昔みた夢・1
尋問の途中で時々、なんの脈絡もないことが頭に浮かぶ。
その日の最初は、今日が妻の母親の、誕生日だということ。今日と言っても夜通しの尋問で、時刻はもうじき夜があけようという未明。もう六十時間近く、一睡もさせていない被疑者は頭を左右に揺らしながら、苦しんでえずいている。
それに水をかけ、正気づかせるのは部下の仕事だ。俺は机に肘をついてぼんやり、目の前の現実からは離れたことを考える。既婚の男なら分かってくれると思うが、妻の親族との付き合いは、結婚というものが男にもたらす最悪の義理だ。特に俺のように、背景のある女と結婚してるときは尚更。
俺の妻は南方司令部司令官のご令嬢。父親の任地に母親は同行せず、義父は単身赴任中。暇のある義母はただでさえ結婚した娘の家に足しげく通い俺とも親しいつもり。冗談じゃない。俺は自分の母親もうっとおしいほうだ。義理のある義母なら尚更。
新築の家を最近、俺は中央に買った。僻んだ同僚たちの噂とは違って、妻の実感からの援助は一円も受けてない。それでも義母は俺の家を、まるで自分の別宅みたいに気軽に思ってる。
家に帰って義母が居ると、俺はうんざりして疲れが増す。それを顔に出せないのがまた辛いところ。義母のお手製のミートパイなんかを、義母の目の前で愛想よく幾つも食べていると、妻と義母の機嫌は良くなるが俺は落ち込む。こんなのは予定に入っていなかった。
あの女を妻に娶ることで、俺は南方司令部司令官の派閥に属した。そのことは計算の上だったし後悔していないが、その上にまさか、あんなオバサンのご機嫌とりまで、しなけりゃならない羽目に陥るとは思わなかった。
義母が義父の赴任に同行せず、中央に残ったのは妻が娘を産んでほどなかったから、産後の介抱と妻の子育てを助けるため、だったように思う。娘が三歳になった今も、夫に同行して都落ちしようという気配は見せない。義父は文句も言わずに南方で仕事中。そんなことを思うと、オトコであることに、うんざりして、くるのだ。
男が世間で張り合ってやりあって、序列にやっきになっている裏側で、女たちは優雅に甘い匂いを纏ってお茶の時間。そんなものかもしれないが、そんなのはまぁいいんだが。
俺を『お気に入りのムコ』として、ご近所やお友達に見せびらかすのが楽しみな義母は、今日は自宅に俺と妻と、娘を招いてる。行けば義母と同世代のおばさんたちが集まっているんだろう。妻の友人もいるかもしれない。そういう女たちに囲まれて、息が詰まりそうになりながら笑うのはうんざりだ。
「……、ッ……、ひぃ……、ィ……」
甲高い声が俺の思考を中断させる。何かと思ったら被疑者の悲鳴だった。あぁ、そういえば尋問中だった。被疑者からは見えないよう、胸ポケットに納めた腕時計で時刻を確認する。午前五時。人間の身心が一番、安息を求めて鈍る時間。
「一月二十日の深夜から翌日の朝まで何をしていた?」
何度も繰り返した問いかけ。俺は被疑者にそれしか言わなかった。直接に手を下すのは部下たちの役目で、俺は被疑者が壊れるのを待つだけ。
被疑者が顔を上げる。まだ若い、かなり美しい女。俺を縋るような目で見るのは、俺だけが彼女を殴りもしなきゃレイプもしていないから。でもその、指示を出したのは俺だ。わざと俺の目に付かないところで若い連中に散々な真似をさせた。俺に一言でも喋ったら殺すぞと、念入りに脅しつけさせて。
「一月二十日の深夜から……」
「失礼いたします。中佐、お時間です」
従卒が俺を呼びに来て、勤務時間の終わった俺は被疑者が拘束されている部屋を出ようとする。従卒と部下が意味ありげな視線を交し合う。気付いた被疑者が、いっそう高い悲鳴をあげて。
「人と……、会っていました……ッ」
ようやくの陥落。やれやれ、思ったより時間がかかった。男より遼に女は痛みに耐性があっるから、効率よく自白を引き出すには暴力だけじゃ不足だ。演出が必要で、女自身に劇的な瞬間を演じさせなきゃならない。要するに女ってのは、自分が主役で世界が廻ってないと臍を曲げる生き物だ。
「何処で、誰と?」
答えを、俺は知っている。相手のことは女を拘束する前から見張りをつけている。ただ、告発にはこの女の供述が必要で。
「……」
女は言葉を途切れさす。女っていうのは本当に強情だ。多分、世界で一番弱い女でも、世界で一番強い男よりまだ強い。
ふるっと、水をかけられた女が震えたのをきっかけに、
「タオルと着替えを」
俺は従僕に指示する。すぐに、それらは持ってこられた。
「身体を拭いて着替えろ。一人にする訳にはいかないが、そっちを見なないから」
言って椅子ごと女に背を向ける。部下たちも、それに倣う。壁の鏡はもちろんマジックミラーで、女が不穏な様子を見せればすぐに、警告が発せられる。
女は大人しく服を着替えた。物音が途切れて、そちらを向くよと警告してから振り向くと、また目があった、瞬間。
誰かに似ていると、ふと思った。顔立ちじゃない、雰囲気が。不審と怯えと一縷の希望を抱いた表情で、俺をじっと見てる。
濡れた髪から、水滴が落ちた。目蓋を掠めて頬に落ちる様子に、俺は誰に似てるのか分かった。
「髪を拭け」
言いながらハンカチを取り出して、前髪を押さえてやると。
「……、全部話せば、私を釈放してくれますか」
女の何処かが傾いたらしい。まっすぐ俺に問いかける。呆れるくらい、女は感度がいい。今、俺はこの女に似てる奴を思い出して気持ちが、ほんの少しだけ緩んだ。
そこをまるで、狙いすましたように正確にすくいあげ、女は俺と向き合う。
「まだ何も話してもらっていないのに、約束は出来ない」
さぁここが正念場。落ち着いて、冷静に、得物は針を飲み込みかけている。望む言葉を、うまく告げてやれば。
「内容次第では、司法取引の手続きをすることは約束しよう」
いち早く自供して操作に協力すれば、その功績と引き換えの減刑を受ける。寝返りを唆す、『司法取引』は憲兵隊の十八番だ。
「私の名前は、ステラ・ブラッツです。けれど、それは本当の名ではありません。私は」
「筆記しろ」
「はっ」
「最初から。……君の名前は?」
「ステラ・プラッツです」
「それは本名かね」
「いいえ。本当の名前はサワコ・ナリヤといいます」
「出身と年齢を」
「シン国、ウズ地区、二十六歳です」
「不法入国者かね?」
「そうです」
「入国の目的は?」
「この国の中央司令部第五大隊所属某氏より、亡命の打診を受け、その真意を探るためでした」
軍人らしい、てきぱきとした喋り。
「その人物の名前を言えるかね」
「はい」
「筆記を止めろ」
「はっ」
「……、です。亡命の動機は、イシュワール戦線を経験し戦争に嫌気がさしたことと、大総統府の独断専行に対する反感……、私の調査の範囲では、亡命の意思は確か……、根拠は自らに先立って、家族の受け入れ準備を……、一月二十日、本国からの指示を受けて彼は私が勤務するバーにやって来て……」
一通り聞いた後で、一旦は休息させることにした。『壊れた』ので止めていた被疑者の取調室の時計を『修理』し、食事を出して眠らせる。これから逆にシン国の諜報態勢を聞き出さなければならない。待遇はよくしておく必要がある。
定時を二時間もこえてようやく、俺は取り調べから解放されたが、まだ仕事は残っている。部下の一人が、俺が立ち会わない間の『取調べ』中にショックを受け、体調を崩して医務室に運ばれた。尋問の適性のない奴を軍法会議所の調査部に送り込むなよと人事部を心の中で罵りつつ、医務室に向かう。
「よう、少しは元気出たか」
医務室で真っ白な顔色で、休んでるこいつが俺の部下なのは今日限りだ。体調が良かろうが死にそうだろうが知ったことじゃない。が、見たことを外でべらべら、喋られるのは困る。内部告発は勇気じゃなく、怯えが原因のことも多い。
純情そうな若い男は、白い顔のままで俺に敬礼した。指先が揺れてんのに俺は気付いたが、そしらぬ素振りで返礼し、
「嫌な仕事だと思うか」
まっすぐに尋ねる。若い男は数秒の沈黙の後で、はいと答えた。俺は苦笑して、
「俺もそう思う」
椅子を引き寄せ、ベッドのわきに腰掛けた。
「煙草、吸っていいか」
「どうぞ」
一服つけて、ゆっくり煙を、中空に吐き出して。
「でも必要なことだ」
はっきり言った。嘘では、なかった。俺はそう思ってる。
「戦争は情報だ。俺たちは軍人だ。自国の勝利の為にあらゆる努力を払う義務がある。国家間の戦争は何百何千単位の命がけだ。個人的な信条が介入する余地はない」
若い男は、俯いて聞いていた。
「……、と、俺は思ってる。お前にはお前の考えがあるだろう」
煙をもう一度、吸い込んで吐き出して。あぁ、こんな場面が最近は多い。煙草は説得の間合いを計る道具として便利だが、このままじゃ喫煙量が増えていくばかりだ。
「どうしても耐えられないなら転属願いを提出しろ。判を捺して人事に廻しておく。少し残念だがな」
何が、という顔を、若い男が、するのを待ってから。
「お前は優秀だ。心身ともに強靭だって、推薦状つきでうちに廻されてきたんだからな。うちに連行されんのは窃盗やら婦女暴行やらじゃない」
他国のスパイ、反政府組織に情報を漏らしてる背任者、大総統府の転覆を狙うテロリスト。
「全部、知能犯だ。その上手をいける奴は滅多に居ないからな」
しかしまぁ、軍人の職務を全うする、やり方はそれぞれさと、最後に言って立ち上がる。若い男が、また敬礼をする。今度の指先はゆれてない。転属願いを出すにしろ出さないにしろ、軍法会議所自体への反感は消えたらしい、やれやれ。
着替えて外に出ると、陽はもう高くなっていた。真っ直ぐ家に戻るも億劫で、途中の喫茶店に寄ってモーニングを。その店の親爺とは、長いなじみだった。俺が士官学校の学生だった頃からだから、かれこれもう、十五年近い。
あの頃は親爺の前髪も豊かだったし店も小さな屋台だった。味がよくて安価で、朝早くから夜遅くまでやってて、腹を減らした学生の頃はよく、寮を抜け出して買いにきたもんだ。
「……あ?」
中でも俺が気に入っていたのはフィッシュ・アンド・チップス。包装紙、なんてもんじゃない、単なる新聞の切れ端に包まれた白身魚とジャガイモの味が時々、とても恋しくなる、のに。
「悪いね、最近はほら、ヘルシー志向とかいうやつで、揚げ物の注文はめっきり減って、朝食メニューから外したんだ。魚があるなら揚げてあげるけど、まだ若いのが市場から戻らなくてね」
運が悪い。今日は本当に運が悪い。そう思いながら、ベーコン・アンド・エッグとトーストで朝食を済ませる。せめてもの詫び心か、親爺はフライドポテトとオニオン・リングを山盛りに皿に積み上げてくれた。ばりばり、音立てて、それを食べていく。
時刻は十時過ぎ。モーニングは十一時までやっているが、店主は暇らしい。新聞を持って俺の隣にやって来る。カウンター席だったから、喰い終わった食器を自分で流しに片付けて、セルフサービスのコーヒーサーバーから二杯、親爺の分まで、注いで横に置く。
「ありがとう。それにしても最近は物騒だね」
親爺は新聞を眺めて、そして。
「また東方でテロが起こっている。ここにはあれだろう?君と仲のよかった、あの綺麗な子が行っているんだろう?」
親爺の台詞は気軽な世間話だった。なのにそれは、計算尽くされたイヤミより鋭く、俺の気持ちに突き刺さり、ヤワな場所を抉る。
「ここ、うちの連中が常連に多いよな」
もう何年も前に知った事実。
「あんたまだ、若い連中の囀り聞いて通報してんのかい?」
親爺は新聞から目を離して俺を見た。俺は黙って見返した。俺がまだ士官学校の学生だった頃、仲間と一緒に足しげく通った屋台で、俺たちは教官の悪口や学校に対する不平なんかを、声高に話してた。それを学校側に通報するのが、この親爺の、小遣い稼ぎだった。
「今度は夜においで。フィッシュ・アンド・チップスでビールを飲ませてあげよう。ぜひあの、お気に入りの子も連れて。あの子はどうしてるの?」
親爺は話を誤魔化す。黙って金を払って俺は店を出る。もう二度と来ない。店を出ると天気が良くて、明るすぎる太陽が石畳の歩道を照らしていた。
今日は良くない日だ。悪いことばかり起こる。
一日に、まだ午前中なのに、あいつのことを、二度も思い出した