伸ばし指を絡めてくれた。ふれる指先はひどく暖かい。
「ひどい女だ」
「酔ってるのか、クライ?」
「何がひどいって、俺を負かしておいて食い殺してくれない、その生殺しさがひどい」
「おい、ろくでもないこと口走るな」
水を、と、幻は店員を振り向く。
「アブナイ関係と思われたら困る」
「俺だって、二十八時間くらい立ちっぱなしできた……」
呟くジュニアに、J・Iは昔の話だな、と苦笑。昔の話は止めろとは言わなかった。
「お前なら三十八時間でも立ってられたろうよ」
「飲まず食わずくらい、出来た。仮眠とりたくてとった訳じゃない。参謀が、判断力が鈍るかとか言ってすすめたから」
「うちのもすすめた。横目で睨んだら二度とは言わなかったが」
「畜生……」
悔しがる男をJ・Iは優しい目で見下ろす。「お前は強かった」
懐かしい表情。そして、
「お前と七光時隔てて向き合った時、生まれて初めて、負けるかもしれないと思った。私の勝因は私がお前より悪党だった事さ」
淡々とした口調に慰めの気配はない。
「私はどうしても負けたくなかった。負ける訳にはいかなかった。だから無茶をした。自分だけじゃなくブリッジの要員全員に休憩は取らせなかった。疲れた様子をみせた奴は怒鳴りつけて叩き出した。一人そうした後は皆、目ぇみひらいてた。ワンマンもたまには大事なんだ。お前は周囲に気を使い過ぎる。大成しないぜ」
「なにんてはっきり物を言う女だ……ッ」
ジュニアの呟きの、語尾が不意に上がる。そのまま俯いたのを見てJ・Iはネクタイを外して差し出しす。
「……?」
視界に闖入した鮮やかな色彩に、驚いたジュニアは顔を上げる。
「泣いているのかと思って」
J・Iは真顔である。ジュニアは苦笑する。差し出されたネクタイを受け取り頬に当てながら、
「あの負けは、そりゃ悔しいけど、泣くほどじゃない。負かされたことは素直に負けたと思ってる。四年前、飯食いに来いなんてひとを有頂天にさせといて、縛り付けて親父につきだした事も恨んじゃいない」
「心が広いな。私は少し、あれは悪かったと思ってるが」
「思い出すと泣きたくなる事は一つだけだ。なんであの夜、テロなんかあったんだ……」 呟く彼の顔に、グラスの氷水がかけられる。冷たさにクライは飛び上がり目をパチパチさせた。とろけていた意識が現実感を持つ。空のグラスをホステスに戻すJ・Iの姿も。
「J・I……」
ホステスを追い払い、J・Iは声をひそめた。
「お愉しみのところ悪いが、話がある」
「本物かよ……、何があったんだ」
ソファの上に起きなおり、ジュニアは彼女を見上げる。
「なんか飲むか?」
「時間がないんだ」
「何が起こったんだ。あんたが俺を尋ねてくるなんて初めてじゃないか」
「これから、起こす。お前の黙認が欲しい」
「俺の?軍のじゃなくって?」
「父上に秘密を持つ度胸はあるか?」
「親父に秘密?もう山ほど持ってるぜ」
やや自棄気味にジュニアは言い放つ。
「連行されて拘留中だったあんたを外に、飲みに連れ出したり」
「そんな事もあったな」
「求婚するつもりで連れ出した先ではぐれて、別の男に鳶油されたり。……くそ、あの夜、なんでテロなんか起こったんだ」
繰り返し彼は悔しがる。
「暴動に巻き込まれて、あんたの手を離しちまったことを三年間、ずっと後悔してた。神様が居て、願いを叶えてくれるなら、俺は時間を三年前に戻してくれって言う。そうして絶対、あんたの手を離さない」
「まだ酔ってるのか?」
水をもう一杯、とJ・Iが振り向き、ジュニアはそれを止めない。酔っている自覚があった。酔いに任せて言ってしまいたかった。「最初あんたと勝負した時、俺だって必死だった。なりふり構わず一生懸命やりたかった。でも出来なかった。俺は周囲の思惑が気になった。参謀も部下も、みんな俺より年上で経験が長くて。俺は親父の息子として、ずっと特別扱いで、最初っから指揮官で、十六で艦隊を率いてたけど、だからって俺が楽してた訳じゃない」
「分かるさ、クライ」
J・Iの同意には実感がこもっている。
「特別扱いされるのはいい事ばかりじゃない」「ずっと値踏みされてる気がしてた。俺は精一杯やりたかったけど、一生懸命やってだめだったって周囲に思われるのが嫌で……、必死でやってその程度かって思われるのが嫌で、途中で手ェ、抜いた」
消せない罪を告白するようなジュニアの声。軍人にとって最善を尽くさなかったことは何よりの罪悪。
J・Iは薄く笑う。知っているよと言いたげに。何もかもお見通しのような表情。
「あの夜もそうだ。俺は覚悟が足りなかった。腕が千切れてもあんたを離さなきゃよかった」 J・Iの手にグラスが渡り、ジュニアは自ら首を差し出すような姿勢。今度は頭にぼとぼと水がかけられる。首筋を流れ落ちる冷たさに身震いしながら顔を上げたとき、
「センターを、私が獲る」
静かにJ・Iは言った。
「へぇ……」
ジュニアは嬉しそうに笑う。
「ようやくか。遅かったじゃないか。あんたがそう言い出すのを、今日か明日かって待っていたんだぜ。そうだよ、そうこなくっちゃ。で、俺は何をすればいいんだ?」
「電話一本かけてくれ。憲兵にうちに来るように。それだけでいい」
「今度いつ会える?」
「なんか違うぞ、そのリアクション」
「あきらめられないんだ」
J・Iの手を経て差し出されるタオルで髪を拭いながらジュニアは呟く。
「あんたが監禁されてたビルから出て、あの男と暮らそうとした時、俺はドアの前に這いつくばって止めた。覚えてるか」
「自分からそうしたように言うなよ」
J・Iはかすかに口元を綻ばせる。
「這わされたんだろうが、私に」
「行くつもりなら踏んで行けって俺は言った。なのにあんたは踏んでくれなかった。どころか俺に、着てたコートを掛けてった」
「風邪をひかれちゃ困るからな。暫く動けないように殴ったし」
「あのコート今でも持ってるぜ」
「返してくれとは言わないさ。そのくらいなら最初から差し出さない」
言いながらJ・Iはネクタイをジュニアの胸ポケットに突っ込む。
「じゃあな。電話を忘れないでくれ」
「……一つだけ聞かせてくれるか、ジェイ」「答えられることなら幾つでも」
「俺が親父と切れても俺に価値があるか」
ニッと、J・Iは口元を綻ばせた。
「お前が私に勝てない理由がもう一つある。父親の出来が違う。あんな親父を持っているのはお前の唯一の欠点だ」
「周りに気ィ使い過ぎるのとで二つだろ」
「そっちは美点さ」
さっと踵を返し、クラブを横切って出ていくJ・I。これ以上戯言に付き合ってはいられないといわんばかりの態度。いつも通りの冷たい背中。
「……たまんねぇ女だ。馬鹿だと自分でも思うぜ、ジェイ……ド」
彼女の本当の名を舌で転がす。甘い響きだ。特別な名前。
「それとも本当にマゾなのかな。どっちかってぇと、サドだと思ってたんだが」
クラブのマネージャーが女を伴って来る。一瞥するなり彼は首を横に振った。チェンジ、という意味だ。媚を含んだ笑みを、浮かべた女は自尊心を傷つけられた表情で引き下がる。「緑の目だけは、やめてくれ」
「お気に召しませんでしたか。珍しい色で、美しいと言ってくださるお客様が多いのですが」
「大好きだ。だから困るんだ」
マネージャーが訳知り顔で頷いて、女と一旦は奥へ引っ込む。J・Iの翡翆のような目は本物の宝石なみに目立つから、マネージャーも意味が分かりやすかったろう。遊び相手が惚れた女と似てるのは困る。罪悪感じみた居心地の悪さが疼く。
「俺が商売女とどんな遊びをしたって、お前はなんともおもわないだろうけどな……」
酔いがぶり返してきて唇の錠が緩んでいる。思惑が呟きになってこぼれる。
「お前に知られんのは嫌だな。もっともお前はお見通しだろうが」
この店もそう。どこから知れたか、誰が漏らしたか。
用が無い時は見向きもしないくせに用が出来ると無造作に出向いてくる。そして腰掛けもしないまま用件だけを済ませて行く。『お前の事なんか興味はないよ』という顔で、でも本当は、何もかもを知っている。
知られているのは不快ではない。むしろ嬉しい。信頼できる気がするのだ。あんなにひどい女なのに何故か、この世の誰よりも信じられる気がする。
忘れる前に憲兵隊に連絡をしようと携帯端末に手を伸ばしながら、ジュニアはJ・Iの企ての成功を信じていた。
彼女がやることはいつも成功する。絶対成功するという確信が出来るまでコトを起こさない。一見派手で華やかで、足下があやういように見せかけて本当は誰よりも、着実で信頼性の高い女。待つことを知っているから。 じっくり潮をよみ、一掻きで瀬にたどり着く。防疫センターをとったとして次には何を狙っている?三年間の雌伏は何の為だった?
考えようとするのを酔いが邪魔する。テーブルの上に置きっ放しの氷水を飲み干してジュニアは、
「せっかくだけど用が出来た」
女連れで再び姿を現わしたマネージャーにそう言って、しかし、女の値段が組み込まれた金額の伝票にはそのままサインする。マネージャーは恭しく伝票を受け取りながら、
「残念です。あの娘、若の相手なら是非と言っていましたから残念がるでしょう。気が向かれたら、また後日」
「あぁ」
答えてジュニアは早足でクラブを後にする。その背中はしゃんと伸びて、若盛りの、切れ者の、責任ある仕事をまかされている男にしか出せない凛々しさを見せる。
「……やれやれ」
伝票をひらひらさせながら、マネージャーはため息。
「若君ご乱心再び……。将軍も、お気の休まらぬことで……」
いっぽう、一足先にクラブを出たJ・I。
店の入り口でクロークに預けた上着を受け取った。彼女を追ってきたホステスが着せかけてくれる袖に腕を通す。通しざま、J・Iは内ポケットから折り畳んだ紙幣をホステスの胸元に差し入れる。
女の方を見ないままの粋な動作だった。固く折られた高額紙幣数枚を女は指先で谷間の奥に押し込み、J・Iの為に先に立ってエレベーターを呼ぶ。ホールにはJ・Iとそのホステスだけしか居ない。
「見送りはここまでかな、それとも下まで?」「お望みのままに」
「地階の駐車場まで来て欲しい」
「承知しましたわ」
歯を見せてホステスは笑う。
「そのままドライブに誘って下さっても構いませんのよ」
J・Iは苦笑し、内ポケットからカードキーを取り出す。
「あら……、ホント?嬉しいわ」
エレベーターがやってきて、先に乗り込んだホステスがどうぞという仕種をしても、J・Iは足を踏み出さない。
「車、やるよ」
J・Iはカードにキスしてから彼女に渡した。ふざけた顔で、横目で笑ってやる。色気という言葉だけでは足りない迫力のある魅惑的な笑み。
「嘘、だってあれ、レイティアでしょ」
「その代わりドライブには一人で行ってくれるか」
ホステスは意味を悟ったらしい。かすかに表情を引き締め、でも色香は保ったままで軽く頷き、一人だけで地階へ向かって下りて行く。
J・Iはエレベーターホールの端に身を寄せた。非常階段へ続く壁の窪みは彼女の身体をうまく隠す。待つほどもなく人影。中年の男。男は奇妙な動きをした。エレベーターを呼ぼうとはせず下りて行く階数を読みそれが地階で止まるなり、腕時計のリューズをまわして何か言いかけた、瞬間。
男の腕は背中にねじあげられた。
声をあげようとした喉に一撃を食らわせておいて腕時計へ、
「今からそっちへ行く」
言いたいことを言って、鳩尾に一撃くれて、彼女は男を非常階段の踊り場に放り出した。
タイヤの軋む音が夜に響く。
車から下りたのは大きな紙袋を抱えた背の高い男。廃屋じみたビルの入り口に入って行く。開発から見捨てられたような一角。区画整理から外れてしまったこのあたりは本来ならスラム化する筈の地域。しかし地球には浮浪者や貧困者はおらず、人の住まないこの街は映画のセットじみた清潔さで満ちる。
暗がりの中を男はつまづきもせず歩く。時折立ち止まり、何かの匂いを嗅ぐような様子を見せた。彼は煙草の匂いを探している。来訪者が多分、吸っていたのだろう匂いを。
たどり着いたのは三階の奥の部屋。男がドアを開けても室内からは何の反応もなかった。ドアわきの壁に手を這わせて明かりをつける。 人が居た。
入り口に背中を向けた位置のソファー。脚を高々と組んで外を見ている。髪の向こう側からたちのぼるかすかな煙草の煙。そして、「お帰り」
落ち着き払った声。
「……ただいま、戻りました」
他にどう言いようもなくてリンクスはそう答えた。
「よく戻ってきたな。てっきり所長かジェネラル・クライかの懐に逃げ込んだと思った」
「みくびらないで下さいよ。買い物行ってきただけです。ボスがいきなり来ると言い出すから。ここには食べ物も飲物もろくに置いてないんです。それに」
紙袋から冷えたビールを取り出して投げる。缶はゆるやかな放物線を描いて背中を向けたままの、後ろ向きに伸ばしたJ・Iの掌におさまった。
「どっちに逃げても懐ごと、ボスに撃ち抜かれるのがオチだから」
そんな無駄なことはしないと笑う。
「いい住まいだ」
J・Iは立ち上がり窓際へ歩く。激しく降っていた雨は小振りになり、やがてあがりそうな気配。遠くに街の、雨に滲んだ光がぼんやりと見える。
「ボスに言われると恐縮だな」
リンクスは苦笑したがJ・Iの口調はマジ。「これだけ距離があると街は幻に見える」
J・Iは窓を開けた。途端に吹き込んでくる風に乗って、彼女がくわえる煙草の匂いと、彼女自身の夏草のような、かすかな匂いがリンクスの鼻孔をくすぐる。
「うちからのは近すぎて生々しい。人間が住む街はこのくらい離れて見るのがいい。蜃気楼を、懐かしむくらいが」
「それで、御用件は?」
緊張に耐え切れず口を切ったのはリンクス。J・Iはようやく振り向き、リンクスの方を向く。スーツの上着はボタンを全部外して、ワイシャツの襟にネクタイは見当たらない。彼女が懐に手を入れた瞬間、部屋に轟いた銃声。
抜く手も見せずリンクスはJ・Iを撃った。旧式だが信頼性の高い回転火薬銃。が、弾丸は窓ガラスを割っただけ。引き金は続けて引かれ、計六発の弾丸が放たれたが、それらは全てJ・Iの生身に命中しなかった。
「……なんなんだ、あんたは」
驚愕に掠れた声でリンクスが呻く。銃を支える腕がだらりと落ちるのを待ってJ・Iは懐に入れていた右手を抜く。
握られていたのは銀色の、ライターに似た金属の塊。
「まさかあんたが、天使ってオチじゃねぇだろうな……」
呻く男にJ・Iはまさかと笑ってやる。ライターもどきを弄りながら、
「磁場発生装置だ。一定速度以上の物体の軌跡を逸らす。山猫の巣穴に何の用意もなしで踏み込む訳はないだろう。さすがに宇宙軍総司令の息子はいいモノ持ってる」
「借りたのか」
「無断でな」
「……なんなんだよ、あんたは」
J・Iの言葉を、聞いているのかいないのか、リンクスは同じ台詞を繰り返す。
「なんでそんなに堂々としてんだよ。悪党のくせに。普通、悪い奴は、もっとびくびくしながら姑息に生きてるんだぜ」
「小悪党は、そうだな」
「自分は大物だって言いたいのか」
「悪い奴ほどよく眠るって、言ってあるだろう。本当の悪党は自分が悪い奴だなんて少しも思ってない。だから、世にはばかることなく生きている」
「悪党じゃないつもりなのか、あんたは」
ギッと音のしそうな目線でリンクスはJ・Iを睨んだ。視線で人を殺せるなら、ジュッと音立ててJ・Iが消失しても不思議ではないほどの、憎しみをこめた強い目。
「自分が何人殺したと思ってんだあんた。億だぜ、億」
罵りをJ・Iは不思議な表情で聞いている。反論するでもなく謝罪するでもない、敢えて言えば静かに同意するようなその表情は、見方によっては満足そうな微笑に見えないこともなくて、リンクスを一層激昂させた。
「そりゃウィリサに比べれば小さい星だったさ。やり手の色男の国王が繁栄させてる、あんたのとこに比べりゃ貧しくてパッとしない惨めな国だった。だけどみんなそれなりに一生懸命に生きてたんだ」
言い募るリンクスの目には薄い潤みの膜がかかっている。その膜は褐色の彼の瞳を黄金じみた色彩に変えていた。
「あんたに連中を殺す権利なんかなかった」
「……トーラス出身者か」
煙草に火をつけながらJ・Iは静かな声で呟く。
「そうだ。あんたが自分の星を庇うために禍を押しつけた、あの星で生まれた男だよ、俺は。……星を出たのは十五の時だった。大嫌いな故郷だったさ。田舎で狭くて貧しくて、日陰の麦みたいに萎縮して被害妄想で、人の口が煩くて。十年以上帰ってなかった。二度と帰るつもりもなかった。そこが故郷だったって事さえ忘れかけてたさ」
けれど。
「滅びたって知った瞬間、足下が崩れたような気がした。滅ぼしたあんたのことを許せないと思った。あんたが将軍の息子に庇われて幸福に暮らすなんて許せない。あんたは人殺しだ。非戦時下に非戦闘員を億も殺した、最低最悪の大量殺人者だ」
「その通りだ」
「軍人の風上にも置けないぜ、あんたは相応の、罰を受けるべきだ」
「私もそう思う」
「死んだ人間の苦痛を考えてみたことがあるかよ。何にも分からずに誰を恨めばいいかも知らずに、命を断ち切られたんだぜ。あんたは一生、センターの下働きして暮らすのが似合いだ。自分を犯した天使を恨みながら。二度と陽あたる場所に顔なんか出さずに」
「そうだな」
「なのになんであんたは幸せそうなんだよッ」
リンクスの叫びは割れた窓ガラスを震わせ、アルミの枠にかろうじてすがりついていた破片の一つを落とした。破片は床におちざま、J・Iの手首を傷つける。
「王女様が故郷から引き剥がされて一人っきりでさ……、普通はもっと嘆くもんじゃないのか。知ってるぜあんたの同棲の裏話。あんたの見た目に惚れた航路設計士に、軍は属託と引き換えにあんたをつき出しただろ」
「嘘じゃあないが、大袈裟過ぎる話しだ。……息子が惚れたタチの悪い女を、有力者の父親が厄介払いした。それだけの、どこにでもある話さ」
「それでなんで、あんた不幸にならねぇんだよ」
「リンクス、私は」
「謝れよ。殺した俺の故郷の人間に謝れ。俺のお袋も兄貴も居たんだぞ……。兄貴にはきっと子供も生まれてただろう。……謝れ」
「なんの為に」
「あんたには罪悪感がないのか」
「謝罪ってのは、許してもらう為にする。私は許して貰おうとは思わない。お前にも、お前の母親にも。謝られてもお前は困るだろう。私を許せはしないだろう?」
吐き出す煙の行方を追う、J・Iの視線がリンクスからそらされる。それを合図のようにして、リンクスはすっと身体を沈めた。
長身からは信じられないスピードで間合いを詰める。隔てのソファーが微妙に邪魔だったが蹴り倒して、彼女の顔面に拳をたたき込む、寸前。
目の前が見えなくなる。
噴霧された、ミスト状の液体は彼の眼前に壁をつくりだす。
リンクスの動きが鈍った。目標が定まらなくなったから。J・Iも素早く移動している。その気配だけはする。何処へ行った?
やみくもに手を伸ばした途端、空気の漏れるような音がしてリンクスの首筋にちくりと痛みが走る。麻酔針だ。そう認識した途端、霧の中から、足先が飛び出す。
針を抜こうとした手は、蹴りをブロックするには間に合わない。J・Iの踵と爪先に鉛が仕込まれているのをリンクスは知っていた。それで喉なり額なりを狙われれば命が危ない事を。
しかし爪先はリンクスの鼻先を掠め、鼻血で霧が赤く染まる、頃には麻酔がまわって身動きがとれなくなった。無様にソファーに倒れ込む。霧が落ち着くとそこには、煙草をくわえたまま彼を見下ろしているJ・I。
ゆっくり歩み寄り、固い爪先でもう一度、今度はそっとリンクスの腹をつつく。
「……こんな腹筋してる男とまともにやりあうほど無謀じゃないぜ私は」
実際それは鉄板のような感触。
「訓練の時にお前がわざと負けてるくらい、気づいてないと思ったか、リンクス」
笑うJ・Iにリンクスは答えられない。舌先が震えて。
「男の筋肉ってのは凄い。鍛え方によっちゃナイフも通らなくなる。お前も腹に力いれれば、刃が滑っちまうクチだな。……昔、そういう男を一人知ってたよ」
懐かしい目をするJ・I。
「そいつも肩幅は狭かった。そのせいで細身に見えてた。ガキの頃からの過酷な修錬で、肩が横に育つ間がなかったんだろう。肩が狭くて腹の固い男は要注意だ」
「……あ、やま、れ」
ようやく舌先の痺れがとれてきた。目も動かせる。ぼやける視界の焦点を合わせながらリンクスはJ・Iに、同じ言葉を繰り返す。
「あやま……」
「しつこい訳は私を許したいからか?やめておけ。お前が私を許したらお前の家族の立場がない」
「後悔、してないのか……」
「してないんだな、実は」
なんだかため息のようなJ・Iの口調。
「時が戻っても、何度同じことがあっても私は同じことをする」
「自分の星の為なら余所を、ぐちゃぐちゃにしてもいいのかよ。それでいいと、思ってるのかよ」
「私は王族だった」
「だから全てが許されてでもいる、つもりか」「何もかもが許されていないのさ。地獄に落ちてもしなきゃならない事がある。税金で養ってもらってる身の上だったから」
「あんたを、なんだか」
速効性の麻酔は回復も早い。神経系ではなく筋肉弛緩剤らしくて、リンクスはよろめきながら、立ち上がることが出来た。もっとも手足にはロクに力が入らなくて、J・Iとまともにやり合うことは無理だろう。銃の標準を合わせることも出来ない。
「好きな気もしてたよ」
ひどい罪悪を告白する口調でリンクスはそう言った。壁にそって移動するのをJ・Iは止めようとしない。そしてリンクスは、壁のスイッチに手を伸ばす。
「クライ将軍に指示されてあんたの横で、ずっとあんたを見張りながら。もしかしてあんたは、すごくいい奴かもしれないと思った事も、あった」
男の指がスイッチに触れる。爪を立てそれを剥がすとチャチなプラスチック板の下には重厚な金属の輝きを宿す、もう一つのスイッチが隠されている。
「だまされるなって将軍には言われた。上手に仕組まれた嘘がなまじな真実よりそれらしく聞こえるように、あんたもなまじな善人より正しく見える事があるから、って。……本当だったな。俺はなんだか、あんたを好きになりかけてた」
苦しい告白。
「でもやっぱりあんた駄目だ。生かしてる訳にゃいかない。あんた悪いのに強すぎる。あんたは、生きてちゃいけないんだ」
「それは爆薬か。私と一緒に死ぬのか、リンクス?」
「あぁ」
男の指がスイッチに触れた。
「これはクライ将軍の指図じゃないぜ。ましてチンケな復讐でもない。俺の判断だよ。俺は、どうしても、あんたは生きてちゃいけないと思うんだ。死出のお供が俺で不本意だろうが、まぁ我慢してくれ」
「リンクス」
「なんだよ、命乞いじゃないだろうな。そんなのするなよ、がっかりするから」
「どうして三年も待った?」
思わぬ問いにリンクスの指の動きが止まる。「私が悪党だと判断するのに三年もかかったのか?顔みりゃ分かることだろうに。……本当はお前、迷ってるんじゃないか」
「聞かないぜ」
リンクスの、固い口調は明らかな強がり。「あんたのそういう台詞は聞かない。悪魔の誘惑だから」
「望みは何かと問いかける悪魔は悪魔としては二流だ」
切り札に指を触れているのはリンクス。けれどJ・Iはあくまでも自分のペースを変えず話し続ける。
「私は一流だから察してやる。お前、自分の心を誤魔化してやしないか。本当は釈然としていないんじゃないか。お前は勘がいい。うまく利用されることに薄々気づいてる。だから決行を遅らせた」
「そんな事はない。あんたは……」
「私は悪党だ悪人だとよく言われたし、自分でもそのつもりだったが」
「きっとホントの悪人って、あんたみたいに極上なんだろうよ」
「私がそうかどうかはともかく、私を上回る悪党が世の中に居るとは思わなかった」
「……なに?」
「お前の星にコロニーを落としたのは私だが、私の星にそうしたのが誰だかお前、知っているか」
「……え?」
リンクスはスイッチに触れた指ごと全身を強ばらせる。
「お前が私に復讐を考えたように私もそいつに報復を考えた。それが誰だか調べることから初めて、私の三年はそれに費やされた」
「……事故だろう?」
「人為的な、な」
うすくJ・Iは唇に笑みをためる。その目は冥く、深く、激しい。地獄の光景を見ているような瞳。
「私のウィリサにコロニーを落とそうとした奴は」
「……待て、それ、本当のことか」
「お前に私を見張らせた男だ」
「……嘘だろう」
「特殊防疫センターの黒幕はあいつだ。あいつは星ごと私や父上を滅ぼすつもりだったのさ。天使撲滅の大義名分をかりて。……息子まで巻き込まれそうになってさすがに顔色を変えたが、口を拭って連邦政府と交渉してやるなんて言いやがった。……悪党め」
J・Iの口調が荒っぽくなる。
「お前が奴の紐つきって事は知っていた。でも私はお前のことを最初から気に入ってた。私の正体を死っている目をしていた。お前に断罪されるのは気持ちがいい。お前にはその権利がある……」
火のついたままの煙草を後ろ向きに、J・Iは窓外へ投げ捨てた。
「お前の目はいつも私を責めていた。罪を訴えていた。その通りだと、ずっと思っていた」 時が流れて行く。
男の指は動かない。指どころか、瞬きすら忘れて、男はその場に立ち尽くした。
「……殺さないのか?」
優しい、と言っていいようなJ・Iの問いかけ。
「殺され、たいのかよあんたは」
「後悔と罪悪感は別のものでな、リンクス。何度でも同じ事をするが、だからってあれを私が、悪い事したと思っていない訳ではないんだ」
「殺されたいのかよッ」
「お前になら殺されても恨まない。……クライ将軍を私が殺すまで、待ってくれるともっと有り難いが。あの男の最終目的を知ってるか、リンクス」
「知る訳ないだろ。直接会ったのは一回だけだ。あんたを危険人物だからって、俺に監視を言いつけた時」
「あいつは宇宙の帝王になりたいんだぜ」
くっと、耐え切れないようにJ・Iは笑う。可笑しくて堪らない、という風に。笑止千万、というやゆじみた含み笑い。
「どう考えても愚かな話だと思わないか。奴は神様になるつもりなんだ。そうしておなじ名前の息子に跡を継がせるつもり。馬鹿馬鹿しいと、私は思うが、奴はそう思わないらしい」
新しい煙草にJ・Iは火を点ける。
「あんたはそれを阻むつもりなのか。それがあんたの……、正義かよ」
「いや、単なる復讐心」
「あんた本当はずっと、将軍の喉を狙ってたのか」
「やつは私よりずいぶん大物の悪人だ。私はお前を返り討ちにとは思わないが、奴はお前を使って私を消そうとした。今頃は気持ち良く眠っているだろう」
沈黙。リンクスの視線が床に落ちる。
「……俺は、どうしたらいい」
意志の方向を失って呆然と呟くリンクスに、「物事には順序ってのがあるだろ?」
あくまでも落ち着いて語りかけるJ・I。
「私への復讐は私の復讐が終わってからにしろ。私の罪もお前の恨みも、根源はあの男だ。違うか?」
リンクスは暫く考え、ゆっくりと頷く。
「だったらまず私に寝返れ。寝返って将軍に報告しろ。お前のボスは大人しく自宅で寝ていた。所長ともジュニアともお前とも会わなかった」
「……勝算、あるのか。相手は連邦軍総司令官だ。連邦軍の、実質的な持ち主だぜ」
「蟷螂の斧を振り上げたみたいか?私の側につくのが不安か?」
からかうようにJ・Iは言った。自信満々な風情。
「そうじゃねぇ、けど」
「人間一人殺すにはそれで十分な時がある。私を殺すのに今、お前が指に力入れればすむみたいに」
言われてリンクスはスイッチから手を離す。J・Iは飲み残しのビールを、白い喉を見せつけるようにしてあおった。
そして歩み寄り、袖でリンクスの鼻血を拭ってやる。
「いい……、服が汚れます」
リンクスの口調は、すでにボスに対するサブのもの。
「軟骨は大丈夫みたいだな。手応えよかったから一瞬、ひやっとしたが」
「顔面とはちょっと意外でした。お得意の肝臓打ちなら、警戒してたんですが。ビールもう一本いかがです」
「貰う。ついでに肴、なんかないか。夕飯食い損ねてんだ」
「早く言って下さいそんな事は。空きっ腹にビール流し込むなんて、身体に悪」
壁から離れてリンクスは紙袋の中身を取り出す。まだ少し足下が危ない。
J・Iも窓から離れ、もう一度ソファーに腰をおろす。サラミやチーズ、クラッカーにフライドポテトといった肴を、彼女はすすめられるままつまみつつ、二本目のビールを開けた。
「お前、本職は?」
J・Iの質問に、
「本名って聞かないところがあんたらしい。……陸戦隊です。中隊長、してました」
「連邦軍地上部隊のエリートがなんでこんなところに居る」
「事故、起こして」
あまり言いたくなさそうなリンクスをJ・Iはそれ以上追求しない。
「これからどうするんですか?」
リンクスの質問に、
「家帰って寝る」
あっさり答える。
「それだけですか」
「寝る前にちょっとあるが、まぁそれだけだ」「送っていきましょうか?」
「いや。ワンブロック先にタクシー停めてるからいい」
「タクシー?」
「ちょっと訳ありでな。それよりお前、今夜は早めに寝ておけ。明日は早朝に集合がかかるぞ」
「……なぜ?」
「それは、明日のお愉しみさ」
笑ってJ・Iは、
「ご馳走様。またな」
まるで最初から、ちょっと遊びに来ていたような口調。
「車まで送ります」
暗いビルの中をリンクスは先導して歩く。そして無人タクシーのプレートが見えなくなるまで、ボスを見送っていた。
J・Iがマンションへ帰ってから三十分ほどで憲兵がやってきてソニアの身柄を引き取る。服は乾いていたからもとどおり着せてやった。着せにくくって苦労した。
意識のない身体を扱いながら、自分もシャトルでこうされたのかと、思うと少し生々しかった。
煙草を吸うために自分の寝室へ。大きなクッションにもたれて二本目に火をつけた途端、窓がコツコツ、叩かれる。
J・Iは部屋を出てリビングにまわり、そこからベランダへ出た。広いバルコニーの手摺の上に男は立っている。雨は細かく降り続いている。
「……首尾は?」
くわえたばかりの煙草を庇ってJ・Iは、バルコニーには出ないままで問いかける。
「上々です」
「そりゃよかった」
J・Iは笑う。けれど男は笑わない。
「どうして笑っているんですか。あの泣きぼくろの女を、あなたはお気に入りだったのに」「気になっていただけだ」
「殺してしまって、本当によかったんですか」「いつも、死にたそうな顔をしていたから」
煙草を吸い終わりJ・Iはリビングからベランダへ。手摺の男は動かない。けれど確かに動く気配がした。衣擦れのような、もっと細かくて軽い音。
J・Iは濡れない。雨雲で埋まった真暗の夜空とJ・Iの間に存在するものがある。
闇に溶け込む、夜と同じ色の大きな、羽根。 差し伸べられたのは一枚だけ。残り五枚は男の背中にある。折り畳まれた状態で尚、その羽根は男の背丈ほどもあった。伸ばせば背丈の倍はあるだろう。漆黒の翼がJ・Iの頬に触れる。
J・Iは頬を預けるように、少しだけ首を傾げる。暖かく柔らかな、羽根の感触が気持ち良い。滅多に出してくれない羽根だ。黒変してしまった、かつては輝く銀色だったそれ。
「怪我をしましたか」
「いや、なんで?」
「血の匂いがする」
言われてようやくJ・Iは思い出す。
「あぁ、リンクスのだ」
シャツの袖には褐色に変化した血が滲んでいた。
「匂いするか?どうも女やってると、血の匂いには鈍くなってしまう」
「返り血ですか、殺してしまったの?」
「鼻血だ」
「拭いてやったんですか、袖で」
J・Iは答えない。その通りだったが、そうだと言ったら面倒そうだった。
「副官は殺さなかったんですね。あなたはいつもそうだ。自分を愛してる上位者より憎んでる下位者に情をかける」
「そうかな」
「さっき来たのは憲兵でしたね。あの連邦軍人にも協力させたんですか」
「あぁ」
「わたしも彼もさぞ便利でしょうね。わたしたちはあなたの臣民じゃない。煮ても焼いても心は痛まない」
「そんな事はない。クライはともかく、お前は大事だ」
「いなすのがお上手だ。あの軍人よりはわたしを大事に思ってくれる訳ですか。団栗の背比べ程度でも」
「信じてくれないのか」
「何を信じろと言うんです。あなたがこんなに故郷のことを、今でも愛してるのを見せつけられた後で」
「故郷のことは昔の夢だ。大事だが、夢とは抱き合って眠れない」
「そう言いながら、今でも軍の情報や連邦の内情を流している。出所を晦ましながら」
「お前を愛してる」
「いざとなったら捨ててしまうくせに。あの女みたいに」
「所長のことをやけに気にするんだな。好みだったか?」
「ふざけないで下さい。……身につまされるだけですよ、次は我が身だと」
「お前は違う。あの女は本当に生きているのが辛そうで、見ててこっちまで辛かった。彼女が私を大事にしたのは、そう……、私に、楽にして欲しかったからさ」
望みを叶えてやれてよかったと、呟くJ・Iの口元の、笑みは本気か冗談か。
「わたしはあなたに切り裂かれた喉の、痛みを覚えていますよ」
フェイクはまだこだわっている。
「加害者ぶるな。悪党はお互い様だろ」
なだめるのが面倒くさくなってきたらしいJ・Iは口調を変えて切り札を出した。
「最初に私をだましたのはお前だ」
「否定はしませんが……、ずっとあなたを好きだったんです」
「嘘つけ。私が十六の誕生日からだろ。父上が主催してくださった祝賀会で。それまでは礼服って事で軍服で出席してたのが、十六からは夜会服を着た。胸と背中があいたドレス姿に、態度を変える男は選ぶなロクなんじゃないと、父上はご忠告くださったが」
「そんな事もありましたね」
「目線が会うなりすっとんで来たなお前。それまではウィリサに来るなり父上の横にベタづきだったくせに掌返しやがって、ロクデナシ」
「あんまりお奇麗だったからですよ」
覚えている男はとぼける訳にもいかなくて苦笑した。
「もっとガキの頃から私は美形だった。あの父と母の娘だ。お前の目が節穴で、気づかなかっただけで」
「仰る通りですが、十二、三の子供にそんな、まとわりついたら変質者でしょう」
「十六ならいいのか。それは寝床で役に立つからか?」
「苛めないで下さい……」
困った顔で男は哀願する。
「一緒に来いと言っておいて捨てたのもお前だ」
「あれは、あなたの為でした」
それは何度も繰り返した言い訳。
三年前。
天使に置き去りにされたJ・Iは、いや、ジェイドは身柄を連邦に拘束された。公式には死んだことにされて、特殊防疫センターで服役することが内定していた時期。
健康や精神状態を心配して、ジェネラル・クライ・ジュニアは日に何度も面会に訪れた。煮え湯を飲まされたくせに懲りない奴と父親には呆れられながら。そんな一日、ジェイドは彼に、外に連れ出された。
そして巻き込まれた暴動。
庇うように抱き寄せられ手首を掴まれて。でも人の流れは激しく、紛れたふりをして離れるのは容易だった。
クライから離れてどうしようとか、どこかへ行こうとか思った訳ではない。身分証と査証なしでは地球外に逃れることはできないし、第一逃げれば母星に迷惑がかかる。
明朝には軟禁されていた官舎へ戻るつもりで、でも、一晩だけでも自由でいたかった。
武器も金ももっていなかったが、そんなもの現地調達することは簡単だ。数人と擦れ違い様、彼女は財布や銃を懐から失敬する。適当なホテルにチェックインし、手足を伸ばして眠った、その夜。
風に頬を撫でられて目覚めた。
枕元には、何者かの気配。
抜く手も見せず彼女は枕の下から銃を取り出し、仰向けの姿勢のまま頭上を狙う。銃声はほぼ連続していて、撃ち手の技量が素晴らしいことを示していた。
撃たれた男は眉間を抑え呻く。人間なら即死している。けれど男は衝撃に肩を揺らしただけで平然と立ち続ける。
「のこのこ、やって来やがって……」
弾倉を替えながら彼女は言った。底光りする瞳で。
「今頃、何しに来た」
「……契約を果たしに」
再び撃ち抜かれた額を押さえながら天使は答える。殺せないことは承知の上で、それでもジェイドは狙撃を止めない。深い瞳は潤む寸前の色合い。
「馬鹿か、お前」
それでもせせら笑う口調は健在で、強靱な精神は逆境に侵されてはいなかった。
「私を囮に逃げたろ、お前」
「あなたの為でした。あなたは傷んでいた。逃避行には耐えられなかったでしょう」
「誰のせいだ」
「もちろん、わたしのせいです」
額に当てた手の平に再びの衝撃。
「痛いから止めてください。弾丸よりも、あなたの悪意が……。私を殺したいんですか、ジェイド」
「当たり前だ」
「愛してくれる約束はどうなりました」
「あんなものは反故だ」
「それはひどい。私はあなたとの約束通り、コロニーの軌跡を変えて余所へ落としましたよ。……置いていった事を怒っているんですか」
無言は肯定。怒っているというより悲しんでいるような瞳。
「あなたの為だったんです、本当に。天使に棄てられた人間には利用価値があるからあの時、置いていった方があなたが生き延びる率が高いとふんだ」
ふわっと、ジェイドの頬を包んだ羽根。ジェイドはびくりと身体を竦ませた。その感触はあの夜の記憶に直結していて、しかし目を疑う。羽根を出しているのか、この男は。
ならば何故見えない?闇を退けて鮮やかな、あの輝く銀の羽根。
ベットサイドに手を伸ばし部屋の照明を点ける。簡単にチェックインできる安易なホテルを選んだせいで部屋は狭く、六枚の羽根は壁に沿って曲り、まるで彼女を蘂にしたドーム状の蕾のようだった。
黒い羽根。
夜闇に溶け込む漆黒の。
「あなたが連行された地球にわたしも居ました。多分、防疫センターに引き取られるとは思ったけど、心配で、ずっと見ていました」
「……寄るな」
ドームの壁がせり下がりジェイドを包み込もうとする。恐怖を感じてジェイドは後ずさる。
強ばった表情とは裏腹に、手指は滑らかに動いて銃に、懐から抜いた一発の弾丸を充填する。
鉛玉ではなくて、白い蝋の。
『天使』が連れ戻しに来た時の用心に持っていろと、ジェネラル・クライ・ジュニアからそっと渡された銃弾。渡された時はまさか、使うことになるとは思わなかった。
「それ以上近づくと命弾を食うぞ」
「どうしてわたしを殺そうとするんです、ジェイド」
天使の問いにジェイドは答えない。長い話をするのは嫌いだった。連邦に身柄を拘束されてからの、監視や調査、尋問に恥辱。そんなのを口にする気にはならなかった。
「……置いていくくらいなら、殺していけばよかったんだ」
死んだ方がよほどマシだったと、短い言葉の中に深い意味を託す。
「わたしがあなたを?まさか。あなたを本当は一瞬でも離したくなかったけれど、殺したくなかったから手放したんですよ」
「出ていけ。二度と私の前に姿を現わすな」「できません。あなたを愛しています」
抱き寄せようと伸ばされる天使の腕。
きゅっと、絞られるジェイドの口元。
銃声はかすか。蝋の弾丸は天使の心臓に、至近距離から突き刺さる。
ジェイドは目を閉じ、息を吐き、それから顔を上げた。
覚悟を決めた瞳が驚愕に見開かれる。
硬直している筈の天使は変わらぬ苦しげな笑みのまま、シャツの内側をまさぐる。
呆然としているジェイド。
天使は胸の傷から取り出した蝋を口に含み、噛み砕く。
「中身は血ですね。天使に愛された人間の。うまくできている。でもこれはわたしには効かない」
「……どうして」
「この血の持ち主を愛した天使よりわたしが高位だから」
「?」