序幕 罪名は大量虐殺。及び『天使』逃亡幇助。 言い渡された刑量は恩赦されようのない二千七百年。そして。 「ウィリサ王国には経済封鎖、国王は連邦公民権剥奪」 自身の刑量には眉一つ動かさなかった被告が顔を上げた。まだうら若い女。切れ長の目尻のきつさが印象的な。 結い上げた黒髪が白い肌に栄えて、まがまがしいほどに、艶。 艶な容姿と裏腹に、肝は座っているらしい。すりばち状の法廷中央、四方から眺め下ろされながらひるみもおびえも見せない。 澄んだ緑色の瞳で正面を見る。 「と、いうのが連邦政府の内定だ。隣の星を滅亡させてまで守った故郷だが残念だな」 ウィリサの経済は貿易収入で成り立つ。経済封鎖をうければ収入の途は断たれる。惑星は飢餓と貧困に満ちるだろう。 君がやった事は無駄な足掻きだったと、笑った陪審員を被告はチラリと見た。睨んだというほと露骨ではない。 でも目線一つで陪審員はふっと笑いをとぎらせる。 被告は視線を前方に戻す。そこに座るのはクライ・ダッカ将軍。通称、ジェネラル・クライ。連邦宇宙軍総帥にしてこの法廷の責任者。 被告は彼の発言を待っている。 取り引きの条件を。 単に判決を言い渡すだけなら、深夜に秘密裁判を行う筈がないから。 「ジェイド・ディ・ロイヤル・グラッパ・オン・ウィリサ」 将軍は被告の名を正確に発音。 「君は実に優秀な軍人だ。しかも若い。君がその能力をいかして我々の事業に貢献するならば、我々は君に代わって連邦と交渉する用意がある」 被告は微動もせず将軍を見据えている。 「君の母星に対する措置の撤回を連邦政府に申し入れてみよう」 文民統制の建て前が緩みがちな昨今、軍は連邦にかなりの影響力を持つ。 「今、この場で答が聞きたい」 「そのように」 それまで完全な沈黙を続けていた被告が短い返答。その一言に法廷全体がどよめいた。 彫像が喋ったような違和感があった。違和感はそのまま存在感でもある。たった一語で場を支配する、被告は確かに超一級の将校。 「重畳」 将軍も短く答えた。紳士的な雰囲気を持つが、その目は決して笑わない。 「それでは後ほど詳しい打ち合わせを。今夜のところは宿舎へ戻って、身体を休めておくがいい」 係官に案内され被告は退席。場の空気を締め上げていた彼女が居なくなって、途端に法廷には吐息とも溜め息が満ちる。 「……聞きしにまさるふてぶてしさですな」 「私は奴の父親を知っていますよ。立憲君主ベストテンに入る男です」 「よく似ている。顔も気性も」 あちこちで交わされる、雑談とも談合ともつかぬ囁き。 「しかし事実なのか、あれが、その」 「間違いありません。彼女とは親しかった密貿易商人、個人的な軍事顧問でもあった、手配ナンバー1313。 正体は六枚羽根銀色の大天使です。彼女を愛していたらしい。強姦された痕跡は身体中に明瞭でした」 「合意の上ではないのか?天使が人をレイプするような事があるのかね?」 「あれも生きものらしいですので、場合によっては。前例はごく希ですが、全く皆無ではありません」 「美人でないことはないが、男を迷い込ませるには風情が足りない」 「どうしても信じられないなら服を脱がせてみますか?背中も胸も手足も引っ掻き傷とキスマークだらけだ。 普通の抱き方ではああはならないでしょう」 男たちのざわめきを、 「きれいな顔だわ。身体も素敵」 澄んだ女の声が切り裂く。全員が振り向いたそこには真紅のスーツを着た美女。 スーツの色と合わせたマニキュアの指先を誇るようにひらひらさせている。年齢は四十歳前後。熟女の蠱惑に満ちた黒目がちの目尻には泣きぼくろが一つ。 「あれで中身も本当に優秀なら、是非ともセンター職員に迎え入れたいわ」 「軍人としての評価はSSSランクだ」 女に答えてやったのはジェネラル・クライ。 「あんな辺境惑星の王女が?」 「去年行なわれた星域合同演習では防衛軍による封鎖ラインを易々と突破。反転し主力部を痛打、反撃を受ける前に撤退という戦果をあげている。 防衛軍一万二千隻に対して彼女が率いていたのは一千八百。試算された被害は防衛軍三千二百に対し、彼女の部隊は僅か七十八」 「凄まじいこと」 「それでもあの王女は手を抜いていたと、我々の間では評判になった。あの利け者が本気でやったら、七十八もの損害を出す筈がない」 「天才、というやつ?」 「そんなモノだ。今回の騒動でも連邦の誇る精鋭部隊をまんまと捕虜にしている」 「殺すには惜しい才能、という訳ね。優秀な若者に嫉妬しながら無視しえない、偉い様がたの呻きが聞こえてきそうな処置」 女はひどく楽しげに笑った。 「まぁでも、殺すのはもったいないって、あたしも思うわ。使徒化はしていないのでしょ」 「兆候は見当たらない」 「本人は天使をどう思っていたの?」 女の質問に、ジェネラル・クライは背後に控えた白衣の者たちを振り向く。 「考えてもみなかったというのが真実らしいです。力ずくの完全なレイプであったことは外科精神科ともに医師が証言しています。 衝撃度は肉体がプラス4、精神が5。ほぼ六割が男性恐怖症になる数値です」 「ところで、その、天使が彼女を、あれだ。愛していたとすると、連れ戻しに来る可能性はないか」 ジェネラル・クライの質問に、 「それくらいなら、捨てて逃げないでしょう」 答えたのは女。毒花のように赤い唇。目許の泣きぼくろのせいか笑うとかえって、深く嘆いているように見える。 「捨てられたのか、彼女は」 「空港で、囮のようにされて」 女の目が細められる。痛々しい気な視線は法定の中央、すでにそこには居ない被告人に注がれている。 「捕獲部隊が彼女を捕えている間に、天使はまんまと逃亡しました。騙されたうちの職員も阿呆揃いですわ」 「彼女を気に入ったかね?」 問われて女は艶やかに笑う。 「素敵な人と、申し上げました」 「では彼女をあなたに委ねよう。ミズ・アヤコ。あれは猛毒の蛇だが、あなたの匙加減なら薬にかえられるかもしれない」 その場では、女は軽く頭を下げておいた。 閉廷後、将軍と女は連れだって外へ。軍の要人たちを迎える高級車の列。 幅と厚みを備えた重厚なボディーの群れに、流線型のスポーツタイプが一台だけ紛れ込んでいる。 目立たないよう路肩に寄せられたそれに女は目敏く気づいた。薄いシールドをおろした内側、運転席。 ハンドルに肘を乗せ顎を預けている男を見て女は眉を寄せる。 「……ご子息ではありませんの?」 女の質問に将軍は苦笑。 「そうだ」 「父上をお迎えに来られたのかしら?」 「私ではない。今夜の被告をな」 「送り迎えをさせているんですか、ご子息に。優しい措置だこと」 「私の指示ではない。勝手にしている」 「まぁ」 なんだか楽しげに女は声をあげる。 「まるでロミオとジュリエットだわ」 「そんな上等のものではない」 「戦争犯罪人とそれを裁く連邦総司令官の息子、禁じられた恋ね」 将軍の表情が苦々しくなればなるほど、女の声は朗らかに澄み渡る。 「そんなものではないと言っているだろう。彼女の方は相手にしていない」 「捕虜にされた精鋭部隊というのはご子息の軍でしょう?」 女の瞳が意地悪くきらめいて、斬りつけるような質問。苦虫をかみ潰したような顔で将軍は、 「そうだ」 短く答えた。 「愚かものが、そうまでされても目が覚めないらしい。わたしが彼女に危害を加えるのではないかと警戒している。 最近は屋敷にも帰らず、彼女を監禁しているビルの宿直室から勤めに通っている」 「それはそれは、ご熱心だこと。分かるわ、あんな素敵な人になら騙されてみたい気がするもの」 「そんなにいいかね、あの女が」 ジェネラル・クライは口元を不快そうに歪めた。 「私にはそうは思えないのだが」 「目の覚めるような美女ですわ」 「美人というのはあんなものではない。あれの父親は世紀の色男だったが、あれは少しも父に似ていない」 「将軍のお好みでなかったとしても」 女は艶然と微笑む。 「素晴らしい美人よ。あたくしの、とても好み。きっとジュニアも、お好みなのでしょうね」 「女にいれこんで立場を忘れるとは、情けない奴だ」 「そんな真似をなさるジュニアを、将軍はなぜお許しになるの?」 「言ってもききやしない」 「我が子というのはそんなに可愛いもの?」 「あなたも子を産めば分かるだろう。産んでみるかね、私の子を」 「そうね、そのうちに」 「楽しみにしているよ」 将軍と女は別々の車に乗り込む。将軍を乗せた車が発進するのを目の端で眺めながら、女は呟く。 「相変わらず、愚かなことばかり仰る方。毒気の抜けた女に魅力などないわ。……それに」 泣きぼくろの目尻がきらり、憎しみを孕んだ。 「女が子供を産みたいと、思う男はあなたのようなタイプではないわ」 Proof OF Soul and Body 陽は沈んだが、磁石を埋めたアスファルト道路が昼間の熱を吐き出し、今夜も熱帯夜になりそうな夕暮れ。 公務出張から恋人が戻ってきた。といっても、自分の足で歩いてドアを開けただいまと言ったわけではない。 「本当はセンターの診療室で二三日、様子を見たいんですが」 彼女は医療用担架に乗せられ運び込まれた。いつもそうなので驚きはしない。いつもと違うのは付き添いに、ひどく挑発的な目をした少年がついてきている事。 「本人がどうしてもという言い置きでしたので、こちらにお連れしました。お仕事が忙しいようでしたらセンターで引き取ります」 「……いや」 同棲中のマンションのドアを大きく開く男は、中央市街地の大通りに事務所を持つ航路設計士。 若いが腕は抜群で、航空宇宙局の外注も務め高額納税者番付に載る。 「引き取ろう。部屋に運んでくれるか」 担架は天井の高い広々としたリビングに運び込まれる。他人が居なくなってから男は、シーツを掴んで床に落とした。 現れたのは見慣れた寝顔。つむった睫はぴくりともしない。熟睡というより冬眠、仮死に近いような、そんな深い眠り。 男は眉を寄せた。眠っている事にではなく恋人が特殊防疫センターの戦闘服を着込んだままだったから。 「……、ジェイ」 耳元に唇を近づけて名前を呼ぶ。恋人は目覚めない。手を伸ばし、まず髪をほどいてやった。漆黒の絹糸がとぐろを巻こうとする蛇のようにうねる。 それを緩く編み直した後、男は彼女の服に手をかけた。肌に吸つく耐衝撃繊維の服はひどく脱がせにくい。 「またこんなもの着たままで眠って。身体に悪いっていつも言っているのに」 シャツと一体型の防弾チョッキに手こずりながら、男は呟く。独言だが愛しげに。 「眠る前に、せめて着替えるくらい、大した手間じゃないでしょう……」 つぶやく声が途切れ、服を脱がせる手が止まる。西空の残照も消えて急速に夜になってゆく室内。男は呆然と恋人の、紅く色づいた胸元を眺めていた。 翌朝。 「ちょっと、薄情過ぎるんじゃないか?」 朝食の食卓に一人分しか用意されていないのを見て起きてきたJ・Iは言った。 シャワーを浴び髪を湿らせたままのバスローブ姿。水気を吸って透明度を増した素肌はリビングに満ちる朝の光を一身に集めたよう。 濡れた前髪を掻き上げる野性的な仕種と繊細な顔立ちがアンバランス。肌だけでなく瞳にも強い光が宿り、二十代半ばの彼女をときおり少年じみて見せる。 「……おはようございます」 男は丁寧な口調。でも声は少し低い。 「食事はあなたのものですよ。私は食欲がないんです」 あぁそう、とJ・Iは言って椅子に座る。ローブの裾が割れて、見事に引き締まったふくらはぎが見える。 白大理石のテーブル、彩り鮮やかなマティオの皿とカップ。桜材の椅子。豪奢な家具や食器と怠惰な美女との組み合わせを、男は苦しいような目で眺めた。 真っ白な牛乳のグラスに彼女が手を伸ばした瞬間。 「アンダースーツをつけていませんでしたね。誰に脱がせてもらったんですか」 「……え?」 思いがけない問いにJ・Iは男を見る。男は顔を上げ、真正面からJ・Iを見返した。 視線はごく生真面目で、J・Iは、バスローブに包まれた自分の胸元を見下ろす。 ゆったりと着た襟の合わせは緩く、見える谷間はかなり深い。膨らみの左側に鮮やかな赤い痣。 「お前だろ?」 「違うから尋ねているんです」 「……え、冗談」 女は、否定を求めて眉を上げる。 男は、不機嫌を固めたような沈黙。 「嘘だろ。なに、もしかして」 彼女はミルクのコップをテーブルの上に戻した。 「でもシャトルに戻る迄は意識があったし、シャトルからここへは直行した筈だし」 「シャトルの艦長はいつものあの男だったんですか」 「そう……、だけど、まさか」 「何がまさかなんです。私と暮らしてるって知っているマンションに、堂々と地上車を贈りつけてくるような男」 「あれはそういうプレゼントじゃない。軍部のドジを庇ってやったから、賄賂だ」 「気をつけろと私が何度言ったか。あの男があなたを愛してることはずっと前から分かっていたでしょう」 「違う。あいつはこういうやり方はしない」 「信じているんですか。男なんてものは」 「男が信用出来ないモンだってくらい、お前に教えられてよく知ってる」 言い切った彼女に男は瞬間、口を閉じた。 「……そうじゃなくて、あいつは私に勝ち名乗りを上げたいんだ。盗みとるような真似はしない」 J・Iの目には確信があった。だったら、と、男は口を開いた。 「あなたを送ってきた子供が居た。私の顔を見て、笑った」 「……ソニア?」 名前を言って顔を上げた瞬間、J・Iの表情が揺れる。 「名乗りませんでしたが、可愛い顔していました。女名前をつけられる程度には」 「じゃあソニアだ。今回のチームに十代はソニアしか居ない。……でも、あの子が」 「覚えていないんですか、本当に?浮気じゃなくて強姦だったんですね?」 「レイプっていうのか、こういうのも」 ため息のようなJ・Iの声。 「なんにも覚えてない」 「馬鹿な」 男の激昂はいきなりだった。J・Iの襟首を掴んで引き寄せる。混乱するJ・Iは男の手を振り払うどころではない。大理石の冷たいテーブルに磔にあう。 「アンダースーツ脱がされてたってことは全裸を見られたって事ですよ」 「……そのくらい分かってる」 J・Iは無意識にバスローブの襟をかきあわせた。そんな事をしても赤い欝血が消える筈もない。 「見たのか、お前」 「見ましたよ、隅々まで」 「……まいったな」 ヤバイ事実を、よりにもよって一番ヤバい相手に、自分が知るより先に知られてまった事実。 J・Iは頭を抱えてその場にへたりこみたかった。襟を男に掴まれていたから出来なかったけれど。 「でも本番はされてなかった、よな?」 男はJ・Iの問いには答えず、 「あの子供の住所は?」 別のことを尋ねる。 「だったらレイプってほどでもない。痴漢か悪戯だ。騒ぐほどの事じゃ……」 「子供の住所、ですよ。センターの独身用官舎ですか」 「なんでそんなの知りたがる」 「あなたに触ったかもしれないからです」 「教えたらどうする。殴りに行くのか」 「事情次第では、殺すかもしれません」 「……あのな」 J・Iは呆れて、とぼけてしまおうとした。けれど男に顎を掴まれ、正面から見据えられる。強ばった表情を無理して和ませて、男はJ・Iに笑いかける。 「あなたに怒っている訳ではないんです」 「口元、ひきつってるぞ」 「合意の上でなかったというなら子供の住所を私に教えてください。それであなたは免責です。後の始末はわたしがつけます」 「大袈裟過ぎる」 「そんな事ありませんよ」 「下手に騒ぐと薮蛇になる」 「噂を蒔かれるって意味ですか。そんなしくじりはしません。確実に口を塞ぎます」 言いながら男は彼女に唇を寄せた。押しつけられ、促すように上下に開かれて彼女は隙間をつくってやる。 男の舌がそっと、歯列の奥の女の柔らかな舌に触れる。 久しぶりのキスは、でもけっこう大人しく終わった。二人ともそれどころではなかった。 「ソニアかどうか、確信もないのに」 目を伏せて大人しくされるがままだったJ・Iは、しかしキスが終わった途端、いつもの口調を取り戻す。 「いいから住所を教えて下さい」 「……言えない」 誤魔化しきれないことを感じようやくJ・Iは観念した。観念して本当のことを言う。 「そうだったとしてもあんな子供、お前に殴らせる訳にはいかない」 「庇うつもりですか」 男はひどく傷ついた表情を浮かべる。 「あなたは、平気なんですか」 ほの暗い目をして、男は語りかける。静かな口調がかえって恐い。 「私じゃない男に乱暴されて、それでも平気なんですか」 「……平気じゃない。平気な筈ないだろ」 咄嗟に否定するJ・I。男は目を合わせたまま、首を左右に振る。 「平然として見える。落ち着き払っている。少しも悔しがっていない」 「……見えるだけだ」 「嘘つき」 「本当だ。平気じゃない」 平気じゃないのは、本当の事だった。もっとも理由は男とは異なっている。 裸にされ触れられた事実に自体は騒ぐほどの事でもない。問題は、誰に、何を見られたのか。 もしかして、あの子供にだったら。 この胸の、花を見られたのだとしたら……、どうする。 考え込む彼女に男の手が伸びてきて、彼女の思考をとぎらせた。 抱きしめられる。バスローブ一枚の身体はごく簡単に素裸に剥かれる。 J・Iは身体から力を抜いて手足ごと委ねた。差し出されたしなやかな身体を男は、ひき絞るように抱きしめた。 はだけた胸元に幾つもの欝血。そしてそれらの親玉のような、赤いバラの刺青。 「見せたんですか、これを」 「……見られただけだ」 「同じことです」 「ずいぶん違うぜ、女にとっては。……男にとっても見るのと見せてもらえるのとじゃ、だいぶ違うと、私は思うけどな……」 男の返事はない。 時はほぼ、一週間遡る。 場所は戦乱が続くISO−9002地区。惑星連邦の直接管理星域外の辺境。血と硝煙の匂いに包まれた後進的自治領。 その第七惑星、テペオの南半球を領地とするウルド側と、北半球のワイ側の最終全面衝突が行なわれようとしていた。 双方ともに連邦の和平交渉を受け入れる意志はない。 当事国からの要請がない以上、連邦は動きがとれない。 地球歴時代、かつて国連と呼ばれた組織が超大国による内政干渉の場として利用され、それに反発する形で第三次世界大戦が勃発した教訓があるから。 連邦は各惑星の自治権を尊重せざるを得ず、和平使節の乗ったシャトルは文字どおり宙に浮いた。 「ウルド側の宇宙港使用許可がおりたぜ、和平使節代表殿」 シャトルの一番上等な部屋に艦長がやって来たのは宙に浮いて三日目の夕。 全面ガラス張りになったデッキでソファーに仰向けに、転がっていた彼女は読んでいた本をテーブルに放る。そして寝たまま、煙草に火をつけた。 「午前中は無理だった。明日の正午きっかりの着岸だ。……なに読んでたんだよ、『星の王子様』ずいぶん退屈だったらしいな」 艦長の言葉に彼女は目もとで笑ってみせるだけ。 そういう表情をしている彼女は、繊細さよりあざとさが勝って見える。 夢魔になって他人を苦しめそうな毒のある美貌。伏せられた目の、睫は長いが、睫以上に人目をひくのはアブナイ光りかたをする両眼。 アブナイ筈で、それは軍人の目だ。幼い頃から鍛え上げられた、骨の髄から粋の、職業軍人の目。 艦長は彼女のその目を少し眩しげに見た。彼自身も五歳で軍幼年学校に入学して以来、二十近いキャリアを持つ軍人。 でも純度が彼女には負けるような気がする。ずっと昔からなんとなく、永遠にかなわない気がしていた。 「どんな魔法を使ったんだ、金か?」 「……オンナ」 低く呟き、煙草を消して、彼女はゆっくり起き上がる。動作はゆっくりだが、侮りがたい力に満ちていた。 猫科の野性獣じみたしなりが、布地ごしに見えた気がして、艦長は胸苦しさを感じる。 「明日にも戦争で死ぬかもしれないって時に女か。よくやるぜ」 沸騰しかけた欲情を押し殺す為に、わざと陽気にそう言った。 「じきに死ぬから、だろうさ」 「あの世に持っていけない金を数えるよりは現実的かな。色欲は物欲より強いって事か」「違う。ウルドの国王の女を地球に、亡命させてやるって言った」 「出来るのか、そんな事」 艦長は眉を寄せる。地球の住民権獲得は難しい。そこに住めるのは連邦の中央職員と限られた富裕層、選び抜かれたエリートだけ。 自治領区の人間が移民することは簡単ではない。戦乱区域なら尚更。 「移民局に書類は送った」 「返事が来るまで連中は生きちゃいないって腹か。相変わらずやる事が汚いぜ、J・I」 それはイニシャルではなくて通称。彼女の本名はずいぶん前に殺されてしまった。 「まぁ、あんた昔っからそうだったよな。やり手だよ、汚いけど」 挑発的な艦長の言葉。けれどJ・Iの反応はない。無表情というよりも、艦長の言葉に反応することを面倒がっているような横顔。 「天使の目星はついてるのか」 「あぁ」 詳しい内容をJ・Iは話さない。それは連邦最高機密に属する。 銀河系全体に広がった人類の活動域。惑星や人工衛星等、人は宇宙に三千を越す拠点を持っている。その中で惑星ごとの、『消滅』が流行りだしている。 惑星消滅の原因は『天使』と呼ばれる者たち。人間同然の容姿で、多くは若く、麗しい見目。 或るものは知性的、或るものは享楽的、個体差は大きく類型は定め難い。 連中は人間の間にそっと種子を植え、種子は不和や不審、争乱といった要素を養分に発芽する。 やがて巨木となり枝を伸ばし根を張って惑星を破壊する。パオパブの木のように。 「間に合いそうなのか」 「私たちの仕事はいつでも手遅れだ」 けれど宇宙は広すぎて、禍は大きくならねば連邦の目につかない。目に付くほどの巨木に成長しなければ禍は悟られず、悟った時には全てが遅すぎる。 「ボス、ミューティングの時間、……っと、失礼。なんか大事な話してた?」 ロックしていなかったドアが開いて、顔をだしたのはまだ少年。活きのいい目がひどく印象的な。 「もぉみんな集まってるけど、あんた来る?」 「いや。伝えておけ。明日の正午、ウルド上陸後ただちに王宮に侵入、天使を捕獲する。各自用意をしておくように」 「オッケ。ようやくか。腐りそうだったぜ」 ふざけ半分の言葉と可愛げのある笑みを残して少年は踵を返す。ドアが閉まった後で、 「やけに懐かれてるな。ノックもなしで部屋に出入りさせてんのか。用心しろよ」 「なんの用心だ」 「そりゃあ、その」 なんだよと、訳の分からない事を言う艦長をJ・Iはちらりと見た。 「気をつけなきゃいけない相手は別に居る気がする。あいつは可愛い。お前が私の部屋に入ったから心配して、様子見に来たのさ」 「なんて名前だったっけ?女みたいな」 「ソニア。あんな可愛い顔して前科十八犯の、特別減刑中だ」 連邦からの停戦交渉使節、というのは化けの皮。彼らの正体は、特殊防疫センター特別職員。一千万人に一人の適性といわれる、対『天使』捕獲部隊の、選りすぐりたち。 天使の存在は極秘。無用な社会混乱を避ける為に。当然、対天使部隊も極秘事項で、彼らは全員、連邦職員として仮の名前と経歴を与えられている。 その前歴は様々。高給につられて故郷と家族と前半生を棄てたろくでなしたち。太く短く稼いで大金を貯め安楽な後半生を夢見る、傭兵気質はまたマトモなうち。 なかには狩人の適性を持つ犯罪者、それも死刑や無期懲役の重罪人が減刑もしくは無罪と引換に自分自身をセンターに『売り渡す』場合もある。 「あの若さでこれから一生、監獄の中で過ごしたくはなかろうよ。……ここも似たようなものだが」 どうでもよさそうにJ・Iは呟く。艦長は下手な感想を挟めない。暫く固い表情でおし黙っていたが、 「……車、気に入ったか」 話題を変えてきた。 「あぁ。でもなんかやけに大きかったな。私が寄越せって言ったのは外交官ナンバーのプレートだけだった筈だが?」 「本体は俺からの感謝の気持ち」 「賄賂ってバレちゃまずいにしろ、もーちっとましな手段を考えさせろ、今度から」 「添えた花束の感想は?」 「そんなもの見てない」 「気に入らなかったのか。百合の匂い、嫌いだったか」 「百合だったのか……」 J・Iは、今度はひどく嫌そうな顔をした。 「考えたのは俺だ。本当は薔薇にしようと思ったが、気に入った色のがなかった。いつか見つけたら贈り直してやる」 「願い下げだ。機嫌が悪くなる」 「一緒に暮らしている男の?了見の狭い奴」 艦長の挑発にJ・Iは肩をすくめるだけ。 「いつまでセンターの手先をやってるつもだ」 もう一度、艦長は攻め口を変えてみる。 「二年、いや、じき三年になるか。あんたがセンターの囚人になってから。すぐに何かを起こすと思ってたのに」 「何かってなんだ」 「何かさ。あんたは何するか分からない奴だ。なのに軍と防疫センターの思惑通り天使を狩ってるのは恋人が出来たからか。 そいつと暮らせれば飼犬の境遇でも満足なのか」 「……昔のことは禁句の筈だ」 ふたたび煙草をくわえるJ・I。 「あんまり不穏当な発言をするなよ、クライ」 「俺は」 煙草の先に火をつけてやる艦長。 「あんたを同類と思ってた。今も思ってる」 「どうかな」 「どう考えてもあんたには俺の方が似合いだ。あんな普通の男と暮らしてて飽きないか。あんたの本当の事を何も知らない奴と」 煙を吐いて煙幕をつくり、聞こえなかったことにするJ・I。 「今からでもいい、俺を選べよ、J・I。センターの飼犬なんて似合わないのは辞めてこっちに戻って来い」 「こっちって、どっち」 「こっちさ。悪巧みを仕掛ける、黒幕、暗躍、組織の構成員じゃなくて天辺。あんたが馴染みのこっち側」 「そんな結構な立場だった記憶は一度もない」 「連邦軍のなかでもあんたみたいな抜群の軍略家を籠の中で飼ってるのは惜しいって、言ってる奴等いっぱいいるんだぜ。軍に来れば即、あんた俺の参謀主席だ」 「ジェネラル・クライが承知しないだろう」 「親父は実力者だが、だからって何でも出来る訳じゃない。俺の幕僚構成にまで文句言わせねぇよ。あの人の職権外だ」 「お前が私を部下にしたがるのは私に負けたことがあるからか?」 なんでもないような口調でJ・Iは、とびきりの切り札をだしてきた。 「こだわってないってったら、嘘だな」 艦長は、少し目を細めながら答える。 「俺は男だし、あんたを好きだし」 そう言って近づき、腰を屈める。J・Iの唇を狙っている。狙われているのを知りつつJ・Iは接近を許した。そして唇が、重なる寸前。 「……ウグッ」 艦長は呻き声を漏らした。深々と肝臓に突き刺さるJ・Iの左拳。肘の回転を利用した見事な肝臓打ち。 ご丁寧にライターを握り込んで威力を増してある。マジできいたらしく、艦長の動きが止まる。 屈んで腹を庇ったところに右をアッパー気味に顎先にもらって、艦長は膝をついた。 「……俺、なんか、あんたの前でよく床に転がってる気がする」 三半器官を揺らされて立てない事を誤魔化そうと、途切れ途切れ、艦長は語る。 「情けねぇな。格好つけたいのに」 「本当は気持ちいいんじゃないか?」 不審顔でJ・Iは、床に落とした煙草を拾って灰皿で消した。 「他人をマゾ扱い、するなよ。……バレたか。惚れた女の前で情けないのって……、実は時々、快感だったりしてな」 「珍しくもない。私がもてるのは昔から、女とホモとマゾヒストにだけだ」 J・Iはドアを指さす。艦長はよろめきつつおとなしく退室する。立ち去り際、 「あいつに飽きたらすぐ言えよ。あと腐れなく、始末してやるから」 物騒な台詞を残して。 翌日、昼下がり。 「天使って、何体くらい居るんでしょうね」 移動するジープの上でJ・Iに尋ねたのは『ソニア』。女名前をつけられるくらいの美少年だった過去は、そう遠い昔ではない。 「見当もつかないな」 サスペンションの悪いジープの荷台でJ・Iは答える。現地の傭兵部隊の迷彩服を着込み、タイヤが軋む都度、激しく舞い上がる砂を上手に避けながら。 片膝立ててライフルを抱いた、行儀がいいとはお世辞にも言えない姿が妙にきまっている。 「ボスなら分かるんじゃないですか。天使の事には随分と詳しいって聞きましたよ。……いろんな事」 意味深な言葉に一行はぎょっとする。それを後目にJ・I自身はしれっとした顔で、 「お前がそう言う訳は、私が天使と寝た事があるからか」 とんでもない事を自分から言い出す。 「まぁ、そうです。後学の為に聞かせてもらえませんか。ウルドの国王も骨抜きになってるみたいだけど『天使』ってのは、そんなにイイもんですか」 「講義で習わなかったのか?『天使』の、見目と身体はとびきりだ」 「授業より実地教育の方が役に立つもんでしょ。それにあなたは体験者なんだ。しかも天使に、誘惑されたんじゃなくって強姦された珍しい体験者」 ジープの、そう広くもない荷台の上で空気が凍りつく。 「一体の天使に汚染された人間は別の天使に対しては免疫を持つ。あなたは天使に強姦されて、なのに精神同調して使徒化しなかった希有の人だ。 だから三年前、センター入りした当初からSランクで、天使をまるで鹿か猪みたいに狩れる」 可愛いさの残った顔立ちの中、ソニアの目だけはしたたかにJ・Iを見据えている。J・Iは凝視されても敵意を見せずソニアの言葉を聞いている。 泣く子も黙る天使狩りのスペシャリスト、何者も追随し得ない実績をあげ、次期局長との呼び声も高いJ・I。 無口と無愛想では知られた彼女が、実は案外年下に甘い女だと、それはごく最近周囲に認識された事実。 「教えて下さいよ、そういう時、どういう気持ちなのか」 「ソニア」 きつい口調で名を呼んだのは質問されていたJ・Iではなく助手席に座っていた男。チームの副官で、通称はリンクス。 浅黒い肌と鋭い目をした彼はボスであるJ・Iよりも、幾つか歳は上だろう。 「いい加減にしろ、お前」 怒鳴りつけかけたリンクスの口を、J・Iが手を振って止める。後部の荷台へ、半ば体を乗りだしかけていたリンクスは不承不承、シートに戻る。 J・Iに庇われたソニアは嬉し気に、 「その時あなた、処女だったんですか」 調子に乗ってさらにとんでもないことを言い出す。 「まぁな」 口を開いたJ・I。同乗者たちの間に無言の動揺が起こる。こんな無作法にねだられて彼女がまさか、喋り出すとは思わなかったのだ。 助手席のリンクスはぎょっとして振り向き、J・Iと目があってあわてて前に向き直る。 「教程本にも乗ってる事例だがETS0013地区で、人工衛星落下に私の母星と連邦軍の一部まで巻き込まれそうになった時だ。 母星の安全と引き換えに雄型の天使と寝た」 「そうして免疫を手に入れた」 「免疫っていっても完璧なものじゃない。私だって天使の精神波はきつい」 「でも抵抗力は、普通の人間とは比べものにならないでしょ。ところでその天使との、セックスなんですが」 「発音が下種だな」 変なところで、J・Iは笑う。 「訖音は止せ。せめてセクスって言え」 「天使のセクスはよかったですか」 「最低最悪だったな。だからこそ私は使徒化もせずここに居る」 「具体的にどんなふうに最低最悪だったんですか。強姦っていってもいろいあるけど、取り引きだったの、それとも力ずく?」 「完全に力ずくだ」 「怪我させられた?」 「あぁ」 J・Iが懐から煙草を取り出す。ガタガタ揺れる足下に気をつけながらソニアがにじり寄り、その煙草に火をつけようとした。 J・Iは懐から自分のライターを取り出そうとしていたがソニアの行動に気づいて待ち、差し出された火を受ける。そして、 「お前、十六だろ」 ソニアが持っていたライターを取り上げ、 「……個体数のことだが」 話題をもとに戻す。 「天使の存在と活動が確認されたのが三十年ほど前。現在、確認されている個体数は684体。うち、防疫センターで凍結中なのが58体、残りは捕縛に失敗した。 一度逃がした天使が再び姿を表わした事例は殆どない。今回の天使もこれまで全く存在を知られていなかった。だから、何体居るかなんて見当もつかない」 薄い唇をすぼめて実にうまそうに、J・Iは煙を吐いた。 「個体総数どころか私達は連中がどうやって派生しているかも分かっていない。 学者たちの間には遺伝子プリント説、血統説、確率説、環境説、突然変異説、ウィルス説、いろいろありすぎて収集がついてない。 天使どもの目的も、天使間の連絡や命令系統の存在も、寿命も交配時期も繁殖場所も何もかも分からない。 だから今、私たちに出来るのは見つけた天使を捕獲して凍らせる事だけだ」 そこで短い沈黙。 「それで話、終わりですか」 「他に何を聞きたい」 「教程本に書いてなかった事、教えて下さい」 J・Iは苦笑する。苦笑とはいえ彼女が笑みを、見せるのはごく珍しい事。 「私には守秘義務がある。下手な事は言えない」 「誰にも言わないから」 周囲に聞こえているのを承知でソニアは甘ったれてみる。困ったなという顔で、J・Iは何かを考え、そして。 「天使の羽根ってのは、結構、曲がる」 「曲がるって?」 「腕の関節みたいなもんでな、軸と接合部が、それぞれ回転する。腕同様に何カ所か折れるし。だから案外、器用にモノを抱きしめる」 「抱きしめられたの、あなた」 「血が通ってるぞ、あの羽根」 「暖かかった?」 「あぁ」 「……ふーん」 何故か少年は面白くない顔をした。 「ついでにもう一つ聞いていい?」 「私が答えれる事にしろよ」 「天使と一度でも寝た人間は不感症になるって教えられたよ。でもあなた今、男と同棲してるから、あれはデマなの。 それとも相手の男が噂どおりあなたの天使にそっくりなの?」 「……可愛がられた訳じゃなかったからな、私は。痛かっただけだ」 「あなたの恋人、天使に似てるの」 「それは職務上の質問か?」 J・Iの機嫌の雲行きが、さすがに少し怪しくなってきた。横目でソニアをちらりと見る。 凄味のある流し目は一歩間違えば淫靡極まりない。見られてソニアは怯まない。度胸がいい。 「そうだよ。天使が深層心理に、どれだけ影響を及ぼすのかっていう、質問」 「似ていない事もない」 「それはやっぱり、天使の影響?」 「さぁ。単に好みなのかもな」 「天使をあなた、好きだったって事?」 「あぁ。愛してた」 さすがのソニアもぎょっとして口を噤む。 J・Iの顔に陰りはない。むしろ懐かしい思い出をそっと思い返すような、幸福そうな表情。 「……貴方の今の、恋人のことだけど」 ソニアが黙っていたのはほんの一瞬。 「航路設計士って無茶苦茶、儲かるんだろ。金にあかして貴方に贅沢三昧させてるって本当? 貴方が今の恋人を選んだのは天使に似てたから、それとも贅沢がしたかったから?」 「そのへんは完全にプライベートだ」 しらっとJ・Iは追求をかわした。 やがてジープは王宮に到着。偽装したウルド側の通行証で、彼らは王宮に侵入した。 J・Iの一行はウルド側の傭兵に化け、更にワイ側がそれに化けているような二重の偽装をしつつ、王宮の奥を目指した。そこには国王と、その愛妾が居る。 重い扉の奥。国王の私室。 女は、本当にまだ幼かった。満月のようにあどけない顔、黒目がちな瞳。彼女を庇って立つ国王もまだ若い。 「貴様、卑劣な。女を移民させる条件と引き換えに、和平交渉をと言ったのは嘘か」 「嘘に決まってるだろ」 「これは連邦による自治権侵害だ。連邦に所属する人間および組織が紛争の一方に与することは禁じられている筈」 「どっちの味方をする気もないさ。もっと言うと、真面目に調停をするつもりもない。 こんな小さな星一つ、なくなった所で連邦にとっては大した痛手じゃない」 銃を構えてJ・Iは、とぼけた口調で言う。 「ただ問題はなくなり方だ。この星にはパオパブの木が生えてる」 「なんだそれは」 「星を砕く木さ。砕ける時に木は胞子を飛ばす。連邦はそれが恐い。私達は、その胞子を焼き殺す為に来た。 女をこっちに引き渡せ。そうすれば私達は大人しく立ち去る」 「出来るか、そんな事が」 「その女が人間じゃないと言っても?」 「戯言を申すな!」 国王は信じない。天使の外見は人間と殆ど区別がつかない。違うのは宇宙でも生きていける事、液体窒素の中でも仮死状態で生存し続ける事。 そして普段は見せないが背中に、輝く翼を持っているという事。 「戯言かどうか、すぐに分かるさ」 J・Iが銃を少女に向けると国王は少女を体で庇おうする。 「お前がその女に誑かされたせいでこの星は滅びる。国王ならば、その責任をとれ」 向き合う若い国王とJ・I。 銃口を向けられたまま、少女は国王の肩ごしに微笑んだ。その背中が、ほどけて純白の、羽根が輝く。 「うわ……」 覚悟していてもJ・Iたちは掌で腕で目を庇った。天使の翼の光は物理的なものではないからそんな事で防げはしないが。 凄まじい精神的圧迫。気の弱い人間ならば自己嫌悪の泥沼に魂を沈められ廃人となりかねない。J・Iは硬直しかかった指で防御シールドをおろした。 脳神経に悪影響をもたらすため、ギリギリまで使用できないシールドを。そしてもう一度天使に銃を向ける。 弾丸は鉛ではなくて蝋。その中には人が天使に対して持つ唯一の武器、赤い液体がつめられている。弾は天使の肩口に命中し、頭痛と目眩と、精神的圧迫が薄れた。 身を翻して逃げ出す天使。 追おうとする狩人たちの前に立ち塞がったのは国王。奥の王座から扉を背にする位置へ移動した速度は人間技ではない。 姿も、既に。 深く湾曲した背骨、異様に開いた口。顎は伸び、殆ど膝近い。目には知性や理性は欠片もなく狂犬のように視線が定まらない。 甘い感じの色男だった、数秒前までが信じられないほどの変貌。 皮を一枚脱ぎ捨てたような。 その姿は古い宗教画に描かれた『悪魔』という概念に近い。人であった姿をのこしながら、獣性を剥き出しにした爪と牙。 「使徒化している……、されているのか」 痛々しげにJ・Iは呟く。 「可哀想に」 言いつつ、彼女の行動は言葉を裏切る。部下の一人に襲いかかる国王に、向けられた銃口は正確に国王を狙う。 引き金を引く。肩に噛みつかれていた職員の頬をかすかに掠めて、蝋の弾丸は国王の右目をえぐった。悲鳴をあげ倒れる国王。 さっとリンクスが近づき懐から取り出した器具の先端を、ぶすりと音たてて国王の心臓につきたてる。 ひくっと国王は痙攣した。 「使途化数値は1028。深度は肉体が3、精神が4」 ディスプレイに表示される数値をリンクスは、無感動に読み取る。 「ギリギリだな」 J・Iが呟く。 『天使』の影響下に長くさらされた人間は自覚症状を持たないうちに使徒と呼ばれる生き物に変質する。 筋力・反射神経はともに人間であった頃の十倍から三十倍に達し、代わりに知能は甚だしく低下。 まったくの馬鹿になるのではなく、狡猾な悪知恵は持ち続け、完全に使徒化してしまった後も人間であった頃の行動を模倣するので周囲にもバレにくい。 使徒化が進めば使徒自身が更に周囲の人間に悪作用をもたらして毒を広げてゆく。 吸血鬼の下僕が人を襲い更なる吸血鬼を生み出すように、禍は徐々に薄まりつつ周囲へ広がって行く。 目安となっている指数は1200。捕えた使徒がそれを超えていた場合、影響下にあったと思われる人間は尽く調査、場合によっては抹殺することが定め。 手間もかかるし楽しい仕事ではない。 「それくらいなら伝播力はないよね。よかった、じゃあ後は、天使本人を狩れば終わりって事だね」 ボスとサブとの会話にソニアが割り込む。J・Iは副官のリンクスではなくソニアに向かって、 「不幸中の幸いだ」 平静に答えつつ国王の目蓋を閉じてやる。 「後顧の憂いなく……、天使を追う」 J・Iの指示のもと全員が走り出す。中庭に出ると空翔ぶ天使の姿が目視できた。 「車をまわせ、さっさとカタつける。夜になるか、星の裏側に入られたら宇宙に逃げられる。そしたら捜しようがない」 銀色の翼をはばたかせ、天使は巨大な鳥のようにも見える。 「伏せろッ」 天使の周囲が光ったのを見て、J・Iが叫ぶ。センター職員は頭を抱えて地面に伏せると同時に、光の矢が放たれ爆風があたりを襲う。 立っているのが困難なほどの強風。何が