供物・3
図書掛かり弁方として、涼介は城下の役所に勤務している。町方の商人からあがってくる申請や報告を整理して上の役所に送る。
平和が続いて、武士はだぶついている。藩政に関わる一部の名家を除いた殆どの藩士は三日に一度か二日に一度、役所に行って適当に書類を弄ってくるだけが仕事。
涼介も例外ではなく、出勤したもののすることはない。過去の記録を捲ったり決まりきった決算に算盤を入れなおしたりして暇を潰す。これで役料は年に七十石。本来の知行地の百七十石とあわせて、ようやくまともな生活ができる程度。以前はもっと知行も多かったし、母親も城内に屋敷を拝領して住んでいた……、という。涼介はよく覚えていない。彼が幼い頃までの話だ。
その石高が削られ母親が城を追い出されたのには理由がある。父親である前藩主が娶った妻は紀州徳川家の娘だった。分家とはいえ主筋にあたる正妻側からの様々な圧力に屈した形で父親は貧乏公家の娘だった御国御前を実家へ戻した……、ことになっている。一応は今日の実家へ戻された後で、別家の養女となった母親と涼介は、改めて召抱えられたという形式を踏んだ。なぜそんな面倒なことをした、目的は涼介の存在を消すこと。藩主の子息である事実を手続き上は消して、正妻が産むだろう男児との、相続に関する揉め事を避けた。
以前はそれでも、まぁ、良かった。父親がそっと金銭や品物を届けてくれたから。前藩主が二十年間、愛し続けている女の存在を家老たちも無視できなくて、以前はなにかと便宜をはかってくれていた。
今は、顔をあわせても声もかけない。
下手に親しくするのはマズイ、と思っているのがみえみえの態度。正妻腹の新藩主がやって来た以上、涼介と親しいことは損にはなっても得ではない。下手すればもろともに憎まれる可能性も、ある。家老たちは前藩主の正妻だった紀州の姫の嫉妬深さを知っている。その息子が腹違いの義兄をどう扱うか、藩士全員がかたずを飲んで見守っている。
正午になると下役が昼食の膳と茶を持ってくる。昔は一日二食だった食生活が三色になりだしたのにあわせて、役所では簡単な食事が出るようになった。メシと味噌汁、漬物に、焼き茄子。精進でないといういい訳のために茄子の上には鰹節。箸をとるかとらないか、というタイミングで、狭い役所の玄関から、ざわめき。
下役に様子を見に行かせる間もなかった。
「あ、ごめん。メシ喰ってた?」
濡れ縁をわたって顔を見せたのは……、殿様。
手先のしぐさで膳を下げさせて、涼介は畳に手をつき頭を下げる。下げて、内心の動揺を隠した。屋敷まで来られた挙句に昼過ぎから夕方まで、散々相手をさせられたのは昨日。衝撃は、まだ癒えていない。心も、身体も。
「なぁ、どーしても今、喰わなきゃ腹へって死にそう?」
縁にしゃがんで殿様は問い掛ける。口調は親しげだが、顔は笑っていない。
いいえ、と涼介は答える。努力は必要ではなかった。食欲は、少しもわかなかった。
「じゃ、付き合ってくれよ。城下町の商人のところ」
「……え」
「視察に行くんだ。接待の」
意味がよく、分からない。
「うちはほら、絹織物が特産だろう?大阪から商人たちが仕入れにたくさん、来るじゃないか」
それは、知っている。
「けど最近、大阪じゃうちのより隣の藩のが出回ってるんだよ。品質はうちがいいし、柄とか色とかの野暮さ加減はいい勝負なのに、なんでかと思って。もしかしてウチの仲買人たちが、卸問屋の接待に手ぇ抜いてんじゃねぇかと」
「商家へ行かれるのですか」
戸惑いつつ、涼介は、
「商人は身分の低い者です。殿みずから、お出かけになるのはいかがかと」
代わりの使者を遣わせばよろしいのでは。そういい終えても、殿様は黙っていた。沈黙の長さに不審を抱いた涼介がそっと視線を上げると、呆れたような哀れむような目で、義兄は兄のことを見ていた。
「古い」
そして容赦のない一言。
「そんなのが通じたのは親父の時代より前だよ。今じゃ西国大名が参勤交代するときに、大阪の商人に藩主自身が挨拶に行くことさえある。なんでか、分かる?」
無言で首を振ると、
「金を借りているから」
実に単純明快な答えがかえってきた。
「うちは気候がよくて石高よりも豊かだ。ひじじが灌漑に精出してくれたお陰。でも米だけじゃどーにもならない時代になってきてる。特産品を、ちゃんと売り込まないと。親父は幸い、大阪商人に挨拶なんてしたことはなかった。でも俺はこのまんまじゃ、ヤバイ」
涼介は俯き聞きながら、確かにと、思った。藩の経済が年々、尻すぼみになってきていることは分かっている。商人からの訴状を扱う役所に勤めているから、実感として分かっている。けれど、どうしようかという事は考えた事がなかった。そんな身分ではないし、権限もないし、なによりこの藩をそれほど、愛してるわけでもない、から。
「俺は大阪の両替屋に頭下げるより、自分のトコのの尻、叩くぜ」
行こうと腕をつかまれて涼介は立ち上がる。馬が嫌だと思ったのを見越したように駕籠が用意されていて、詰め込まれる。そのまま城下きっての生糸・織物商の寮(別荘)に案内された。城下の生糸と織物商人がずらりと顔をそろえていた。川に船を浮かせて、投網で魚を捕らえる。趣向を凝らした接待と料理だったが、
「つまんねぇ」
若い藩主に笑みは浮かばなかった。
「何処でもやってるぜこんなのは。うちはとびきりの鮎がとれるって訳でもねぇし。それにこれって、よっぽど大物がきたときだけだろ」
これほど大掛かりな接待を、出来るのは。
「でかい問屋の手代にはもう、この」
と、藩主は袖の下に手を入れた。賄賂、という意味。
「話の出来てる取引先がついてる。狙うなら若手か見習だ。そういうのには、どうしてる」
商人たちは何も答えず、顔を見合わせた。
「ナンにもしてねぇだろ。冷えたメシとまずい酒、銚子で一本ずつ宛がって終わり、だろ。ンなんじゃ駄目だ。先を見ねぇとな。……今、商売って、暇か」
変わり映えがしないの特色がないのといいながら、藩主は若い食欲で膳の上の馳走をばくばく、食べていく。相伴の涼介もつられて食べた。けっこう美味い、そうけなすほどではないと思いながら。
「代表を選んどけ。足が達者なのを。十日後、京の藩邸に使いを出す。ついてきて、大阪まで行って、ちょっと見て来い」
接待、応接、だけではない。上方の商売、流行の呉服物、流通のしくみ、などを。
「決まったらコノヒトに報告しろ。適当かどうか、審査して」
後半の台詞は涼介に向けられていた。
「わたしが、ですか」
「うん」
「わたしはでも、よく分かりません」
「あんたがいいと思ったの選べばいい。達者で頭が良さそうなのを」
公衆の面前でそれ以上、抗弁することもならなくて、涼介は頭を下げた。
食事を終えて藩主は、座敷での休息を薦められた。藩主の来駕を仰ぐという事態の中で、それは当然、婦女を侍らすことを意味した。
「後でな。それより、倉庫に案内しろ」
予定になったことだった。ばたばた準備され蔵があけられる。積み上がった反物のうちから適当に、抜いて藩主は、
「ダセェ……」
それがまるで、罪悪であるかのように呟く。
「これも、これも……、これも駄目だ。いったい、どーゆー基準で色とか柄とか、決めているんだよ」
ばらばら、転げられる反物に呉服商は悲しみの目をむけ、
「しかし、これが良いと仰る方もおいでなのです」
勇気のある抗弁だった。
「嫁ぎ先を探すんならそれでもいいけどな」
広げる手を休めずに藩主は言う。
「肥えた女が好きなのも居れば痩せたのが好きなのも居る。ちなみにお前、どっちがいい?」
問いかけに戸惑いながら商人は、痩せた女の方がと答えた。
「ふぅん。お前は?」
別の商人が今度は、肥えたのが、と言い出す。
「俺も女はそれなりに肉、ついてる方が好きだ。でも親父は痩せ好みだったよな。江戸の藩邸でも鶴みたいに細い侍女が来るたびに、あ、親父が手ぇつけるだろうなと思ったもんさ。歳若い子供みたいな小娘が好きなのも居れば、四十近い年増がたまんねぇってのも、居る。素人娘の嫁ぎ先ならそれでいい。いいって言う男が最終的に一人、みつかれば。けどこれは売り物だろ?」
青磁色の濃淡の染め分けをしげしげ眺めながら藩主は商人たちを、見据えた。
「女で言えば、吉原の遊女だ。みんなに好かれなきゃゅならない。連中はそのために衣装に凝り化粧に凝る。反物も同じ事だ。誰か一人にじゃない。みんなにイイって思われなきゃならない」
違うかと、問いかけ。
しゅんとした商人たちが可哀相で、
「でも……」
大人しく控えていた涼介が口を挟む。
「それなんか、わたしの妹は好きそうですが」
「諸美ちゃんが?どれ」
「お手に持っておられる……」
「あぁ、あの子色白だったもんな。似合うかも、こういうの」
ぽん、と、お供の一人に藩主は反物を投げた。
「届けさせろ。このヒトの屋敷に。払いは、ツケとけ」
献上いたしますと商人たちは口をそろえ、あぁそうかと鷹揚に、藩主はそれを受けた。
「さて、じゃあちょっと」
涼介の方を向いて意味ありげに、笑う。
「休息させてもらおうか?」
「……」
真昼の寝床で、でも。
無茶はもう、されなかった。
大人しく抱き締められる身体をゆっくりと撫でて。怪我がひどくて無理だから、手と口で奉仕させて、それだけ。
あとはただ、抱いて横たわるだけ。いとおしそうに、時々裸の背中や脚にくちづけられる。
「……そろそろ」
「ん……」
「城へ、お戻りになる時刻、です」
涼介の崩した膝を抱いたままいつのまにか眠ってしまった藩主に、涼介がそう囁いたのは夕刻。障子ごしの淡い茜色の光が部屋に満ちている。
「あんたどーするの?」
この男が涼介に、意志を尋ねたのは初めてだった。
「屋敷へ、戻ります」
「あ、そ。お袋さんと諸美ちゃんによろしくな」
膝を離して若い男は着物を見につける。先に服装を整えて、涼介は着付けを手伝った。
「なに、優しいね。見直した?」
「……少しだけ」
「じゃあ接吻して」
それはだいぶ、違うんじゃないかと思ったが言葉には従った。優しく重なる唇。そっと伸びてきた手が涼介の、頬に触れる。
「諸美ちゃん、好きな男とか、居るの」
「さぁ。どうでしょう」
「聞いておいて、居たらそいつと一緒にさせるし、居なかったら藩士のうちでいちばんいい男を捜して、嫁がせよう」
早い方がいい、と藩主は言った。
「お袋さんが出家して尼になるってんなら、あの屋敷そのまんま、尼寺にしちまえばいい」
そして、と、藩主は涼介を見据える。
「あんたは城内に住むんだ。俺が呼んだらすぐ来れるところに。屋敷をやるから。……分かった?」
否と、言うこともできずに目を伏せる。
「今日はゆっくり眠ってろ。また明日、呼ぶからな」
脅迫のような予告のような言葉と共に、藩主は城へ向かう。見送って涼介はそっと屋敷へ戻った。諸美がひどく、興奮して出迎えてくれた。
「見て、見て兄上様。お殿様からいただいたの」
青磁の反物だけではない。色とりどりの染め分けが二十近く、床の間に飾られている。
「すごい、ステキでしょ。どれが似合うと思う?」
床の間には母親も起きていた。珍しく晴れやかな顔をしていた。仕立てに出す二三本を決めてから母親は、
「疲れたでしょう。久しぶりに、お茶を差し上げましょう」
息子を茶室へ誘う。それは、内密の話があるという合図。
狭い茶室で涼介は母親から薄茶を振舞われた。茶菓子は反物と一緒に藩主から贈られたういろう。柔らかな甘さが疲れた身体に美味しかった。
「お殿様からご内意がありました。あなたを城内に住まわせたい、と」
「……はい。私の方にも、そのお話はありました」
「わたくしのためにこの屋敷を尼寺にして下さるという有難いお話もあったけれど、わたくしは、京に帰りたく思います」
「母上の、およろしいように」
「涼介」
「はい」
「長年、苦労をかけました」
はらはらと、母親は涙をこぼした。何のことだか分からず戸惑う涼介は、
「あの女……」
母親の唇からもれた一言に言葉を失った。恨みと呪詛のこもった言葉だった。
「あの女に苦しめられて、二十年。これでようやく、あの女に思い知らせることが、出来る……」
その女が誰のことかはすぐにわかる。母親が長年、苦しめられてきた父親の正妻。紀州藩主の娘。
ただ、 言葉の意図が分からなくて涼介は返事が出来ない。
「涼介」
「はい」
「お殿様を、精一杯、お助けいたしなさい」
「……、は」
「あなたは父上の長男です。本当ならばあなたが藩主になるはずだったけれど、でも、巡り合せでこうなってしまいました。そのことで若いお殿様をお恨みしてはなりませんよ」
「そんなことは、決して」
「十三年前から今日まで、どれほどこの時を待っていたか」
母親は泣き出すが、涼介にはますます意味が、わからない。
「よく無事で、生きて……。これでもう、思い残すことはありません」
「母上、それは」
どういう意味ですかと問い掛けるよりも先に、
「兄弟で助け合ってこの藩を豊かに……、それが何よりの、なき父上への孝行です」
はい、と答えながらも、不審が募っていく。この母親は紀州の姫をずいぶん、呪っている。なのにその息子と協力しろなどと何故、こうもさらりと、言うのだろうか。
「わたくしの、息子たちが藩政を背負うのよ……」
うっとりと母親は、呟く。
「啓介とあなたが。なんて素晴らしいことでしょう」
啓介?
それは、幼くして他界した弟の、名前。
「母上、それは」
「十年前、わたくしは、亡き父上をお恨みしたこともございました」
「母上、あの」
「けれども今となっては、父上のご深慮に感謝するだけ」
「それは、どういう」
「これでこそあの女に啓介を預けた甲斐があったというものです」
うっとり呟く母親の耳に涼介の困惑は届かない。
日が落ちて、出てきた風が、障子の桟を揺らして通り抜けた。