南国・1

 

 隣室からの気配に目を覚ます。フランス統治時代の面影を残した洋館の奥深く、分厚いドアで仕切られた寝室にも南国の気配がどころかともなく満ちてくる昼下がり。

 意識が戻っても目蓋は開かない。開けない。鉛を含んだように重いのは昨夜、涙を流しすぎたせい。……今朝だったかもしれない。

 隣室の気配がおさまる。しばらくしてドアが開く。近づく気配は慣れた相手。目を瞑っていてもどんな顔してるくらい足音でわかる。悪戯を思いついた意地の悪い笑みを浮かべている、きっと。

「アニキ、そろそろ起きろよ。ほら」

 気配がかがんむ。何かが、俺の身体の上に落とされる。それは動いていた。ゆるやかに、したたかに。

「……」

 無理して目を開ける。薄暗い部屋の中、それが蠢き、間近で俺を覗き込む。片手では掴みきれないほどの蛇。だろうとは思った。昨夜のショーで、オンナが蛇に絡まれて悲鳴を上げていたから。

 蛇はしかし、無反応な俺にすぐに飽きた。蠢き、ベッドから降りてもと居た場所へ戻ろうとする。あっちの方が体温が高いからお気に入りらしい。

「腕を挟んでおけ、啓介」

 頬を掠める蛇の皮膚はさらりと乾いていた。なんの匂いもしない。明るい場所なら美しい幾何学模様が見えたろう。

「首を締められるぞ」

 人間の頚骨は脆い。レースの為に鍛えられた首でも、二足歩行の構造は超えられない。ちぇっと、つまらなそうな舌打ち。

「ちょっとは怖がれよ。つまんねーの。ショー見るのは嫌がってたくせに」

 嫌だったのは蛇ではなくて女。夢中でよがる演技をしながらでかい胸をふりたてていた。わざとらしかった。のたうちながらも絡みつく蛇と首との間の腕は外さなかった。あんなものを喜ぶ男の気が知れない。本当に夢中になったら、女は蛇を、自分から喉に巻きつける。

「せっかくここで一番大きいの持ってきてもらったのにさぁ」

 怖がらせたいのかもう一度、鎌首を俺に差し出す。だるい手を伸ばして撫でてやると、躾けられた蛇は擦り付けるようにして甘える仕草をみせる。

 インドニシキヘビだ。毒も牙も持たない。大きさは5メートルくらいで、危険なのはその重量だけ。

「女の子じゃあるまいし」

 シーツの上で緩慢にねがえりをうつ。掛け布が捲れて、裸の肩が外気にさらされ少しひやっとした。

 裸の肩につられたように啓介が屈みこむ。素肌を舐められる。痛みを警戒して竦んだとたん、歯を立てられた。昨夜からそうだった。怖がったり嫌がったりするたび、皮膚を噛み裂かれる。

「イタイ……,啓介」

 表皮を噛み切った歯はそのまま動かない。食い込んでもこないが外れる気配もなくて、

「啓、介」

 甘えた声を出すとようやく唇を離す。滲んだ血があたたかな舌で舐められる。ここに連れ込まれて三日。この『オトコ』がだんだん凶暴になっていくようで、怖い。

「メシの用意できてるよ。隣の部屋。もう昼にも遅い時間だけど、食べれる?」

「ああ」

 本当は食欲なんかなかった。でも丸一日近く食事をとってない。食べないと身体がもたないことは分かっていた。

「持って来てあげよーか、こっちに」

「いい。行く」

 閉め切られた暗い部屋にうんざりした。外の空気を吸いたかった。続き部屋のリビングはベランダに通じていて風が通る。外の気配がひどく恋しい。ベッドを降りようと肘をついた途端、

「ん」

 せっかく浮かせた背中を押され、もう一度、シーツの上にうつ伏せに倒される。

「……いや」

 女のような声が出る。そうすると啓介の手指が優しくなるから。身を守るための無意識の媚態。

「やだ、もう。イタイ」

「そう?」

 硬い指先が背筋を伝い降り、最奥にたどり着く。

「ヒッ……」

 喉が詰まったような高い悲鳴は演技ではなかった。含まされた爪の形までありありと分かるほど、そこは腫れて充血していた。見えないけれど感覚でわかる。啓介には見えている筈なのに。

「怪我してねぇよ。させてねぇ」

 傷はないかもしれないけれど、でも。

「……擦れて、痛いんだ」

「ふーん」

 不満そうに鼻先で声を出しながら啓介は俺の下肢からシーツを剥ぐ。下着さえ、俺は身に着けていなかった。素裸を抱きたがるのはこいつのいつもの癖。久しぶりに会ったときはいつもそう。F1のシーズンが終わってほとんど半年ぶりに、俺たちは南国の片隅で抱き合う。

「……ッ、ウ」

 いやだと今度は言えなかった。キスで唇を塞がれて、甘えるよう鼻にかかった声しか出ない。誘っているようにも我ながら聞こえる、甘い。

「愛してるよ」

 唇が離れたときにはもう、なにを言ってもいまさらな状況。

「…ン、ヒアッ」

「痛くしないって。まかせろよ。ほら力抜いてて」

 ちがう。痛いんじゃない。熱い。本当は妬きつきそうに、死にそうに……、好い。

「ツァ、ん。あ」

「泣くなよ。痛くないだろ?」

 なぁ、と項に噛みつかれのけぞる。熱に貫かれた場所も背中も首筋も。

「く、ふぅ」

 少しでも熱を散らそうと腰を揺らす。身体を捩る。それは身悶え、というのだったかもしれない。

 三日間、眠るか食べるか以外はずっとこうしている。弟の指に操られ腕に踊らされて。咥え込む奥だけじゃない。胸も、脚も、なだめるように重ねられた掌、指先まで。過敏に敏感に快楽神経が透けたみたいに弱く、貪欲になっている。

「啓介、ケイ」

「うん」

 余裕がないのか啓介の答えも短い。

「とけ……」

「うん。俺も。大丈夫?キツくない?」

 荒い呼吸を抑えながら、それでも優しく問い掛けられると、

「だい、じょ」

 ますますとろけていく。優しくされて嬉しいなんて、まるで。

「痛かったら言って」

 耳の後ろを舐められながら言われ、両手で腰をぐいっと掴み寄せられる。いっそう深く合わさって、もう。

「けい、介。啓……」

「ん。なに」

「……キス」

 してくれ。

 どうせならお前にとことんまで浸されたい。上も下も中も外も。抱きしめてもっと深いキスを。

「じゃあこっち、向いて」

 必死で首をねじる。互いに求め合う。けどうまく合わさらない。触れてもすぐに離れてしまう。動きが激しすぎるから。でもどうしても舌に触れたくて無理して頭に手をまわそうとしたら、

「ダメって」

 つられて腰が沈むのを嫌った手に引き戻される。キスを拒まれたみたいで悲しくなる。馬鹿みたいだと自分でも思うけど止まらない。

「泣くなよ、もぉ」

 困り果てた声が聞こえてすぐだった。ぴったりと含まされていた楔があっけなく抜かれる。

「ア……」

 振り向くまもなく腕をつかまれ、仰向けに直される。身体をかえされた直後に唇を、今度はちゃんと、深々と重ねてくれた。

「ンッ」

 掴まれていた腕はすぐほどかれる。俺の膝裏をすくいあげ、恥ずかしいほど脚を開かせるために。自由になった腕で自分を抱く男の、首と背中に縋りつく。二度と引き剥がされないように。

「気持ちいい?」

 なのに離された唇。嫌がって、俺は指を伸ばす。

「俺を好き?」

 頷く。必死に、懸命に。

「だったらなんで……」

 苦い声。灼熱に再び身を焼かれ、のたうつ俺の嬌声に紛れて呟かれる、言葉。

「なんで俺から離れようとするの」

 愛して、いるから。分からないのか、どうして。

「嘘って言って。別れたいとか、嘘だって……」

 なにを、いまさら。お前も承知しただろう?今度の休暇を過ごしたら、もう、お前とは寝ないって。

 時間は俺が決めた。場所とやり方はお前が。だから俺は一度も逆らわず、指示されたとおりにここへ来た。到着した空港から三時間、目隠しされて車に揺られてこの山中の洋館へ。ここが何処なのか、国境を越えたのかどうかも知らない。お前が好きなように俺で存分に遊べ。俺もお前に触れられていたい。誰よりも愛した愛してるお前に、一秒でも長く深く。

「なんで?」

 繰り返される問い。

 だって、こうしなきゃ。

 俺とお前は永遠にこのままだから。

 何も俺たちを引き裂けなかった。親も社会も夢も、病院もレースも。お前を失うくらいならなにをなくしてもいいって俺は思ってる。俺だけじゃない、お前まで。

 時間さえ俺たちに何の解決もくれなかった。他の女や男を愛せることはなかったし、離れて気持ちが醒める事もなかった。子供の頃は大人になったら、自然に止められると思っていた。大人になってからは何時までもこうしていられる筈はないと、やってくる別離に脅えていた。今では逆を恐れてる。このまま永遠に離れられなくなることを。

「啓、介」

「なに?考え直してくれた?」

 ゆるく左右に首を振る。愛しい相手を抱き寄せる。

「飽きたの、俺に」

 飽きれるようなゆとりがあれば良かったよ。遊び半分ならもっと、気楽に続けていけたかもしれない。普通の兄弟のふりをしながら時々、ベッドの中で秘密を啄ばみあう、そんな風に出来たら。

「マネージャーがあんたに、嫌なこと言ったのまだ怒ってんの。クビにしたよ、すぐ。新しいのも、二度とあんたに会わせない。誰にも絶対、文句言わせないから」

 俺がどうこうってういんじゃないんだ。

お前のためなんだよ、啓介。

あのマネージャーは律儀で誠実で正直で、残酷な人だった。俺に本当のことを教えてくれた。お前の周囲で俺とお前のことを詮索する人間が多いこと。同性愛なんて今更、騒ぐほど特殊な嗜好じゃないが相手が実のアニキじゃまずいだろ。お前が悪いよ。何処に居ても何してても俺の話ばっかりだって。どんないい女を見ても俺の方がいいって臆面もなく言っているって。俺が悪かったよ。お前にそうされるのが嬉しくて止めようとしなかった。自分では止められなくなるまで。

「それとも他にいい男が出来た?女?……違うよな。俺よりあんたを好きな奴なんて居ねぇよ」

 そうとも。俺ほどお前を愛してる奴が居ないように。

「成功しすぎたな、お前」

 巨額の資本と多数の人間が蠢くレースの頂点で。総合優勝こそまだしていないがデビュー戦でいきなりの表彰台に立って以来、お前はいつもスポットライトの中に居る。故郷にも血縁者のもとにも滅多に戻って来れないほどのヒーロー。ただ俺だけを呼びたがる。俺の隣にだけ帰りたがる。暖めて孵化させすり餌を口移ししておおきくした鷹が、大空を飛翔してなお、呼べば一目散に戻ってくる快感。それに溺れて気づかなかった。お前がそのことで不利を背負うなんて、

「有名人の囲われ者なんて御免だ」

「騒がしいのが嫌なら、俺……」

 身体を繋げたまま、至近距離で向き合う。そんな哀しい寂しい目で見ないでくれ。決心がぐらつく。お前はもう、とおに俺から巣立った。そばに置いておきたいと思うのは俺のエゴ。頼むから、必死で手離そうとしているんだから、そんなに俺を、責めるな。

「俺、レース辞めても、いいよ。あんたが、そうじゃなきゃ、嫌なら」

 そんな辛そうな顔で言うな。お前が走りを手放せる筈がないだろ。

「本気だよ。どっちかしかダメなら、俺は、あんたを」

 その言葉、だけで充分なんだ。

 一世一代の俺のこの恋は叶った。芽吹いて繁って大輪の華を、お前の中に咲かせた。それで満足なんだ。満足、しなきゃならないんだ。

 愛しているよ、お前のことを。

 突きはなすほど強く。