「なんだ、それは」

 はぐらかそうとしたJ・I。

「誤魔化さないで。僕はあなたの深層心理分析まで試したんだ。あなたが本当は、あなたを捨てて逃げたひどい天使の事をまだ」

「ソニア」

 咎めるようにJ・Iは名前を呼ぶ。呼ばれて少年は口惜しげに顔を上げた。

「……そこの男に聞かれるとマズイの?どうせ偽物でしょうあんな男。あなたの天使に、ちょっと雰囲気が似てるだけで」

 ざわり、空気が蠢いたのに、ソニアは気づかない。

「あなたの天使本当はあなた捜しに地球へ来たかのもしれないよ。今日、天使を検索してたら変なの見つけた。捕獲の記録数より冷凍管理中のカプセルが一つ、多い」

「……ソニア」

「もしかしてあなたの天使じゃないかと思って保管庫に忍び込んだ。それがドジの原因なんだけど。保管庫の管理コンピュータ、センターの母機のもう一枚上に軍の監視が入ってる。気づいた時には、手遅れだったんだ」

「……軍の、か」

 その瞬間だけJ・Iの表情が醒める。冷徹な軍人の顔になったのを、俯いたソニアは気づかない。

「罠を仕掛けて餌を置く、ジェネラル・クライの得意技だ」

「あなたの天使なら助けてやろうと思って。でも御免、逃げてくるのが精一杯で確認できなかった。カプセルが一つ多いのだけは確かめたから、このディスクを使えば保管庫は開けるから、いつか……」

「ソニア」

 J・Iは、ソニアの頭を抱き寄せる。

 ソニアは目を見開き、次の瞬間、力一杯抱き返した。

「大好きです。愛しています、殿下。ホントです、みんな、あなたを。あなたが生きてるって教えてやりたたいよ……。IUKウィリサの仲間とかに。みんな、どれだけ喜ぶだろう」

「死んだよ」

「……え?」

「ウィリサの王女でグラッパ公爵家の当主だった女は、三年前に死んだ」

 静かな呟きにソニアは顔を上げる。

 その瞬間、J・Iの手首が翻り、屈んだソニアの首筋を音もなく殴打する。きゅうとも言わずにソニアはずるり、J・Iの腕に崩れる。

「ここに居るのはただの女だ。義務も鎖もない、何をしても自由な、獣のような女」

 J・Iの呟きは低い。

「……どうして邪魔をするんです」

 フェイクは腕を組みJ・Iを睨みつける。彼はソニアに手を伸ばす寸前だった。

「まともに相手するなよ。子供だぜ」

 庇うようにJ・Iはソニアを抱き上げソファーに運んでやった。寝かせる前に一度床に転がし、ずぶ濡れの服を脱がせる。下着一枚の姿にしてさっきまで自分がくるまっていた掛け布を被せてやる。

 脱がせた服を懐を探ると、J・Iに渡したのとは別のディスクが出てきた。そのディスクも持ってJ・Iは書斎へ向かう。

 システム崩壊したメイン・コンピューターではなく書斎のパーソナル・コンピューターにディスクを入れると、キーワードを要求される。洒落のつもりで『ジェイド』と入力したら本当に解除できて、J・Iは

(勘弁してくれよ)

 という感じで眉間に手を当てる。

「あなたは自分で思っているよりずっと、繊細で優しくて、思いつめられやすい人だ」

 いつのまにかその背後にはフェイクが立ち、一緒に画面を見つめていた。

 画面はまずJ・Iの、いや、『ジェイトス・ディ・ロイヤル・グラッパ・オン・ウィリサ』の記憶を写し出す。とばそうとした指をフェイクに掴まれて邪魔された。

「……なに?」

「これ貴方の記録ですか」

「そのようだ」

「見せてください。見たいんです」

「悪趣味だな」

 言ってJ・Iは手を引く。

 

 雨が今にも、降りだしそうな、夕暮れ。

 代々の国王の墓地が散在する、殆ど人が足を踏み入れない密林。天を厚く茂った枝葉に陽光を遮られた地上は昼間でも薄暗く、まして西の山端に陽の沈みかけた時刻、辺りはまがまがしいほどの濃い藍色と、雨の匂いに満ちていた。

 星間交易法違反の犯罪者を探す為の山狩り。麓から山頂へ向けて渦巻き状に、二百人近い人数で。指揮をとっていたのは軍閥の主。けれども彼女は、途中で一行とはぐれた。

 わざと、はぐれた。

 山狩りなんかでは見つからないと感じたから。探せないなら誘き出すしかない。その為には餌が必要で、彼女は一人になった。

「何の騒ぎです?」

 なった途端に、獲物はかかった。振り向き仰ぎ見れば十メートルはある糸杉の一番上に人影。思い通りになったのに暗い気持ちになったのは、思いどおりすぎたからだろう。

「今朝から妙に慌ただしいようですね」

「……凶悪犯の密入国者を探してる」

 彼女は縁の深い軍帽を外して、草の間に捨てた。それと一緒にこの男に対する愛情を、捨てたつもりだった。

 男とは長い馴染みだった。男はもともとは貿易商。軍需物資や軍事技術関係の密貿易が得意で、彼女の個人的な軍事技術顧問でもあった。最初は父親の経済頭脳だったのを彼女が軍に引き込んだ。

 商売ですからね、が口癖で、でも一度も商売に徹したことはなかった。どうかすると半年も姿を見せないくせに、情勢がきな臭くなってくると必ず姿を見せた。自分の方が歳は下。でも地位は上。微妙に釣り合っていて、立場は対等なつもりだった。王族が異国人に抱く独特の安心もあった。

 歳をとらない奴だとは思っていたが、まさか人間でないなんて想像もしなかった。

「貴様に迎えが来ている。連邦からだ。さっさとこの星から出ていけ」

「さんざん利用しておいて、要らなくなったら放り出す、つもりですか?」

「つもりだ」

 冷然と彼女は言い切る。男は少し嬉しそうに笑った。見えないがそんな気配がした。

「でしょうね。あなたはそういう人だ。……その顔じゃ俺の正体を知っていますね。どうやって調べました?」

 彼女は答えなかった。話せば長くなるから。 密貿易犯を捕えに来たという連邦のシャトルがやって来たとき、彼女が最初に思ったことは、

『ドジ踏みやがって』。

 庇ってやるつもりだった。だってあの男が連邦に捕えられたら、芋づる式で自分も尻尾を捕まえられる。自分が捕まれば累はこの星全体に及ぶ。

 入国審査を厳重にして時間稼ぎをする一方、男の行方を探した。逃亡させる為に。身分証の紙質まで調べさせたのは、網膜登録も電子IDも完璧でほかに調べることがなかったから。けれどもそれで不審が出た。紙の、コーティング樹脂の種類が違った。

 嫌な予感がした。

 陰謀の匂いが。

 連邦のシャトルを使った本当の登録を持つ偽物の公正貿易監視委員会委員。独断で彼女はシャトルを宇宙港の最深部に導き入れ、艦ごと軟禁した。

 シャトルの艦長は艦の記録を消そうとしたが、寸前で彼女の部下たちに阻止された。シャトルのメモリーにはいっていたのは驚くべき情報。普通なら荒唐無稽だと、一笑にふされて終わるような。

 『天使』と呼ばれる生命体が人類に滅亡をもたらそうとしていて、その『天使』を狩る為にシャトルはこの星に来たのだと。

 彼女は顔色が変わった。知ってしまった事実に。知ってしまった事は既に連邦に知られている。プログラムを犯せば自動的に発せられる信号が、仕掛けられていたのに気づいたのは犯してしまったあと。

 『天使』の種を刈り取る為ならば連邦は惑星の消滅さえ辞さない。連邦にとって、それは決して知られてはならない極秘事項。

 連邦は機密保持を至上命題として選んだ。捕虜たちを見捨て、星ごと機密を抹殺する手段に出た。

 近隣に浮遊する破棄した巨大コロニーをこの星に落とす。

 コロニーは旧型で原子炉を搭載しているから直撃すればこの星の地表約四分の一が消滅し残りも汚染される。地上から撃墜しても結果は同じだ。破片が宇宙塵として大気圏外を漂い太陽の光が地上に届かず死の星となる。 隣接星域に模範演習の為に来ていた連邦軍総司令の一人息子、ジェネラル・クライ・ジュニアの艦隊を捕虜にしたのはその時。後ろ手に縛り上げた息子を見せて父親を脅した。連邦政府と軍の間隙につけこんだのだ。

 息子を殺したくなければ連邦との交渉役を務めろ、と。

 出来のいい自慢の一人息子を救うため、父親は最善を尽くした。二時間後、暗号で届けられた通信を息子に解読させた。

『君が天使の首を持って、出頭すれば』

 連邦にとりなしてやることが出来ると、ジェネラル・クライは言った。その時点で残された時間は四時間。それを過ぎればコロニーはこの星の重力に捕まり、全ては手遅れになる。

 探していた獲物は今、目の前に立っている。「そう、人間じゃないんですよ、わたしは」 男は笑う。何処かがおかしい。表情も口調も尋常だが微妙に噛み合っていない。深い部分が壊れている感じ。

「どうしてこの星なのかって思ってますか?」「少し。でも悪運って、そんなもんだろ」

「運……?そんなものじゃない。あなたを見込んだんですよ、王女様」

「惚れられるのも、禍みたいなもんだ」

「あなたには、いつか気づかれると思っていた」

 木の頂上は風が強いらしい。男の髪が揺れている。そのくせ男の声は、となりに居るようにはっきりと聞こえた。

「初めて会った日を覚えています。あなたは王の隣からわたしを、ひどく胡散くさい目で見た。あの時から、いつかこういう日がくると思っていました」

「自業自得だな、私の」

 やや自己嫌悪気味に彼女は言った。彼女が本音を言える相手はこの男しか居なかった。こんな状況になっても。

「誰のせいでもない。お前のことを胡散くさい奴と、思いつつ近づけた私が悪い」

 言いながら彼女は懐から銃を取り出す。銃口を定めながら、

「……だから私がカタをつける」

「何をしても無駄だし手遅れですよ。この星は滅びる定めなんです」

「お前も死ぬんだぞ。それとも死なない自信があるのか?天使ってのは、核爆発にも耐性があるのか」

「どうでしょう。死ぬかもしれません」

「恐くないのか」

「待っていたような気さえしますよ」

「死ぬのを?」

「あなたと一緒にね」

 男は笑った。そんな気配がした。同時に疲れた感じが伝わってくる。

「逃れることは簡単なんですよ。ここから、このまま、飛び立ってしまえばいい。何度もそうしました。二度とここへは来るまいと思って旅立つ。……でも、どうしても戻ってきてしまう。どうして、だと思いますか?」

「知るかよ」

「あなたが居るからです」

 胸から搾り出したような言葉。

「どうしても駄目だった。自分の心なのに思い通りにならない。口惜しくて、情けない。あなたの顔を見るたびに辛くて仕方がないのに、見に来ずにはおれない。……許して下さい」

「何がだ、私をだましてた事か?だったら償え。連邦に出頭しろ」

「願い下げです。わたしにはわたしの秩序も正義もある。連邦に裁かれるのは御免です」

「だったら、私が」

「……あなたが?」

 男は笑った。男の顔をした、『天使』は。

「裁いてやる」

 言葉には銃声が重なる。銃というよりそれは使い捨てのロケット弾。サイズはマグナムとそう違わないが弾は一発っきりで、糸杉は粉々に吹っ飛んだ。

 でも音響は消された。別の轟音に。空駆ける閃光と、ほぼ重なった雷鳴。落雷は間近だ。 大気の裂け目から堰を切っれたように水が落ちる。それは雨なぞという可愛い代物ではなかった。

 煙と砕けた樹木の破片、大粒の飛沫。その狭間を切り裂いた刃の輝きは雷とは比較にならない細さだったが鋭く、意志が宿っていた。正確に男の喉笛を掻き切る。真赤な血をぼたぼた落としながら男は、笑った。凶悪な笑み。彼女の肩を力任せに掴み、引き寄せる。耳元で喚いた。

「本当は後悔しているでしょう。何かを恨みたい気持ちで一杯でしょう。あなたらしくもないドジで、貧乏籤を引いてしまったことが悔しいでしょう」

 会話を拒むように、彼女の肘が男の鎖骨の間にきまる。衝撃に男は手を離した。

「しまったと本当は心から思っている。パンドラの箱を開けて、災いを招いてしまった自分を呪っている。そのくせ何とかしようと必死だ」

 しかし男の言葉は止まらない。口調は穏やかでやや無感動だった。なのにその時、男の瞳に宿っていたのは狂気じみた激しさ。

 再び彼女に手を伸ばし心臓を裂かれるのも構わず抱きしめる。

「でも知っていますか。あなた以上にわたしが混乱しているという事実を。わたしは、わたしは、……あなたを」

 雷鳴であとは聞き取れなかった。組み合って斜面を転げ落ちる。彼女は格闘には自信があった。しかし頚動脈を掻き切っても生きているのが相手では、勝負は決まっていた。

 取っ組み合ううちに、岩か何かに頭をぶつけた彼女が気づいた時、素肌を柔らかな羽毛で包まれていた。

 激しい雨音が耳に聞こえるのに彼女は濡れてはいなかった。最上級天使の六枚羽根。闇の中、ほのかな銀色に輝くそれを、何枚も身体の下に敷いて、包まれて、彼女は犯された。 その時、彼女は何が行なわれているか理解していなかった。身体じゅうが軋んで傷んだ。自分の手足がどこにあるのかよく分からなくて。片方の手首は掴まれているのが見えたが、ぴくりとも動かせないそれは自分の身体の一部とは思えなかった。少なくとも、そこに彼女自身の意志は宿っていなかった。

 身体が揺れている。壊れた人形の手足が無惨に、ぷらぷらしているような感じ。

 このまま死ぬのかと、思った。

 悔いは残った。星を救えなかった。自分のせいでだ。でも死ねるのは良かったかも知れない。お前のせいだと罵られなくてすむ。……いいや。

 罵られても嘲笑われてもいい。生涯、後ろ指さされることになっても。助けたかった。生きていて欲しかった。愛している。どう仕様もないほど。

 父上、義母上、半分血の繋がった弟。

 慕ってくれる部下、臣下、侍従。そしてなにより、国の民。

 理屈ではなく愛しい者たちとの決別がこんな形だなんて。

 涙が、出てきた。

「……泣かないしで」

 嘆く彼女に天使は唇を合わせる。形の良すぎる肉づきの薄い唇は見ている分にはいいがキスをするにのには向かない。噛み合わせが浅くて、望むほど深くは噛みつけない。

「こっちを向いて下さい」

 泣かれて男は、ひどく胸が痛んだ。抱いている身体から彼女の心が流れ出していくようで、それが、耐えられないくらい苦しい。

 涙を止める為ならば何でもしたいと思うほど。

「私を見て笑って下さい、殿下」

 男の胸の下で目を閉じて彼女は頭を左右に振る。そんな事はできない。する気もない。後悔と情けなさに溺れて。

「幸せそうに笑ってみせて。上手に出来たら、助けてあげますよ。あなたを連れて逃げてあげる。命と幸福を約束する」

 彼女は男の言葉を理解した訳ではなかった。ただ、拒む気持ちだけで頭を振り続けた。

「どうして?大切にします。あなたが生きている限り」

「……生きて?」

 その時、彼女は微笑んだ。

 目を潤ませたままの透明な笑み。人は、本当に大きな運命の前では絶望し微笑むしかないのかもしれない。

「おかしな事を言う……。私が生きて、いられるわけない」

「どうして」

「私のせいでみんなが死ぬのに」

 微笑みが崩れる。唇が悔しさに噛み締められる。

「泣かないで。どうしていいか、分からなくなるから」

「……、死ねよ」

 死に体なのは彼女の方だった。痛々しいほど憔悴した美貌。でもそう言った瞬間の瞳は鋭い。涙は乾いてはいなかったが、そんなのは少しも彼女を曇らせない。

「お前が死ねば助かるんだ」

 天使の羽根が発する白い仄かな光を受け、彼女は美しい、それはそれは美しい目をしていた。潤んだ表面はやや新緑を溶かした結晶に見えた。

「一人が嫌なら一緒に死んでやってもいい。本当は私もお前を」

 愚かしい唇を、男は嘗めた。柔らかなそれを覆って、舌を、吸いつくすほどきつく絡める。かすかに肩を窄め彼女は嫌がる。前髪を掻き上げてやりながら頬を寄せ、男は彼女の耳元に囁いた。

「あなたの口から嘘は聞きたくない」

「死ぬなら二人だけでいいだろ。他を巻き込まなくっても」

「ほら、それが本音だ」

 男は悲しい顔をする。

「どんな事でも言えるんですね、あなたは。お国の為なら。あなたの心は存在しないんですか。心も身体も全部、王国のものですか」

「お前は異邦人で、私に妙な遠慮をしなかったし」

「わたしは異邦人です。だからあなたは気楽だった」

「それなのに、いつも助けてくれた」

「わたしがあなたを好きなことを知っていて、あなたは何度も無茶を言いましたね。わたしの愛を、試すみたいに」

「……助けてくれ」

「今度は哀願してみるんですか。王国の為に私を殺そうとしたくせに」

 雨音が激しい。返事の代わりに彼女は自分から、男の首に手をまわした。恋人同士のような優しい仕種で。

「あなたは……ッ」

 耐え切れず男は激昂する。彼女の腕を自分の首から剥がして組み敷く。

「こんな真似までしてみせるんですか。力でわたしにかなわないから、こんどはッ」

 続きを男は言えなかった。彼女の優しい唇が、そっと重ねられた。驚愕に目を見開く。彼女は目を閉じ唇だけを差し出す。少女が恋した相手に捧げるようにして。

 そして。

「お前のことを好きだった」

 短い告白。

 飾り文句のない言葉。

 嘘つきと、いいかけた形で男の唇が止まる。それを嘘だと思いたくなかった。

 そんなことがある訳がない、という理性。

 もしそうならばどうなに嬉しいだろう、という戦慄。

 そっと肩に手をまわす。抱きしめられても彼女は逆らわない。

 これは演技か、それとも本心か。たとえ演技だったとしても、脳髄が痺れるほど愛しい気持ちは、止めようがなかった。

「わたしを愛せますか」

 男はたまらず口を開く。

「わたしだけを愛せますか。父親も義弟も、故郷も身分も、何もかも捨てて。……あなたがそれを、出来るなら」

 男は彼女の背中を浮くほどかき抱く。

「わたしは地獄に墜ちてもいい。恐怖の大王は、余所に持っていってあげる」

 

 翌朝、サングラスを掛けて彼女は天使の横に座っていた。宇宙港はひどく混雑していて、人混みのざわめきが、疲れきった身体に妙に心地よかったのを覚えている。

 大型ディスプレイのニュース画面には隣の惑星に墜ちた人工衛星の映像と住民の大半が死に、残りも時間の問題で救援の手段もないという速報。死者の数はジェイドにとって単なる数字だった。ソファーに腰を下ろした彼の眼前を、何も知らない子供がふざけながら笑いさざめいて通り過ぎる。

 彼女はサングラスに隠れてそっと微笑んだ。「眠っていいですよ」

 隣の男がジェイドの肩を抱いて、頭を自分の肩にもたれさせる。同じブランドのサングラスを掛けていて身体を寄せあった二人の姿は一見、バカンスに出かける寸前で足止めをくらったカップル。

「ご気分はいかがです」

「……うん」

 彼女らしくない曖昧な答えに、

「悪そうですね」

 男は眉を寄せる。昨夜から微熱が続いている。

「医務室へ行きましょうか」

「いい。私ってバレたら、面倒」

「本当に一緒に来て下さるんですね」

 目を閉じたまま呟く彼女に男は口元を綻ばす。

「嘘みたいです」

 ……嘘みたい、だよ、と。

 微熱の中で彼女は思った。

 これは何度も夢想した旅立ち。

「だったら少し待っていてください。薬を貰ってきます」

「……いい」

 彼女はゆるく首を横に振る。立ち上がりかけた男の指先を握って引きとめる。

「隣にいてくれ、なんか心細い」

 男はすとんと腰を下ろした。

「どうしたんですか」

 喜ぶのを通り越して心配になったらしい男に彼女は、

「現実感が、ないんだ」

 答えて自分から頭を預ける。熱のせいか、思考がうまく廻らない。

「悪夢みたいですか」

「悪魔みたいかな」

「わたしが?」

「……いや」

 彼女が言ったのは彼女自身のこと。魂を売ってしまったような気がする。こんなのがホントでいいのか、と。

 かなっていいのか、こんな風に。

 そっと髪を撫でて来る男の指が優しい。触れた肩が暖かい。隣の星を滅ぼした後悔も、故郷を捨てる悲しみも心にはなかった。

 嘘みたいだ。

 手に入るなんて。

 子供の頃から好きだったこの男。

 うたた寝をしてしまった彼女はやがて連邦職員に肩を掴まれ目覚める。

 寄りかかっていた天使はその場に居らず、周囲には人垣ができていて、逃れる事はできなさそうだった。銃を構えた連邦職員にサングラスを外せと要求され、彼女がそれに従った途端、連邦の徽章に遠慮して成り行きを見守っていた空港警備員たちがざわめく。腰のホルスターに手をやった者もあった。

 本命じゃない囮だと、センターの職員達は地団太ふんで悔しがったがジェイドの身柄は連行してゆく。取り戻そうとした警備員をジェイドは制した。そして隊長らしき男に手にしたサングラスを渡す。唇に軽く当てて。形見のつもりだった。

「私は罪を犯した。でも後悔はしていない。貴方の娘であることが永遠に誇りだと、国王陛下に伝えてくれ」

 受け取る隊長の手はひどく震えていた。センター職員が受け渡しを邪魔しなかったのは、一触即発で暴動になりそうな雰囲気を察したから。囲まれ歩み去る途中、悲痛な声で名を呼ばれ、彼女は一度、振り向いた。

 絶世の美女と称えられた母親に生き写しで、優秀な軍人で。人気者の第一王女が国民の前から姿を消した、それが最後の笑顔。

 大量虐殺の罪名でジェイドの処刑が公表されたのは数ヶ月後。ウィリサに落ちる筈だったコロニーの軌道を余所へ逸らし、数億という人間を死なせた罪。

 コロニーを落とした張本人である連邦の責任は問われなかった。何故なら罰を決めるのは、連邦自身であったから。コロニーの落下はあくまでも偶然の事故。

 父王は政治力の限りを尽くして娘の身柄を取り戻そうとし、駄目と分かるとなりふりかまわず抗議の公文書を、日に十通も送り付けた。

 処刑終了の通知が届いた瞬間、王宮の奥の間で号泣したと伝えられる。コロニー落下の軌道修正はジェイドの独断だった事が明らかにされて、国王及びウィリサは罪に問われはしなかった。

 誰が言い出した訳でもなく、彼女が処刑された日には星中がいまだに喪に服す。実際にその日、ETS0013地区、第三惑星系の第一王女、ジェイド・ディ・ロイヤル・グラッパ・オン・ウィリサ、『グラッパ地方を領地とする、ウィリサ王家の一員であるジェイド公爵』は死んだ。

 

 画面は次々に切り替わる。J・Iの個人情報が終わると所長の前歴と、主な職員の経歴。捕獲された天使の状況と個体的特徴。同じく捕獲に失敗した天使のリスト。センター内部粛正の記録と指針。

「……漏れたら大事になるな」

 煙草を唇にくわえ指先で画面を捲りながら、呆れたようにJ・Iは呟いた。三年前、特殊防疫センターの存在と目的が辺境惑星の一軍人によって察知されかけた。たったそれだけで星ごと滅ぼそうとしたくらいだ。この資料が漏れればセンターだけでなく、背後に存在する軍情報部さえ危機に瀕するだろう。

 ソニアの懐から出てきたディスクも、J・Iの情報がないだけでほぼ同じもの。こちらのディスクは仲間に渡すつもりだったのか、J・Iに渡したことを悟らせない為のコピーか。

「証と言うだけあるじゃないですか」

 J・Iの背後ではフェイクが一見、冷静な口調でコメント。

「愛されていますね」

「こんなモノ持って逃げようとしてたとは、思ってた以上にキレた奴だったらしい。これは私どころか、軍に加勢してもらう事になったろう」

「緊急呼び出しはその下相談?」

「多分」

「頭はともかく腕っ節はどうかと思います。まだピクリとも気づかない」

 J・Iは椅子ごと振り向きリビングのソファーを見る。苦悩するような表情でソニアは失神している。J・Iは立ち上がり、濡れて額にはりついたソニアの髪を撫でた。ひどく悲しいような、切ないような、愛しいような顔をして。

「助けてやりたい」

「……」

 フェイクの形のいい眉が寄せられる。

「なんて言いました、今」

「助けたい」

「……、ジェイ」

 フェイクはひどく苦い顔で口を開く。

「わたしが今、そいつを窓から投げ捨てたいのを、我慢しているのが分かりませんか」

「なんで」

「あなたが優しくしているからですよ」

「それがどうしてこの子を憎む理由になる。お前は私を愛してるんだろう?」

「その通りです」

「だったら私が好きのなのを、一緒に大事にしてくれていい筈だ」

「人の心はそう単純ではないんです」

「人の心ね……」

 クスクスとJ・Iは笑う。

「笑わないで下さい」

 フェイクの声は静かだが固い。

「わたしはそこの子供に嫉妬しています。あなたがそれ以上笑うと、本当に窓から捨ててしまいますよ」

「私が笑ってどうしてこの子を殺す」

「八つ当たりです。あなたにどんなに腹が立っても、あなたには逆らえませんから」

「まぁそんなのはどうでもいいが」

 血の出るような告白をどうでもよばわりされて、男の顔から血の気が引いて行く。

「……ジェイ」

 立ち上がり、近づく男を、J・Iは恐れずに待った。

「この子を助けてやりたいんだ。協力してくれ」

「その子を愛してる訳じゃあありませんね?」「愛していない訳はないだろう」

 堂々とつげられた言葉にフェイクの表情が強ばる。

「この子は私の星の子供だ。私の子供と同じだ」

「ウィリサの……」

 その一言でJ・Iの顔色が急速に回復する。きつく寄せられた眉がほどける。

「どうりでね……。あなたらしくないと思っていましたよ。眠っているうちに身体を見られるような真似をされたら、あなたはまず、何を置いても殴りに行く筈なのに」

「言葉の訛りで私にはすぐに分かった。地球からみればウィリサは辺境の一地域。滅多な事じゃ、出身者同士は出会わない」

「その子を男として愛しているのかって、わたしはずいぶんと気を揉みましたが、そういう訳ですか」

「この子が私のそばに送り込まれたのは陰謀だ、クライ将軍の。奴はさすがに私をよく知ってる。ウィリサの子供を見て私が、そ知らぬふりなんてできないことを。……この子に不審を抱かれて、前身がばれて。所長の監督不行き届きおよび私の契約不履行で、軍に引き込むつもりだろうよ」

 そこまで言って、J・Iは再び苦笑。

「もっともここまでの大騒ぎは予想してなかっただろうが」

「分かっていてあなたは策に乗るつもりですか」

「この子を当局に引き渡すくらいなら死んだ方がマシだ」

「……わたしを脅しているんですか」

 男の声が掠れた。

「本当のことを言ってる」

「どこまでわたしを脅かせば気が済むんです、あなたは」

「そんなつもりはない」

「昔を忘れられないんですか。わたしがこんなに愛していても駄目ですか。どうしてあなたはそんな風に、誰かの為に犠牲になりたがるんです」

「……犠牲か」

 かすかにJ・Iは笑う。

「そういう言い方もあるな。……その通りかもしれない。自分の為ってのはなんとなく後ろめたい。誰かの為だとなんでもできる気になる」

「そんなに大義が欲しいんですか。それがなければ、生きていけないほど?」

「……そうだ」

「どうして」

「さぁ……、たぶん、悪人だからだろう」

「あなたは、わたしとその子供と、どちらを選ぶつもりですか」

 J・Iの口調が再びきつくなる。

「両方」

「出来ないでしょう、そんな事。その子供を庇えばあなたは連邦から追われる身の上になる。わたしはこのまま静かに、ずっとあなたと一緒に暮らしたいと思ってるのに」

「出来るさ」

「自分が犠牲になってもいいからその子を助けたいと、あなたが思っているのなら、それはあなたを愛してるわたしへの裏切りです」「私を誰だと思ってる、フェイク」

 思いつめた男の心をほどくように、J・Iは、今度は苦笑ではなく艶やかに微笑む。自信に満ちたやや傲慢な笑みはしかし、彼女にはよく似合っていた。

「出来ると言ったら私はやるよ。今まで私がしようと思って為しえなかった事は一つだけ。惚れた悪魔を殺しきれなかった事だけ」

 冷静な口調でJ・Iは言う。それきり二人は黙り込み、部屋には雨の音だけが満ちる。「嫌だと言ったら?」

 先に口を開いたのはフェイク。

「この子と出ていく」

「何処へ」

「何処かへ」

「……勝算はあるんですか」

 勝負は、初めから分かっていた。

 

「遅いわ、何をしていたの」

 防疫センターの所長室。J・Iを迎えた美女の第一声。

「許せ、土産があるから」

 上等なスーツの懐からJ・IはMDを取り出す。所長の顔色が変わる。

「データ全部壊されて、焦る気持ちは分かるけどな……。大丈夫だ、コピーがちゃんとこの中に入ってる。軍に連絡はもう済ませたのか?」

「……いいえ」

「だったら何もかもなかったことに出来る。あいつの身柄は自宅に監禁してある。重いし、人目につくから。簀巻きにして見張りつけてある」

「……流石だわと、あなたを誉めましょうか」 J・Iの掌の中にあるMDを睨みながらきつい視線で、所長はJ・Iを見据える。

「それともこれは、最初からあなたが仕組んだ事じゃないのかと、問い質しましょうか」

 J・Iは笑っただけで何も言わない。自分から弁明を切り出すのは損だと知っている。

「坊やは、そういえばあなたのお気に入りだったわね。あなた、何を企んでいるの」

「企む?私が?あんたに?まさか」

「そのMDで何をするつもりなの。センターを乗っ取るつもり?」

「私があんたを追うとでも?まさか、これは」 はい、とJ・IはMDを所長の手に握らせた。

「あんたにやるよ」

 あっけなく渡された切り札に呆然とし、納得しかねる表情の所長に、

「私が信じられないか?」

「ええ……、いいえ……、分からないわ」

 正直過ぎる所長の言葉にJ・Iは笑みを漏らす。唇を綻ばせた、そのついでのように。

「実はそのディスク、開いてしまった」

 告げられた台詞。つられて笑いかけていた所長の表情が凍りつく。

「あなたは……」

「私が後ろで糸ひいていたとでも?それならもっとうまくやってる。あいつは逃げ場がなくなってうちに逃げ込んできただけだ」

「だからといって……」

「まぁ怒るのは当たり前だが、こんなモノをただ返す軍人は居ない。まして証拠品とは気づかずにやったっていう、堂々たる言い訳が出来るんだからな」

「あなたが気づかない筈がないでしょう」

「気づかなかった。過失だ。故意じゃない」

 所長は目を見開いてJ・Iの、しらっとした顔付を睨みつけた。が、徐々にその視線からは刺々しさが抜けて行く。

「……仕方ないわね。あなたのそのしたたかな有能さを見込んで三年前、職員に採用したのはこのあたしだもの」

「奴をどうする?」

「始末するわ」

「ワンパターンな仕方だ。まぁそれはおいておいて」

 J・Iは話しながら鏡のそばに寄る。アンティーク調の枠に手を掛け乱暴に引き抜く。鏡が外れたその向こう側は別室。

 人が居ないことを確認してから、J・Iは再び口を開いた。

「私をセンター職員に、Sランクの狩人にしてくれ時のこと、覚えてるか」

 唐突な昔話。

「忘れる筈がないでしょ」

 隠し部屋を知られていた事実にやや表情を強ばらせながら、それでも所長は微笑む。

「新人を、それも天使と肉体関係のあった人間をいきなりSランク狩人にするにはかなりの反対があった。なのにあんたは反対を歯牙にもかけなかった」

 『特殊防疫センター職員』の身分にはAからIまでの九段階がある。Dランク以上の者はそれなりに大切にされる。が、E以下は使い捨ての補充要員という意識が強い。AないしBランクの者は狩りのチームの指導者として指揮権を持つ。三百人近い職員のうち、A・Bランクの人間は数えるほどしか居ない。Cランクさえ十人前後。

 Aの上にはSがあり、これに該当する者は一人しか居ない。所内での特権と、ずば抜けた待遇を与えられた身分。完全な別格。

「私を初対面から信頼してたのは何故だ」

「そんな事に理由が必要なの」

「わけもなく他人を信じる馬鹿は居ない」

 J・Iは静かに笑った。

「三年間、あの時の信頼が謎だった。今やっと、謎が解けた」

 J・Iは懐からもう一枚のMDを取り出し、これみよがしにひらひらと、唇に当てる。

「コピーしたの。それも渡しなさい」

「あいつはハッカーとしちゃ大した腕だったらしい。所長コード以上のことを探り出してるよ。あんたの体感記録とか」

 こんどは所長の身体ごと硬直。頬から色が抜けて蒼白になる。

「何のことはない、あんたは経験者だった。天使に棄てられた仲間だ、私たちは」

 なんともいえない、苦い笑みのJ・I。

「クライ将軍があんたを抱いたのは使徒化してないかどうか試す為……。天使の影響下にある人間は、天使以外とのセクスに不感症だ、ってことになってるから。男ってのはどうしてこう、俗な色話が好きなのか……。にしても、十二か三じゃあ、あんたさぞショックだったろうな」

 淡々と化たるJ・I。所長は石化したように動かない。

「裏切られてひどい目にあって、あんたは天使を憎んだ。そしてクライ将軍を後ろ楯に、自分の血を提供して特殊防疫センターをここまでつくりあげた」

「……J・I」

 美しい女の唇から血の気が引く。それは口紅ごときの赤では誤魔化しようのない青。

「ところで、気になるネタはもう一つ。銀髪に紫色の瞳。外見年齢は二十歳前後の女。口元に黒子一つ。思い当たることはないか?」

 振り向いたJ・Iの目には、あきらかに動揺した所長の姿が映った。

「凍結されたうち、この天使だけナンバーが抜けてる」

「まさか、そんな筈は」

「世の中は無い筈の事が起こる。そのくらいのとおに知ってるだろう。問題は何故それが起こったか、だ。発見順に登録すべき天使の一体だけが抜かれているのはなぜだ。あんたならどういう時に天使の番号を抜く?」

 心の隙間に忍び込む悪魔の囁きは、甘く、静かで、物狂おしい。

「天使の狩人の適性は貴重だ。腕の良い狩人は尚更。あんたも現役の頃は天使を狩りまくってた。さらにあんたは希少な食い残し。私が捕まるまではたった一人、対抗因子を持った人間だった」

「それが、なんだと、いうの」

「天使の捕獲数が増えれば増えるほどセンターの存在価値は高まり、背後に控える軍の睨みもきく。軍はあんたを手放したくはなかったろう、なぁ?」

「……何が、言いたいの」

「あんたは天使に捨てられたと思っている。一緒に逃げる約束を裏切られたと。でももしかしたらあんたの天使はあんたのことを、本当は庇ったのかもしれない。証拠にあんたは生きていて、あんたの天使は、捕獲され凍らされてる」

 今度の沈黙は長かった。

「確かめに行かないか」

 ぽつりと、J・Iが呟く。

「……何、を」

「あんたの天使が捕まっているかどうか」

「どうして、あなた、そんな事に興味を持つの」

「確かめたいんだ。あんたと同じように、私もたった一度の記憶に支配されて生きてる。別の男と同棲していても、心の中には天使が住んでるんだ。……愛しているとか、そういうのじゃなくて」

 そう語るJ・Iの、表情は言葉を裏切っている。愛していると顔に書いてある。彼女を裏切った『天使』を。

「奴は私の一番柔らかな場所を食い散らした。あんたも同じだろう。一生そこを窪ませたままで生きていくのか?」

 J・Iは右手を軽く左胸に当てる。その場所に存在する痛みを確かめるように。

「生きていけるか、そのままで」

「J・I……、私は」

 所長の言葉を阻むようにJ・Iはテーブルの上にもう一枚のディスクを置いた。

「これを使えば天使の保管庫が見れる。私はソニアを連れてくるから、それまでに覚悟を決めておいてくれ」

「覚悟って……」

「ソニアを処分して、今の話を聞かなかったことにするか」

「ジェイ、あなた」

「私と一緒にひとやま張ってみるか」

「あなたはいったい、何をするつもりなの」「大嫌いなんだよ私は、ジェネラル・クライをね」

 薄く、凄絶にJ・Iは目を細める。

「向こうも私を嫌いらしいが」

「……そうかしら」

「あいつの足下に墓穴を掘ってやりたいと、ずっと思っていた」

 手伝わないかと言い残し、J・Iは所長室を出る。

 所長は白い指先をかすかに震わせながら、ディスクにそっと伸ばした。

 

 特殊防疫センター、地下200メートル。 周囲を鉛板とコンクリートで補強した空間。最深部には水晶水が青々とたたえられ、物理的にも霊的にも強力な磁場を形成している。 本来は何人たりとも立ち入ることの出来ない、捕獲した天使の墓地。液体窒素を充填した特殊カプセルを機械が運び込む以外、決して開かない筈のドアロックは、J・Iに渡されてダミーカードであっけなく解除された。 よろめきながら、凍結区域に入り込む女の影。所長は一つ一つ、番号を確認しながら奥へ進んで行く。進んでゆくに従って捕獲年度が古くなる。そして、もっとも奥のカプセル。ナンバーレスのその前にたどり着いた瞬間。「……リィア」

 目的のものを、見つけた。幼い心にきざみつけられた、かつての恋人。覚えていたよりも随分と小さく、痩せてみえた。

「リィア、リィア、リィア……、なんて事、あなたずっと、こんな寂しいところに一人きりでいたの」

 震える手で、彼女はカプセルのロックを解除する。天使に絶対的な意味の死は存在しない。液体窒素から出せばやがては蘇る。

 カプセルの蓋が開いて冷気がたちのぼる。その、瞬間。

「……あ」

 所長の背中を何者かの手が、強く、押した。 永久凍結された天使のカプセルに落ちる。液体窒素はほんの数秒で彼女を凍りつかせた。

 会員制クラブの片隅で、若い男がうつらうつらしていた。

 その一角は衝立で仕切られて、他の客から彼のことは見えない。上得意らしい待遇。酔うと眠くなる彼の癖を知っている店のスタッフは彼に肌触りの柔らかな布を掛け、寝室と夜の相手を用意しに行った。好みの女の名を尋ねられ、夢見心地のまま、

「……どれでもいい」

 答える。

 このクラブには顔と身体が極上の女たちが揃っている。でも、彼が選り好みしないのは、店の品揃えを信頼しているからではない。どれでもいいという事はどれでも同じという事で、それはつまり、どれでも駄目だという意味に等しい。

 半分とけた意識でJ・Iという名を知っているかと問われ、

「知ってる……」

 寝惚けた声で答える。

「惚れた女の名前だ。負けた女の名前。……負けたから惚れたのかもしれない。用兵の天才なんて言われて、天狗になってた頃だったし……」

 彼の呟きを聞く者は居ない。居ないことに安心して彼は呟き続ける。胸に閉じ込めたままでは苦しすぎる思いを。         それは古い話。といってもまだ十年とたっていないのだが、彼のような若者にとっては大昔の話だ。飛び級を繰り返して士官学校を卒業したばかり。

 十六か七で、演習の都度、百戦錬磨の将校が率いる部隊を撃破した。息子の戦果に父親は目を細め、彼に反感を持つものでさえ、あまりの戦果の華々しさに非難の口を閉ざしていた、その頃。

 彼とほぼ同年輩のウィリサの王女も父王から軍閥を引き継ぎ、百戦百勝負けなしを誇っていて。たぶん、連邦軍の古狸たちには二人のことが、目障りだったのだ。

 だから二人は対戦を強いられた。観戦者が負けた方をあざ笑う目的で。合同演習で、ほぼ同数の軍勢を与えられて。

 鶤の蹴合いを観戦するような気持ちでその対戦を仕組んだ連中は、後で後悔しただろう。それまでも二人はじりじりと名を知られていたが、空前絶後の名勝負と呼ばれたその戦闘によって、軍関係者で名を知らぬ者はもぐりと言われるほどの有名人になった。

 知力体力の限りを尽くした二十八時間にも及ぶ戦闘。

 結果的にはウィリサの王女が勝った。紙一重の勝利でも勝つと負けるでは天と地の違いだ。健闘を讃える声のなかで彼は敗北の恥辱にまみれ、まみれつつ対戦相手と交信した。降伏宣言の為に。

 勝った王女はスクリーンの中で笑った。髪はぼさぼさ顔色は最悪、目の下に隈を作って軍服の襟は萎えた、情けない姿で、でも勝者だった。

 模擬戦で勝ってこんなに嬉しいのは初めてだと正直なことを言った。

 

「クライ。……クライ・ダンク」

 名前を呼ばれた気がして目を開けると、ぼんやりした視界に惚れた女の幻。彼女にしては珍しいかっちりしたスーツ姿。

「……ジェイ」

 名前を呼んで手を伸ばすと、幻も手を指し