起きたか分からない王宮の人間は恐慌を起こして右往左往し障害物になる。

「ボス、乗って」

 近衛兵や召使を何人か轢きながら、ジープをJ・Iの脇につけたのはソニア。機敏な行動は賞賛されるべきだが声は少し大き過ぎた。呼びかけでJ・Iが首領だと知った王宮近衛兵が彼女に群がり車体とJ・Iが隔てられる。しかし悲鳴は、近衛兵から上がった。

 血飛沫が散る。

 その赤い血がJ・Iのものでないことを確信しつつもソニアは緊張する。顔面を押さえて転がる何人かの近衛兵を踏みつけ、立ち塞がろうとするのをJ・Iは右肘で殴り倒し左足で蹴り飛ばす。

 ソニアがドアを開けようとする。J・Iは待たずひらりとオープンの屋根を乗りこえる。彼女が助手席に立つなりソニアは猛スピードで発車しかけたが、

「待て。先にあれを落とす」

 J・Iが身体を屈め、後部座席のシート下から、取り出したのは対空ミサイル。無論、砲の先端には蝋が詰められている。

 通常、射程距離1000メートルを超えるミサイルを地上から打つ場合、ミサイルはコンピュータ制御だ。ロックオンした物体を自動追跡し爆撃する。しかし天使を追跡するのにコンピューターは使えない。コンピュータは天使の存在を認識できない。物体である肉体に霊体、もしくは意志、つまり魂の宿る人間と違って、電子回路は完全に物体であるから。

「ヘッド、天使にそんなの、当たる訳……」

 言いかけてソニアは黙った。この人がそんな初歩中の初歩を知らないはずがない。

 ごく無造作にJ・Iはランチャーミサイルの引き金を引く。爆音が消える頃ソニアは口を開けたまま呆然と、糸の切れた凧のような心細さで地面に落ちて行く天使の姿を見た。「拾いに行くぞ」

「凄い……、嘘みたいな人だ」

「ソニア」

 名前を呼ばれソニアは慌ててアクセルを踏み込む。混乱する人波の中、まだジープにたどり着いていない仲間も居たが誰もそんなもの気にはしなかった。

 侵入したのとは反対側、王宮の正門を抜けて街の大通りを、障害物を避けながら進む。ソニアの運転は巧みだ。

 街のあちこちで火の手があがっている。

「王宮の騒ぎをワイ側の奇襲と勘違いした連中の仕業だろう。ずいぶんな数の間諜が忍び込んでたらしい」

 騒ぎの責任者のくせに他人事のような口調でJ・Iは呟く。

「手動で2000メートル近い距離、対空ミサイル当てれる人なんて初めて見ましたよ」

 車は市街地を抜けて岩の転がる砂漠地帯へ。舗装道路ではない、塩と漆喰で固めただけの道に派手な砂煙があがる。

「喋るな。舌を噛むぞ」

「軍の連中が貴方の事、気にする筈だ」

「こんな余技で目ぇつけられてる訳でもないんだが」

「シャトルの艦長、あれも正体は軍の大物なんでしょう。なのに貴方の出動の時だけは階級証を外して出張ってくる。貴方に惚れているんじゃないかって、噂で……」

 不意にJ・Iの腕が伸び、ソニアが握ったハンドルを左に急旋回させる。同時に片手でギアをローに落とた。タイヤが軋む、時にはJ・Iは、ソニアの頭を胸の下に抱え込んで伏せた。

 J・Iが伏せたのを見て後部座席の人間も伏せる。反応の遅れた一人は悲鳴をあげ荷台から転がり落ちた。灼熱の炎がおさまった瞬間、J・Iは伏せた姿勢のまま、運転席の窓の隅に銃口だけを引っかけて、勘を頼りに当てずっぽうで引き金を引く。

「きゃあッ」

 少女の声で悲鳴があがって、ようやくJ・Iは、そろそろと顔を上げた。庇われていたソニアもふるり、身体を起こす。二人の視線の先、大きな岩の陰でうずくまる少女。

「……タフだな」

 J・Iが呆れたように呟いた。天使が落ちたと思われる地点はまだもう少し先の筈。落ちてここまで、戻って、待ち伏せていたのだ。先に逃げないのが彼らの頭の良さ。

「どうして。どうして気づいたの」

 涙を流しながら天使は悲鳴をあげる。胸元から血も流れていた。赤い。

「匂いがするんだ。諦めろ。私に当たったあんたの、運が悪かったんだ」

 ソニアを跨ぐようにしてJ・Iはジープから降りた。そして不思議な動作をした。

 銃から弾倉を一度抜く。蝋の弾丸は六発残っている。それを掌の上に転がしておいて、頬の内側を奥歯で噛み切る。掌の上の弾丸を口に含み、吐き出す。

 血で赤く染まった弾丸は鉄の弾倉に填められて、鋼鉄の銃身に装転される。

「お前、何者?」

 涙に濡れた瞳で、天使は尋ねた。

「連邦の狩人」

 J・Iは律儀に答えてやる。

「人間、それとも半分は天使?」

「混血かって意味か?人間だ。でも、あんたらの仲間の食い残し」

「……そう、誰かの、愛した人なのね」

 天使の言葉にぎくりとなったのはJ・Iでなく、その背後に立つソニア。

「あなた私を殺すの?私はあなたに悪いことをしていないのにどうして?あなたの天使があなたを幸福にしてくれなかったから?」

「天使は災厄だ。排除しないと毒が広がる」 銃声。眉間に打ち込まれた弾丸。支給品の蝋では致命傷を与えられず失神もしないで飛び立ったのに、今度はピクリとも動かない。「……死んだの?」

 そっと、尋ねたのはソニア。

「いや」

 天使は死なない。液体窒素の中でさえ仮死に過ぎなくて、完全に滅びることはない。

「貴方の血、センターからの支給品よりも効くって、本当だったんだ」

 蝋の弾丸の、赤い血がなんの血かは公表されていない。捕獲され液体窒素の中で仮死状態にされている天使の血だろう、というのが職員たちの間で囁かれている噂。それ以外には考えられないから。

「僕のも効くのかな」

「私のだけだ」

「貴方が六枚羽根に愛された人だから?」

「……銃を持ってるか」

 ソニアが差し出すと、J・Iは同じように弾倉を引き抜いた。並んだ蝋の弾丸を、血で濡れた舌で嘗めてから、ソニアに返してやる。「大事に使え。命が危ない時に」

「なんで僕にこんな事してくれるの」

 J・Iは答えない。ソニアを助手席へ押し込んで自分が車のハンドルを握る。天使の身柄は他の職員たちの手で荷台に運び込まれた。

「二枚羽根ですが銀だ。報酬も期待できますね、ボス」

 J・Iはリンクスの言葉に面倒くさそうに頷く。J・Iは面倒くさそうだが他のメンバーたちは一様に目を輝かす。一定の自由と金銭を与えられているとはいえセンター勤務は服役と同じだ。皆、少しでも早く足を洗いたいと思っている。

 興味がなさそうなのはJ・Iと、J・Iを助手席からじっと見詰めるソニア。そして報酬のことを口にしたリンクス本人も、そう熱心そうには見えない。

「これだからボスのチームはやめらんないんだよ」

「稼ぎのケタがさ、違うぜ」

 三人を除いて盛り上がるメンバーたち。

 J・Iの天使捕獲率は対出動比で七割を越す。平均は一割に満たないから異常な高率だ。彼女が狩人として活躍した三年間、防疫センター地下に液体窒素漬けにした『天使』の数は二十二体。これは防疫センター歴代職員のタイ記録だった。

 そうしてその日、J・Iは新記録を作った。

 

 くたくたになったJ・Iとその部下たちは天使とともにシャトルへ戻った。センター職員二名の殉職死体も一行に含まれていた。

 J・Iは寝室に直行し、そのまま『冬眠』と呼ばれる深い眠りにつく。呼吸数も脈拍も減少し体温は低下。殆ど仮死状態。

 天使を狩るチームのボスに必ず現れる症状。理由は分かっていない。人間の遺伝子の中にそういうプログラムが組み込まれているのだと言う説を唱える学者もいる。すなわち、人は天使に逆らいがたい存在として造られたのだ、と。

 昏睡は通常一月ほど続く。しかしJ・Iは数日で目を覚ます。地球に戻った翌々日には起きて歩き回る。その為、普通の狩人なら年に二度か三度しかこなせないミッションを、彼女は六・七回行なっう。

 チームのメンバーはミッションのたびごとに編成するのが建て前。成功率・生還率ともに群を抜く彼女のチームには志願者も多い。しかし彼女の無茶な狩りに対応できる能力の持ち主は限られていて、顔ぶれはある程度きまっている。常に副官を務めるリンクスや、J・Iに可愛がられ半ば秘書のように扱われるソニアのように。

 昏睡中、健康管理の為にJ・Iには医療スタッフがつけられる。でも彼女の耐性は保証付きだから、そう大げさなものではない。体温や脈拍は自動管理されているから、日に数回、看護婦が見回りに来る程度。

 それ以外の時間、彼女は一人で眠り続ける。無防備といえばその通りだが今まではなんの問題も起きなかった。

 そして問題というものは大抵、起きてからでは遅すぎる。

 

 眩しくて、目覚める。

 昼下がりの陽光がふりそそぐ室内に他人の気配はない。ほっとしてJ・Iは手足を伸ばす。安堵したタイミングを、測ったようにドアが開いて、ミネラルウォーターの瓶を持った男が入ってきた。

「……事務所は?」

 乱れ髪を掻き上げ、うつ伏せに姿勢を直しながらまだ少しぼんやりした目と声でJ・Iは尋ねた。床に敷かれた肌触りのいいラグの上で素っ裸。だが不思議なほど淫性は感じられない。光に満ちた部屋が明るすぎるのと、しなやかに引き締まった裸身がかすかな弛みもなく完璧に美しいから。

 フェイクの事務所は宇宙港から市街地へ続くメイン・ストリート沿いにある。ビジネスビルをツーフロア借り切って、二十名以上の優秀なスタッフを抱え、いつも大きなプロジェクトを複数進行させている。

「休みますよ。仕事どころじゃない」

 フェイクは着替えていた。殆ど白に近いくらい淡いグリーンのシャツ。前ボタンは二番目まで外して、いつもきちんとしているこの男にしては珍しい、自堕落な姿。憂いを帯びた目尻のあたりには男の色気が漂い、思いつめている雰囲気。

「まだ怒ってるのか……」

 軋む身体を持て余し、指先でバスローブを引き寄せながらJ・Iは呟いた。

「私可哀想じゃないか。天使狩りで身体も頭も、ガタガタにして冬眠してるうちに変な真似されて、目覚めたらお前が怒ってるし腹は減ってるし、喉はからからだし、承知で浮気した訳じゃなくて被害者なのに」

 訴えに気持ちを動かしたらしいフェイクはゆらりと近づく。ろくに身動き出来ないJ・Iの身体にローブを着せかけ抱き起こし、口の中に瓶を突っ込む。

「……ッ」

 喉奥まで一気に押し込まれ、J・Iは噎せた。抜いていた体の力を入れて、男の腕から逃れようとする。男は瓶から手は離したが、離した手をJ・Iの頭の横に置き、逃れられないようにする。冬眠から醒めたばかり、ままだ食事さえ摂っていないJ・Iは血糖値も下がり血圧も低く、軽い貧血状態で、普段の戦闘力はないに等しい。

 背中を震わせて男の腕の中で、気管に入ってしまった水を吐き出す。ひどく苦しそうに。 脱力しきったJ・Iに、力に満ちた身体を思い知らせるようフェイクの腕が絡む。男の情熱と残酷さを潜めた目でJ・Iを見据える。肺を圧迫されてJ・Iは、殆ど死にそうな声をあげた。

「……止めろ。痛い」

「怒っていますよ。あなたを、殺してしまいたいくらい」

 殺す代わりに犯した。身体の下で、何度も息の根を止めた。

「あなたは自分に触れた相手を庇ってる。それは合意で浮気ををしたのと同じだ」

 低温で囁きながら男の唇と手がJ・Iの身体を這う。

「庇ってる、訳じゃない。自分でカタを……、つけたいだけだ」

「我を忘れてしまいそうです。あなたの事を他の男が見て触ったなんて、……考えるだけで、残酷な気分になる」

「落ち着けよ。犬に噛まれたようなもんじゃないかこんなの。って、そういう風に私を慰めるのがお前の立場だろ?」

 最後の方はやや甲高い、悲鳴。男の手指がかなり強引に、彼女の深みを侵略した。

「私だってショックなんだ。お前まで私を責める、……ん」

 痛めた奥を穿たれてJ・Iは息を詰める。強ばった身体を抱き上げ揺らしながら、

「後悔、してますか」

 低く、フェイクは囁く。

「後悔するほど自覚はない……。だってホントに、なにも覚えてないんだ。ただ悔しくって、情けない……」

 顔の前で交差した腕を払われると間近にフェイクの目があった。

「気が狂いそうだ……」

 どこかうっとりと、熱っぽくさえ聞こえるフェイクの声。

「あなたがそいつに何をさせたか、あなた自身さえ覚えてないなんて……。まさか、まだわたしにも許していないようなことを、させたんじゃないでしょうね」

「まだ許してないことって、なんだ。……あったか、そんなの」

 脚の間には男の腰がきつく挟まっている。動かれると背骨から裂けそう。顎がだるいのはかみつくようなキスを繰り返されたせいもあるし、さんざん口内を犯されたせいもある。「ありますよ、沢山。……したいことは山ほどあった。でも我慢してたんです」

 愛しているから、と、男は囁く。眉間に皺寄せ横向きながら、J・Iは、

「何したいんだ……」

 力なく尋ねた。

「それともなんかさせたいのか。……してやるよ、何させたいんだ」

「……」

 フェイクは一度、身体を離した。

「目を閉じて下さい」

 言われた通りJ・Iは目蓋を閉じる。閉じると嘘みたいに長い睫にくちづけてから、フェィクはそろり、彼女の体に手を伸ばした。 何をしようとするのか、おとなしく待つJ・Iのつむった目蓋の裏側に。

 天使との、セクスは

『どうでしたか?』

 と、尋ねたソニアの顔が浮かぶ。

(悪夢、そのものさ)

 心の中で答えてやる。言えなかった本当の事を。

 性交なんてものは全てそうだと。

 悪夢のような、天使との。

 多分、一生忘れられない、あの夜。

「大好きですよ。あなたのことも、あなたのなかも。暖かくて柔らかで気持ちがいい。……なんだか安らぐ」

 目蓋の裏の闇は、いつもあの夜に似ている。

 寝汗まみれで目覚めると、J・Iは居間のソファーに寝ていた。バスローブに袖を通した姿で、顔が埋まるほど深く毛布を被せられて。

 ソファーからはみ出る脚が痛くて姿勢を変えようとした途端、つま先に柔らかなものが触れる。フェイクの頭だ。髪の感触。フェイクは床に直接座り込み、心配そうな顔で彼女を見ていた。

「大丈夫ですか。魘されていましたよ」

「気づいたんなら、起こせ」

「あの子供の名前でも口走るかと思って」

「まだ言ってるのか……」

 その呟きにはもう言うなという哀願が含まれていた。フェイクは口を噤む。まだ納得はできない。けれど精魂尽き果てたようなJ・Iをこれ以上、苛めるのは可哀想だった。

 食事を届けさせたと食卓へ促しながら、

「なんの夢だったんです」

 優しくフェイクは尋ねる。

「……覚えてない」

「立って。食事を」

「食べたくない」

 寝返りをうとうとするJ・Iにフェイクは慌てる。

「危ない、ジェ……」

 けれど彼女の寝返りは止まらず、毛布ごとうつ伏せに床に落ちる。フローリングの上に長々と、もう一度体を伸ばし目を閉じる。

 J・Iは女にしては、いや男と比べてもかなり長身の部類に入る。ソファーは本革張りの堂々としたものだが彼女のベットには丈が足りなかった。

 狭いところで寝るのが嫌いな女だ。固かろうが冷たかろうが、手足を伸ばせる床がマシらしい。

「何日も食べてないんでしょう?身体に悪いですよ」

「……立てない」

 フェイクは一度ダイニングに行き、戻った時にはスープ皿を持っていた。青エンドウを煮てこした、ポタージュ風の色鮮やかなそれはJ・Iの好物。すくった匙を口元に近付けられて口を開く。食欲がないつもりだったのに舌と胃は、数日ぶりの食物を味わい、飲んだ。一皿を空にする頃、ようやくJ・Iの顔色に赤みがさす。

「このまま眠りますか?」

「いい。……飯食う。腹減った」

 J・Iがフェイクに腕を伸ばしたのは立ち上がる為に支えが欲しかったから。けれどフェイクは誤解したらしい。伸ばされた掌をとって、もう一方の腕でJ・Iのわきを抱える。そのまま、抱き上げるみたいに支えられ、起こされた。

 止せよと言いかけて、でもJ・Iは黙っていた。あんまり気持ちが良かったから。逆にすがりつくようにフェイクの背中に手を伸ばす。応じてフェイクは力強くJ・Iの身体を抱き上げる。

 新居に入る花嫁のように抱かれて運ばれてダイニングの椅子に座り、皿の肉を刻ませるほど細々と世話を焼かせJ・Iは食事を終えた。口元を拭きかけたナプキンさえも男の手に奪われ、顎を上げて好きにさせながらJ・Iは、男の顔をじっと見た。

「……何か?」

 罵られることを覚悟をしているような気弱さで男は笑う。が、J・Iはそのまま目を伏せてなんでもないと口の中で呟く。

 聞きたいことが、あった。嫌みではなく純粋に尋ねたかった。人形を扱うような男に、それが楽しいのかと。

 中身の私は、邪魔なだけかと。

 愚痴になりそうだったから止めた。

 

 翌日、J・Iは勤務先の防疫センタービルへ向かう。昼近い重役出勤。運転手と高級車は自前。

「今日は早く帰れるんですよね。所長に会って報告をして、部下に解散を指示すれば終わるんですよね」

 センター正面玄関に横付けされた車は銀色のシェンツェ。三日前に発売されたばかりの新車。運転席から降りたフェイクは後部座席のドアを開けてやる。紳士に扱われる淑女、にしては雑な動作でJ・Iは車から降りる。 服装は鮮やかな群青色の麻のスーツ。タックの多いパンツは彼女の腰の高さを引き立てる。ジャケットの中には何も着ていない。素肌にプラチナの細いネックレスが光るだけ。胸の膨らみが見えそうな崩れた着こなしは彼女に似合っていた。似合っていたが、フェイクは気が気でない。

「挑発的過ぎますよ、その服」

「お前は肉にこだわり過ぎだ、フェイク」

 J・Iの言葉に男が怯む。

 昨夜のことを言われたと思った。

「こんなもの本当は大したものじゃないし、本当に大事なのはこんなものじゃない。最近お前、少しおかしい」

「おかしいのはあなたと会ったときからです。身体にこだわるなと言われてもそれは出来ません。他に手段がないから」

「なんの手段」

「あなたが私のものだという証を」

 聞くなりJ・Iは笑い出した。意地悪な笑みではない。むしろ無邪気な、無邪気さを笑うような。

「笑わないで下さい。私は真剣です」

「馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、ここまで可愛い奴だったとは」

 J・Iの笑いは止まらない。玄関の階段に掛けていたつま先を戻し、フェイクの肩に額を当て背中を震わせる。彼女の身体の感触が気持ち良いのと笑われるのが不本意なのとでフェイクは混乱し、憮然とした顔。

「お前可愛いよ、本当に」

「……どうぞ、好きなだけそうやって嬲ればいい。抵抗はしませんよ。負けは最初から決まってますから」

「いい子だから、拗ねていないで仕事に行け」 飽きたらしくJ・Iは身体を離す。優しくよりそっていた身体なのに離れた瞬間に、別の意志を宿す。

「嫌です。駐車場に居ますから終わったら連絡して下さい。車をまわします」

 通りがかりの職員がフェイクの言葉を耳にして、うわぉ、という顔をした。この職員は厚生省のまっとうな役人で、J・Iのことを何かの技術者と思っている。

 いつもの事だ。J・Iの『恋人』が次々と車を新車に乗り換えるのも、J・Iにまるで召使みたいな態度をとることも。

「いい。何時になるか分からない。自分で帰る」

「あの子供に会うんでしょう?心配なんです」「仕事に行け」

 職員はそ知らぬふりで通り過ぎたが、曲り角で気になって振り向いた。J・Iは腕をフェイクに掴まれ何か説得されているらしい。フェイクの横顔は真剣。J・Iの方はさっさと行ってしまいたいのが態度に出ている。

「離せ。人目がある」

「気にするような人ですか、あなたが」

「見世物になるのは御免だ」

 ふりほどくように腕を取り戻しJ・Iはセンターの玄関に向かう。

「じゃあ、カフェ・グラッパで待っています。終わったら来てください」

 彼女の背中をフェイクの言葉が追う。J・Iは返事代わりに片手を上げてみせた。

 

 厚生省公衆衛生管理局。

 一般には、感染症や伝染病対策を行なう役所として知られている。間違いでない。そういう活動もしている。ただし、例外もある。

 防疫センタービルから特殊コードと網膜登録を必要とする地下通路でつながった一角。かなり深くまで垂直下降し、更に自動走行路を十五分ほど走ってようやく辿り着く、地下十階建ての核シェルターにも似た建造物が

『特殊防疫センター』

 の本拠地。地上は第三次世界大戦時の戦没者の霊を葬った墓地。

 

「様子はどう?」

 医療スタッフに尋ねたのは所長。白衣のスタッフは検査報告書を渡しながら、

「変わりないですよ」

 事務的に答える。

「いっそ無さ過ぎるくらいです。普通、天使捕獲に成功した狩人は重度の精神的打撃を受けているものですが、彼女はごく平静です」

「身体は?」

「体調にはやや乱れが見えますが今夜早めに眠れば回復する程度です。健康状態そのものにはなんの問題もありません」

「体調の乱れ?」

「寝不足のようですね。性交の痕跡がありますから原因はそれでしょう」

「性交……、一昨日、帰ってきたばかりなのに」

「帰ってきたばかりだから、でしょう」

 所長は眉をしかめる。医療スタッフはそんな彼女をからかうように言った。

「二週間も離れていた同棲相手と、なんにもしない筈はないでしょう」

「そんなものかしら。あんなこと、皆、どうして好きこのんでやりたがるのかしら」

「それは……」

「し」

 報告の途中で机上のインターホンが鳴り、所長はそれを取り上げた。来意を告げるJ・Iに入室を許可しながら目で医療スタッフを促す。スタッフは心得たものでJ・Iが訪れているのとは別の出口から退室した。

 いっぽうJ・Iがドアを開けるなり。

「っ、ぷ」

 ぶち撒かれたのはピンク色のシャンパン。不意討ちの攻撃にひるんだところへ、

「おかえりなさいJ・I。体は大丈夫?」

 女らしい澄んだ声。どっしりした桜材の机に腰掛け、わきにシャンパンを幾本も冷やしたクーラーを置いて、笑っているのは泣きぼくろと赤い唇が印象的な女。

 四十過ぎだが締まった体と泣き黒子がいろっぽい、大した美女。タイトスカートから伸びた脚は絶妙な曲線を見せながら組まれ、男の好き心に直下型の揺さぶりをかける。日のあたらない深い地下に咲いた、真っ赤な隠花植物のような女。

「見事な戦果よ。これからも頑張って私を引き離して」

 所長はついこの間まで天使捕獲数のタイ記録を持っていた。J・Iはジャケットの袖でシャンパンに濡れた髪を拭う。

「お味はいかが?ぺリヨンの十三年ものを奮発したの。次は、二十年ものを開けてあげる」「その時はうまく口を狙ってくれ」

 濡れた前髪を掻き上げるJ・Iの仕種を、獲物を狙う猛禽じみた、舌なめずりするような瞳で所長は見つめている。見つめられて、J・Iはそう不快そうでもない。

「無事に戻って来てくれて嬉しいわ。とても心配していたの」

「大したことはなかった」

「狩りのことではなくて、貴方が攫われないかどうか。シャトルの艦長からは何もされなかった?ジェネラル・クライ・ジュニアだったんでしょう、苛められなかった?」

「いや……」

「そうね。苛めていたのはどちらかというと貴方の方だったみたいね」

「……」

 J・Iは肩をすくめる。見張りがつけられていたことをこうもあらかさまに明かされれば、苦笑する以外にはない。

「軍からあなたの引き渡し要請が激しいのよ最近。確かにうちは軍が連邦政府に打ち込んだ楔だけど」

 特殊防疫センターにはそんな一面がある。厚生省の機関でありながら技術・情報面での後ろ楯は連邦軍。総司令官ジェネラル・クライとセンター所長との間には醜聞関係も噂されている。

「だからって何もかも軍の思い通りにはならないわ。あなたはあたくしの部下だもの、あたくしが庇ってあげる」

 机に腰掛けたままで所長は腕を伸ばす。J・Iは誘いに応じて二歩ほど歩み寄る。所長は机から下りて、背の高いJ・Iの、首に背伸びして腕を絡めた。

「あなたを軍に渡しはしないわ。どんなことになるか知れたものじゃない。ねぇ、あなたも宇宙で偶然の事故にあうのは嫌でしょう、J・I?」

「ごめんだな」

 恋人同士のような抱擁を交わしつつJ・Iは真顔で答えた。それは有り得ることだから。ジェネラル・クライにとってJ・Iが乗り込んだ宇宙艦の一隻や二隻、宇宙の塵にしてしまうのはたやすいこと。だからこそ彼女の遠征には階級章を外した息子が万難を廃し艦長として乗り込む。

「クライ将軍は勝手よ。あたくしに一度はあなたの身柄を任せておいて、また取り戻すなんて。一度投げられた骨を取り上げれば飼犬だって牙を剥くことがあるのよ」

「あんたが私に優しいのが、奴には気にいらないんだろう」

 所長の背中を撫でてやりながらJ・Iは答える。恋人同士に似た二人の抱擁は、しかし、欲情の結果ではない。所長は他人の肌に触れたいだけ。彼女が触れて撫でて、懐かしい身体はJ・Iだけだから。

 J・Iは腕をまわして抱きしめて、彼女の寂しさを埋めてやる。

「あいつは大昔から私を嫌いなんだ」

「どうして?」

「あいつが好きな人間がみんな、あいつより私を好きになるから。そういう巡り合わせなんだ」

「ジュニアのこと?」

「それもあるし、あんたも。そのずっと前にも」

「あたくしは違うわ。ジェネラル・クライより好きな訳ではないの。私はあの男を愛したことなど一度もなかったわ」

 言って、そっと所長は身体を離す。

「ところで彼のことだけど」

「……どの彼」

「貴方の恋人よ。今日も送ってもらったんですって?」

「耳が早いな。玄関の警備カメラか」

「噂は千里を走るの。貴方の正体、ばれていないでしょうね」

 問いかける所長の目は笑っていない。

「大丈夫だ」

「そうね……。誰彼構わず身の上話をするほど、あなたは愚かな女ではないものね」

 所長の表情に笑みが戻る。

「けれども重々、気をつけて……。クライ将軍はあなたと私の失策を待っているわ。あなたの前歴が知れたりセンターの機密が漏れたりしたら、監督不行き届きを名目にあなたを軍に閉じ込めてしまうでしょう。沈黙を守って大人しくしていて。そうすれば彼と二人、静かに幸せに暮らせるわ」

 防疫センターでは職員が地球の住人と恋愛し、結婚もしくは同棲することを奨励している。同性異性に関わらずセックスパートナーをみつけて番えばセンターからの監視はかなり緩和される。

 人質になるからだ。宇宙に浮かんだ狩人が逃亡したり離反したりしない為の。

「ずいぶん邪険にしていたようだけど、駄目よ大切にしなきゃ。ハンサムで情熱的でおまけにお金持ちで、いい人じゃないの」

「やけに諭すな。あれに惚れたか?」

 からかう目つきのJ・I。

「惜しい上玉だけど、あんたが是非って言うなら譲ってやるよ」

「嘘ばっかり……」

 戯れ言と知りつつ所長は微笑む。譲ってやるという内容にではなく、あんたならという特別扱いの台詞が彼女の心を癒した。

 机の引き出しをあけ、厚みのある封筒を差し出す。

「報酬小切手よ。部下に渡してあげなさい、控室で待っているわ。……気をつけてね。あなたのチームはセンターの中でも、柄の悪いのが揃っているもの」

 よりにもよってどうしてあんなのを選ぶのかとため息をつく所長に、

「その方が私は扱いやすい」

 封を切って小切手の束を引き出し、パラパラ捲って受取人と金額を確認しながらJ・Iは言った。

「文型の人間を扱うのは苦手だ。どうにもツボが分かりにくい。荒くれ男どもなら頭も身体も、どう扱えばどうなるか分かるんだ」

「そう。まぁ力ずくになってもひけをとるあなたではないし」

「素手で本気で来られたら負けるさ」

「嘘ばっかり……、いいから行きなさい。終わったら食事にしましょう。新記録の記念に好きなものを奢るわ」

 そりゃいいとJ・Iは笑い所長室を出ていく。後ろ姿を見送りながら、ドアがぱたんと閉まったところで、

「狼を飼うのは餌でも金でも強権でも無理。奴らが懐くのは同じ狼の首領にだけ。連中の嗅覚は確かね。大物の同類を確実に嗅ぎ当てる。……私も」

 J・Iに同類の匂いを嗅いでいる。それは慕わしく懐かしく安心する匂い。

「あなたを手放したくないわ」

 

 一つの任務が終了すると狩人たちは長期休暇に入る。報酬で懐を膨らまし、次の指令が発せられるまで。任務は指揮官だったJ・Iによる口頭の終了宣言が出て初めて終わるから、彼女が回復するまでの間、彼らは本部内の控室で待機する。

 J・Iのチームの控室は地下七階の一角にあってチームのメンバー以外は滅多に近づかない。そこだけ妙に、治安が悪いから。

 本来、センター内での飲酒や賭博は禁止されている。が、J・Iのチームだけはボスがおおらかというか大ざっぱというか、細かいことにこだわらない性だったので、室内にはカードやダイスや酒瓶が転がっている。

「……ボスが来る。全員揃ってるか」

 リンクスに声をかけられ男たちは慌ててそれらを絨毯やソファーのかげ、クッションの下などに隠した。

 リンクスが目顔でざっと人数を確認する。副官の彼は今日、黒いシャツに黒のスラックス、靴も靴下も黒づくめの私服姿。山猫というより黒豹といった雰囲気が野性味のある顔立ちをひきたてる。その顔立ちに、不機嫌に片眉をあげる仕種が似合った。

 一人足りない。

「ソニアは?」

「あれ、朝は居たぜ」

「そういや見かけねぇな」

 リンクスは舌打ち一つして壁の端末画面を見た。職員の居場所は胸のプレートが発する識別信号によってマザーコンピューターに把握され、画面の地図上に表示されている。ソニアは別の階のデーター室。

「……勝手しやがって」

 リンクスのぼやきに、

「だよな。あのお坊ちゃん、最近我儘だぜ。ちょっと可愛いと思ってさ」

「そうそう、ちょっとボスに気に入られてるからってさ」

「いっぺんシメちまうかぁ?ケッコー楽しいんじゃねぇ?まだ子供だし顔かわいいし。どうだ?」

 話しの水を向けられてリンクスは、

「俺は止めとく。後の始末もしないぞ」

 ごく冷淡に答える。

「……やめた。ボス、怒ると恐ぇからな」

「せっかくの休暇、病院のベットの上で過ごしたくないし」

「どーせならもっと色気のあるトコのベットがいいよな」

「なーッ」

 などと盛り上がっているところへ煙草を口にくわえたJ・Iが控室のドアを、手に荷物を持っていたから肩で開けると、

「おはようございます、ボス」

「身体はもういいんですか?」

 様々な声が取り巻く。適当に頷きながらJ・Iは、小切手と休暇許可証を配る。彼女の背後にすっと寄って行くリンクスは足音をたてない。

「シャンパンの匂いがする」

 くん、と彼は鼻を慣らした。J・Iの髪の匂いをかげる、ずば抜けて長身な男。

「所長に撒かれましたか」

「ああ」

「ボスには少し甘すぎる匂いだ。タオル使いますか?」

「いい」

 素っ気無い会話に、

「あんたにシャンパンたぁ気がききませんね」「ボスには水みたいなもんでしょ」

 小切手の額面に浮き立った別の男たちが割り込み、そこでようやくJ・Iは口元に、かすかな笑みを閃かす。

「いまいちツボが分かってねぇな、所長は」

「嗜好調査は口説きの第一歩だぜ、なぁ?」

 浮かれた男たちに、

「自分の趣味おしつけたがるものさ、女は」

 軽く答えてJ・Iは部屋を見回した。

「……ソニアは?」

 姿が見当たらない。

「あいつなら研究室の方にいますよ。コンピューターと向き合ってます」

 答えたのはリンクス。

「呼んできましょうか?」

「……いい。後で私が行く」

「甘やかしてますね」

 リンクスの、ごく短い一言。しかし部屋はしんと静まった。

 J・Iに対する非難とも、不服表明とも、とれないことはない言葉。J・Iの出方によっては挑発になる台詞。

 力関係に敏感な男たちはボスとサブが向き合うのに遠慮して呼吸さえ潜めた。

「可愛いからな」

 場の雰囲気を意にも介せず、J・Iは堂々と答える。

「妬いて苛めるなよ。ちゃんとお前のことも可愛いから。……じゃあな」

 軽く片手をあげたのが解散の宣告。

 

 部屋を出て、廊下で少し、J・Iは考えた。コンピュータ室へ行こうか、それとも。

 彼女はジャケットの襟を引っ張って自分の胸元を見た。布地で擦れないようにプラスチック・パットで保護したトップを取り囲むような赤み。薔薇の刺青の周囲には散った花弁のような欝血。その多くはフェイクの仕業だったが、そうでない一つがあったことをJ・Iは覚えている。その赤に指を当てて、

「見た、っていう証拠なんだろうな……」

 呟く。身体を見られた羞恥や憤激より、もっと重大なことがある。見られたのは肉ではなくて、彼女自身が何者であるかの証明。

 言い張れるだろうか。これはただの刺青だ、と。

「嘘くさい……」

 あまりにみも真実味がない。この顔で、この声で、薔薇の彫りものを心臓の上に持っていて……。それに。

 嘘をつきたくなかった。この口で、自分は違うと言いたくはなかった。

「ジェネラル・クライ……」

 唐突にJ・Iは一人の男の名を呟く。

「やり方が汚いぜ」

 暫く立ち尽くしたあと、J・Iは所長と待ち合わせの場所へ向かう。

 

「……、クス、リンクスッ」

 J・Iが出ていったドアをにやつきながら眺めていた男は、三度呼ばれてようやく振り向いた。

「なんだ?」

「なんだじゃねぇよ何度も呼んだのに。ぼーっと見惚れやがって。あんたホモじゃなかったのかよ」

「宗旨変えか? 節操がねぇぜ」

「可愛いって誉められたから?そりゃああんまり尻軽ないんじゃない?」

 からかう台詞に、

「馬鹿言うな。俺はバリバリの男専門だ」

 妙に堂々とリンクスは答える。

「うちのボスはいい男じゃねぇか。あんな見事なオスは滅多にいやしねぇ。頭が良くて腕っ節が強くて、おまけにどっかトボけてる。俺ぁ好きだね、大好きだ」

「おいおい只事じゃねぇぞ」

「雌虎と坊ちゃん将軍がとりあってる女だぜ、張り合う気かよ、本気か?」

 笑いながらもメンバーの目の底には本気が入っている。自分らのボスに引き抜きの手が伸びていることを彼らはうすうす知っている。だから。

「雌虎はともかく、坊ちゃん将軍よかリンクスを応援するな、俺は」

「俺も」

「ありがとよ、って言いたいトコだが、ボスとシーツの上で組み打つ気はねぇよ。……寝てくれるってんなら大喜びだが、アナ間違えて恥かきそうだしな」

 猥雑な会話に紛らわして、彼らは本当は別のことを話している。センター内の会話はほぼ100パーセント盗聴され、外での私的交流は厳禁されているから、彼らが話すにはこんな方法しかない。

「俺は寝る気はねぇけど」

 ボスに挑戦を仕掛ける気はないという宣言。「お坊ちゃんには、渡したくねぇな」

 その言葉はボスの軍転出を阻みたいと、そういう意味。

 

 フェイクは海辺のレストランへ来ている。 かすかな潮騒が聞こえてくるテラス。本来ランチはやっていない店だ。一部の限られた常連だけが予約して昼も使うことが出来る。 航空関係の機関誌をめくりながらフェイクはJ・Iを待つ。とびきり上等のスーツを苦もなく着こなした様子はどこの財閥の御曹司かというところ。御曹司より凛々しい雰囲気は富も名声も自らの手で得てきた男だから。

 ふっと手元に影がさす。顔を上げると、待ち人ではなかった。そうでないのは影の形で最初から分かっていた。

「ジェイ殿は、来られませんよ」

 立っていたのは副所長。所長であるフェイクよりだいぶ年上。航路設計士としての腕もまずまずだが、協調性があって人事の取り仕切りがうまい。所長であるフェイクをたて常に一歩、控えた位置で事務所の発展に貢献してきた堅実な実務家。

 自らの着実さにどこかで劣等感を抱く、こういう男はフェイクのような天才肌に弱い。

「事務所の方に連絡がありました。マンションに戻られるそうです。所長にはこれから出勤していただきます。昨日の例の打ち合わせは、急病ということにしておきました」

 否と行ったら引き摺っていきかねない形相だ。生真面目そうな眉間にはたてじわが寄せられ、熟年男の意固地さがあらわれる。

「よろしいですね」

 フェイクは機関誌を置いた。代わりに卓上の呼び鈴を鳴らして給仕を呼ぶ。給仕はとんで来て、アンチパスタを尋ねる。

「おすすめはトリュッフです。チーズもゴーダのいいのが入っています。クラッカーに載せますか、それとも軽くあぶって生ハムとあわせましょうか」

「どっちにする?」

 フェイクに問われて、まだ立ったままの副所長は戸惑った。

「座れ。メシくらい食っていく時間はあるだろう。……俺の為に開けてくれた店だ。食っていかない訳にはいかない」

 フェイクの口調はJ・Iの前とはまるっきり違う。やや傲慢で尊大。若くして成功した人間特有の、自信に満ちた口振り。

「そういうところ、所長は律儀ですね」

 恋人を追ってマンションに帰ると言い出さなかったのにほっとして、副所長はようやく笑顔を見せる。では遠慮なくご馳走になりますと、椅子に腰をおろす。

「……お話があります、所長」

「欠勤の説教なら聞かない」

「違いますよ。貴方は経営者ですから欠勤は自由だ。でも時と場合による。昨日がどんなに重要な打ち合わせだったかは、ご存じだった筈です」

 なじる副所長。

「ジェネラル・クライ・ジュニアみずから事務所に足を運んでの新航路開発会議でしたのに。所長が急病だというこちらの顔をたてて引き下がってはくださいましたが、不愉快そうでした」

「そりゃそうだろう」

 フェイクは何故かほくそ笑む。

 ジェネラル・クライ・ジュニアといえば父親の跡を継いで将来、軍の実権を握る筈の男。それが凄腕とはいえ一介の航路設計士にドタキャンくらって愉快である訳がない。

「軍は最近、急速に力をつけています。経済活動にもしきりと嘴をはさんでくる。媚びろとまでは言いませんが、睨まれるのは上策ではありません」

「もっと大事な用があったんだ」

 眉も動かさず、フェイクは言い放つ。

「ジェイ殿の事ですか……」

「嫌そうだな。お前はどうしてあいつを嫌う」「おかしいからですよ」

 副所長は即答した。

「あの人はおかしい。だからあの人が絡むと所長もおかしくなる。あの人は連邦職員という事ですが、全然、それらしくない。まともな、堅気の人にはとても見えない」

「……目つき悪いからな」

 本当は悪いのではない。力強いのだ。一瞥で周囲を屈伏させてきた人間の目。

「外見で人を差別するのは良くない」

「違います。所長も本当は分かっているでしょう。私はジェイ殿とそう何度も喋った訳ではありませんが、一度見ただけで分かった。あの人は、違います」

 異質。別物。闖入者。羊の群れに紛れ込んだ狼。J・Iという女には危険な匂いがする。ある種の人間にはたまらない匂いが。

「私は心配しているんです。所長がだまされているんじゃないかと」

「どういう意味だ」

「うちの……、事務所には」

 副所長は声をひそめる。

「軍関係の機密が……、けっこう、あります」 その言葉にフェイクは眉を上げた。

「つまり、お前は疑念はこうか。あいつが本当は公安か連邦情報局かからの回しもので」

 確かにJ・Iはそんな風に見える。そして実際、見た目どおりである。

「俺から軍情報をとるために近づいたって、言いたいのか」

「可能性はあるかと」

 連邦と軍の関係はここ数年、悪化の一途をたどっている。

 連邦軍は主要な宇宙中継港の殆どを所有している。航路情報もほぼ独占していて、その一部を貿易港として民間に使用させることで使用料を徴収する。

 その収入は莫大。独自の財源を持ち軍閥化の進む連邦軍は議会決定や文民統制を受け付けようとせず、両者の緊張はたかまっている。「疑心暗鬼だな」

 一言でフェイクは否定した。

「断言される根拠は?」

「順序が逆だからだ」

「……は?」

「あいつはもともと軍から俺のところに突き出された生け贄だ」

 前菜が届いた。トリュッフを生ハムで包み、小型で深めのキャセロールに入れパイ生地で蓋して焼いたもの。パイ生地にナイフを入れるとサクッと崩れて、芳香が二人の男の鼻先に纏いつく。

「俺が惚れて軍に無茶を言った。取り引きを申し出たのは俺の方だ。あいつと暮らせることを条件に、俺は事務所に軍専門のセクションをつくった」

「それは……、知りませんでした。しかし、所長のその、恋自体、もともと仕組まれていたということは?」

「有り得ない。三年前、あいつと会ったのはバーで偶然だった。独立テロがあったの、覚えていないか、あの夜」

 そんなことがあった。連邦支配を拒む一部の勢力が、連邦の中枢機関が集中するこの街