さようならではなくて・2
バルコニーにはいつの間にか強化ガラスの覆いが設けられていた。夏には解体して取り外せるけれど冬にはサンルームになる、そんな造り。
断熱効果の高いペアガラスで庭に向かって張り出した部分ごと覆っている。が、それでも晩秋の夜、石畳の床は冷える。分厚いマットレスの上にふかふかの羽毛のクッションを重ねて、同じくふんわりの毛布と布団を重ねた中に、細いカラダは埋まっていた。
「あ、れ。来た、のな……」
埋まっていたのは一人で、ではない。若い男が添い寝していた。服を着たまま、ほんの仮眠といった風情で骨と皮ばかりのカラダを抱いて暖めてやっていた。大人しく腕の中に納まりながら銀色の睫は静かに重ねられ寝息は穏やか。そんな風に眠っているのを久しぶりに見た。
「ちょ、待てよ、なぁ、おい……ッ!」
招かれざる来訪者が眠る銀色に手を伸ばす。添い寝してやっていた若い男が慌てる。銀色が目を覚ます、瞳を開く。何も見えては居ないが不安そうに瞬く。腕を掴まれ担がれそうになって、不安は確定的な恐怖に変貌する。
「ちょ、ザン……ッ!」
悲鳴を上げたのは若い男。銀色は声を出さない。逃れようという気配を見せた瞬間に殴りつけられ、がくりと崩れ落ちる。
「乱暴しないでくれよっ」
若い男が責める口調で叫んだ。まるで殺しでもしたかのように、はっきりと非難の意思をこめて。
若い男が繰り返す言葉は無視してずんずんと歩いた。無視されても挫けず、その男は後ろからついて来る。来ながら同じ言葉を繰り返す。
「なぁ。乱暴しないでくれよ。なぁ」
心配でたまらないという声。うるさいと、顔に火傷の痕のある男は思った。したくてしている訳ではない。仕方がないのだ、他に方法がない。したい訳ではない。
殴りつけて脳震盪を起こさせてぐったり大人しくなった、痩せた身体を肩に担ぎながら歩く。しなくて済むならしたくはないのだと、怒鳴りつけたい衝動を押さえ込む。人の気も知らないで、という言葉を口にする心算はなかった。そもそも男は、自分の気持ちを他人に知って欲しい性質ではなかった。
だから答えず振り向かず早足で歩いていく。馴れた廊下の絨毯を踏む革靴の足が止まったのは、行く手を別の人物に阻まれたから。スーツを粋に着崩したボンゴレ十代目の右腕、アッシュグレイの珍しいさらさらの髪が、俯いているせいで余計に目立つ、獄寺隼人が廊下の中央に立ち、片腕を広げて。
「なぁ、それ、連れて帰んの、もーヤメねぇか?」
静かな声で、でもはっきりと、男に言った。
「……」
進路を邪魔されてただで済ませる男ではなかったが、黙って獄寺を眺めるのは、俯いた表情がオスではなかったから。おせっかいは百も承知、でもどうしても黙っていられない優しいオンナの、思いつめた色合いが長い睫の先端に射していた。
「アンタら縛って、クスリで大人しくさせてっだろ。注射のあと、あったぜ」
している。させている。他に手段がない。眠らせていないとここへ来ようとして暴れる。目を離せばすぐに逃げ出してここへ忍び込む。今度だけではない、何度も、ヴァリアーの本拠地から姿を消して、ここへ忍び込んだ。
「もぉ、それこのまんま、ここに置いとけよ。大人しくしてるぜここでは。ヤマモトの言う事は雨同士でナンか分かるらしくって、ゆうべは自分でホットワイン飲んで寝てた。別に何する訳でもねぇ。ただ、居たいだけなんだ」
ここに、というのはボンゴレ本邸の奥に。かつて御曹司だったこの男が起居していた部屋の隅に。既に男にはそこに住む権利はなく、男のオンナもヴァリアーに身柄を引き取られた。
「可哀想って、アンタも思ってないワケじゃないだろ?そいつ、ここに、アンタさがしに来てんだよ。もう置いといてやれよ。アンタのこと、ここで待ってたいんだろ?」
尋ねられて男は答えない。けれど否定もしなかった。監視の隙をついては自分の昔の住まいに来たがるコレを男は辛く思っている。飼い犬が昔の主人とその住まいを懐かしむように、一途にここへ来たがる銀色を持て余している。現在を認識出来なくなっている壊れた頭の中に、オレはここだと繰り返し告げる虚しさはもう、散々に繰り返した。
「ここに置いといてやれよ。たどり着くのが、もう精一杯だった。どんどんボロボロになってくじゃねぇか。今度は途中で見つかって、撃たれるかもしんねーぜ?」
ボンゴレ本邸の警備は厳しい。ヴァリアークオリティはそれを易々と突破するが、痩せて衰えた身体ではそれも限界。発見されれば撃たれてしまう。
「連れて帰ったら死んじまうぜ?」
はっきりと言葉にして、獄寺はそう言った。山本武が恐くて形に出来なかった危惧を正視して指摘する。拘束具と鎮静剤に痛めつけられた身体は明らかに衰えてしまった。
「責任もって預かるからよ、ここに置いとけ。山本がエロイことしねーよーに、ちゃんと見張っとくから」
「見張られなくってもしねーよッ!」
男の背後で山本武が不満そうに叫ぶ。そんな意図で添い寝していたのでないことは分かっている。まるで子猫を守る母猫のように、銀色が冷たくないように手足で包んで懐で眠らせていた。
「アンタを待ってたがってんだ。待たせてやれよ。可哀想じゃねーかよ」
たたみかける獄寺の口調は優しいオンナのものだった。だから。
「迷惑、だろうが」
顔に傷のある男が口を開く。全然、と、獄寺はアッシャグレイの髪を揺らして男の言葉を否定する。
「俺らけっこー、世話になってんだソイツに。凄腕を尊敬してたし、それによぉ、アレだ。すげぇいい、人質に、なるし」
「人質?」
男が火傷の痕のあるセクシーな唇を皮肉に歪めた。
「いまさらコレに何の価値がある」
もうヤクタタズだと嘲笑する、軽蔑は自分自身に向けられている。あの上玉をむざむざこんな身の上にしてしまった自身の愚かさを死ぬほど呪っている。
「そいつが居たら、アンタが会いに来る。いい人質だ。アンタ、そいつ消えちまったらすぐ、ボンゴレ出て行きそーじねーか。心配してんだ。オレも、十代目も」
もともと虚無を抱えていた男だった。愛していたオンナが壊れてからはそれが一層、ひどくなってしまった。自分自身の虚無に飲み込まれそうになっているのははたで見ていても分かる。自分自身も分かっているだろうに少しも足掻かず、じっとしているこの男のことを、ボンゴレ十代目はひどく気にしている。
「ここに居たがってんだ。居させてやれよ。可哀想じゃねーか」
獄寺が繰り返す。その頃になってようやく、二人目の侵入者に気づいた警備から報告がいったらしく、寝巻き姿のボンゴレ十代目が起きてくる。そうしてうん、と、腹心の言葉に頷く。
「責任もって預かるよ。大事に。本当にその人、ここでは大人しいんだよ。それに、山本の言う事はちょっと分かるみたいで」
雨の波動が共鳴して、言葉ではなく意思が伝わる。五感は殆ど閉じていて、壊れた意識の中には届かないのだが。
「食事もお風呂も、ここでは自分で出来るんだ。山本がさ、ザンザスが帰って来る前にメシ食おうとか、ザンザスが帰って来る前に風呂入ろう、とかって言うと、すごく素直なんだ」
「……」
「うちにおいときなよ。でさ、会いににおいでよ。毎日でもいいから。いくらでも泊まっていいよ。待ってる」
「だってさ。な、置いてけ」
ほら、と、獄寺がザンザスに向かって、今度は両手を差し伸ばす。奪う男の手ではなく、包む女の手指の仕草だった。
「……」
肩から、男が、担いだ銀色を下す。
自分自身の半分を。