海が荒れている。沖まで波が高く。足元の岩にぶち当る波頭が白い。雨はまだ落ちてきていないが灰色の雲は低く垂れ込めて、やがて岬も驟雨に包まれるだろう。

 風から火を庇うためにライターの焔を手で庇いながら二枚目は煙草に火を点けた。夏の間、観光客で賑わっていた峠だがこんな天気のこんな真夜中に、夜の海を見に来る酔狂者はおらず独りきり。そのひとり、に価値があった。

 漁火は見えない。この波では漁どころではあるまい。

 夜の海を眺めているとこの街に初めてやって来た日を思い出す。敗戦の後で、怪我も治りきっておらず、近藤勳から預かっていた彼の甥っ子が自分を庇って死んでしまい、もう、ぐちゃぐちゃの気分だった。

 それでも接触してきた天人の貿易商とよしみを通じてやがて来る本隊のために働いたのは、名前があったからだ。真撰組『もと』副長、土方十四郎という男の名前を、最後に汚したくなかった。調子がいい時は威張っていたくせに負けたらシオシオだったぜ、なんて言われたくはなかった。見栄だが、男が見栄を張らなくなったら人生はオシマイだ。

 懐で携帯が鳴る。メール着信の音。煙を吸い込みながら開くとそこに写っていたのはちょっと怯えたような機嫌をとるような、微妙な表情を浮かべた女。ただし正体は山崎。

坂の上の薬局の留守番、というより身代わりで二階に寝かせていた。沖田総悟が部下に見晴らせていることは分かっていたからだ。大人しく部屋で寝ている限り、時々一人になりたがるたまのワガママは許してやろう、という沖田の気持ちを二枚目は正確に読み、その裏を掻いた。

 背景で何処なのか分かった。何日も暮らしたというか閉じ込められた場所だ。もと真撰組の面々が集う、会館の奥の部屋。現在は連中を率いる沖田総悟の私室。あれで案外人見知りの強い王子様はそこに滅多に他人をいれず、掃除もシーツの交換も自分でしている意外な一面があったのを思い出し、微苦笑。

 薬局に踏み込んだのか。そこで山崎が見つかって拉致されたか。えーん、という風に見える山崎の表情がおかしい。くすくす笑った直後に着信のメロディが流れて、二枚目は素直に通話ボタンを押した。

「……もしもし」

『帰って来ないと、ザキやっちまうぜ』

 聞こえてくるのは低い声。そろそろ押しかけてくる頃だと思っていた顔だけ王子様。

『会館の、俺の部屋に預かってる。返して欲しけりゃ、あんた迎えに来な』

「可愛がってやれ。末永くおシアワセに」

『せっかく毛皮届いたってのに、いい歳していつまでも拗ねてんじゃねぇ。文句あるンなら言えばいいだろ。今度はいったい、ナニが気に入んねぇのッ』

 最後は悲鳴になる。会館に泊まりに来いとかメシを食いに行こうとか、薬局の二階に泊まりに行ってもいいかとかの誘いを断り続けて、もう五日。最初のうちはゆっくりおやすみ、なんて物分りのいいフリをしていた若者だったが三日で不機嫌になって五日目にキレた。

『アンタ時々、女の腐ったのみたいに陰湿だぜ。俺に文句があるならはっきり言えよハッキリ。なぁッ』

 怒鳴っている声は大きさのわりに響きが虚ろで語尾が定まらない。内心は案外、避けられて逃げられて騙されて傷ついてぼろぼろ。その正直さには可愛げがあった。

「もうちょっと時間をくれ」

 陰湿で結構。なんとでも言え。痛めつけないと人の言うことなんて聞く耳を持たないじゃないかお前は。そんな言葉を内心で呟きつつ、口にするのは別のこと。

「ショックでまだぐらぐらしてるンだ。もーちょっと落ち着くまで一人にさせてくれ」

『ナンのショック』

「お前が女を囲ってるってショックだ」

『囲われてる自覚があるならさっさと帰って来い。なに、俺ナンかまた気に触ったわけ?土下座してやっから踏めよ』

「馬鹿。俺のことじゃねぇ」

 本気で別口を思い出さない若い男の様子に、二枚目は少し呆れた声を出す。

「お前が水揚げして、気に入って落籍して、家一軒もたしてる女のことだ」

『……ああ』

 電話の向こうで声が色を変える。

「責めてんじゃねぇ。怒ってるとかでももちろんなくてな」

『それか。どっから耳に入ったワケ?』

「云々する権利がないのは分かってる。ただショックなんだ。しばらく時間くれ」

『先にアンタに言ってりゃよかったけど。白川藩出身なんだその子。知ってるだろ?俺の故郷。ってっても、俺は戦争になるまで行ったことなかったけど』

 正確に言えば両親の出身地。両親は白川藩の藩士だったが江戸藩邸に勤務していたから、沖田総悟と姉の血は白川のものだが本人は江戸生まれ。ただ色白で茶髪でアーモンド形の目がパッチリとしている、その容貌には北の端正さがあって、目利きには先祖の地を言い当てられることもある。

『ちょーどいいや。挨拶させるから会ってよ』

「願い下げだ」

『まぁ、電話でする話じゃねぇな。待ってろ』

 若い男の語尾が笑う。その瞬間、足元の麓からつづらおれの山道を登ってくるヘッドライトの光が見えた。

『帰り道は塞いだ。逃げても立ち往生するだけだぜ』

 立待峠の山道は細く、山越えの道は一方通行。下りの道は岬の反対側に回り込むことになるため、ここからは見えない。

 携帯の電波を辿られたか、山崎が口を割ったのか。登ってくる車の姿は時々山肌に隠れたが、またすぐ姿を現す。

『俺が着く前に、待ってるって言えよ。そしたら「迎え」に行ってやる。言えないなら捕まえに行く。違いは分かってるな?』

 脅し文句は凄みがあった。でも怖くはない。

「総悟」

『待ってる、は?』

「まだ会いたくない」

『許さねぇ』

「ナンで自分がこんなに落ち込ンでんのか、俺もちったぁ、考えたんだけどな」

『……落ち込んでんの?』

「お前を自分のものだと思ってた」

『……』

「権利がないのは分かってる。でも思ってた」

 寝たから、ではない。セックスの有無とは関係なくはないが直結でもない。寝ても自分のものとはとても思えない相手も居る。白髪頭の万事屋がその筆頭で、一時は恋人づきあいをしていたけれどやっぱり、持ちきれず手離した。

 柳生の若様との間には子供にまで恵まれた。縁は深い。けれどこちらも、自分のものとは思えない。むしろ自分があっちのモノというか、頭を低くして言うことをきかなければならない、みたいに感じている。忠犬の属性には恵まれていないのだが、ないなりに振り絞って誠意を尽くしている、つもり。

「自惚れを自己嫌悪中だ。しばらく放っといてくんねーか」

『あんた、もしかして外に立ってる?』

 麓から近づいてくる車のライトが角度によっては岬を照らす近さになって、電話の向こうで沖田総悟は気づいた。

『寒いから車のなか入ってな』

「会いたくねぇんだよ今は」

『結論から言うと、思っててくれてかまわねぇ。事情はすぐ話す。あと、怒鳴って、すんません』

「こんなに頼んでんのに、ダメか」

『ダメに決まってるでしょう』