焔の諸国漫遊記・5
待ち合わせの場所で、女は少しだけ目を細め、唇をきゅっと引き揚げた。ほんの少しの変化だったから黒髪の上官は気付かない。後ろ暗い金髪の男だけが、上官の背後にそっと付き添いながら、面目なさげに目をそらす。
スイートの広い風呂に入り、三面鏡を備えたパウダールームで髪もセットし、高い寿司屋へ繰り出すわけだから服装もしゃんとしている。なのに何処か、緩んだというか、柔らかくほどけたというか、自慢のツヤツヤな肌がいつも以上に潤みを帯びて湿って、瞳が色香を増している。
情事の後の顔だ。
「待たせたかな、さぁでは、行くとしようか」
口調にも乱れはない。敢えて言うなら朗らか過ぎるのが後ろ暗さの裏返しに見えないこともないか。広いホテルだから待ち合わせはロビーではなく、吹き抜けを見下ろす三階のコーヒーショップだった。ふかふかソファから立ち上がった女に黒髪の上司はすっと、肘を張って差し出す。
『……』
女は首を傾げて微笑む。敢えて何も言わず流し目で、上官ではなく背後の背の高い男を見てから上官の肘に腕をまわす。ヘーゼルの瞳をふちどる睫毛が、ごめんあそばせ、という風に瞬いた。自分より雄々しいとは言え年上の美女の、からかうような目線に若い男は口をもぐもぐさせて居心地の悪さを誤魔化した。
「ねぇ大佐。(←愛称。終戦時は大総統)お願いがあるの」
「いいとも。なんでも言ってみたまえ」
「お寿司と一緒にお酒を飲みたいわ。せっかく北国へ来たのだもの」
黒髪の上官が返事をする前に、
「はいっ、俺が禁酒しまッす!」
背の高い男が会話に入って来る。昼さがりの情事で盛り上がり過ぎマチアワセを十五分も遅れた、その代償が禁酒なら安いものだ。
「悪いわね。嬉しいわ」
「……、お、なんだ、ワカサギ釣り?」
フロントを通ってレンタカーを停めた駐車場へ向かう足取りを止めさせたのは、一枚のポスター。
「むー、まだ予告か。釣具とエサ一式の貸し出し、しかしホテルでの調理はご遠慮させていただきます?なら釣ってどうしろというのだ」
「ワカサギってわたし、食べたことありませんわ。美味しいのかしら」
「私もない。しかし白身の小魚ななら、フライや塩焼きが美味いだろう。川の凍った冬に来て、コンロと鍋を持ち込んで、酒ももっていって川辺で愉しむか」
「あらステキ。楽しみにしています」
「雪と酒ってったら、凍死いっちょくせんって気がしますが……」
盛り上がる二人に、背後から男が、ぼそっとコメントを漏らす。盛り上がる二人は気付かず歩いていたか、ふと、上官が足を止めて。
「失礼」
肘に絡めていた女の手をとり、甲にキスしてから、離す。くすぐったそうに女は笑い、そのまま、ベストの懐へ右手を入れた。
ハンサムなのが自慢の黒髪の色男はすたすた、ロビーを突っ切っていく。壁際に並べられた椅子の一つで英字新聞を読む、フードを深く被った人影へ歩み寄り。
すとんと、隣へ腰を下ろす。
「逃げますか、ヤリますか?」
「ロイのお手並み拝見というところね」
金髪の部下二人がささやきあうのに背中を向けて。
「こんなところで奇遇だね、鋼の」
黒髪のたらし男はやさしい声で、フードの人物に話し掛けた。
「……」
返事はなく、ぱらり、新聞が捲られる。
「君も休暇かい?一人で?」
「……仕事だよ」
言い逃れを諦めたらしく声を漏らす。
「逃げた戦争責任者を追いかけてる」
「ご苦労様、いまは一人かな?」
「分かってんだろ、きくなよ」
ロビーにはかなりの人間がいて、その三分の一ほどは、不自然に動きを止めていた。
指揮者が目標の手のひらに包まれて戸惑う私服憲兵たち。
「わたしたちは食事に行くんだ。一緒に行こう」
「あんたが連行されんのは別の場所だよ」
「そういえば君とごはんを食べたことなかったね」
「あんたが大人しくするなら、お供は見逃してやってもいいけど」
「行こう」
先に立ち上がり、掌を上に向けて差し出す。
「食事をして円山公園の散策、駅前大通りの観光、それからすすきのへアイスを食べに行って、夜食はラーメン横丁だ」
フードを外し、新聞を置いて顔をさらしたのは、まだ本当に若い、少年からようやく青年と呼ばれる歳になったばかりの、金髪金目で、目立つ風貌の。
見上げる瞳は睫まで金色。じっと男を睨む。戦争が終わったら自分をおいてきぼりにして、さっさと旅立ってしまった薄情な相手を。
「ご馳走してあげるよ。君はよく働いてくれた」
「……ちょっと、安いんじゃねーの」
青年は立ち上がる。差し出された掌の誘惑に逆らえずに。
「ハボック少尉(←これも愛称。終戦時は大尉)、あなた飲んでいいわ。帰りは私が護衛と運転を務めます」
「え、ナンでですか」
「よくロイのこと潤ませておいてくれたわ。あれは色目の勝利よ」
「……、ども……」