供物・7
母親の供をして、十年ぶりに、京の都へのぼる。とりあえず本家筋の須藤家の離れを借りて落ち着いた。今回は正妻からの圧迫に逃げ出したわけではなく、追い出されたわけでもないので堂々と。落ち着くと、親戚たちの幾人かが機嫌伺に来てくれた。それも、以前の滞京ではないことだった。財力の後押しは人間関係を変質させる。啓介が持たせてくれた音物を配って滞在する京都はひどく、居心地が良かった。
母親は髪をそぎ出家したが、尼寺へ入ることはせず、市井に庵を構えることになった。ゆくゆくはともかく、諸美の輿入れが終わるまでは。瀟洒な造りの住み心地の良い庵は京藩邸のすぐそばに建てられ、ささやかな祝いをして、ようやく涼介が国許に出立することが出来たのは京へ来て半年後。
簡単な別れの宴会が終わり、酔った史浩を藩邸へ送る途中、
「……大丈夫か、お前」
曖昧な表現だった。けれどこの旧友が何を心配、してくれているかは分かった。
あぁとこっちも曖昧に答える。そうかと史浩は答え、それきり会話は、別のことに移った。
そして、藩邸の前で。
「史浩」
足を止め、頭を下げて涼介が、
「諸美の事を頼む」
言うと史浩は、ひどく嬉しそうに、笑う。
「良かった。お前に反対されたら、どうしようかと思ってた」
誠実真摯を絵に描いた男は、力の及ぶ限り二人を守らせてもらうと請合った。母親のことまでまとめて引き受ける剛毅さが、涼介の微笑を誘った。
商用で国許へ戻る商人たちと、ともに旅をした。最初、妾腹とはいえ前藩主の子息に遠慮していた商人たちはしかし、涼介の柔らかな物腰に慣れてすぐう打ち解けた。
商人たちの話を聞くのは面白かった。現在、江戸へ送る反物はぜんぶ、船で直接に送ってい る。しかし今度は新藩主の意見で、一旦は大阪に集荷して、そこから商品の流れを見ながら江戸へ送ることになった、と。余計な手間がかかるのではという涼介の疑問に商人たちは答えた。売れ残りの在庫を抱えるよりもいいのだと。
「置いておくだけ、と思われるかもしれませんが、これがどうして」
「左様。商品と同様に、倉庫も我々にとっては、利益を上げるために必要な資産でしてな。ましてや江戸の蔵代は高くて」
「一番よい金儲けは、江戸で蔵貸しをすることですかな」
「しかし、それでは愉しみがありますまい」
彼らの話を聞いていると、確かに時代の主役は彼らだと、思い知らされる。そんな彼らの口から、
「何かと大変な世相ではございますが、明敏な藩主様を得て、われわれは幸運ですよ」
あながち世辞とも聞こえない声で、義弟がもしくは弟が、褒められることは少し嬉しかった。
陸路と船旅を繰り返して、七日。順調な旅程の末に、船の甲板から城山と、白亜の天守閣が見えた時。
「あれを拝むと、戻ったという気持ちになりますな」
笑顔で話し掛ける商人に、頷く。ほんとうに、故郷に戻ったという気持ちがした。こんなのは初めてだった。これまでは都も国許も、故郷と呼ぶには、違和感があったのに。
……どうして?
自身の心境の変化を分析する。結論は、一つしか出なかった。
待っていてくれる人が、居るから。
屋敷で着替えて帰着の挨拶をしたが、城主の応対は冷淡だった。さしさわりのない言葉に冷たい態度。屋敷へ下がる回廊の途中で侍女に、悪意をこめて囁かれた言葉は、御国御前が妊娠したという、話。
……なんだ。
教えてくれれば良かったのに。そしたらついでに、祝辞を述べられたのに。
……だから、か。
態度がおかしかった理由。なるほどと納得する。無理にでも、しようとした。
……いいさ。
母親の庵は建てたし、諸美のことは史浩に頼んだ。しなければならないことは済ませた後で、良かった。
……あきられるのが、済ませた後で、良かった。
半年振りの南屋敷。高齢の家令とその妻は涙を流して帰宅を喜んでくれた。心づくしの祝膳にもろくに箸をつけなかった。食欲が、なかった。湯を浴びて寝巻きに着替える脚もともふらついて、医師を呼ぼうかと家令が心配したほど。
「いや、いい。疲れているだけだ」
老夫婦は顔を見合わせ、それでも俺の頑固さを知っているから、何も言わなかった。半年振りの寝室は、風を通してもらっていたらしくて淀んだ気配もない。いっそじっとり、淀んでいた方が良かったなんてことを、考える。それが今の気分にはぴったりだった。
屏風に囲まれた中に入ろうとした途端、
「……ッ」
つかまれる腕。抱きすくめられる。背中から。その途端。
俺の足元から身体の芯を通って脳髄に達した感覚は、歓喜。
乱暴に寝巻きの裾をはだけられ、掌に包まれて甘い声が漏れる。……、良かった。
あきられて、いなかった。
「ざけんなよ……」
低い声での威嚇の、意味はよくわからない。
「俺を待たせといてよくまぁ、好き放題……、覚悟しろよ」
……なに、それ。
どういう、意味。
問い掛けたくてもうっとりと、男の掌の動きを辿る心地よさが先で、言葉を紡ごうという意志は崩れてしまう。半年振りの、愛撫。
「二度とそんな気が起きないように、してやるからな」
なんの、こと……?
拒むつもりは最初からなかった。
拒むどころか、自分から引き寄せた。なのに。
「も、ヤメ……」
制止の言葉は、抱かれることではない。
母親の部屋で、残されていた母親の衣装を着せられて。
女物の着物を着て、女の紅を塗られて。
唇に、塗る紅じゃない。赤ではなくて、桃色の、それは。
「……、ヤ、いや……」
膠でも混じっているのだろうか、粘つく。噛まれ揉みしだかれてきゅんと尖った乳首と、何度も嬲られて雫をこぼす。狭間に塗られる。塗っては舐めとられ、舐められては塗られて何回、腰を捻って、とどめをねだったろう。
「シテ、お……、願いだから、して」
「京都でに何人に言ったんだよ、そんな事。そーやって可愛くねだった訳かよ」
男は興奮、していた。けど欲情よりも怒りが強いらしい。俺を、抱くより、いじめることに熱心で。
「してない。そん、なの……、ッ、あ、ホント、本当に……、ヤッ」
中に指を入れ探られて、胸元を齧られる。前には触れられないまま、それでも俺は、容易く達してゆく。半年振りの交情だった。……なのに。
なのに、少しも、優しくしてくれない。可愛がって、くれない。
「ネタは上がってんだぜ。公家らと大概、お愉しみだったそうじゃねぇか。この顔と身体だ、さぞもてたろ。都の男は優しかったかよ」
言われて思わず、笑い出す。泣いていた俺の変貌に、男は戸惑い、手を止めた。
顎を、上げて。
目の前の男に口付ける。うまい手段を、ようやく思いついた。
「あは……、お前、よりは」
微笑む。画策は、見事にはまった。
拡げられる膝。ようやくつきつけられた、灼熱。最初は恐くて苦しかっただけの楔が今は……、愛しく待ち遠しい。引き裂いて、俺を、満たして。その熱で。
「……ん、あッ」
「キチ……、マジかよ」
「んくっ、く……、ん」
痛いとか止まれとかは、言わなかった。
呼吸が止まるほど苦しかったけれど。
「ナンか、生娘、だった時みて……」
男の呟きを唇で受け止めた後で、
「半年振り、だから……」
震える唇から、無理に言葉をつむぎ出す。信じさせるのは今しかない。百万の言葉より誠実な、身体でその証明を、してみせて。
「……」
嘘だと今度は、男は言わなかった。代わりに動きがそっと優しくなる。宥めるようにゆっくりと、揺らされる膝と、楔。
「ん、んッ……、は」
それでも快感と呼ぶには、キツ過ぎる衝撃。
「キツイ?」
「ちょっと。……でも、大丈夫」
「一回、ヌく?」
「……イヤ」
本当は、それが楽かもしれなかったけれど。
せっかく捕まえたのに、手放すのは、惜しい……。
「して、くれ。……お前に会いたくて」
「うん。俺も」
「抱き合いたくて、ずっと」
「うん……」
不思議。心がとろけると、身体も緩んでいく。そこがゆっくり解けて男の、鋭い熱を、包む。
愛しているよと耳元に、ようやく囁かれた言葉。
それを聞きたくて、ここへ帰ってきた。
嘘、だった。
俺の乱行も、御国御前の妊娠も。
互いに嘘にだまされて、苦しんだのが馬鹿みたいだと、笑いあう。
湯殿の湯は少し冷めていて、湯冷めしないうちに二人で、もう一度、布団にもぐりこむ。大きな掌に湿った髪や肩を撫でられて、抱き寄せられる。……暖かい。
「ナンか、分かった?京都で」
俺のことと、不安そうに聞かれて、頭を横に振る。
京藩邸で引き渡された弟は、そのまま江戸へと連れて行かれた。受け渡しも江戸からやって来た連中、正妻の息のかかった男たちだった。
「お前、記憶は曖昧だっていうけど」
「うん」
「俺以外のことはどれだけ、覚えているんだよ。国許のこととか」
「殆ど、ってーか、全然」
「覚えていないのか」
「……ん」
それはでも、仕方がないかもしれない。子供は環境に柔軟に対応する。新しい状況で生きていくことに必死で過去を思い出す暇もなく、そのまま記憶の底に埋もれたのか……。
自分の思考が、この男を実弟としたがっていることに気づいて暗闇の中で、苦笑。ゆるく抱き合う腕をまわしながら男は、
「弟じゃなかったら、どうする?」
妙に真剣な声で尋ねてくる。この男から否定の仮定を、投げられたのは、初めて。
「あんた、死んだ弟と、ガキの頃からちちくりあってたんだよな」
「……うん」
「俺がその弟じゃなかったらどうする?」
俺を憎むか、逃げるかと問いかけ。湯を浴びて乾いた皮膚にもう一度、指を這わされながら。
「分からない」
「もしかしてそうでも、俺、あんたを逃がしゃしないからな」
ぎゅっと、腕ごと、抱きすくめられる。拘束の力づよさがひどく嬉しいのに、この男が、あの実弟の仇だったら……、どうしよう。
「春になったら江戸に行く。そこで、カタをつけよう」
「……うん」
「それまでは……」
呼べよと促され、
「啓介……」
優しい声で呼んだ。意識しなくても、優しい声に、なった。
抱き合って、眠る。眠れる。春が来るまでは、こうやって、暖かく。
いっそ、永遠に冬が続けばいいのにと。
少しだけ、ほんの少しだけ、思った。