のあちこちを爆破した。その夜、都市機能の殆どは麻痺し混乱が続いた。恐慌状態となった人民は暴行略奪事件を数多く起こし、エリート揃いと評判の地球住人の、皮一枚で押さえ込まれていた獣性が発露した事件。

「同じバーで飲んでて……、男連れだったがあんまり好みだったんであとつけた。暴動と停電の中で連れの男とはぐれたところをかなり強引にホテルに連れ込んでものにした。後で連れの男が怒ったの怒らなかったの」

「まさかそれ、ジェネラル・クライ・ジュニアではないでしょうね」

「よく分かったな」

「あなたは……」

 呆れたような目をする副所長。

「将軍ご子息と女を争ったんですか」

「争って、ご子息には勝ったんだがかんじんの女には、いらい頭が上がらない。わけはその時、あいつ生娘だったから」

 さらりと言ってのけられた言葉に副所長は困惑しかすかに赤面する。フェイクは憎らしいくらい平然としている。

「今、一生懸命、償いの日々さ」

 副所長は数秒の沈黙の後、

「昔の所長はそんな事を言う人ではなかった」 かすかな反撃を試みる。

「節度があって、上品で。どこから見ても完璧な紳士でした」

「情事でも?」

「無論です」

「知らないくせに。そんな男が居たら化物だ」「所長は、仕事が可愛くないんですか」

 副所長の言葉にフェイクは眉を上げ、

「……浮気性の夫に」

 少し笑いながら答える。

「子供への愛情を詰め寄る妻のような口調だ」「似たようなものです。私は仕事面では、所長の女房役を自認しています。事務所は所長の事務所ですよ。スタッフは所長のスタッフです。所長の子供のようなものです」

「親がなくとも子は育つ」

「居るのに顧みられないのではまともに育ちません。スタッフたちは不安がっている。私を含めて、全員。所長は、いったい」

「どっちが大事かなんて聞くなよ」

 副所長の言葉をフェイクは奪い取る。

「答えは決まってるんだ。知ってるだろう?」「存じません」

「お前が聞きたくない答えさ」

 にやりと笑うフェイクの目尻は精悍で、副所長は一瞬、胸を絞られた。

「どうして、そんなに、あの人を」

 顧みられなくなった妻の、敗北の嘆きに似た言葉をフェイクは聞き流す。

「愛しているさ。何よりも大事だ。……あいつには、憎まれているんじゃないかと思う瞬間があるが。第三者から見てどうだ」

「のぼせあがってますよッ」

「それは俺が、だろ。俺がのぼせてるくらい自分で分かってる。聞きたいのは俺のことじゃない。あいつは、俺を、どう思ってる風に見える?」

 問われて副所長は一瞬だけ黙った。

「……利用されているように見えます」

「俺を愛してるようには見えないか」

「見えません。情報流出の企みがないとしても、所長の地位や金銭が目当てで一緒にいるように見えます」

 副所長の言葉には意地悪が入っている。

「そんな筈はない」

「世の中はない筈がある事ばかりですよ」

「俺がさせてやれる贅沢なんて話にもならない。あいつは前、地平線が見えそうな屋敷に居た」

「大家のご令嬢には見えかねますが」

「地位なんか更に問題にならない。俺は軍の御用聞きだ。今も昔も」

「それは卑下しすぎでしょう」

「とすると隣に居てくれる、わけはいったい……、なんなんだろうな。俺が最初の男だから惰性か、それともいつか、復讐するつもりなのか……」

 スープがすんで、二種類のパスタと魚と肉の皿。合間には甘味の押さえられたシャーベットを挟んで、コーヒーとデザートの時、

「いらっしゃいませ、本日はいかがでしたか」 店のオーナーが顔を出す。にこやかな表情。背中にまわした両手で、一本の酒瓶をゆらゆらさせながら。

「ところでジェイ様は?まだ出張ですか?」

 と、尋ねるシェフはJ・Iの正体を誤解している。J・Iはこの店に何度か公用車を使ってやって来た。連邦職員で公用車を私用に使えるのは課長以上。だからシェフはJ・Iを、連邦中央大学卒の、バリバリのエリートと思っている。

 彼は知らない。連邦職員の中でも『特殊』とつくほんの一部には特別の特権と桁違いの報酬があり、そして命の保障がない事を。

「いや帰ってきてるが、急用が入って」

「それは残念です。実は土産があるんです」

 オーナーは笑う。つられてフェイクも口元を綻ばせた。

「チラチラ見えてるぜ、それ」

 オーナーの背中を指さす。

「例の物です。よろしければお持ち帰り下さい。ジェイ様にくれぐれもよろしく」

 と言って、出されたのは曇りガラスを使った緑色の瓶。

「いいのかい?グラッパ・デパン、滅多に手に入らないだろう?」

 それはある辺境惑星でとれる酒の名前。その星の、ある畑でしかとれないリンゴの変種でつくられる蒸留酒。ここの主人はもと交易商人で、その酒が好きで、商売を引退した後も店の名前にしてしまったほどだ。

 滅多に手に入らないのはその酒が原則として星外持ち出しを禁止されているから。生産量が少ないので、輸出すると国内消費分が足りなくなってしまう。

「是非どうぞ。今年のは出来がいいようです」「ありがとう。あいつが喜ぶ」

 とか言っている、フェイクの表情が一番嬉しそうだ。

「とんでもない。喜んでいただけて嬉しいのはわたくしの方です。これはいい酒ですが、地球で知る人は滅多に居ません。……失礼ですがジェイ様はウィリサ星域のご出身で?」

「いや、あいつはレイトルースだ」

「そうですか。ウィリサはとてもいい所ですよ。今頃の気候はとくにいい。ただ気をつけておかないと、服喪期間にあたってしまいます。一度それでひどいめにあいました」

「服喪?」

「えぇ。三年前のちょうどいまごろ、戦死した国王の長女の命日の前後を含めて三日間、あの星は禁酒期間になるんです」

「三日も禁酒か。辛かったろうな」

「いえそれが、宿の主人が昔馴染みでして。こっそり晩酌を一緒にしました」

「不忠な臣民だ」

 何がおかしいのかフェイクは、喉の奥でさかんに笑っている。

「そんなことはございません。主人は王女様のファンでした。彼が言うには、殿下はいける口だったそうだ、と。本当にお若くて亡くなられましたから、ろくに飲まずに逝くかれた殿下の、せめて代わりに飲んで差し上げるのだ、と」

「物は言いようだな」

「若死した王女様、戦死というのは表向きで本当は、何かの罪を連邦に問われての処刑だったとも聞きましたが……、こう慕われているところを見ると美人だったんでしょうな」

「……さぁ」

 食事を終え、瓶を抱えて、フェイクは副所長を伴い事務所へ向かった。

 

 フェイクが仕事を終え、マンションに戻ったのは夕暮れ時。地下駐車場から直通のエレベーターで最上階へ。彼の住まいはこの階全体を独占しているから、エレベーターを出ればそのまま玄関へ続くアルコープ。天井はガラス張りで明るく両脇の花壇にはバラが植えられている。無論、世話は専門の業者に任せきりだ。

 ドアを開けリビングへ向かう。だだっ広い空間にJ・Iは居ない。殆ど衣装部屋と化した自分の部屋へ行く。無論、ここに居る訳もない。上着を脱いでネクタイを外し部屋を出る。

 互いの書斎、二人の寝室、書庫と酒蔵を兼ねるためわざと日当たり悪く設計されている部屋。キッチン、バス。全てのドアを開けても恋人の姿はない。バスケットが出来そうな見晴らしのいい、花咲き乱れるルーフバルコニーにも。

 最後に残ったのはJ・Iの為の私室。

 ドアの前に立ちフェイクはためらった。中に居るに違いない。多分眠っている。

 ドアの向こうがどうなっているかフェイクは知っている。フォースクエア・フィートほどの広いフローリング。

 壁ぎわにベットを兼ねた大きなクッションが置かれていて、たぶんJ・Iはそこで眠っている。自然な風が好きだから、南面のサッシと東側の出窓は開けられているだろう。

 リビングと繋がったルーフバルコニーとは別の、独立したベランダには鉢植え。サボテンに似た植物は一カ月近く水がなくても生きていく。その緑の鉢は、J・I自身が育てている。この部屋にはクリーンサービスも入らないようにしてある。

 入らないのはクリーンサービスばかりではない。フェィク自身もここには入ったことがない。リビングからバスからキッチンから、あるいは玄関から、この部屋に行かせまいとして拘束したことは何度もあるけれど。

 ドアの向こうはJ・Iの為だけの空間。侵さないことをフェィクが自分で、決めて守ってきた。それはこの男のかすかな誠意。

 ドアノブを掴んでみる。掌に逆らう手応えはない。鍵はかかっていない。開けてしまおうか?言い訳はある。脇に挟んだ図面と酒瓶。これを渡したかった、と言って。かなり白々しい言い訳。

 格好のいいやり方は分かっている。ドアの前に図面と瓶を置いて自分の部屋へ引き上げる事。ドアノブを離して……。でも掌は冷たい金属を掴んだまま離れない。

 そのままどれくらい立っていただろうか。掌が金属の冷たさに馴染んで、違和感がなくなってきた頃。

 覚悟を決めてフェイクは掌に力を入れた。軽い手応えと同時にドアが開く。大きなクッションの他にはろくに物のない、広々とした空間。予想通り窓は開いていて夕暮れの風がフェイクの頬を撫でる。

 部屋には風が、満ちているだけだった。

「……」

 フェイクはドアノブを掴んだまま立ち竦む。何度見直しても人はいない。J・Iは居ない。 どうして、居ないのか。

 先にマンションに帰っていると伝言したのに、何故。

 彼の顔から血の気が引いていく。掌をノブからもぎはなすように開いて踵を返す。自室へ戻って上着を羽織り、書斎の金庫からかなりの額の現金を取り出して財布に入れる。駆け出す寸前の早足で玄関へ向かった、瞬間。

「何やってんだ、お前」

 背後から声を掛けられフェイクが驚いた顔で振り向くと、リビングから廊下に顔だけ覗かせた、驚かれたことに少し驚いているJ・I。

「……あなたか」

「私だ」

「驚いた」

「なんでだ。お前じゃないなら私に決まってるだろ」

「お帰りなさい」

 言って、フェイクはほっと息をつく。

「どっか行くのか?」

 J・Iはフェイクが書斎で金庫をいじっている時に帰ってきたらしい。肩にひっかけていた紙袋をリビングのソファーの上に放り出す。引き寄せられるようにフェイクも玄関から引き返した。

「あなたを捜しに行こうとしてたところです。お帰りが遅いので」

「子供じゃあるまいし」

「帰ってきてくれないんじゃないかと思って」「他のどこに帰るっていうんだ」

「行くところなんてたくさんお持ちでしょう。その気になったらさっとどこかに行ってしまう人ですよあなたは」

 やや責めるように呟いた後で、

「……昨夜は、無茶をしてすみませんでした」 フェイクは謝る。

「謝らなくていい。別に怒ってない。好きにしていいって言ったのは私だ」

 フェイクはあてどなく視線をさまよわせた。ソファーの上に転がった有名百貨店のロゴ入りの紙袋からは服の包みが見えている。

「買い物してきたんですか」

「というか、買い物に付き合ってきたと言うか。荷物持ちしてきた」

「あなたが?誰の」

「所長」

「あぁ、あの泣き黒子の人」

 ジェイトスの表情をちらり、嫉妬が横切る。「わたとしのランチをキャンセルして彼女と一緒に居たんですか。仲がいいですね」

「そうかな。あの泣き黒子と毒花みたいな唇は好きだが」

「その赤い口にあなたが食べられてしまいそうで恐いですよ。気になってならない」

「そりゃ気になるだろうよ。お前、恐い女をスキだから」

「そういう意味ではありません。それに、あなたほど恐い女性はこの世にいません」

「ふつう奇麗とか優しいとかって言うんだぜ」 笑いながらからかうJ・Iに、

「お奇麗なのはこの世で一番です。優しいのも、きっと。優しさが私に向いていないだけで」

 そこでフェイクはようやくJ・Iの服装が朝と違っていることに気づく。あの挑発的なジャケット姿ではない。ざっくりと膝近くまであるサマーセーター。群青色と白のコントラストが鮮やかな、見慣れない服。

「それ、所長からプレゼントですか。買ってもらったの?」

「買ってもらったって言うか、買ってもらわされたというか……」

 無理に押しつけられたらしい。フェイクは包みを開け、中から仕立てのいいシャツやスラックスを取り出す。J・Iに似合いそうなカジュアルな普段着。折り皺がつかないように畳みなおしながら、

「いい趣味ですね。あなたによく似合いそうだ。生地も色もデザインも上等で、ケチのつけようがない。なんだか悔しい。今からもう一度、この店に行きませんか。店ごと買いとりに」

「馬鹿言うな」

「本気ですよ。わたしもあなにに何か欲しがられたい。一緒に買い物したいです。靴はどうです、買いに行きましょう」

「また今度な」

「夕食は?済ませてきたんですか?」

「いや。所長とは三時頃別れた」

「それから今まで何を?」

「下で泳いでた」

 しらっと言うJ・Iに、

「タフですね……」

 フェイクは少し呆れた声を出す。

 言われてみればJ・Iの髪が湿っている。このマンションの地下には住人専用のプールつきのジムがあって、J・Iはよく通っている。

 濡れたまま纏められた髪に触れ、風邪をひきますよとフェイクは言いタオルを取りに行きかけて気になっていたことを思い出した。「どうなりました?あの子供の件は」

「まぁまぁ」

 その話題を避けたいことが見え見えのJ・Iは目をそらす。

「まぁじゃないでしょう、どうなりました」「まぁ、二三日は便所にも行けないだろ」

 事実関係の確認さえしていないくせにJ・Iは言う。フェイクは少し疑っているようで、J・Iの本心を、探るような目をする。

「これに懲りて、自覚して下さいよ。あなたは……、」

 続きをフェイクが躊躇したのは、たぶん言うと嫌がるだろうなと思ったから。

「薔薇の花のような人だ」

「……あ?」

 予想通りJ・Iは、なんともいえない嫌そうな顔をした。

「奇麗な人は相応の用心が必要です。あなたは腕に自信がありすぎる。ただでさえあなたのまわりには何やらかすか分からない物騒な人間が揃ってるんですから。泣き黒子の美女とか将軍の息子とか、剣呑な副官とか、あの子供とか」

「自分のこと棚に上げるなよ」

「もう少し、身辺に気を配って下さい」

「……なんだ、それ」

 J・Iはフェイクの台詞を無視し、彼が持つものに視線を投げる。

「忘れていました。プレゼントですよ」

 瓶と図面をフェイクはJ・Iに差し出す。「今日、新航路設計の打ち合わせで将軍の息子に会いました。嫌みを言われましたよ。百合の花束がどうとか」

「嫌がらせか?」

 薔薇だの百合だのと聞いてJ・Iの眉間に本格的な皺が寄る。

「彼があなたに贈った花のことです。私が処分してあなたに見せなかったと、思われたようです」

「そりゃ悪かったな。今度訂正しとく。花は薔薇以外嫌いだって」

「薔薇なら受け取っていたんですか。出来れば二度と会わせたくないですね」

「無茶言うなよ、あれは」

「利用価値がある?私だけでは足りませんか」 答えずJ・Iは図面を見る。軍専用の新航路を提案・設定するのがフェイクの事務所の仕事だ。航路図には軍の次期戦略意図がありありと現れている。

「……資源確保重視だな」

 冷徹な軍人の表情でJ・Iは言う。そして図面を置き、緑色の瓶を持つ。嬉しそうに封を切ろうとして、J・Iは、それが今年の樽であることに気づいた。途端に手は止まる。

 固いガラスを額に押し当て、

「……、…、……」

 連邦公用語ではない言葉で、何かを、呟く。囁きは、祈りの言葉に似ていた。

 それをじっと、フェイクは眺めている。目蓋を閉じたJ・Iの睫は男の背中がぞくりとくるほど長い。濃い陰影に誘われて目蓋に唇を寄せてみる。けれどJ・Iの言葉は止まない。

「呑ませて上げましょうか」

 フェイクは言って、一度渡した瓶を取り戻そうとする。

「口移しで」

 J・Iの唇が止まる。祈りは終わったらしい。途端、右肘が動いて、フェイクの顎を思い切り突き上げた。

 骨の軋む、鈍い音。

「……舌、噛みましたよ」

 痛みに眉をひそめてフェイクは苦情を言う。「自業自得だ。そんな舌、噛みきっちまえ」「本当にそうなったら困るくせに」

「せいせいするな」

 さっさと自室に引き上げようとするJ・I。フェイクは通せんぼするように、ドア横の壁に手をつく。

「眠いんだ」

「眠る前に、呑ませてあげる」

「遊びで呑むような酒じゃない」

 蒸留酒であるグラッパのアルコール度は四十度近い。火をつければ火炎瓶になる代物。「いいから、貸して」

「……」

 J・Iの顔つきが険しくなる。イラっとしたのが、見ていて分かった。分かったけれどフェイクは引き下がる様子を見せない。

 けれど、次の瞬間。

「ジェイ……ッ」

 悲鳴のような声を上げる。

 J・Iは無言で酒瓶の封を切った。蒸留酒だから瓶口にコルクは詰まっていない。

「止めなさい、いくらあなたでもッ」

 淫靡なおふざけではなく、今度は真剣にフェイクはJ・Iが持つ酒瓶を取り上げようとする。その手をJ・Iは避け、瓶口を唇に持っていった。

「うわ……ッ」

 フェイクが悲鳴のような声を上げる。J・Iはくわえた酒を、鳴らして一気に飲む。何日も渇いた人間が喉を潤すように。

 彼女の喉が動くたびに、ものすごい量のアルコールが彼女の体内に浸透して行く。

 フェイクは瓶を取り上げようとする。J・Iはさせない。ガラスの瓶にJ・Iの、固い歯の感触が滑るのを瓶ごしに感じながら、フェイクが瓶を奪う事に成功した時には、中身は殆ど残っていなかった。

「死んでしまいますよッ」

 さすがに肩を落とし、フーッと息をついて唇を拭うJ・I。瓶を壁ぎわに置いて、フェイクは彼女の背中と腰に、抱えるように腕をまわす。

「早く洗面所に。少しでも吐くんです」

「……嫌だ」

 ゆるくJ・Iは頭を振る。ひきずるようにしてフェイクは連れていこうとする。J・Iは壁に爪をたてて抵抗。もみ合って、手間取っているうちに、

「あ……」

 ひどく嬉しそうな顔でJ・Iは声を漏らす。「もう遅い。染みてきた」

 それは酒精が、身体に。

 J・Iはその場にずるっと膝をつく。額の奥が眩んで、めくるめいて、重力の感覚がなくなってくるような酔いが全身を浸してゆく。フェイクは吐かせることを諦め、代わりに水を持ってくる。

「飲んで下さい。出来るだけたくさん」

 差し出された冷たい水をJ・Iは飲み干した。そして廊下に身体を伸ばす。酒はザルだ。滅多に酔わない。でもさすがにグラッパのラッパ飲みはきいた。

 力が抜けて行く。手足の先端から麻痺じみた陶酔が始まる。懐かしい聖水が身体を浸す。母親の胎内に還って行くような安堵感。

「気分は悪くないですか?頭痛は?」

 心配そうなフェイクの声が邪魔になった。毒がある筈ないだろう、そう言ってやりたくなる。

 この水は生命の水。身体に流れる血潮が懐かしい歓喜にざわめく。遺伝子が酒精を覚えていて、身体の奥で、再会を喜ぶ。

 生まれた瞬間、ミルクより先にこの酒を飲んだ。勿論、薄めたものを一雫、唇にぬられたくらいだったけど。覚えている筈はないその味を思い出せる気がする。懐かしい。

 手足を弛緩させ意識を手放す。死ぬほど気持ちのいい眠り。

 安らかな寝息をたてるJ・Iを、フェイクは困った目で見つめた。とりあえず寝室に運ぶ。ベットに寝かせて服をゆるめても、J・Iはぴくりとも動かない。幸福そうな顔。

「還りたいですか?」

 髪を拭ってやりながらフェイクが耳元で囁く。

「可哀想に……」

 開けた窓から風が吹き込む。部屋に満ちた大気には、懐かしい雨の匂いがした。

 

 雨の音は、好きだ。

 うまれた時も雨が降っていたと、聞かされてそだった。

 新緑の季節に透んだ緑の瞳を持って生まれた女の子は、翡翆を意味するジェイドと名付けられた。

 豊穣の海と沃野に恵まれた惑星。優しい風と光に満ちた故郷。星間貿易の要所に位置し国庫には莫大な関税収入がある。国民所得は所属星域平均の二倍。立憲君主制で、国王の権限はかなり強い。国民の王室支持率は八割をこえる。

 広大な敷地と美しい庭を持つ王宮で育った。赤子のうちに母親と早くに死に別れた娘を父王は溺愛し、膝下に引き寄せて育てた。多忙な男だったが王宮に居るときは娘を、膝の上に乗せっぱなしだった。娘が士官学校に入学する迄は。

 公爵家の女当主であった母親と父王は従姉弟同士で正式な婚姻は許されず、彼女は庶子であったけれど、そんなことは彼女を些かも不幸にしなかった。

 やがて国王は政治上の必要に迫られ、隣国の王女を王妃として娶る。娶る時にも、娶った後も、国王はかたくなに王女を拒否した。俺は種馬ではない、跡取りは既に居ると、そう言い張って。

 頭のいい男だったが意固地だった。そして、愛するものの為なら他人を傷つけることも辞さない酷さも持っていた。愛娘には誰よりも優しかったが、嫁いできた隣国の王女のことは傷つけて顧みなかった。

 王女には相応のおつきがついている。床入りが形式だけのものであったことを、目利きの侍女は母国へ通報し、コトは外交問題に発展する気配を見せた。

 困った重臣らはジェイドに説得を願った。十四歳。明晰な子供は重臣たちの顔を見るなり事情を察して王宮へ出向いた。

「我儘言って、周りを困らすなよ。輿入れした時点であんたに拒否権はないんだ。政略結婚で、花嫁が嫌がって泣くのはよく聞くし世間も同情するけど、男はそうはいかないぞ」

 父親に、ジェイドは大人同士のような口をきく。父といってもジェイドは彼がごく若い頃の子供。国王はまだ三十歳になったばかり。ウィリサ王国きっての美男と、名高い。

「親の心を知らん奴だ。お前のために、こうしているのに」

「なんで私の為」

「分からないのか。王妃との間に嫡出子が生まれればお前の継承権がなくなる」

 待ち構えていた言葉だった。

「私の為を思うなら、結婚して子供つくってくれ」

 何故って、それは。

「私は王様なんかなりたくない。好きでもない人と結婚させられたくないから」

「お前が大人になる頃には、指先一つで大臣の首などとばせるようにしておいてやる」

「専制君主ね。悪くはないけど、ナンか憂鬱だな。なりたいって思わない」

「わかれ、ジェイド。お前はお前の父と母の子だ」

「分かってるよそんな事は」

「何もかもをお前に譲ってやりたいのだ」

「欲しいものは貰ってる。私が欲しくて父上がくれなかったのは、そのウケのよさそうな泣き黒子だけ」

「ウケが?よさそうか?」

「優しく見えるよホントは違うのに。私なんかキツイ顔だから、風あたりが強い」

「誰がお前にきつく当たった?」

 父親の質問には答えなかった。ほんの少女だったけど。その頃から向こうっ気は強かった。

「何もかもはいらない。欲しい物だけくれればいい。そういえば、ねだりたいのがあった」「当ててやろうか」

「言ってみて」

「アヴェイ・レター。当たったろう?」

 それは国王の近衛の一人。容姿審査が厳しい近衛の中でも、彼の男っぽい凛々しさは群を抜いていて、庭を歩くと王宮中の女官が露台に溢れ、そのせいで建物が傾いたとか、世間では言われている。

 もちろんデマだ。その程度で傾くほど安普請な建物は、この王宮に一つだってない。

「それもまぁ、欲しくないことはないけど」

 違うと言うと恥をかかせるから、そんな風に誤魔化した。

「恥ずかしがるな。いいとも、お前の護衛隊長にしてやる」

「おまけつけてくれる?」

「挙式は十六になってからだ」

「国軍総帥に、なりたい」

 十四歳だった。

 士官学校の卒業を、二カ月後に控えていた。 父親は咄嗟に返事をしなかった。三秒ほど黙り込んだ後で、

「よかろう」

 国王の声と口調。

「王妃との和合が引き換えなら、大臣たちも文句は言うまい。お前の願いを叶える為なら、お前の母にも申し訳がたつ」

 父親の言葉に視線を上げ壁を見る。そこには母親の写真。等身大に引き伸ばされた、母親の微笑みに向かって、

「私が引き取るよ、あれ」

 宣告した。

 

 父親と結婚した隣国の王女のことを、ジェイドは『王妃様』と呼んだ。他に呼びようがなかった。母上と呼ばなかったのは年齢が四つしか違わなくて、あまりにも不自然だったから。

 継子のことを、王妃は暫く恐がっていた。が、何度か会ううちに害意のないことが分かったらしく、たまには笑うようになった。王妃が王子を産んだときはジェイドまでほっとした。名付け親に選ばれて、スピチェルとつけた。サファイアという意味。王子は王妃と同じ、青い瞳を持っていたから。

 アヴィは彼女の警護責任者となり、それは花婿候補り別称だと、周囲は騒いだがジェイドは黙殺した。内心マズイと、少し思っていた。気になる男が別に居たから、そいつに噂を知られたくなかった。愛とか恋とか自覚はなかったが、たぶん、その頃から、ずっと。 義弟の誕生を機に、住まいを王宮の一角から離宮へ移した。『国王一家』に少し距離を置く気持ちで。父親は寂しがったが強行した。離宮は薔薇の垣根に囲まれた、もとは母親の住まいだった、瀟洒な洋館。

 主人は軍人で、初夏は野外演習の季節だから咲き誇る時期に在宅することは少なかったけれど。

 

「……あ」

 目覚めた瞬間、J・Iは、自分がどこに居るか分からなかった。

 明かりのついていない部屋は真暗で、雨の音だけが世界を満たしている。

 ここが地球のマンションだと理解出来るまでに一呼吸、必要だった。それほどリアルな夢を見ていた。真っ白な薔薇の残像がまだ、鮮やかに目蓋の裏にある。

 起き上がろうとする背中を止められた。

「寝ていた方がいい」

 唐突に声をかけられて驚く。こんな真暗な中にまさか人が居るとは思わなかったから。「気分は悪くないですか、吐き気は?」

「……フェイク?」

「そうですよ。あなたでなければわたしに決まっている」

「あぁ」

 そうだなと苦笑しながらJ・Iは身体を伸ばす。その頬を水気を含んだ風が撫でてゆく。雨音がひどくはっきりしている。

「窓開いてるんじゃないか」

「開けていますよ。雨音が好きでしょう?」「いいのか」

「さぁ」

 窓際には雨が降り込んでいるかもしれない。でもそんな事、今は気にならない。

「昔の夢、見てた」

「あんな風に酒を飲むのはもう止めて下さい。身体に悪い。長生きできませんよ」

「なんか思い出すと現実感がなくて、あれ本当のことだったっけって、信じられなくなるけど」

「あなたは最近、無茶ばかりする」

「懐かしい」

 やすらかに目を閉じる。雨音は、彼女が育った星とよく似ていた。吹き込む風がルーフバルコニーから薔薇の香りを運ぶ。

「煙草も少し控えて欲しいです。どんどん量が増えていくから心配しています。昔はあなた、煙草は吸わなかったし酒も時々だったでしょう」

「昔は、そうする義務があったから……。やりたいこと我慢したり、やりたくないこと我慢したり……」

「身体を大事にして下さい。お願いです」

「懐かしいけど、いい事ばかりじゃなかった……。いつも背中に義務が乗っていた……。それが嫌って訳じゃなかったが……。だから父上が義母上と結婚されて嫡出の弟が出来た時は少し、ほっとしたくらいだ。王位を継いで夫君を娶って、跡取りを設ける義務はなくなったから」

「そうだったんですか?」

 まだ少し酔いが残っているらしいJ・Iに、フェイクは調子をあわせてやる。あぁ、とJ・Iは深く頷く。

「そうだったんだよ。私はずっと、結婚できない男を好きだったから……」

 雨音が強くなる。

 フェイクは掌をJ・Iの額に乗せた。雨音だけが満ちた室内に静かな時が流れる。

「明日から休暇ですよね。わたしも休みをとりますから何処かへ行きましょう」

 かなり唐突にJ・Iが口を開いた。

「いいのか、仕事は?」

「構いません」

 J・Iが絡んだ場合、フェイクはそれ以外の言葉を忘れてしまう。

「一緒に行きましょう、気候のいいところへ。海がいいですか山がいいですか、それとも野原が?」

「……海」

「いいですね。南の海のどこか奇麗な島で、二人きりで。夜が明けたらすぐ出発しましょう」

「うん」

 フェイクの手に頬を埋めるようにしてJ・Iは首を傾げた。ヘビースモーカーにも関わらず、彼女はじつに美しい肌をしている。子供の頃から鍛え上げてきた肉体の健やかさは少々の煙草や酒に崩れ落ちはしない。

「海で泳いで、潜って、魚を食べて。きっと楽しいですよ」

「そうだな」

「せっかく自由になれたんです、好きなことをしましょう」

 フェイクの口調は提案というより哀願。

「二人で生きていきましょう。地球で、大人しく、幸福に」

「……虎に猫だって言い聞かせてるような台詞だ」

「あなたと一緒に居れるなら、わたしは何でもします。何でもしますから、お願いですから、煙草と酒を減らして下さい。早死にしてしまう」

「……早死にしたいんだ」

「またそんな事」

「本気だ」

 J・Iの静かな宣言を、フェイクは死んでしまいそうに辛げな顔で聞く。

「……どうしてそんなこと言うんですか」

「さぁ、どうしてかな」

「生きているのが苦しい?」

「それは当たり前のことだろ」

 その程度では死にたくなりはしないと、遠回しな否定。

「だったら、どうして」

「聞きたいか?」

 正面きって尋ねられ、一瞬、フェイクは怯んでしまう。J・Iの花弁のような唇の裏側にどんな言葉が隠されているのか。多分、聞きたくない答えのような気がした。けれど。「聞かせて下さい」

 知りたい気持ちを抑え切れず懇願。

 J・Iが唇を開いて何か言いかけた、その時。

 部屋じゅうに鳴り響く耳障りな緊急呼び出し音。

 びくっとするフェイク。弾かれたように起きたJ・Iが居間のパソコンの電源を入れると、『緊急出動』の文字だけが浮かぶ。文字の色は赤。第一種緊急警戒信号。内容が表示されないのは秘密保持のためだ。

「……まいったな」

 まだ少し現実感のない頭を振って、J・Iはぼやいた。気のきく男はクローゼットからJ・Iの服を取り出して来る。いつもの粋な、ちょっと崩れた、そこが彼女に似合うデザインのスーツを目の端にとめながらJ・Iは、「ワイシャツにしてくれ。軍関係者と会うかもしれない」

 乱れてしまった髪を器用に、片手で結い上げながら注文を出す。

「ネクタイ、締めますか」

「一応」

 J・Iが着替えるうちに、耳障りなサイレンの音が聞こてくる。

 フェイクは居間のカーテンを両手で広げた。雨の中、市街地を走り回る警察車両。郊外の高台にある彼らのマンションからはサイレンの、赤いまがまがしい点滅がよく見えた。

「派手に走り回ってるな」

 鏡を覗きネクタイの形を整えながらJ・Iは、背をそらして地上を見下ろした。

「何が起こったんだか……。事と次第によっては二三日、帰らないかもしれない」

「身体はどうです」

「あのくらいの酒でひっくり返りゃしない」

「お気をつけて、無理はしないで。泊まりになるようだったら連絡を下さい。着替えを持っていきます」

 などと話しているうちにセキュリティーが耳障りな警報を発する。パソコンの画面を切り替えて何の異状なのか確認しようとするがブロック。数秒後システムは崩壊し、居間のパネルは灰色の平面の板に変わった。

 侵入者だ。

「軍でしょうか」

 フェイクが顔色を変える。

「あなたを連れに来たんでしょうか?」

「いや……」

 J・Iは比較的落ち着いている。

「軍が動くなら、前もってどっかから密告がある筈だ」

「相変わらずあちこちにシンパを作っておられる訳ですね」

「それにほら、エレベーターが動いてる。連中ならエレベーター表示を止めるか、気づかれないように階段を使うさ」

 J・Iはクローゼットの奥から銃を取り出した。グリップを握る手つきには年期が入っている。玄関へ向かう彼女の邪魔にならないようフェイクはわきへ退いた。

 玄関ドアのロックが強制解除された瞬間を逃さず、彼女は内側からドアを蹴り開けた。途端、水の匂いがホールを突き抜けて空間一杯に瞬く間に満ちる。

 倒れ込んできた身体。反射的に受けとめながら銃を襲撃者の胸元に突き当てる。でも襲撃者は鉄の感触に何の反応も示さない。そこでJ・Iはようやく気づいた。彼が倒れたのではなく、自分に。

 しがみついているのだと。

「……ソニア?」

 胸元にとびこまれ、J・Iにはつむじしか見えない。

「どうして、会いに来てくれなかったんだよ」 ずぶ濡れの少年は足下に水たまりをつくりながら、喉が張り裂けそうな声をだす

「あんたを待ってた。今日、電算室で。一人でずっと待ってたのに」

 降り仰ぐ顔は若く真摯。前髪からしたたる雫が頬に伝う。まだ大人になりきらない柔らかさをのこした輪郭。

「気づかなかった、って事はないよな。あと残しといたのに。もしかして他の誰かだと思った?シャトルの艦長とか?そんな事ないよな」

 J・Iは眉を寄せる。

「追われているのは、お前か」

 J・Iの問いにソニアは頷く。

「何をやらかした」

「センターの機密抜いた」

「この、馬鹿ッ。あと二三回ミッションに参加すりゃ釈放って時に、どうしてッ」

 思わず大声を出したJ・Iに

「釈放されたらあんたともう会えないじゃないかッ」

 負けない声でソニアは怒鳴り返す。

「刑期満了で釈放される時って、顔変えられて服役中の記憶消されて、故郷とは全然関係ない場所で生きてくんだろ。そしたら二度と、あんたと会えないじゃないかッ」

「めでたい事だろ、なんで嫌なんだ」

「嫌だよ、当たり前だろッ」

 怒鳴りあいは子供の方が勝つ。大声を出しすぎて呼吸が乱れた子供にすがりつかれながら、J・Iは一時、口を噤んだ。

「……なにしたんだ、ソニア」

 そして今度は優しく問いかける。

「機密って、どの程度の機密だ。私が庇ってやれるくらいの範囲か?」

 思わぬ言葉にソニアは顔を上げ、ひどく嬉しそうに笑った。

「ありがとう。でも、無理。ガード最下層までつき破って、極秘情報、全部壊してきた。天使のデータも、狩人の前歴調査も、使徒化計測指数も、何もかも」

「馬鹿め……」

 J・Iの、今度の台詞に含まれていたのは憤りではなくて嘆き。

「なんでそんな、ことを……」

「あなたのせいだ。あなたが今日、来てくれなかったからだよ」

 両手を拳に握り締めJ・Iの胸におしあて、ソニアは全身でJ・Iのつれない仕打ちに抗議する。背丈はJ・Iの方がかなり高い。

「ボス。J・I。……ジェイ、ド。……殿下」 ソニアが細い声で呼ぶ。確かめるように。廊下から彼らを見守るフェイクには聞こえないくらいの小声で。

 J・Iは、一旦は否定しようとする素振りをみせた。違う、という形に唇が開きかける。けれど。

 降り仰ぐ、涙に濡れた瞳にまともに見詰められ、白々しい嘘を喉奥に押し戻す。

 観念してソニアの後頭部に手を回し抱きしめる。屈んで相手の額に自分の額を寄せるのはウィリサにおいて、王族や位の高い聖職者が行なう祝福の仕種。手つきはごく愛しげで、指にこめられた力はどんな言葉より彼女の愛情を証明した。

「ジェイド殿下、だったんだ、やっぱり」

 ソニアはぎゅうぎゅうに抱きついてくる。J・Iはなにも言わず、ただ彼を抱き返した。「よくご無事で……、お健やかで……」

 泣き声を漏らしながらソニアは告げる。ウィリサにおける王室尊崇には宗教じみた一面があって、それは王家が美男美女の家系であることと無関係ではない。

「初めて会った時、似てるって思った。でも殿下は連邦に殺された筈だから他人の空似かと思った。でもあなた僕にだけ優しくて、やっぱり殿下なのかと、思って……。どうしても確かめたくて……」

 ぼろぼろソニアは涙を流す。

「殿下だとしたら、どうして戻ってきてくれないんだろうと思った。みんな殿下を思って泣いてんです。ウィリサを一人で庇って処刑されたあなたを。国王陛下は三年間、ずっと喪服を着ておられるし、せめて遺体は王家の墓地に弔いたいって引き渡し要請も続けておられるのに」

「……知ってる」

「だったらせめて、生きてるって知らせくらい」

「死んだことにしておきたかったんだ。でなけりゃ、生きていけなかったから」

 J・Iの声は低い。

「どうして?……コロニーの軌跡を変えて、隣に落としちゃったから?」

「それも、ある」

「仕方ないじゃないですかそうしなきゃ自分が死んじまうんだもの。そりゃ死滅したトーラスには悪いけど、でも……。僕は、僕達を庇ってトーラスを滅ぼした、あなたを悪人とは思えない。むしろ」

「極悪人だ、私は。あの時点で衛星を弾けば余所に迷惑をかけること、知っていて指示を出した」

「あなたに感謝してる。あれは正当防衛だよ。誰だって他人より自分を生かしたい。なのにあなたは僕らを庇って連邦に処刑されて……、僕らは、連邦を物凄く恨んでる。連邦って名前がつくのは何もかも嫌いだ」

 交易の中心地であるウィリサはの位置は軍事的にも価値を持つ。前々から連邦軍はウィリサに軍事港を持ちたがっている。しかし英明で聞こえた国王は提示されるあらゆる甘言を退け自治区域惑星の独立原則を盾に、連邦軍の駐屯を拒み続けている。

「僕本当は、ハッキングで捕まったんじゃないんです。IUKのテロ活動で、連邦のシステム壊して」

 それは連邦からの独立を目指す星間組織。人気者だった第一王女が連邦によって処刑されて後、ウィリサ星にはIUKのメンバーやシンパが増えた。もともと国王という核を中心に独立自治の意志が強い国風であったが、自国の王女を秘密裁判で殺されてからは尚更、連邦に対する反発は強まった。

「僕らが連邦を嫌う原因のあなたが、どうして生きて連邦に居るのか不思議だった。洗脳とか、記憶処理とか、疑ってみたけどあなたにそんな様子は見えないし」

「……」

「だからあなたに、いっしょに暮らしてる男が居るって聞いた時はショックだった。その男と暮らしたくて、あなたは連邦に頭を撫でられてるのかと、疑った」

「……そうだ」

「嘘つき」

 ソニアは至近距離でJ・Iを睨む。

「そんな嘘つかないで。そんな嘘つかれてもあなたを好きなのは変わらないけど、あなたの口から嘘は聞きたくない。……それに」

 それにいまさら遅いと、やや語調を弱めて、「……あなたの記録、覗いてしまいました」

 謝る。

「あなたが何を考えてるのか知りたかった。センター職員に過去の詮索はご法度だ。分かっていたけど、どうしても知りたかった」

 だから、と、ソニアは唇を噛む。

「ごめんなさい」

 頭をたれて謝る。

「胸の薔薇、見ちゃってごめんなさい。殿下なのかそうじゃないのか、どうしても知りたくて」

 ウィリサの王族は生後間も無く心臓の上に、生まれた季節の花の刺青をいれる。王朝の創始者の左胸に花の形の痣があったという伝承に基づく、王族だけに許された習慣。

「代わりにこれを、あなたに」

 言って、J・Iに小さなディスクを渡す。

「中に記録が入ってます。センターのコンピュータのメモリーは、消去してきました」

「……私が天使と寝た時のか」

 ディスクにJ・Iは目を落とす。

 かつて彼女の傷跡は一つ残らず暴かれた。身体の傷も心のそれも。特殊防疫センターの精神査定は苛烈だ。

「そのあとの尋問も、センターとの契約も。センターのデーターベースに入ってたのは全て。……あなたが天使を狩ることがウィリサの経済封鎖と引き換えなんて知らなかった」

 ごめんなさいと、もう一度呟く。

「グラッパ公ジェイド殿下……、優しくしてくれて、有り難うございました」

「これからどうする」

 J・Iは現実的なことを問う。

「逃げます」

「逃げ切れないぞ」

「それでも逃げます。逃げながら、追手の二三人は道連れにしてやる。いっそあなたに殺されてあなたの手柄になりたいけど、世の中そんなに甘くはないだろうね。あなた大物だから、僕の捕獲には出てきてくれないだろう。……ごめんなさい」

 同じ言葉をソニアは繰り返す。

「せっかく庇ってくれてたのに、こんなことになっちゃって御免なさい。でもあなたに会えて嬉しかった。生意気なこと色々言って、御免なさい。でも全部あなたを好きだったからです。……証拠に、あなたが愛してる天使の」