ行く為に側近たちと別れ案内されるまま、曲がった回廊の陰。 潜んでいたのは刺客。気配に身を翻したが、袖を捕まれ動きが遅れた。 刺客の刃が耳の上の髪を裂いた瞬間、俺はこれで載冠式に出席しなくて済む、なんて考えてた。 刺客の腕をねじ上げ膝でひき敷いて、ついでに腕を折りながら。 「ご無事ですか、サティ様」 「大将」 「ボス」 「閣下ッ」 好き勝手に呼びながら側近たちが来る。俺は無事と言うかわりに笑った。そうするうちにもぼたぼた血が出る。 頭の傷は出血が多い。俺は促されるまま側近らの上着の敷かれた床に横になる。 医者が駆けつける。白衣の集団を押し退けて顔を見せたのはなじみの宮廷医師。式典で何か役があるのだろう、礼服を着ている。 「汚れるぞ」 医師の耳に俺の台詞は届かないようだった。傷口を一心に見ている。職業意識のあらわれた真摯な表情。 「お前もさ……」 「お静かに。傷は浅いようですが動脈を掠っています」 「謀略家より医者に戻れよ。いい機会だから。ホントはそっちが好きなんだろ?」 「黙れっていってるでしょうッ」 一喝されて俺は口をつぐむ。手術道具が届くまで、膝枕のオツな感触を楽しむ。 「これでは載冠式の後見役は無理でしょう」 騒ぎに駆けつけた帝都の貴族たちのざわめきが聞こえる。 「お役目は誰かに譲られた方が」 仕組まれたなと、目を閉じて思った。一代の盛儀である載冠式の壇上に、よそ者の俺を立たせたくない貴族どもの陰謀。 まぁいい、爪弾きされるのは慣れてる。代役は任せると言いかけた途端。 人波がざわめく。それまで人垣の背後で何も言わなかったアレクが、大貴族の一人の襟首を掴むや殴りつける。 「陛下何を」 「お止め下さい、殿下」 呼び名が錯綜するなか、無言でアレクは殴り続ける。ぼきっという音が聞こえて俺は仕方なく上体を起こす。 医師が背を支えてくれた。 「笑ったろう、お前」 過激な行動と裏腹にアレクの声は低い。 「怪我した彼を笑った。黒幕はお前だなッ」 「よせ……」 俺が言うと、アレクの動きが止まる。 「よすんだ、アレキサンドル。俺は大丈夫だ」 歩み寄ったアレクに支えられもう一度、床に転がる。頭の下にはアレクが刺繍つきの厚いマントを折って差し入れた。 人払いした廊下。カチャカチャと傷を縫う器具の触れあう音がする。麻酔がきいて感触は感じない。 怪我を縫うのは慣れていたから俺は落ち着いたもの。それより、視界のすみで豪奢な衣装をまとった膝が、震えているのが気になった。 「……アレク」 「なに?」 公爵を殴っていた時は冷静だったせに、俺に呼ばれて語尾を震わせる。 「大丈夫だから式典に戻れ」 「一緒に居る」 言うことをききやしない。縫合が終わると式典用の豪奢な上着が掛けられる。 上着にはアレクの暖かさが残っていて、出血で冷えた肩や背中に心地よかった。 そのうち俺は麻酔のせいで眠気がさしてきた。目が覚めたのは夕暮れ。アレクが横に座っている。小犬みたいに、床にぺたんと。 茜色に染まった西の空を眺めながら、 「載冠式、どうなった?」 そっと尋ねると、 「知らないよそんなの」 予想通りの答えがかえってくる。 俺は目を閉じた。これで決着がついたと思った。 何もかもおじゃんだ。 アレクは載冠式を放って俺に付き添った。そこから俺たちの情交を想像する者は少ないかもしれない。 でもみんな思うだろう。皇帝はブラタル海峡主の傀儡だ、と。 俺にそのつもりはない。だからもう。この子のそばには居られない。 「行け。みんな待ってるんだろう」 「あなたと居る」 「待ってるから、載冠式を済ませてこい」 嫌だと言わせず、俺はアレクに口づけた。そっと、優しく。 「ここで待ってるから」 海で、泳いでいるようだった。 目を閉じて身体を任せながら漂っていると、春長けた海に浮かんでいる気がする。 「どうしたの?」 「……久しぶりだからだ」 「ホントにそれだけ?」 追求されるのが嫌でアレクの後ろ腰に触れる。それから後は怒濤のよう。 荒波がおさまった後もアレクは俺を抱いたまま離さない。 「服を着させてくれ」 「寒い?」 「少し。怪我のせいかな」 寝間着に袖を通して俺はベットに戻る。アレクは俺を抱き止めるように手を伸ばし、掛け布の中に引き込む。 「僕とこうしてる事があなたにとって弱みになるって、以前いわれた。でも実感なかったよ今日まで」 それはそうだろう。ブラタルで俺は何をしようが自由だ。懐の雛に噛みついても文句を言う奴は居ない。 アレクの手がそっと、傷に巻かれた包帯に触れる。 「医師が言うんだ。あなたに恩を、仇で返す真似はするなって」 「……気にするな。お前の為ならなんでしもしてやるよ」 「この怪我、僕のせいだね。僕とのことを後悔、してる?」 「まさか」 「じゃあどうしてくらい顔してるの」 真っ暗闇の中、そんなの分かる訳がないくせにアレクは言う。 「あなたがどんな顔してるかなんて息だけで分かる。まだ僕のこと信じてないの」 「信じてるさ」 「だったら、そばに居てよ」 アレクは結局、それが言いたかったらしい。「無理言うな」 「どうして。さっきなんでもしてくれるって言ったじゃない」 「いった。でもそれ、お前の為にはならない」 戦争は終わった。それは俺の出番が終わったことを意味する。いつまでもうろうろしてんのはアレクのためにならない。 「そばに居てよ……」 「無理だ。分かってるだろ?」 「無理じゃないよ。あなたがブラタルを他の誰かに任せて、僕の摂政になってくれれば」 「愛人には贅沢過ぎる餌だな」 アレクは俺を抱く腕を強ばらせた。 「愛人って、なに」 反問する声が低い。怒ってる。 「まさかそれ、あなたのことじゃないよね。あなたは僕の恋人だよね」 「そういうことになるんだ。皇帝陛下」 「そんな呼び方しないでよ。皇太子でも皇帝でも、僕が僕なのには変わりないだろ?」 同意を求める言葉に俺は頷けない。俺の懐で庇護されていたアレクと、帝国に君臨すべきアレクとが同じである筈がないから。 「即位おめでとう」 「だから、なに」 「俺はもう必要ないだろう?」 「あなたに捨てられたら生きていけないよ」 「俺はブラタルと戦場以外では役立たずだ」 「そばに居てくれたらそれでいい」 「ベットの中に?それ愛人って言わないか?」 アレクは絶句し、肩を落とし、悲痛な顔で瞬きを繰り返して、重いため息をつく。 「夏になったら避暑に行くよ……。あなたもたまにはここに来て」 俺は返事をしなかった。 翌日、俺は迎えの車に乗った。そのあしで港へ行きブラタルへ戻り、アレクと会う前の生活に戻った。 帝国からは別荘地借款の申し入れがあったが丁寧に断らせた。 電話は取り次がせず、たまに届く手紙は懐かしく読んだが返事は書かなかった。 辺境の一海峡主が帝都へ出向く用事などある筈はない。要するに、俺はアレクを完全にシカトした。 そういう俺の態度を、 「年下の情人ってそんなに可愛いもの?」 皮肉まじりに笑ったのはジェラシュ。この子はアレクが居なくなってから月に一度、休暇をブラタルで過ごす。 「あなたを帝都に寄越せって帝国からは矢の催促だけど、彼はなにもわかってない。 ひもつき皇帝を警戒してた帝国貴族たちはあなたの態度を見て認識を変えつつある。彼を自分らの主人として受け入れようとしてる」 「宮廷医師、元気か」 「唐突だね」 そうでもない。ジェラシュの情報源が多分あの医師だろうと思ったことからの連想。 「傷跡心配してたよ。残った?」 「いや」 傷は抜糸の要らない極細の糸で縫われていた。縫合の腕も大したものらしく、予後を診察したブラタルの医者が感嘆していた。 「皇帝陛下のこと、このままふっちゃうの?」 「その方がお前には都合がいいんだろ?」 帝都攻略の時期を早めて、俺とアレクを引き離そうとした。そのことは別にどうとも思っちゃいない。いずれ来る結末だったから。 「そうなんだけど、少し複雑。考えてみれば害はなかった。彼はあなたと結婚できないし、子供が出来ることは絶対ないし」 当たり前だ。 「その子がブラタルとナカータの継承権を主張して、こっちを脅かすようなこともない。 叔父上が寂しさのあまり別口の愛人をつくることになったら薮蛇かも」 「計算が甘かったか。お前らしくもなく」 「彼と仲いいの見てて辛かったから。まだオストラコン王女との方が、嫉妬は少なくてすんだ。彼とは同じ歳だから」 俺は返事をしなかった。 第七幕・三度帝都 案内された中庭は狭いが手入れが行き届き、退役将軍の住処らしい、いい雰囲気だった。 尋ねた老人はうたた寝をしていた。起こすのも悪い気がして、俺は向かいの椅子に腰掛け目覚めを待った。 老人がゆっくり目を開ける。 「……おいでになったか」 かすれた声。死病に侵され余命幾許もないことを、本人も知っているという。 「遠路遙々、よく、来られた」 老人の言葉に俺は笑む。 「お変わりありませんな、ご領主。あなたが笑うと光があなたに集まる。世界中から色彩が奪われる」 「お前は変わったな。詩人に鞍替えしたか?」 「あの戦場でも、いつもその顔で笑っておられた。……余命僅かな老骨に、わざわざのお運び、有り難く思いますぞ」 「回顧録を読んだ」 この男は西国境戦争に従軍していた。あの戦場で黒い礼服を着て、死んだ男のことを皇子と呼んでいた。 「期待したほど面白くなかったな。死んだ男を誉めてばかりで、しらけた」 「お変わりない、ご領主」 老人はたまらず笑い出す。 「十年たつのに少しもお変わりない」 「変わったことも少しはあるぜ。俺はとっくに前領主だ」 「そうでしたな……」 老人は遠い目をした。 「あなたは進退の潔い方でした。出兵に消極的な父上を無理に隠居させてまで手にした地位を、 大戦が終わるなり甥御に譲られましたね。あの時はさすがに驚きましたよ」 「俺に政治家は無理だから」 煙草吸っていいかと俺は尋ね、老人はどうぞと頷く。 「わたしの生涯のうちには忘れられない二人の若武者があった。一人は今、目の前におられる。 もうお一方とはやがて冥府でお目にかかれるでしょう。……ご領主」 「その呼び方は止めろ。ナカータの領主は別に居る」 「あなたの傀儡が」 「ガキの頃から俺を助けてくれた奴だ。帝国の海千山千と渡り合わせてもひけはとらない」 政治経済両面で帝国を翻弄する現ナカータ領主。養子のジェラシュを、俺は誇りに思っている。 「出来物の後継者のおかげで俺は、居眠りしながら海峡の番人すりゃいい気軽な身の上だ。だから昔馴染みを見舞いに来てる」 「この爺の為に御身を運ぶ優しさがおありなら、何ゆえに八年前、帝都に来て下さらなかったのですか」 老人の語尾が震えた。 「若は危篤の最後の瞬間まで、ご領主を待っておられたのに」 「実は尋ねたいことがあってきたんだ」 「若は薄幸の定めに生まれられました。健気に運命に立ち向かわれましたがとうとう、三十歳にもならずに病没してしまわれた」 「死んだ男についてだが。あいつの臨終に立ち会ったのはお前だったな」 「若はご領主のことだけ愛しておられたのに、ご領主は何故、病床の若を一度も見舞って下さらなかったのです」 「ちょっと、待て」 俺は面前に掌を上げる。 「お前はどの若の話をしてる。俺が知ってる男のことか」 「私が若とお呼びするのは永遠にただお一人、先代皇帝ご長子であられたクラシカル・ナカータ廃皇子のみです」 「あいつの何処が薄幸で健気だったのか、俺にはさっぱり見当がつかないが」 俺は掌を下ろす。下ろした途端、 「……お美しい」 唸るように呟かれた。俺は苦笑するしかない。二十六にもなった男が、そんな事を言われちまったら笑っているしかない。 「十年前は咲き染めの花弁のようでしたな。今はまがまがしいほど満開の花盛りです。 ご領主が美しければ美しいほど、あなたに焦がれたまま死んだ若がお気の毒です」 「話を勝手に飾るな。奴が死んだのは俺と関係ない、癌だろ」 「冥府の若に一言なにか、優しい言葉を掛けて差し上げて下さい。でなければ若があまりにも可哀想です」 「……夢を壊しちゃいけないかと思って、ずっと黙っていたんだがな、クリスタ将軍。 あっちで恥をかいちゃ気の毒だから、教えておいてやろう。奴は」 台詞を一度とぎらせて、俺は煙草の煙を吐き出した。 「俺を愛してなかった」 「いいえ」 老人はキッと顔色を変えて俺を見る。 「いいえ、それは違います。……若は、確かにご領主に嫉妬しておられました。 父上からの束縛、庶子であることから抜けきれない若にとって、そんな不利を問題にもしなかったご領主は目障りだったのです。 羨ましかったのですよ、あの方は、あなたが」 「妬ましかったの間違いだろ。奴は俺を利用しようとして失敗した」 「違います。若はご逝去の朝まで、ご領主のことを」 「あの世で俺が誉めていたと伝えておいてくれ。死後も側近を欺いた狸の化けっぷりには感心する。真似しようとは思わないけどな」 じゃあなと俺は席を立つ。 「お尋ねになりたかった事というのは?」 老人は悲しみに満ちた声で尋ねる。 「この老骨が、お役に立てることがございますかな。知る限りのことは応えさせて戴きます。あなたは若の大切な方でしたから」 「頑固爺。せいぜいその気色で長生きしろ。お前の薄幸で健気な若君、死んだんだよな?」 「亡くなりましたよ、この老骨よりも早くに。ご遺体の埋葬にたちあったのはわたしです。お可哀想に、若君。 さぞご無念であられたことでしょう。紛れもない第一皇子でありながら庶子のまま廃皇子とされ、 それでも帝国の為に戦場で戦い抜いて、ようやく力をつけこれからという時期にあの若さで。 ご遺体は皇族の墓所ではなく臣下の墓地に埋葬され、愛した方にはひどい誤解をされたままで」 それが自分のことだとは、俺はどうしても思えない。 「若はあなたを愛しておられました」 「そうじゃなかったことだけが、俺が知ってる唯一確かな奴だ。じゃあな」 俺は今度こそ席を立つ。お健やかにと老人は頭を下げた。 館を出て中庭を歩く。正門前に横づけされた車に乗り込む。窓外に流れる景色を眺めつつ、俺は懐から一通の封書を取り出した。 消印は十日前。インクの色はまだ新しい。宛先はブラタル海峡城主にして先代ナカータ領主、アクナテン・サトメアン。 俺のことだ。 差出人はクラシカル・ナカータ廃皇子。死んだ筈の男。 「幽霊の身元は判明しましたか?」 運転しているレイクが尋ねた。 「やはりここへあなたをおびき出す為の老将軍の手管でしたか?」 「……いや」 俺は答える。そんな感触はなかった。 短く答えたっきり、封筒の端を唇に当てて思案に沈む俺に今度は助手席のアケトが、 「悪戯なんじゃねぇのかよ、単なる」 声を掛ける。 「俺もそう思いたいけどな」 言いながら、俺は手紙を封筒から取り出す。便箋四枚分ほどの、決して短くはない文面。 「悪戯にしちゃ的を得てる。俺と奴しか知らない筈のことが山のように出てくる」 「お懐かしいですか」 「まさか」 「にしちゃあ、おまえ熱心に読んでる」 「熱心にもなる。……俺の直感だけなら、これを書いたのは奴本人だ」 「そんな筈はないだろ。廃皇子は八年前に」 「死んだな」 けれど手紙はどう見てもごく最近になって書かれたもの。となると、『奴』は生きているのか。そんな筈はない。けれど。 「俺は俺の直感を信じる。奴が死んだのをこの目で確かめた訳じゃないからな」 手紙の消印は帝都。ずいぶん顔を出していない、権勢渦巻く虚飾の都。 「九度目の命日に蘇るとさ。会いに来いなんて白々しく書いてある」 「何かの罠では」 「かもしれないが、見過ごせる誘いじゃない」 「おいおい、今どういう時期が分かってて言ってんのかよ」 アケトは呆れた声をあげる。 「皇帝の花嫁決めようってんで、帝都は今、大陸じゅうの奇麗どころが集まって花盛りの大騒ぎだぜ。 そんなトコにおまえが顔だしゃ、どんな修羅場になるか」 「俺には関係ないことだ」 「関係ないわけないだろ、おまえは」 「お供しますよサティ様。私はいつでも、どこへでも。ただ一つ、お尋ねしてもよろしいですか」 「なんだ?」 「廃皇子が生きていたとしたら、サティ様、どうされます?」 質問に、 「殺すさ」 俺は即答した。手紙を一度封書に戻し、封書ごと引き裂く。細かにして車の窓を下げ放り出すと風は紙片を乱暴に奪い去った。 三日後、帝都の夜。 照明を抑えられた店内は地下という事もあって隠れ家じみた雰囲気。従業員も物静かで、BGMはクラック・シェイズ。 澄んだピアノの音響が心に美しい波紋を形作る。 俺はカウンターに腰掛けて一人、黙々と飲んでいる。手元の皿にはナッツの殻。グラスの中の酒はアカシ。 帝国が誇る真紅の蒸留酒を、透明な氷の塊で冷やしてその色が尚更さえたところで喉に流し込む。 俺は音楽に耳を傾けているふりをして考え事をしていた。そんなふうなのは俺だけではなかった。 でも俺は、自分が妙に目立っているのを自覚する。自惚れでなく、店内の客の意識は俺に集まっている。 店の扉に取り付けられたベルが軽く音をたて新しい客の訪れを告げた。足音は二つ。真っ直ぐカウンターへ向かってくる。 そうして俺の左右の席を占めた。 「スコッチ。オンザロック。ダブルで」 「ジンジャーエール」 左右の客が注文するのを聞きながら俺は懐から煙草を取り出す。 くわえた途端、左右から火が差し出される。重なった炎で煙草に火を点け煙を吸い込む。 「カボチャは畑に戻った。公邸に帰れるぜ」 右のアケトが言った。俺の方は見ないまま。 「……粘ったな」 「明日も来ると言っていました。そのうち御大御自ら、迎えに来るかもしれませんよ」 左の席のレイクが言う。少し心配そうに。 「まさか」 俺は笑う。笑いながら煙草を吸い終えて、 「酔った……」 目を閉じる。 「立ち上がれないかもしれない」 「担いでってやる。醒めるまでここで粘る手もある。おまえ酔い覚め早いから、ミネラルウォーター二三杯飲んだら大丈夫だろ」 「いっそ朝まで飲み明かすという選択も出来ます。おつき合いしますよ」 「ジンジャーエールでか?」 からかう俺の声音にレイクは真面目な声でそうですと返事。 首を振って俺はカウンターのバーテンに珈琲を煎れてくれるかと尋ねた。 飲み終えて立ち上がる。 椅子の背もたれに掛けていた上着をアケトが手に取り袖を通させてくる。レイクは一足先に支払いの為にレジへ。 店の扉を一人が先導して開き、もう一人が後ろからついて閉めた。 扉が閉まる隙間から小声の囁きが追ってくる。建国式典に招かれた要人の一人がお忍びで羽目を外していたのか。 それにしては慣れた物腰だったし迎えが来るまで完全に一人だったのも訝しい。 名家の若様にしては少々、雰囲気が剣呑過ぎないか。いや今時の若様は阿呆では勤まらないうちの皇帝陛下がいい例だ、等々。 囁きの中、暗い隅のテーブルから立ち上がる背の高い男の影。 地上に出るなり迎えの二人は眉を寄せた。待たせていた車が見当たらない。 「駐車違反のキップでも切られたかな」 俺はのんびり言った。夜風が気持ち良い。 「式典の資金稼ぎかネズミ獲りがやたら厳しいと、街で若者がぼやいていた」 「外交官ナンバーの車をですか」 「マジでおかしい。お前、レイクと店戻ってろよ。俺その辺ぐるっと回ってくる。十五分で戻らなかったら護衛団呼んで囲ませな」 そこへ背後から足音。店から別の客が出てきたらしい。 「川渡って東岸に行ってみるか。女の居る店も悪くない」 「俺は静かに飲みたい」 二人はまわる店を決めかねる風情を装い出てきた客をやりすごす。 俺だけが猿芝居には参加せず懐から煙草をもう一度取り出した。今度は自分で火をつけようと、懐に手を入れた、瞬間。 背後で客の足音が止まった。 俺の目の前にすっと火が差し出される。 気配に振り向いた二人は、二人とも目を剥き顔色を変えた。 赤い小さな炎を発したライターは太陽の紋章入りの金無垢。握る指には同じ紋章を大粒のダイヤでかたどった指輪。 俺は無言で、我ながら落ち着いた仕種で睫を伏せ息を吸う。炎は俺がくわえた煙草の先端を染め、やがて唇から紫煙が流れ出る。 「何時から煙草なんか吸ってる」 紫煙とともに漏らした問いかけ。 「性悪い恋人に待ちぼうけの意味教えられた頃、かな」 「背ぇ伸びなくなるぞ」 「もう十分伸びたよ」 「身体に悪い」 「あなたに言われてもね……」 ライターの炎を消しそれを掌に握り込んだまま、帝国の紋章つきの指が俺の肩を滑る。 項に唇が寄せられる。掌が暖かい。俺はやや身体を反らしながら、 「何時からつけてた」 再びの質問に、 「最初から」 答える言葉はごく短い。 喉を掌で愛撫されながら俺は二人の側近を見た。咎めるような目で。二人は面目なさげに目をそらす。 尾行者に気づかなかったのはこいつらの失策。 「なんで俺が帝都に来てるってわかった」 「そりゃ分かるよ。ナカータ公邸が妙に活気づいてるし、ナカータ公はそわそわしてるし。……どうして迎えから逃げたの」 低くなじる、男は今はただの男。背の高い、整った顔をした若い男。 「お前こそなに考えて迎えなんか寄越した」 「あなたがなかなか宮廷に顔を出してくれなかったから。二年近くのご無沙汰で、さすがにバツ悪いのかと面って」 「今がどんな時期か分かってるだろう」 「建国記念式典が間近。それがどうかした?」 「式典を口実に大陸全土から毛並みのいい女集めて正妻選ぼうって時に……」 言いかけた俺の口を男は唇で塞ぐ。顎を右手で支え肩ごしに、誠実を通り越して恭しくさえある口づけ。 首を傾げて優しく受けとめる、ふりをしながら唇の内側は許さない。 男がじりじりしていくのが顎の動きで分かった。何度もきつく噛み合わせる。でもそのたびに、俺はするりとはぐらかす。 「……ひどい人だ」 心臓の血を搾り出したような苦い呟きを聞きなながら、俺はようやく男の顔を見た。 聡明そうな額に形のいい鼻筋。緑色の瞳。目に重厚さがあるせいで大人びて見えるが本当はひどく若い。 そう、まだ、これから背が伸びる齢。翡翆のように見事な緑の瞳は可哀想なほど思いつめて見える。 似てる。背丈も顔立ちも、昔知ってた男に。 「結婚なんかしないよ僕は。あなたと別れるのなんか絶対承知しないから。 二年ぶりに来てくれたかと思ったら逃げ回って焦らして、もう十分だろ。何でも言うこときくから」 キスさせてくれと男は囁き、俺の腰に手をまわす。腰骨を遠慮も躊躇もなしで掴まれて俺は肩を揺らした。 観客の存在も路上だということも気にかけない男の振舞。 「よせ、アレク」 側近たちの前でベルトを外されそうになりようやく俺は抗う。逆らわせまいと男は愛撫する指の力を込める。 「……僭越ながら、陛下」 レイクが見兼ねて口を挟みかける、そのタイミングをはかっていたように角を曲がって近づいてくる高級車。 ほぼ道幅と等しい車幅の鼻面にさすがに帝国旗は掲げられていない。 後部座席のドアが開く。 そのドアに男は腕に抱いていた俺を押し込もうとする。俺は無慈悲に肘を男のみぞおちにきめた。 咳き込みながら男は俺を追う。無言の攻防は、 「お願いだから、エル・サトメアン」 若い男の哀願でケリがついた。俺のスーツの、裾を腰ごと抱きながら、男は極上のスラックスに包まれた膝を地面に付く。 服従もしくは従属をあらわす姿勢は本来、この男が最もしてはならない姿。 俺は眉を寄せる。あの傲慢だった廃王子を膝まづかせている錯覚が背筋をかける。 側近二人は困惑に顔を見合わせる。 地下へ続く階段から扉のあいた気配。 俺は男の襟首を掴み立ち上がらせ、ドアを開いたままの車の座席に乱雑に押し込んだ。人目から庇った。 男は俺が身をひくよりも早く俺のネクタイに手を伸ばす。至近距離で、交わす視線は火花が飛び散りそうに激しい。 「乗ってくれないならここで喚くよ」 男は真顔で、俺に宣告。 「カミングアウトしてやる。名前を名乗って大声で、あなたを愛してるって叫んでやる。 ずっと叫びたかった。花嫁候補たちも呆れて故郷へ帰ってくれるだろうし、一石二鳥だ」 「レイク、アケト。先帰ってろ」 俺はネクタイを掴まれたまま車のシートに自分から乗りこむ。 「俺はそのへんドライブしてから戻る」 「承知いたしました」 「無事に戻って来いよぉ」 側近たちに答えるより早く、俺の身体は男の腕によって奥に引き込まれる。 自動でドアが閉まるのを待たず、男は車内を密室にしようとドアに手を伸ばす。 レイクが敬礼をしてアケトも仕方なくそれに倣う。ドアを閉めた男は二人の敬礼など見ていない。 先に押し込んだ俺の手を掴んで口元に押し当てる。肩を胸元に抱き込む。 唇を重ね、それから先はシールドがおりて、レイクたちには見えなかった筈。 上等のクッションと、被さるように抱きすくめる体に挟まれて俺はぼんやり夜景を眺めていた。 特殊シールドごしの夜景は輪郭がぼやけて滲んだように見える。 「……クソッ」 小さな声の罵りに視線を戻す。近すぎるせいでアレクの顔は見えない。視界に入るのは肩と後頭部だけ。 「目茶苦茶にしてやろうと思ってたのに。口もきけないくらい、身動きできないくらい、ぐちゃぐちゃにしてやろうと思ってたのに」 充分ぐちゃぐちゃにされたと、思ったけれど口には出さなかった。 息継ぎ考えなしのキスで窒息させられかけた。歯ぁガチガチ言わせたのに気づかないで何遍もイカされた。 そして今、肝心の本人役タタズで半端に放り出されて。 「……離せよ」 「嫌だ」 「なんでも言うこと聞くんじゃなかったか?」 「嘘に決まってるだろ」 「頭に血ィのぼり過ぎなんだよ。ガキめ」 昔みたいな口調で言うと、アレクの強気な表情はみるみる崩れ落ちた。 「……ごめん」 しゅんと萎れる。でかい図体でそうしてるのは、なんとなく可愛い。 「本物だ」 俺の腕を掴んでくちづける。半端にはだけられた服。裸の肘の内側。 「二年ぶりだね。夢で会ってたけど、あれって目覚めたあと物凄く虚しいから。 本物に触れたらあぁしようこうしようって、考え過ぎてて、今はダメだ……」 「恐いな」 俺の台詞は冗談半分、本気があと半分。 「恐いよ。寝かさないから、覚悟してて」 「車の中、嫌いだ」 他人にハンドルを握られた車は落ち着かない。自分か、知ってる奴が運転してるならそうでもないんだが。 「そうだったっけ?安心しなよ、じき王宮につくから」 「お前……」 咄嗟に俺は言葉が出ない。呆れて、絶句してしまった。俺とこのまま王宮に行くつもりか?花嫁選びに熱心な母親の懐へ? 「せめてどこかのホテルにしないか」 俺は最後の妥協案を出した。俺は母太后を挑発するつもりはない。 できれば彼女にもアレクにも気づかれず、こっそり来てこっそり帰るつもりだったのだ。 「バイパスぞいの何処かで、二時間くらい」 「今夜は離さない。二時間なんて、そんな風なのは嫌だ」 「情婦の我ままはきいてやるもんだ」 「あなたのどこが情婦。玩具にされてんの、どっちかっていうと僕の方じゃない」 「玩具ならこんなヤバイの選ばなかった」 俺は掴まれていない方の手でアレクの前髪を掻き上げる。聡明そうな額にくちづけ、 「大事なんだよ、お前が」 優しい声で言ったのは失敗だった。鎮めるつもりが火をつけてしまった。アレクは俺の腰を掴んで自分に押しつける。 擦りあわされた熱に驚いて俺は身体を浮かそうとする。アレクはもう一方の手で俺の肩を掴んで、それを阻んだ。 「アレ……、アレクサンド、ル」 「なに」 名を呼ばれ、アレクは目線をあげた。頬を寄せた胸元からすくいあげるように。片手は俺の脚の、内側に忍びいっている。 言いながらアレクはくちづける。横向いて拒みかけて、俺はびくり、肩を竦め萎縮する。脚の間のアレクの手が容赦なく動いたから。 ひどい脅迫だ。震えながら、俺はアレクの思い通りになった。 「恥ずかしがりだね。久しぶりだといつもそうだ。一晩がかりじゃないと蕩けてくれないくせに、何が二時間……」 囁かれ、顔を上げさせられくちづける。そのまま唇をおろされて、俺はびくりと震えた。 逃れようとするのを腕を掴まれ拘束。逃げられない。逃げ場もない。 「……、はな……ッ」 腰を抱かれる。唇を寄せられる。跳ねる感触がアレクの気をそそったらしい。柔らかく含まれる。 舌先で舐められ、深くくわえられる。喉でしごかれると死にそうな感じで、俺はのたうちまわった。 残滓まできれいに舐められて顔を上げたアレクと、俺は目線を会わせきれず俯く。 「気持ち良かった?」 俺の背中に手をまわしながら、倒したシートの上でアレクは、伸びをするように全身で抱きしめる。 「よかった安心した。あなたまだ僕を好きだ。ずっと無視されて不安だった」 満足そうなアレクに憎まれ口をたたきたくても、呼吸が荒くてそれどころじゃない。 「僕のためだって事くらい分かってたけど、あんまり完璧だったから心配だった。 でもあなたは僕を好きだ。だから僕の結婚を阻みに来てくれた。そうだろ?」 「車を、止めろ」 ため息とともに言えたのはそんな台詞。 「俺を降ろせ」 「強情なのは母上に遠慮してるから?あの人が僕の花嫁候補を帝都に集めているから? 昔っからあなた彼女には気を使うね。……母親って、そんないいもんでもないよ」 「政略結婚は君主の義務だろ」 言うと、アレクは見る見る顔色を変えた。裏切られ傷ついた表情のアレクから、目をそらさないでいるのは勇気が要った。 「自分はしてないくせに」 「俺は君主じゃないし、子供も居る」 「僕まだ十八になったばっかなんだよ」 「充分だろ」 ゆっくりアレクは首を横に振る。俺の言葉を咎めるような目で俺を見据えながら。 「結婚するなって言ってよ。あなたがそう言ってくれたら僕は勇気が出るんだ」 「出さなくっていい。どうせロクな事しやしないだろ、お前は」 「母太后と」 母上、とは言わなかった。 「母太后側の重臣を追放する勇気」 「必要なのか、そんなことに」 父親を易々と追った俺には理解できない。 「俺に女の口を塞がせようってのは馬鹿な算段だ。俺は今まで女に、強気に出れた事ぁ一度もない」 「するのは僕がする。あなたに背中を押してほしいだけ」 「やりたいんなら一人でやれ」 「勇気が要る。彼女は僕の弱みを知ってる。彼女がその気になれば暴露して、僕を失脚させることも出来る」 「……しやしないだろ、そんな事」 帝国皇后でありながら姦通の罪を犯し、不義の子を産んで、その子を皇太子として偽る。そんな大罪を彼女が自ら暴露する筈はない。 「自棄になったらなにするか分からない。怖い女だよ。 僕を連れてあなたの処に亡命した時だって、戦史資料館になってた廃船を、銃で脅して金をばらまいて動かしたんだ。 スカート腿まで捲りあげてさ」 状況を想像して、なんとなく俺は楽しくなった。多分母太后はストッキングのガーターベルトに銃を仕込んでいたのだ。 ティスティーがやってんのを見たことがある。昔は得体の知れなかった女が、だんだん身近になってくるのは面白い。 「そこに居たかったな」 俺が笑っているのをアレクはひるんだように見ていたが気をとりなおして、 「第一僕に政略結婚なんて無意味さ。噂をあなたが聞いたことない筈がない。何も知らない顔で、何もかも知ってる人だから」 俺は笑いを止めた。 「ナカータ皇帝は女に役立たずだって」 「ホントなのか?」 その噂は俺の耳にも届いてた。おれはまともに聞いてはいなかった。 こいつが不能なんかじゃないことを、俺はヤな表現だが、身に染みて知っている。 「真顔で聞かないでよ、知るもんか。試した事ない。でも結婚しても子供は出来ない。あなたとしか寝ないって、昔誓ったから」 「……守ってたのか」 俺は心底、驚いた。 海に出てばかりの俺の身辺は相変わらず殺風景だがアレクは宮廷の主だ。 宮廷にはお手つきになろうとけんを競い合う美人の侍女らがつきものだ。ましてやこの若さで。 「馬鹿正直だな、お前。だからあんな馬鹿な噂流されんだ」 俺に操を立ててるなんて誰も思わなかったのだ。勿論、俺も思わなかった。 俺の正直な感想にアレクは苦笑いのような、悲しいような、複雑な顔をした。 「ガキの頃の誓いだったからすぐ反故になると思ってた?冗談じゃない。僕はマジだよ今でも。一生あなたとしか寝ない」 「なかったことにしてやる。十五や六の頃の誓いに、一生縛られる事はない」 俺は笑った。それしか出来なかった。 「別れよう」 笑ったまま言う。アレクは静かに、表情を凍りつかせる。 「二年前に言っとけばよかったな。あの頃はまだお前にさよなら言う勇気がなかった。自然消滅狙った俺が悪かった。別れよう」 「……一つ、確かめたいんだけど」 「お前はふさわしい女を娶って幸せに暮らせ」 「僕らは恋して、愛しあったよね」 「俺はまた海に出る。計画があるんだ。西廻り航路の先の、失われた大陸の探索。二三年がかりで行く」 「僕はあなたの愛人でも男妾でもない。一方的な破棄はきかないよ」 「……分かってる。何もかも俺が悪い。落とし前つける方法があるなら、言えよ」 「そんなことない。悪くなんかないよ少しも」 「なんでもしてやるから」 「愛したのは僕が先だった」 「後先じゃないんだ」 「共犯だったの忘れた?勝手に加害者にならないで。地獄の底まで、一緒だ」 「そんな約束をした覚えはない」 それだけはきっぱり言った。 空気が張りつめて行く。 『P,P,P,P』 沈黙を引き裂くように甲高い警告音。音源は俺の左手の指輪。薬指の。 途端、俺の身体が緊張を取り戻す。アレクを押し退け運転席との、会話の為のスピーカーをオンにする。 「車を止めろッ」 きつい声の指示は、猛スピードで近づく数台の車両のエンジン音と重なった。 「……え?」 驚いて顔を上げた運転手を見るなり俺は絶句した。知った顔だ。策謀家の宮廷医師。 「お久しぶりです、ご先代。そう驚かれなくともいいでしょう。皇帝の情事には宦官がつきものですよ」 したたかに笑う顔が俺に感慨を抱かせた。大昔、自分がそうだと告白した時、この医師は泣き出しそうな顔だった。 今は笑って自分から言い出す。心の傷が癒えたとも思えない。自虐的になっただけ、みたいな気がする。 そんな事をふと思いかけて、それどころではなかったと思い返した。 「運転代われ」 医師を後部座席に引き摺りだし、俺は運転席へ。ブレーキを踏みスピードを殺しながら車体を急回転させ、鼻面を逆方向へ向けた。 「なに、なに」 俺はアレクの混乱に目もくれず車体を持ち直しジクザグに逆走した。鼻先ギリギリを加速した車が走り抜けて行く。 一台が過ぎ去り、残る二台は左右を囲む。俺は二つ重ねた指輪の噛み合わせをずらす。 発信器と通信機を兼ねたそれに向かって、状況を問いかけたとき、闇の奥から赤い閃光が走る。 閃光はたちまち黄味を帯び視界いっぱいに広がる。光の後にはきつい衝撃があった。 地響きと光が納まったると同時に、前後の車から次々に下りてくる人影。屈強な男たち。 懐から銃を抜いて周囲を警戒しつつ専用車に近づきドアを開けた。 電子ロックで内側からでなければ開かない筈のドアが開いた瞬間、後部座席から体を乗り出すようにして、 アレクは俺に覆い被さり、庇った。 「……ご苦労」 アレクの身体の下から、俺は落ち着き払って男たちに声を掛けた。 「実行犯は、先行隊が追っています」 俺はアレクをそっと退けて外へ出る。 車のヘッドライトに照らされた、ほんの二十メートルほど先の場所は幅二メートルにわたりアスファルトが剥けて道路が陥没していた。 皇帝専用車の装甲は対テロであって戦闘用ではない。直撃すれば、危なかっただろう。 「ペンシル・ロケット弾と思われます。発射はあちらの建物の屋上でしょう。……いま、先行隊が犯人を捕らえたようです」 インターコムからの情報を伝える男に頷きながら俺は懐を探る。 「どうかされましたか」 不審に思った男が問いかける。 「いや煙草が」 「は?」 「お前持っていないか」 「いえ、わたしは吸いませんので」 「……エル・サトメアン」 事態をようやく理解したアレクが車内から声を掛けた。俺は振り向き、その手に煙草の箱が握られているのを見て専用車に戻る。 「サンキュ」 言って、煙草をくわえながら、 「犯人はこっちで引き取るぜ」 低い声で呟く。助手席に移動してきたアレクは首を横に振った。顔色は青白いが、暗殺されかかった直後にしては落ち着いている。 「なに言ってるの。ここは帝都だよ。警察権は帝都警備隊にある」 「そっちに漏れちゃマズイんだよ。警備隊の責任者はオレアン伯の次男坊だろ」 煙と一緒に、 「反母太后派の重鎮じゃねぇか」 俺が吐いた一言で皇帝の顔色が変わる。 「あなたこれを母上の仕業と思ってるの」 「王宮出るとき誰かに知らせたか」 「誰にも言っていない。地下駐車場からバイパスに出た。誰にも見つからなかったと思う」 「とすると、母太后に狙われたのは俺だな」 平然と嘯く。アレクの顔色はいっそう白っぽくなった。気づいた俺は苦笑して、安心させるように額を寄せる。 「心配するな。俺は狙われるのには慣れてる。 どっかの甘いボンボンと違って俺の身辺警護は完璧だ。滅多なことじゃやられやしない」 派手なサイレン響かせて帝都警備隊が駆けつけてきたのはその時。 「何事ですか、状況はッ」 少尉の階級証をつけた警備隊員は道路の陥没を見て顔色を変えた。路上で警戒していた