翌朝、ヴァリアー幹部が集まる朝食の席に。
「おはよう」
ボンゴレ十代目がやって来た。わざわざよくまぁ、という目でザンザスは沢田綱吉を見る。見られた綱吉はえへっと笑い、ルッスーリアが用意してくれた朝食の皿にフォークを入れる。
エッグベネディクトの半熟の黄身とソースが皿の上に溢れる。塩気がいい具合に効いたハムの香りがする。沢田綱吉が幸福そうに笑う。本来、この食堂はボンゴレ次期当主を通す部屋ではない。幹部用の、というよりルッスーリアの趣味で作られた厨房に続く部屋だ。客間も食道も別にあるが、キッチンに近い場所ほど料理が美味く食べられるという道理のもと、続き間のこの部屋に自然と、みなが集うことになってしまう。
「ここの朝ごはん、オレ大好き」
世辞とも思えぬ声で感激しながら、沢田綱吉はぱくぱく、トーストにハムと目玉焼きを載せてソースをかけたエッグベネディクトを食べる。いいたいことがザンザスにはよく分かった。ボンゴレ本邸での朝食はビスコティとカフェ。イタリアの習慣として朝は料理をしないのだ。トーストを焼く家庭の主婦は相当に勤勉な方で、普通はザラザラとビスコティを皿にあけて、各人が食べたいだけカフェに浸して食べるだけ。
料理人も出勤時間も遅い。四つ星の国際ホテルでさえチーズやハムが朝食に出てくることは滅多にない。丸パン、ジャム、バター、ヨーグルトにカフェ。ゆで卵でもあれば上等、特別な注文をしない限りそれ以上のものが出てくることは期待できない。
それが健康に悪いことは皆知っているけれど長年の習慣というのは改めにくいらしい。フランスも似たような習慣であることを考えると、夕食を遅い時間に食べ過ぎる結果なのかもしれない。
「ちゃんと料理が食べれるもん。美味しい」
バカか、と、思いながらザンザスは自分の席に着く。朝食に暖かいものを食べたければそう言えばいいのに。
朝からちゃんとご馳走を作れと側近を通して厨房に言いつければその為にイギリス人のコックが一人雇われるだろう。そして、フレッシュジュースにミルクをかけたシリアル、薄いトーストを山盛り、卵にソーセージ、ベーコン、チーズ、ベイクドビーンズにマッシュルームにトマト、というサマセット・モームが愛した数々の料理が並ぶだろう。
以前、少年時代の自分がしていたように。もちろん問題がないではない。買収された料理人が塩コショウの代わりに砒素をソーセージに振り掛ける危惧もある。しかしまぁ大丈夫だ。そんな気概のある分家の男子は全部、自分が始末をつけてしまったから。
「おはようございます。ボス」
ピンクのエプロンにさえ目を瞑れば文句のつけようのない料理を出すルッスーリアが食堂の続きの厨房から顔を出して挨拶。一緒に起きてきた銀色の鮫がそちらへ向かい、二人分の盆を受け取って戻ってくる。カフェにクロワッサン、カボチャのスープ。チーズとツナサラダが一つの皿に彩りよく盛られている。メインのエッグベネディクトは一人分ずつ出来たてが置かれる。薄いトーストの上に厚切りのハム、その上に卵を乗せてオランデーズ・ソースをかけた品は、ボスも好きだが銀色の鮫の好物。
「あのね、ディーノさんがね」
ぱくぱくと自分の分を食べ終え、残ったパンにバターとジャムを塗って口に運びながら未来のボンゴレ十代目は言った。バターはフランス産の無塩の上等なもので、ジャムは庭、というより敷地続きの山の中で獲れた桑の実をルッスーリアが似た甘さ控えめのもので、果実の形はそのまま、風味は凝縮され、マンダリンのリキュールが隠し味。美味い。
「乱暴してごめんなさい、って。もうしないから仲直りしてください、って言っているんだけど、どうする?」
気の利くルッスーリアが暖めたミルクを十代目の前に置いた。ジャムクロワッサンとミルクという、女子供のような『デザート』を喜んで口に運びながら。
「山本の方が気に入ったなら、乗り換えてもいいよ?」
女子供とは縁遠いマフィアのボスは言った。
「獄寺君と両手の花になるのはちょっと、ボク的にはゼイタクしすぎって思うけど、獄寺君は楽になるからそれでいいって言ってるんだ。どうする?」
うちの山本、ちょっといい男だから、スクアーロさんが気に入る気持ちも分かるし。そんな風に部下を自慢する次期ボンゴレ総帥に、剣帝の名を継ぐ予定の腕利きは肩を竦めて。
「ガキの世話になる気はねぇよ。跳ね馬が許してくれるってんなら頭を下げてイロに戻してもらうぜぇ」
「そっか。分かった。山本がっかりするなぁ。じゃあそういうことで食べ終わったら一緒に帰ろう。途中で病院に寄って」
「イラネェよ」
二人の会話を黙って聞いていたザンザスが病院という言葉に顔を上げる。視線を向けられて、目を逸らしながら。
「ちょ、っと。当たった、んだ。ガキの刀が、頭に」
「……あ?」
「鮫衝撃。峰打ちだったけど」
銀色の鮫の代わりに沢田綱吉が答える。ザンザスが苦い顔をする。そんな大切なことはもっと早く言え、と、思っているのがありありの表情。
「病院行っとけ。バカが酷くなる」
「わ、かった」
「ディーノさんが車で待っているんだ。敷地外だけど」
パン皿に盛られたパンを食べつくして沢田綱吉は満腹顔。お代わりは、とルッスーリアに促されたがさすがにおなか一杯ごちそうさまと答えた。前後して他の二人も食事を終わらせた。
「オレも一旦、自宅に戻る。レヴィに車を出させろ」
ザンザスが命じる。はい、と、ルッスーリアは素直に応じて内線を取り上げた。そうして食堂に、誰も居なくなった頃。
「おっはー、ルッスー」
「おはよう、ルッスーリア」
ティアラの王子様がアルコバレーノの赤ん坊を腕に抱いて顔を出す。その顔にルッスーリアは手にした布巾を投げつけた。ひょいとよけられたが。
「なによ、あんたたち今頃出てきて、ずるいわよ!」
にこにこと愛敬を振りまいていたルッスーリアだが、実は内心、冷や汗を流していたらしい。
「えー、だってオレ王子だし」
「ボクは子供だし」
「大人の修羅場の見学はご遠慮したいし」
「ね」
「な」
仲睦まじく二人が同意する。もう、と言いながらもルッスーリアは二人に食べさせるべく鍋を火にかける。優しいアネゴだった。
優しい、といえば。
「頭、痛くないか?」
ヴァリアーの敷地ギリギリ、郊外の、丘と呼ぶべきか山に近いかもしれない、中世は砦だった高台の麓でランボルギーニに乗って、情人が城から出てくるのを待っていた男ほど。
「昨日は、怒鳴って悪かった」
優しい男は滅多に居ないだろう。
「謝んなよ、跳ね馬ぁ。オレが悪ぃのに」
ボンゴレの若い十代目の車から降りて真っ赤なランボルギーニの助手席に乗り換えた銀色の鮫が薄く笑った。二人が乗った車は市街地を抜け、ボンゴレの息の掛かった総合病院へ向かおうとする。が。
「医者はイヤだなぁ。もーなんともねぇのに」
景色を見ながら銀色の鮫が言った。ハンドルを握っている金の跳ね馬が戸惑う。
「頭だったろ。精密検査をした方がいい」
もちろんこの剣豪がただやられた訳ではない。山本武と殆ど取っ組み合いの喧嘩になったディーノを庇ってのことだ。義手で受け止めることが出来なかったのは義手にはディーノのムチが巻きつけられていたからで、要するに二人の間に割って入った美形が、故意にではなかったが二人がかりでボコられた、ような形。
「ツナも心配している。な、病院に行こう。処置中もちゃんとついとくから」
「真っ直ぐ帰ったらお前が怒られるってか?じゃ、別で寄り道してこうぜぇ。暇だろ?」
「……、ドコ行きたいんだよ」
尋ねる金の跳ね馬には、隣に座った性悪な美形が、
「ホテルで休憩」
言い出すことの、予想はついていて。
「スクアーロ」
「イヤなら降ろせ」
「言うと思ったぜ」
男に拒否権は与えられない。いつでもそうだ。この酷いオンナは、男が自分を好きだということをしたたかに知っている。
「いつものとこでいいな?」
「風呂に入れりゃ何処でもいい」
「入ってないのか」
「……」
意外そうな跳ね馬の言葉に、銀色の鮫は自虐的に笑う。
部屋では寝せてくれだけど添い寝はしてくれなかった。バスも使わせてくれなかった。夜中、同じ部屋についていてはくれたが、朝になったら妻の待つ私邸へ帰っていった。
「そんなに寂しがるな、スクアーロ」
信号で停まった車の中、運転席から跳ね馬が手を伸ばして銀色の、さらさらの髪を撫でる。
「オレが居るじゃないか。全部オマエのものだ。過去も未来も、頭からつま先まで、丸ごと」
嘘ではない。結婚はしないと側近たちに宣言、反対を廃して甥っ子を養子にしてしまった。二人の関係には反対していなかったロマーリオが、実子が出来た時に揉めるから養子は保留してくれと嘆願して左遷されもした。キャバッローネファミリーの本社もボンゴレ本邸にほど近い街に移し、本人は殆どボンゴレ本邸の一室からそこへ通勤している。
「ツナは今日、外回りなんだろ?オレは休みをとったから、時間があるなら髪を洗ってやるよ」
銀色の鮫は俯きかけた顔を上げる。男に向かって微笑むが、少し嘘だった。
「シゴトは、さぼんなぁ」
「さぼってねぇ。ちゃんとやってるぜ。オマエの顔が潰れるようなことはしねぇ。ロマーリオもオマエが言うとおり本社に復帰させただろう?」
信号が変わった。ギアを一速に入れてアクセルを踏んで、金の跳ね馬が車を発進させる。
「髪は、いいから、気合入れて抱いてくれよ」
そっぽを向いた情人にぽつりと、そんなことを言われて。
男は思わずハンドルを握り締める。悦びよりも腹立ちが勝った。冷淡な情人は滅多にそんなことを言わない。態度でもっとと強請られることは過去にも何度かあったが、いつもあの男とあった後。
しかも今日はまだ浮気から二日目。山本武のこともそうやって誘ったのかと、嫌味が喉までこみあげてきたがなんとか、飲み込んで。
「情熱的だな」
そんな言葉で、怒りを誤魔化した。
ヴァリアーのボスにして九代目の養子、ザンザスの私邸はボンゴレの本邸から少々離れた場所にある。母親が九代目に下賜され、死を迎えるまでの数年間、起居していた屋敷を改装して新居にしている。改装費用は新妻の所属する組織が出した。と、いうのも、屋敷と敷地を丸ごと新妻の名義に変更したからだ。結婚前に、離婚時の慰謝料の前渡しとして。日本でいう結納の代わりに。
「おかえりなさいませ」
新妻は玄関へ出迎える。いつも花壇には美しい花が咲いている。
ザンザスは結婚前、ヴァリアーの本邸に住み込んでいた。結婚後はなるべく、といっても週に四日ほどだが、この私邸へ帰ってくる。時間は不規則、眠るとは限らず、着替えと食事だけしてまた出て行くことも多いが。
「ああ」
ザンザスは外した手袋を新妻に渡した。皮のコートをそうしなかったのは重すぎると思ったから。まだ掌ぜんたいがふっくらとした、少女というより子供の指だった。
「朝メシは喰ってる。昼まで居間で仮眠する。起こさないでくれ」
あまり優しくはない口調だったが、この無口で無愛想な男にしてはまとも、少なくとも礼儀正しかった。はい、と返事をするのはまだほんの子供。少女とさえ呼べない。目尻に花の形の痣がある、ジッリョネロファミリーの、現、ボス。
政略結婚というよりも人質のようなものだ。
辛うじて正妻だがそれも次期十代目・沢田綱吉ではなく、血統的にはより正統(と思われている)とはいえ後継者からは外れてしまったザンザスのもとへ送り込まれて。
かわいそうに、と。
大人の男は内心で思っている。べたべたした愛情は見せないがこの男にしては優しく接している。時々寝室で一緒に眠っているが、もちろんまだ具体的な行為には及んでいない。及ぼうとしても多分不可能だろう。
身代わりに、新妻には夫婦の『世話係』として、たいそう美しい侍女がつけられてきた。いかにも露骨な用途の女に男は手を触れていない。今日も手を出すつもりはないらしく、起こさないでくれというのは寝室に忍び込んで来るなという侍女への牽制。
「はい。おやすみなさい。あの、お仕事お疲れ様です」
にっこり笑った子供に、なんとなく気配を緩めて男は私室へ姿を消す。全く優しくない暗殺部隊のボスにしては穏やかな対応。
子供は男の手袋を眺める。大きな手袋だった。帰宅時に受け取り出勤時に手渡すのが新妻の現在のところの仕事だ。手袋をなんとなく子供は抱きしめた。幼いボスの婚姻に反対する者は多かったが、子供自身は現在をそう悲しんでも居ない。
そして。
「まぁ……。まぁまぁではないかな」
屋敷の玄関からホールにかけて当然、設置してある監視カメラの画像を眺めながら、警備室のソファで膝を組みそこに肘をつき、呟いたのは幻騎士。
「これはまぁ、評価するべき態度だろう。相手があのザンザスであることを考えれば」
あの、というところに独特のニュアンスを置いて幻騎士は、同じくジッリョネロファミリーの幹部の一人、γに話しかける。
「今だけだ。そのうち姫に酷いことをするに決まってる」
γは面白くないらしい。腕を組み立ったまま、ゆったりとした螺旋階段を侍女とともに登ってゆく『ボス』の姿を眺めている。
「予断で姫の婿君に無礼を働くなよ、γ」
ボンゴレとの同盟にも幼いボスの政略結婚にも反対し続けた同僚に幻騎士が釘を刺した。
「ボンゴレはこちらの条件を全て飲んだ。この上、無礼があったら非難されるのはこちらだ」
日本人との結婚に難色を示したら正統なイタリアマフィアの美しい血を引く身代わりを出してきたし、その花婿の長年の愛人を身辺から追放しろと言ったらそうした。そうして結婚後、半年近い時を経て現在、花婿の態度は許容すべき範疇に収まっている。なるべく帰ってきて、時々は食事をして、稀には同衾する。
「分かってる」
「本当だろうな。ボスはあの男を嫌ってはいない。お前が先走れば姫にも迷惑をかけるぞ」
「分かっている!」
かなり感情的にγは叫び、苦い毒でも飲み下すようにカフェを煽った。