今日は良くない日だ。悪いことばかり起こる。

 一日に、まだ午前中なのに、あいつのことを、二度も思い出した。

 食べれなかったフィッシュ・アンド・チップスの、脂の味とシンプルな塩気と、白身魚の味を思い出す。俺を真っ直ぐに見上げる光彩の澄んだ瞳も。縋るような、そのくせ信用していない、複雑な表情が今朝の女とよく似ていた。あんな顔を、あいつは時々、した。

 俺と別れる、寸前の頃には。

 なにが気に入らなかったのかは知らない。俺は確かに嫉妬深かったかもしれない。でも嫉妬深くない男なんかこの世に居ないだろう。俺も普通の男だったってだけの話だ。

 あいつはなにが気に入らなかったんだろう。いまだに俺には分からない。学生時代には、馴染みの屋台の親爺に知られるほど仲が良かった。士官学校の同期の中じゃ、俺があいつと『出来てる』のは公認だった。そういうのは何組も居て、特に珍しいことじゃなかった。イタズラを経て、不安定なガキどもは一人前の男になっていく。そういう擬似の『カップル』は何組も居たが、関係の解消は多分、俺とあいつが一番遅かった。あいつは本当に俺のお気に入りで。

 あいつの方からドンと腕を突き出され、突き離されていなけりゃ今でも、俺はあいつの蜜を舐めてたかもしれない。

 今日は厄日だ。どうにも運が悪い。なぁ、ロイ。

 お前のことばかり思い出す。

 そういえば、よく眠そうな顔をしていたこと、とか。

 訳の分からない本を熱心に読んでいたこと、とか。

 時間外利用が出来ない筈の書庫に、休日前は深夜から夜明けまで居て、挙句翌朝、床に転がって眠っていたこと、とか。

 思い出せば、思い当たる節は沢山ある。消灯時間の厳しい士官学校で、試験前になると明りを求めてトイレやら廊下やらで、教本捲ってる分には教官たちも見て見ぬフリをしてくれる。自分らもやってきた事だからだ。けど書庫に忍び込むのは、バレたらヘタすりゃ退学になるから止めろって、俺は何度もうるさく言った。

 そのたびにあいつは曖昧に笑った。俺は口を酸っぱくして、本当に何度も止めたんだ。いつも、あいつは分かったと答えたけど、夜中に部屋を抜け出して朝まで帰ってこない事があった。

 教官たちに気付かれたらって、心配していた俺は馬鹿みたいだったか?全部、何もかも最初から、お前は許されていたのか。あの頃、士官学校の校長は現役の中佐で名前だけだった。実質的な統括者は副校長の、予備役の少佐だったっけ。お前はアレと、入学時から、タメだったわけだ。

 お前は意地が悪かった。本当に酷い奴だ。俺たちはあんなに仲良くしていたのに、お前は俺を少しも信頼してくれなかった。そうして俺は、お前をただ、自分勝手に愛しただけになった。お前が俺を邪魔になった時、切り捨てて裏切ったからだ。

俺はお前を愛していた。それを知らなかったとは言わせない。士官学校を卒業して檻から野に放たれた後も、俺はお前だけ愛してた。なのにどうして、お前は俺を、あんな風に。

……手酷く裏切った?

 本格的に動き出した明るい街を歩く。夜明けの雨で石畳が濡れていて照り返しは来ない。花壇や民家の戸口に飾られた鉢植えの花たちも元気を取り戻して、散歩するには絶好の日だ。

 勤め人や商店主たちが忙しく行き交う。ここから遠い戦場で、お前は俺を棄てた。戦場に立ったことは何度もあるのにイシュヴァールの砂漠だけが忘れられないのは多分、あそこが俺にとって痛い場所だからだ。お前に裏切られて一人で、冷える夜中の野営地で、つまらないことをずっと考えてた。

 お前はきつい役目を与えられていて、大尉として中隊を率いた俺とは遠かった。だが前線で何度かは同じ作戦に従った。お前が指揮官、俺がその補佐で。

 あれから何年もたつ。お前はあの後、俺になんにも言って来なかった。そのことでお前の意志はよく分かった。俺ともう、一緒に寝るのが嫌になったんだろう。それは分かったが理由はわからないまま、尋ねるのも未練みたいな気がして出来なかった。振られたってことは明らかに分かってるのに、そばをうろうろされても困るだろうと思った。……まぁ、多分、それは言い訳。

 お前に振りとばされて俺は臆病になってたのさ。本当は理由を知りたかった。でもお前からあれ以上、冷たい態度をとられるのが怖かった。俺をみれば笑ってくれるはずの唇がきゅっと結ばれて、敵をみるような目で見られて、あれで十分だった。

 ……なぁ、ロイ。

 お前は俺を嫌いになったんだな。何時から?

 俺は馬鹿だ。気付きもしなかった。他の男がお前に触ることはあんなに警戒していたのに、お前自身の心変わりなんて夢にも思わなかった。

 あんなに長い時間、それこそ殆ど、恋人より深く長く、夫婦みたいに過ごしてきたのに、ばっさり俺を切り離して、お前は寂しいと思わないか。

 俺は寂しい。結婚してみれば少しはマシになるかと思ったが、妻が埋めてくれるのは抉った傷とは別の場所で、俺は今でも、寂しいままだ。それもまぁ、当たり前の話。あいつとお前は違う女だから。お前のことがどうしても懐かしくて、憎らしいのに切なくてたまらなく、なる。お前とセックスするのが好きだった。好きなのは、セックスだけじゃなかった。

 あいた電話ボックスが目に付いて、財布を片手にその中に入る。そらで覚えてる電話番号を押して、交換手に名前を名乗ってコードを伝えて、あいつに繋いでもらう。なぁ聞けよロイ、聞いてくれ。お前にしかいえないことがある。

 仕事でな、辛い事があった。若い女の子を騙して酷い目にあわせた。俺はろくな死に方をしないだろう。こんな罪ばかり冒していく。今は命令するだけで殆ど手は下さないが、昔はこの手で、女の子や反逆者の両親や妻や息子、老人や子供を。

 ……痛めつけた。

『私だ。家族自慢なら聞かんぞ』

 そう言わないで、少し話をしよう。してくれ。したいんだ。俺は心から悔いてる。昔、お前にこんな気持ちを真正面からぶつけちまったこと。今は反省して、尋問明けの朝はぶらぶら、メシを食ったり散歩をしたり、本屋に寄ったりで時間を潰して、気分が変わってから家に帰るようにしてる。

 あの頃はそんな知恵がなかった。お前に俺は当り散らして、嫌なことを言ったりしたり、散々だったな。嫌われて当たり前だ。今ごろになって気付く。なぁロイ。聞けよ、俺は本当に。

「そう言うなって。エリシアがなぁ、幼稚園に通うんだぜ」

 本当に悔いてる。心の底からだ。償えるなら何でもするから俺を赦してくれ。そしてもう、セックスは諦めるから、せめて。

『……こんな時期からか?』

「来年の春からなんだ」

『……今はまだ夏だぞ』

「エリシアが苛められたりしたらどーしよーって、今から心配で心配で、夜もろくろく眠れないんだよ」

『永眠させてやろうか?』

 仲直り、しよう。せめて友人で居させてくれ。心の中でお前は俺の、最初の妻なんだ、なんて。

 言ったらお前は、さぞ嫌がるだろうけど。

 何も分かっていなかった俺は、お前に、辛い思いばかりさせた。今ならもっとうまく振舞える。お前に嫌われるようなセックスはしない。しんどい気分だからって話し掛けられても無視したりしない。一人で夜の街に飲みに出たりはしない。するときは、ちゃんと理由を話してお前を納得させてから行く。気持ちが荒れてて、向き合えば痛めつけそうで、だから今はお前と顔をあわせたくないんだ、って。

 お前を愛してた。今も愛してる。居間の妻と同じくらい。もしかしたら、もっと。

 なぁもう俺は結婚した。二度とお前を傷つけない。だから。

「仕事休んで暫くは、俺が送り迎えしようと思ってるんだ」

『好きなようにしろ』

 だからもう、そんなに尖るなよ。

「入園式用に、びしっと礼服、新調しておかなきゃな。軍の礼装じゃ、エリシアちゃんが苛められるかもしれないだろ?」

『知ったことか。……切るぞ』

「あぁ、お前、礼装用意しておけよ。入院してるグラン爺、そろそろヤバイって話だぜ」

 その名の国家錬金術師は、本当はもう墓の中。ただし、事実は隠蔽されて、勤務中に脳卒中を起こして軍病院に搬送され重態、ということに。

「葬式でセントラルに来たらさ、一度、うちに……」

 来いよ、とは続けられなかった。忙しい、もう切るぞ。そんな風に言って、回線は切られた。俺の家庭の話をこいつは聞きたがらない。でも俺は話したい。お前に分かって欲しいんだ。俺はもう、ちゃんとしているって。

 お前に散々、辛い思いをさせて悪かった。今はもうあんな真似はしてない。ちゃんと『妻』には優しく振舞ってる。今日も帰宅が遅れた詫びに花とケーキを買って帰って、昼からは義母の誕生日を祝いに行く。俺はもう、ちゃんと出来てるんだ。

 それをお前に分かって欲しいと、思うのは俺の甘えだ。分かっている。いるけど、どうしても、お前に分かって欲しい。

 俺がどれだけ、あれを反省しているか。お前とやりなおす事は、もう諦めた。でもな。

 いつも心の中に、お前への悔恨がある。お前と住む広い家を買って、お前にも花を買って、お前の身内にも愛想よく振舞って。

 そういうことを、俺はしたかったよ。本当はしたかった。

 今の妻を優しく抱き締めるときはいつも、不幸にしただけで終わったお前のことばかり考えてる。