「知らないんですか。天使と接触を持った人間は使徒化する。接触の程度によるし、抵抗力には個体差も激しいけれど、少なくともこうやって、同じ息を吸うのはあなたの為にはならない」
男の手が伸びてジェイドの唇に触れる。愛おしむように、いたわるように。
「使徒は役に立つんですが、すぐに壊れてしまうから……。相手を使徒化させたくない時、天使は抗体を呑ませる。一つの抗体は一つの個体に特有のもの。だからそれを別の天使に打ち込めば拒絶反応を起こして、天使の新陳代謝を阻害する事が出来る。……例外はあります。より上位の天使には、効き目がない」 言いながら天使はシャツをはだけた。左の心臓を見せる。数発の弾丸を撃ち込まれたせいでぐしゃぐしゃになった肉。
ジェイドは目をそらした。正視することが出来なかった。
「それでもいいなら、どうぞ。あなたを愛しています」
「……いいよ、もう」
銃をジェイドは床に放り出した、瞬間。
天使は機敏に動く。手首を捕えられ、ベットに押さえつけられる。
「離せ、悪魔」
落ち着いた口調でジェイドは言った。
「その通りです。望みを、どうぞ」
黒い羽根が彼女の視界を覆い尽くす。
「人間の望みをきくのが悪魔の役割ですから。わたしはあなた専属の悪魔です。なんでも言うことをききます」
「二度と、私の前に現れるな」
「あなたは……」
くっと、男は笑う。力の抜けた彼女の背を抱き上げながら。
「世界一賢い。悪魔に望みを問われてそう答えれた人間は有史以来、あなただけでしょう。でもそれはなしなんです。他を考えて下さい。あなたの望みを叶える為なら何でもする男がここに、おりますよ」
きつく抱きしめられて彼女は妙に度胸が座った。
「その羽根は、私のせいか」
尋ねた。答えはない。
「私が何億人も殺させたからか」
「違います」
彼女の腕を掴んで、自分の首にまわさせながら、男は口を開く。
「人間をどれだけ殺したって、それが罪にはなりませんわたしは人間じゃない。わたしの罪はあなたに愛されたいと望んだことです。宇宙の意志の在処より、あなたの望みを叶えたいんです」
「考えるから、手を離せ」
彼女の言葉に男は素直に従う。そして、彼女が言った望みは。
「ゆっくり眠りたい」
悪魔に望むにしては可愛らしすぎる、でも切実な希望。
「監視つきの箱の中はうんざりだ」
「だから彼の誘いに乗ったんですか?そんなに外に出たかった?」
「本当に見ていたんだな、お前」
「勿論ですとも。でなければこんなにタイミングよく現れる筈がないでしょう。嘘だと思っていたんですか」
「ああ」
「どうして」
「お前は信用できない」
はっきり言われて、天使は困った顔。
「信用は、そのうちに取り戻すとしましょう。どうぞ今夜は安心してお休みなさい。明日目覚めたら、あなたの望みの場所に行きましょう」
「明日になったら公舎に戻る」
「そうでしたね。あなたの身柄はウィリサの経済封鎖と引き換えでしたっけ。あなたは故郷の為にならないことは絶対にしない人でした」
少し悲しげに男は言った。
「でもあなたを箱の中からはお出しします。あなたの願いは叶えて見せますよ」
「ウィリサに、迷惑は」
「かけません。そんなことをしたらあなた、心配で眠れなくなってしまいますから。安心してください。悪魔は契約に忠実なものです」「眠るから、出ていけ」
「何もしません。お気になさることはありません」
「気になる」
「犬か何かと思えばいい。あなたよく大きな犬と一緒に居たでしょう。あれだと思えばいい。実際似たようなものです。あなたに懐いています」
返事の代わりに彼女は深い息を吐く。信じたのか、それとも諦めたのか。
「あなたのそばに居たいんです。本当は、わたしはそれだけなんです」
翌朝、男は彼女を公舎に送っていった。公舎には夜中じゅう彼女を探していたジュニアが憔悴した顔で居た。無事を喜ぶ彼に適当に答えて、彼女は自分の部屋へ行く。
追おうとしたジュニアを、送ってきた男が引き留める。
「ジェネラル・クライ・ジュニア。私を覚えておられませんか。軍専属のお誘いを受けた航路設計士ですよ」
言われてようやく、ジュニアは彼に気づいた。民間に置いておくには惜しい、抜群の腕の航路設計士が居ると聞いて軍に誘ったことがあった。にべなく断られたが。
「あぁ。彼女を送ってきてくれたのか、ありがとう」
「お礼を言われると面はゆいですね。ところでレディー、何者なんですか」
その言い草がクライの意識に引っかかった。暴動で迷った女を、親切だけで送ってきた男にしては差し出がましい口調が。
男同士の視線が絡み、やがて。
「彼女は何も教えてくれませんでした。でもだいたいの見当はつく。この建物に軟禁されているということは戦犯。クライ将軍ご子息自ら監視についておられるところを見ると、そうとうな重要人物、ですね?」
「それがどうした」
「軍専属になれというお誘い、あれを真剣に検討してもいい。彼女と暮らせるなら」
クライの頬が強ばる。昨夜のうちに何が起きたのか、明瞭に察して。
「……それは」
答える声さえ固かった。
「本人の意志を確認してからの、返事になると思う」
「そんな建て前は白々しいですよ。連邦軍が本人の意志なんてものを尊重したことがありすしたか。まぁ、だからといってわたしと一緒に暮らせって、彼女に余計な命令をされるのも御免被りますが」
説得は自分でするからと言いたいことを言い、今日はこれでと男は帰り支度。
「彼女にも挨拶したいんですが、部屋は?」 ジュニアに案内させ、ドアを叩いた。
「レディー……、今日は帰ります。最後に顔を見せて下さいませんか」
ややあってドアが開く。楽な部屋着に着替えた彼女の、額に男はくちづけた。
横でクライは目を剥くが、彼女は拒まない。「近々必ず迎えに来ます。その時は名前を教えてください」
男の台詞を聞きながらクライは、生まれて初めて貧血というものを体験した。
それから。
ゴタゴタは、あった。婚姻を望んだ航路設計士・フェイクと軍との間で彼女の身柄を巡って折衝が繰り返された。結局、婚姻は許せないが同棲は許可する、その代わり設計事務所は軍専属ではなく、専用のセクションを設けるにことになった。
ジュニアは反対した。
『心身の痛手が癒えない状態のまま他者の手に委ねることは軍及びセンターの保護監察義務にもとる』
という正論から、
『あいつはインポだ。三十近い独身男がオンナの影もないなんておかしい。きっと役立たずだ』
根も葉もない中傷まで。
が、私情が入っているということで彼の意見は採用されなかった。
ジュニアが彼女に泣き落としをかけたり、最後の手段として押し倒そうとして殴り倒され、挙げ句にドアの前に大の字に寝転んで踏んでいけと叫んだり、騒ぎはあったが結局、フェイクはJ・Iを郊外の高級マンションに引き取れた。彼女の為に用意したマンションに。
そして、今。
「仲間の死体を、見たか」
夜風の吹く広いバルコニーで、J・Iは意地の悪い質問。
「見ましたよ」
「心、痛まないか」
「あなたを失うほどには」
不意に六枚の羽根が揺れた。
羽毛の渦に抱き込まれ、腕の中へ運ばれる。重ねるだけの、妙に清潔なキス。唇が離れて、J・Iが目を開けると間近に、今にも壊れそうな顔をした男の顔。
「あなたは天使を嫌いですね。わたしのせいですか」
切ないような問いかけを、
「当たり前だ。天使のやり方は気に食わない。連中は惚れさせて信頼させておいて、裏切る。残酷過ぎる」
「それはわたしの事ですか」
「他は知らないな」
「わたしに言わせれば残酷な誘惑者は人間の方だ。中でもあなたは群を抜いている」
「私?」
口元だけでJ・Iは笑う。
「私が悪い奴だって事は、承知の上だった筈だぜ?」
「あなたはずるい。自分で悪党と言ってしまえば悪事が許される、訳ではないんですよ」
「善人のフリをするのには嫌気がさしてた。二十年間無理してきたから。悪人と名乗れる今は気楽でいい」
「本当に?わたしにはかえって無理してるように見えます。あなたは悪党じゃない。悪いことをするのは平気ですが、でも悪い人じゃない」
「理論が破綻してるぞ。意識的に攪乱しようあとしてんなら無駄だ。私はインテリじゃないから」
「そんなんじゃありませんよ。言ったでしょう、わたしはあなたとの勝負は最初からあきらめています。大昔に」
天使の翼がJ・Iの頬を撫でる。
「あなたを愛してしまったと知った瞬間の、私の絶望をあなたは知らないでしょう」
悲劇的結末が、前もって約束されているような恋。
天使には、絶対的な死というものが存在しない。液体窒素の中で生命活動は抑制されるがそれは厳粛な意味での死、存在の消滅とは違う。天使に比べると、人間の生命は陽炎のようなもの。
「私が死んだらどうすつもりなんだ、お前」
J・Iの問いかけは少し無神経だ。
「私は死ぬよ。すぐ」
「言われなくても、わかっています。あなたにいつか、置いていかれることは。……わかっているから、言わないでください」
「私は早く死にたい気もする」
「縁起でもないことを言わないで」
「そうか?」
語尾を上げるJ・Iの顔はほろ苦い。
「私は人間だから、死ぬ前に老いる。お前がお気に入りの身体もじきに朽ちるしその前に衰える。いつまでも抱いて気持ちよくはない。そうなったらお前は私を捨てるさ」
「なに言ってるんですか。そんな事ある訳ないでしょう」
「二度ある事は三度あるって言うだろ。お前は俗物だから」
「二度って、一度目は?」
「私がいいって言ってないのに触った」
「……どうやったら我慢できたっていうんです」
最大の弱みをつかれ、逆に開き直ったフェイク。
「会うたびに、あなたは美しくなっていった。研磨されていく宝石みたいに。触りたい気持ちをどうしても我慢できなかった。いずれあの警護官と挙式して、その子供を出産して……、そんなことを、想像しただけで胸が破れそうでした。あなたのことをどうしても、諦められなかった」
「お前に捨てられるのはうんざりだ。二度目には多分、耐えられないと思うから」
「ジェ……」
「そうなる前に私が先にお前を捨てていく。あと、そう、二年か三年か」
さらっと言われた言葉に、
「そんな事になったらなにするかわかりませんよ」
フェイクは顔色を変える。
「笑わないで、本気です」
「私も本気だ」
「復讐ですか、あなたの」
「私の恋の完結さ」
細い雨が降る。かすかな雨音を聞きながら二人は向かい合う。やがてゆっくり、口を開いたのは男の方。
「……水晶水の中で眠る恋人たちは素敵でした。少し、羨ましいと思ってしまいました」
「今夜だけだ」
明日になれば所長の失踪と、天使保管庫の開閉記録は知れる。二つは用意に結びつけられ、保管庫は調べられるだろう。
「所長の遺体はひきあげられて、司法解剖だ」「ひどい人だ、あなたは」
「お互い様だろ。私も大概、ひどいめにはあってる」
「子供を産みたくないですか、あなた」
やや唐突にフェイクは尋ねた。
「考えたこともない」
「わたしは産んでほしいですよ。わたしの子を」
「お前は出来ないことばかりさせたがる。死ぬなとか孕めとか。天使と人間の間に交配が成立したケースは聞いたことがない」
「そんな言葉を使わないで下さい。……あなたには、申し訳ないと思っています」
「思ってるだけだろ。お前はいつもそうだ」「あなたを不幸にしてるかもしれません。でもだからって、他の男には渡したくないんです。子供を産むのは諦めてください」
「心配するな、最初から、私がもてるのは女とホモと犬にだけだ。……私は眠る。お前はどうする?」
それ以上フェイクの戯言を聞く気はないらしいJ・Iは言いたいことをいいながら、羽根の中からするりと身をすべらす。
「壁に向かって喋り続けるか?」
「一緒に寝ます」
「私は私の部屋で寝る」
「……そうですか」
「何もしないなら横で寝ていいぞ」
J・Iの台詞にフェイクは俯いた顔を上げる。彼女の私室で眠ったことはなかった。
「何もしないで隣って、抱いて眠っていいって事ですか」
「触るだけなら」
「胸にも?」
「指動かさないなら」
「どうしていきなり、そんな優しいんですか」「傷ついた顔してるから。お前は案外と繊細だ。仲間の死体に対面させて、悪かったな」「いいえ」
フェイクは雨から彼女を庇いながら微笑む。「いいえ、とんでもありません。あなたの望みを叶える為ならわたしはなんでもするんです」
自分自身に宣告するような、言葉。
「あなたが笑ってくれるなら、なんでも」
翌朝、まだ薄暗い夜明け前、J・Iは身元引受人として留置場に部下を引き取りに来た。「さっさと歩け。二度と私に、こういう恥をかかせるな」
「……ボス?」
夢をみているような顔つきで、ソニアはJ・Iに腕を掴まれ、留置所前に停められた公用車に放り込まれる。
「おら、乗れ。ただでさえ今、大騒動になってるってのに」
ソニアは目をぱちくりさせる。その騒動を起こしたのは自分だった。追いつめられて、最後にどうしても会いたくてこの人のところへ行った。告白をしてそれから、それから……。
記憶がない。でも夢だった筈はない。あんなにリアルな悪夢があるものか。
車が走り出す。
「所長が死んだ。変死だ」
その一言がソニアの混乱にカタをつけた。
「あなたが殺したの?」
「面白い冗談だな」
「あなたが殺したんだろ」
「私のアリバイは証明済みだ。酔ったお前が軍の憲兵にパクられた時、私は自宅で身元問い合わせの電話を受けてた」
その言葉でソニアの確信はいよいよ深まる。このボスと軍上層部との特別な繋がりは、センター内でも噂になっていた。
「……次期所長になるの、あなた?だったら僕、一生懸命働くよ」
「まだそんな段階じゃない」
「でも下話はついてるんだろう?うちの所長は連邦採用試験 種に合格したエリートさんには無理だ。嬉しいなぁ、僕、本当に一生懸命働くからね」
「まぁ、期待しておこう」
後部座席にソニアを乗せたままJ・Iはかなり速度を出して特殊防疫センターへ。車を正面玄関に横付けするなり、中から飛び出してきたのはリンクス。
「お早ようございます。大変な事になってますよ。コンピュータ制御のシステムがマヒしててビクリとも動きゃしない。保管室の監視システムは独立してますから、監視カメラの配線を手動に切り替えてやっと、所長の遺体が確認できたところです」
ブラックのジーンズに同じ色のTシャツ。見慣れないカジュアルな姿のリンクスはいかにも早朝駆けつけてきました、という雰囲気。 ソニアは車から降りながらリンクスのそんな様子に不審を抱いた。所長変死の急報を受けたところで、着替える間も無く飛び出してくるような可愛げのある男か、こいつが?
ソニアの不審な眼差しを受けてリンクスは薄笑い。
「おいおい……、ボスに留置所に出迎えさせた上、後部座席かよ」
礼儀知らずのガキめ、と言いたげなリンクスを睨みつけソニアが何か言い返そうとするのを、
「システム・ロックを解除できるか」
J・Iがソニアに話しかけることで阻む。彼女も髪を巻き上げないまま背後で纏めた姿だが、こちらの場合は夜遊び朝帰り、という様子に見えるのは不思議だ。
「見てみなきゃ分からないけど……」
確かに自分がロックしたシステムについて、ソニアは戸惑いながらそう答えた。
「たぶん」
「よし。何はともあれそれをしなけりゃ話しにならん。行くぞ」
J・Iはソニアの背中を押しリンクスに目線を送り、中央制御室へ。センター職員は他に十数人が駆けつけていたが、J・Iのように淀みなく指示を出す者も、リンクスのように万事準備を整えて指示を待つ者も居ない。 システム自体の復旧は数分でこと足りた。「どんな風だ?」
椅子に座るソニアの肩に手を当てて、背後に立つJ・Iが尋ねる。珍しくその唇には煙草が挟まれていない。
「システムは戻ったけど」
「それで?」
追求に、ソニアはJ・Iの尋ねたい内容を察した。
「データは目茶苦茶。住所録さえ呼び出しに応答なし」
「復旧出来るか?」
「無理だよ。容器を拾い上げても、こぼれた水はもとに戻らない」
中身の水は別の容器に移されてJ・Iの懐にある。
「仕方ないな。……機械が動くなら所長の遺体を運び出してくれ」
「警察待たないんですか?」
「そんなモノ、ここに入れる訳にはいかないだろ」
J・Iの言葉に納得してソニアは指示に従う。
「それと、監視カメラの映像のチェック」
「それはしておきました」
口を挟むのはリンクス。
「カメラのシステムを手動にした時点で。これです」
渡されたディスクを、再生機器に入れて画像を出す。何かを探しているような所長。
「……一人だな。最初から最後まで」
人に擬態している時はともかく、羽根を見せた状態の天使はカメラには映らない。目的のカプセルを見つけたらしい所長が何かを呟き、カプセルにダイブする。ぎこちない動きで。
目を細めるJ・Iに、
「どう思われますか、この騒ぎ」
リンクスがそっと尋ねた。
「どうもこうもない。所長の、乱心としかいいようがない」
「自殺、でしょうか」
「自殺か……。自分が死んだだけじゃない。センターのメモリーを目茶苦茶にして、混乱に陥れて」
メモリー破壊はソニアがした事だったが、J・Iは所長の仕業にしてしまうつもり
「自殺というより無理心中じみた悪意を感じる。何がどうなってるのか……。昨日のデートじゃ、そう変わった様子には見えなかったが……」
J・Iは目を閉じ数秒の黙祷。そして再び目を開けた瞬間、
「上に聞くしかないだろうな」
「上、とは?」
「連邦軍総司令官様。所長はあの人の愛人だった」
明かされる事情にソニアは口笛を吹く。
「なるほどねぇ、やり手だな、ジェネラル・クライ。トップの身体を組織ごとモノにしてた訳か」
「やり手だが、男は詰めがどうしても甘い。身体だけで安心してる男の足もと掬う、女の奥の手を御存じなかったらしい」
「所長ご乱心の原因は、ジェネラル・クライとの線ですか」
「知らんよ、それを聞きに行くんだ。ところで、リンクス」
「はい」
「鋏、あるか」
「……?」
「あと、コンパスとインク」
何がなんだか分からぬまま、リンクスは手近な身内に命じて事務所からそれらを持ってこさせる。
「お前も着替えろ。将軍閣下が出勤する前に私邸に行く」
「ボスは?」
「用意するんだよ」
そう言いながら鋏とインク壺とコンパスを持って歩き出すJ・Iに納得できず、リンクスは彼女を目線で追った。が、彼女が洗面所に入ったのを見て慌てて自分も更衣室へ。
十分後。
服装はそのまま、洗面所から中央管理室へ戻ったJ・Iを、見るなりソニアと、一足先に戻っていたリンクスは。
兄弟のように似た声で悲鳴をあげた。
「……なんなんですか、その顔は」
J・Iが自宅に戻ったのは夜半。ドアが開くなりリビングから飛び出してきたフェイクは、たぶん今までエレベータの階数表示を睨みっぱなしだったのだろう。そういうタイミングだった。
「失敗した」
やや疲れた様子で靴を脱ぎながらJ・I。屈み俯く彼女の、うなじが白く浮き上がる。膝まで届きそうだった彼女の髪は、男のようにざくざくと思い切って短く切られている。
「左右、逆だった。鏡見てやったからな」
言いながら顔を上げる、その目尻に。
かなり目につく、泣き黒子。
呆然とするフェイクを後目にJ・Iはリビングへ。大きな姿見に向かって満足そうに笑いかける。
「まぁいいか。こえして見る分には完璧だ。もともと私は父上に生き写しなんだ」
「ジェイ……」
「ってゆーか、父上と母上がそっくりだったって言うか。だいたい普通の従姉弟なら結婚できるんだ、ウィリサは。それが許されなかったりは血が近すぎたからで。両祖父祖母は互いに兄弟で、しかも祖母たちは一卵性双生児だった」
「何の真似です、それは」
動揺し、声を震わすフェイクに、J・Iは鏡ごし笑ってやる。
「宣戦布告、みたいなものかな。ジェネラル・クライに」
「髪を切って黒子を入れて、お父上のお姿に似せてみせるのが?」
「目を剥いてたぜ、あいつ」
J・Iはせせら笑う。
「いい気味だ」
「意味が分かりません」
「あいつは父上に惚れているのさ」
歌うような口調で、教えてやるJ・I。
「それであなたは、父上に顔を似せて、奴の好意を得たいんですか」
「まさか。逆だ。嫌がらせに近い。昔の悪夢を目の前にして、あのタチの悪いのが目を泳がせてた。……いい気味だ」
「どうしてあなたはそう、彼を嫌うんです」「向こうも嫌ってるぞ」
「そうですね。二人ともらしくない。妙に感情的ですよ。あなたたちは、向かい合うと」「似ているからな、嫌なところが」
言われる前にJ・Iは自分で言ってしまう。「たまにあいつが他人と思えない時がある。目的の為には手段を選ばないトコ、身びいきが、そりゃあ激しいトコ。誰の下にもつきたくない傲慢……、愛した相手を自分の手で、殺してみたがる歪んだ発情……。嫌な自分を見せつけられるみたいだ」
「せっかく自由になれたのに、あなたはどうして危ない事ばかりしたがるんです」
「私が虎だから。毛並みじゃなくって牙が自慢なんだ。お前は、毛並みばかりを気に入っているが」
うなじが涼しくて気になるらしい。J・Iは右手を首の後ろに当てた。
「私にとって、それはおまけだ。顔も身体も自慢じゃないことはないし、たまに暇だと見せびらかして遊ぶが、射撃や格闘技と同じ程度の余技で、私の本質は別にある」
「軍略家、という事ですか?私にそこを大事がれって言うのは無理です。あなたがそうでなければいいのにって、ずっと思っていますから」
フェイクはJ・Iが脱いだ上着をハンガーに掛けて、近づき、顎に手を当て上向かせた。「まだ傷、塞がっていませんね」
「どうしてだよ。連邦軍もジェネラル・クライさえ私のそこを評価してんのに。記憶操作や洗脳すればずっと扱いやすくなるのに連中がそうしなかったのは、下手にいじると私の価値がなくなっちまうからだぜ」
「軍略家、という価値ですか?わたしにそれを大切がれというのは無理です。そんなあなたを愛してる訳ではありません」
「私はそれだ。それ意外はおまけだ。王女の地位も公爵位も、顔も身体もうまれつき持ってた。でもそれには一生懸命、努力してなったんだ。なりたいと思ってなったんだ」
「薬を塗っておきましょうか」
「いい」
「そうですね、下手にいじると治りがかえって遅くなるかも」
間近で見ればインクが染みた痛々しい傷跡。「痛かったでしょう」
「そうでもない。痛いのは慣れてる」
「短い髪、よくお似合いですよ。でも黒子はちょっと」
「お前は気に入らないだろうと思ってた」
肩を竦めながら、
「明日、官舎に引っ越す」
いきなりそんなことを言い出す。
「……え?」
「特殊施設のトップは敷地内居住が決まりだから。機密保持の為に」
「待ってください、ジェイド」
「建て前だ。私が決まりに服従するタイプか。そのうち戻ってくるけど、当分は」
「そんなの聞いていません。わたしがあなたに協力したのは、あなたと離れたくなかったからで、」
「三流の悪魔だなお前。私の望みを叶えると言っておきながら自分の好みばかり押しつける。私は服だの靴だのは要らないんだ」
欲しいのはもっと別のもの。
欲しいのは、自分が自分である為の証明。殺された過去持っていたものより、更に力強く切れ味のいい爪と牙が……、切ないほど欲しい。
でなければ恥を忍んで生きてきた意味がないから。
「あんまり聞き分けがないと捨てるぞ」
「出来るならやってみなさい」
「居なくなることなんか簡単だ。私は人間だから」
「……」
冗談めかした台詞だった。けれどフェイクは黙り込んでしまう。
「愛していますよ、ジェイ」
男の告白に、
「……それは、何の理由にもならない」
少し寂しげにJ・Iは微笑む。
連邦歴701年、初夏。
Sランク狩人J・Iは特殊防疫センター所長に就任。
それはやがて訪れる崩壊が、静かに、始まった瞬間。