親不孝

 

 

 大晦日から元旦・二日は、宿直だった。

 長期入院患者たちの殆どが一時帰宅、していたけれど、中には『帰宅』する家のない人も居る。そんな人の為に病院は、外来はしめてあるけど、職員は交代で休みを取る。正月にはとくに予定はなかったから、自分から宿直を引き受けた。

 家族や恋人たちと過ごすために、多くの人が帰っていった病院で、裏の院長一家が住む家からお節の差入れを受けて、ひがな一日、パソコンと向かい合っていた。同じく宿直の看護婦たちは、若い子が多かった。十九・二十歳の、お正月に休むより働いて、平日に代休をとって彼氏とスキーに行くわという、そんな子たちが。

 その、明るさと強さが少し、羨ましかった。

 俺にはもう、帰る家も、一緒にスキーに行く恋人も居ないから。

 俺がなくしてしまった大切な物を彼女らは持っていて、そのままずっと、持てるんだろうと思うと、とても。

 羨ましかった。

 そうして少し、哀しくなった。

 無くしてしまった暖かさを思い出して。

 

 三日の早朝。

 院長の息子と当直を代わってもらって、帰宅する。

 正月に働かせてしまったから、と言って、お歳暮のお裾分けをずいぶんと、貰った。ワインや缶詰、海苔やビールを、車に運ぶのを手伝ってくれた院長の息子は俺より、二つ三つ歳下。ストレートで大学と国家試験に合格し、医師として一歩を踏み出したばかり。俺同様に年末年始、勤務先の病院で当直をして、ようやく今日、帰省してきたのだ。

 院長夫妻の朗らかな声が聞こえる。息子の帰宅がうれしいのだろう。背の高い、メガネをかけた医師は、

「涼さんは、実家に帰るの?」

 俺にそんなふうに尋ねた。

「ご実家、病院だったよね。ご兄弟は?」

「……弟が、一人、居ます」

「医者になられた?」

「いいえ」

 ……知らないの?

 俺の弟、有名人だよ。F1に参戦して、まだ新人だけど何度か表彰台に立ってる。日本人初の総合優勝を期待されてて、引退までには、獲れるんじゃないかって、みんな言ってるのに。

「じゃ、涼さんがやっぱり、病院を継ぐのかな」

 医師は残念そうに呟く。

「結婚相手は、入り婿じゃなきゃ、ダメかい?」

「いいえ」

 はっきりとした俺の否定に、医師は嬉しそうに微笑む。誤解、させてしまったことに気づいて、

「俺は結婚、しませんから」

 強く否定、しておく。

「どうして?」

 心から意外そうに、医師は俺を見た。

「涼さん、そんなにキレイ、なのに。……男、嫌いなの?」

「いえ」

「勿体無いよ、そんなのは」

 若い医師に、悪気はなかったと、思う。

 多分むしろ、好意。暖かな家庭で育って、幸福な両親を見てきたこの医師には、結婚といえば幸福、という構図しかないのだろう。

「家が、田舎だったので。結婚というと、地獄という連想が」

 俺には、ある。

 だから、嫁に行くのが……、怖かった。

 姑に苛められ小姑にいびられ気難しい舅に泣かされる、そんな印象しかない。

 言うと、医師は犯しそうに笑った。

「戦前の話だよ、それは。今時どこでも泣いてるのはお姑さんの方さ。ためしに僕と、一回結婚、しませんか」

「……ごめんなさい」

「好きな人、居るの?」

「ごめんなさい」

「謝らないで下さい。僕が勝手に、好きになってただけです」

「ごめん、なさい」

「さぁ、気にせずどうぞ、いいお正月を」

 笑顔で送り出されても、俺は顔を、最後まで上げられなかった。

 

 俺がまだ、高崎の実家に居た頃。

 俺には、見合いの話が冗談でなく、降るほどやってきた。

 それは、俺の父親の人脈や財力が目当て。家同士の繋がりを求めて。そんな結婚は絶対にイヤだった。泣き続けてきた母を見て来たから。母は旧藩主の一族のお嬢さんだったが、戦後の農地改革で実家は没落、買われるように、父に嫁いできた。母方の祖父は早世し、頼りになる親戚も居なかったから、父の姉妹たちは母を、まるで乞食の娘のように、さげずみいびりまくった。

 それが母の、高貴な美貌と若さに対する嫉妬だったことを、今なら分かるけど。

 不幸に嘆く人を、身近に見ながらいつか、それが俺自身にも降りかかってくるのだと脅えた。俺が自分を『俺』と呼ぶのも、男物のシャツやジーンズを好んで身に着けたのも、『女』になりたくなかったから。『女』になったら『嫁』に行かされて、泣かされるんだって、幼心に思った。

 大学に、進学した早々から、俺のもとには釣り書きが持ち込まれて。

 見合いをしないと言っては怒られ、会って断ればいいからと言われて、実際に会ってそうしたら、顔を潰したと両親のみならず、仲介者にまで責められて。

 口答え一つできずに泣く俺を、いつも庇って、慰めてくれたのは二つ歳下の弟。

『アネキは最初ッからイヤってってたじゃねぇか。会って断れって、オヤジが言ったの俺、この耳で聞いたぜ』

『会ってからじゃカドがタツってんなら、最初に断ってりゃいーんだよ』

『ダイタイ、断れないなんて嘘だろ。アネキまだ二十歳だぜ。学生だから、国家試験もまただだからって、理由は山ほどあんだろーが』

『要するに自分らが断らなかったくせに、勝手なんだよ』

 強い口調と、真っ直ぐな気性が俺には、素晴らしい憧れ。あんたが大人しいからオヤジたち、付け上がるんだよと言われて、

『そうかも……、知れないな』

 素直に俺は、それを認めた。……怖いんだ。

 俺の心にはぬきがたく、両親への恐れが捺されている。どうしてなのかは、分からない。別に、特に虐待を受けたとかじゃなかったけれど、多分、初めての子供だから厳しく、されすぎたんだと、思う。

 家が愉しかったことなんて一度もなかった。

 両親と隔てられた、自分の部屋だけが、俺の領域だった。

 唯一の例外が弟。これだけが、俺の暖かさ。

『医学部なんて、入らなきゃ良かった』

『そーだよ。したら、息子が医者になれないからって女医を嫁さんにって、思う連中からの見合いはなかったのに』

『高校卒業してすぐ、就職してたら良かったよ……』

 そうしたら今ごろは、ちゃんと金を溜めて。敷金礼金分くらいにはなって、家を出れたかもしれないのに。

『順調に就職して二十四、それから学費を親に返して、自由になれるのは何時かな……』

『ナニ、それ。学費がどしたの』

『返せって、言われたから』

 言う事をきかないならば、育てるのにかかった金を全部、返せと。

『バッカじゃねぇ?』

 だって、そういわれた。

『親に自分の養育費、払うガキがこの世のドコに居るのさ。アネキもアネキだよ。ンなの、頭に血がのぼったオヤジが怒鳴り散らしただけじゃん。言った本人、もう覚えてねぇよ、絶対』

 そうかも、しれないけど。

 俺は……、忘れられないんだ。

『あんたも、悪いよ』

 うん。

 それは、分かってる。

『あんたを可愛がりすぎて、自分の分身みたいに思ってる親父も悪い。だからあんたがちょっとでも、親父の言うとおりにしないとまるで、女房に浮気されたみたいに逆上しやがる。あんたに愚痴を聞かせすぎた御袋も悪い。ちょっとあの人、悲劇のヒロインなになりたがっからな』

 女はみんなだけどと、呟く口調が微妙だった。俺も『女』の中にはいるのかもしれない。

『けど、あんたもさ……。もちっと親父ら、信用してやんなよ。……殺されやしねぇよ?』

 そっと優しく告げられた言葉は確かに、鋭いツボを射抜いていた。

 棄てられたら、飢え死ぬ。

 そんな意識が、俺からは消えない。

 今時そんなこと、おこりっこないのに。

 甘える相手というよりは、支配者。

 両親を俺は確かに、そんな風に思っていた。

 ……だから。

 

 大学を卒業して、一人暮らし、出来て。

 俺はどれだけ幸福だっただろう。

 家庭から離れたというより、奉公先から解放されてくみたいだねと、弟は笑って引越しを手伝ってくれた。

 両親も、手伝ってくれようとしたけど断った。もうこの人たちの『家』に、世話にならなくていいのたと思うととても、嬉しかった。初めて勇気が、出た。

 そのまま俺は、一度も家に帰らなかった。

 もう五年。ただの一度も。

 一人暮らしのマンションには、弟が時々遊びに来てくれるだけ。それでよかった。シアワセ、だった。

 

 見合いの話しは就職してからも何度かもちこまれたが、話をきかないうちに俺は電話を切った。

 しまいには、電話自体に出なくなった。回線は通信に使うだけ。連絡は携帯でこと足りた。弟と、連絡を取れれば俺は、それでよかったから。

 のびのび暮す俺と裏腹に、両親はゆっくりと、俺の真意を悟ったらしい。

 盆正月には戻って親戚に挨拶しなさい、という叱責がやがて、なにも怒って居ないから顔を見せに来なさい、になって。

 啓介を通して、何がイヤなのかと、尋ねてくるように、なって。

 最近は、泣き声。悲鳴のようなFAXが、ほら今年も届いてる。日付は元旦。もう何年、あなたの顔を見て居ないでしょう。啓介も帰国せず寂しい正月です。帰宅なさったら、せめて電話をしてください、って。

「……お帰りィ」

 FAXを眺める俺に、リビングからひょいと顔を覗かせて声をかけたのは、帰国していない筈の、弟。

「今、メシ、あっためてるぜ。車が入ってくんの見えたからさ。風呂も湯、入れてるけど、どする?」

「あぁ、ありがとう。後で駐車場まで一緒に来てくれるか」

「なに、エンジンの具合でもおかしい?」

「いや。お歳暮を貰ったんだ。美味しそうな缶詰があったから、あとで料理して」

「いいよ。蟹?」

「そう」

「あんたが風呂、入るならそのうちにとってくるけど」

「一緒に入ろう?」

 微笑む。

 いとおしい、男に。

 優しい甘い俺の弟は、優しい目の奥に雄の熱を生じさせて。

「風呂もいーけど、じゃ、ヒメハジメから、しねぇ?」

 ガスの火を止めてゆっくりと、近づく。

「ちょっど三日だし」

「……、くせに」

「ん?」

「年末はヤリ収めって、ムチャクチャした、くせに。……腰が痛かったんだから」

「胸は?」

「んッ」

 右手をセーターの上から這わせて、左は裾をスラックスから引き出す、悪戯な男。

「俺にさぁ、触って欲しくてジンジンしなかった?」

「……、バ、カ」

「俺は、アネキにイレたくって、どきゅんどきゅん、してたぜ?」

 嘘ではない、証拠に擦り付けられる、弟の前はもう、怖いくらい硬くて、熱い。

「だっこ、していい?」

 セーターの下からスラックスの裾から、手を入れられて、探られて。もう俺もアツイ。ぎゅっぎゅ、と揉みしだかれる胸の先端も、下肢の花びらも。

 頷くと抱き上げられて、奥の寝室に運ばれる。寝台に身体を伸ばす間もなく、重なってくる堅くて大きな男の、体。包み込まれる感覚が……幸福。

「この花にさぁ」

「ちょ……、けー、だめ……。洗ってくる、から、ま……」

「ちゅーしたくって、俺にっぽんに帰ってくるんだわ」

「あ……、ァッ」

「……ん?」

 

 一戦、いや三戦を終えて。

 息をきらす俺の背中にキスして、弟は出て行った。ドアの音がして、帰ってきたと思ったら両手にいっぱい、箱を持ってる。貰ったお歳暮のおすそ分けの箱を。院長の息子が二度にわけて運んだのを、一度にもって、軽々と。うっとり俺は、それを眺めた。素敵な姿、だった。

「ワインがある。開けよか?」

「……うん」

 俺の好物と知って、箱をあけ瓶を取り出し、コルクを抜いてグラスに注ぎ、掌で暖めて渡してくれる優しさ。ぐったり身動きできない俺を背後から抱きかかえて。

 こく、と俺は、グラスに口をつける。

 こくこく、真紅の液体を飲み干す。

 赤い色のワインが好き。罪ぶかい、味がするから。

 空のグラスを何を思ったか、弟は俺の下腹でひっくり返す。底に残った雫が腹から、腿の間に糸引いて流れる。

「……あんたが、こーだったとき、さぁ」

「覚えて、ないよ」

「あんた酔ってたからな」

 酔わせて、ろくに身動きできなくなった俺を、弟が抱いたのはもう随分、前。

「びっくりしたよ。……俺、デンセツって思ってたから」

「何を?」

「処女が血ぃ、でるって」

「出ない人も、居るけど」

「キムスメ俺、何人もヤッたけど、出たのいなかったよ」

「……自己申告の処女なら、そうかも」

「いまだにあんただけ、なんだ。あんた俺の、一番ダイジな人、だよ」

 罪深さを。それでも、俺を愛しているだと。

「いーよな、別に、結婚しなくっても。俺がずーっと、一緒に居るから」

「……うん」

 そう、これは俺の、男。

 あの家から、奪い取った俺のもの。

 何一つ、あそこには残さない。

 暖かい、優しいものは、一つも。